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志信の電話が『Englishman in NY』を奏で続けている。
気付いていないわけがないのに、まるで電話に出ようとしない。
雅哉にはその理由がわかっていたし、掛けてきている相手もわかっていた。
「電話鳴ってるよ」
見かねた振りをして声をかけたが、「いま忙しい」とあっさり切り捨てられる。
ソファに寝そべって音楽雑誌を眺めているだけのくせに、よく言えたものだ。
雅哉は手早く作った夏野菜とベーコンのパスタをテーブルに運び、わざと呆れた声を出した。
「なーにが忙しいのさ。ごはん出来たよ」
雅哉はイタリアンレストランやダイニングバーでのアルバイト歴が長く、二人でいるときは、いつも料理担当になっている。
そうこうしているうちに電話が鳴り止んだ。
きっと内心ほっとしているのだろうが、何も気にしていない様子で生返事をする志信に、雅哉は見えないところで舌を出した。
雅哉は本当はミュージシャン志望だったが、事務所の方針で雑誌を中心にモデルの仕事をしている。
志信とは知人の紹介で知り合った。諦めきれずに趣味でやっているバンドのメンバーが一人やめてしまい、急遽ピンチヒッターでドラムを叩いてくれたのが彼だった、というのが始まりで、その後も演奏や曲のアレンジなどをずっと手伝ってもらっている。経歴を知った今では、驚くほどドラムの技術が高くセンスがある理由も納得で、すっかり頼りにしてしまっていた。
ついでに、好みのドストライクである志信を、雅哉が放っておけるはずもなく、早々にそういう関係になってしまったが、付き合っている人が別に居ることを後から聞いて知った。
「Oh~、I'm an alien、I'm a regal alien、I'm an Englishman in NewYork~~」
途絶えた電話の着信音を敢えて大きな声で歌ってみせると、案の定、志信は厭な顔をした。
そのことに気をよくした雅哉はレタスをちぎってドレッシングをかけただけのサラダをテーブルに並べ、得意気に歌い続ける。
「いい声だろ、ボーカリストなめんな」
「別になめてない」
苦笑しながら身体を起こす何気ない仕草にすら色気がある。
雅哉は十歳近く年上の人と付き合うのは初めてだったが、甘えさせてもらえる安心感が新鮮で、それとは裏腹に時々表に現れる子供っぽい面がいびつに感じられて、なかなか手放す気にはなれないでいた。
そもそも、本命が向こうだというわりには、雅哉の家に転がり込んできているし、こうして彼から掛かってくる電話にも出ないし、相手を避けているとしか思えない。
トマトをフォークに刺して口に運びながら、雅哉はよく猫に似ていると言われる切れ上がった眼でじっと志信を見つめた。
そのときその場の雰囲気で、そういう流れになれば寝ることだってあるし、その関係が数週間とか数ヶ月とか続くことだってある。だから別に、相手に恋人や配偶者がいてもなんとも思わなかったのだ、これまでは。
「志信の携帯ってさ、普通の着信音じゃなかったっけ。なんで、このメロディの時だけ、電話に出ないの?」
志信の恋人のことは、テレビで歌っているのを一度見かけたことがある。
雅哉と歳はそう変わらなそうだったが、色々と違っていた。
なんせ相手は若いくせに古めかしい色柄の着物を着て、整い過ぎた顔は緊張で蒼白になり、にこりともせずに演歌を歌っていたからだ。
おとなしそうで真面目そうで、一目みた瞬間に自分とは合わない、と感じた。同時に、ずるいとも思ったのだった。
正直歌がうまいのかどうかはよく分からなかったけれど、ジャンルはともかくプロとして音楽をやっている上に、中性的な美しい顔立ち、加えて志信のような恋人がいる。雅哉が持っていないものを全て掌中にしているように思えて仕方が無かった。
世の中、持てる者と持たざる者の二種類しか居ない。彼は明らかに持てる者だと思えた。
「一人だけ着信音変えてるって、この人どんな人? Englishmanだからってイギリス人ってことはないよね。I'm an alienってくらいだから、ちょっと変わってるの?」
知っているくせに知らない振りでずかずか心に踏み込んでいく雅哉を、志信は切れ長の目を細めて愉快そうに眺めた。
「うるせえな。早く食わないとパスタが冷めるぞ」
「俺が作ったんですけど」
「急ぎの用じゃねえよ。あとでかけ直す」
電話に出てもいないのに、急用かどうかなんて分かるわけがない。そう思いはしたが口にするのはやめた。
追求しても意味はない。本気の言い合いはしたくないし、自分に利点があるとしたら、料理の腕と彼にとっての居心地のよさだ。都合のいい楽な相手という立場を返上するつもりはなかった。
「ふうん、べつに言い訳いらないけど?」
電話に出たくなければ着信拒否でもすればよいものを、わざわざ違う着信音に設定するなんて、結局は特別扱いをしているのだ。
そのことを、彼は自覚しているのかどうか。
どちらにしても面白くない。
「ねえ、新しい曲作ったんだ。あとで聴いてよ」
「ずいぶんハイペースに作曲してるな」
「だって、志信が俺らのライブに協力してくれるって言うからさ。今のうちにいっぱい働いてもらわなきゃ」
口にした瞬間、例えようのない淋しさに胸が詰まった。
志信の恋人になることはできないだろうか。
彼が今の恋人を避けているなら、その隙に、身体だけでなく心も奪い取れないだろうか。
雅哉はカトラリーを置いて立ち上がり、唐突に志信の背後に回って後ろから抱きついた。
「なんだよ、食えねえだろ、離れろよ」
「やだ。食うなら俺を食って」
冗談交じりに、雅哉は志信の身体をぎゅっと抱きしめて、広い背中に頬を寄せた。
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