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蝉の声が朝からけたたましい。けれどそれも良い、と山根優希は学生鞄を右の肩に乗せて歩きながら脇を駆け抜けていく小学生の群れを見やる。子どもたちの声も負けず劣らずだ。保育園の前では母親たちが談笑していて、手を引かれた男の子はつまらなさそうに鼻をほじっていた。
――これが父さんが守りたかったものの姿だ。
あの夏からもう十年が経つ。この子どもたちはあの後に生まれた世代だ。もう多くが父の、いや、ヒーローのことなど知らない。知っていたとしてもそれはテレビの中の架空の存在だった。
「おーはよっ!」
「あ、おはよ」
背中を思い切り叩いてから前に出たのは同じクラスの鈴森早紀、それに続き「今日も暑いねえ」と眼鏡の高野永美が笑い掛ける。二人とも高校からの友人だ。小学校、中学校と孤立しがちだった優希にとって気兼ねなく接してくれる彼女たちの存在はありがたかった。といっても、山根優希が何なのかを知らないだけかも知れないのだけれど。
「それより今日からの試験、大丈夫?」
早紀は優希の顔を覗き込むようにして尋ねる。心配なのはおそらく自分の方だろう。彼女は勉強よりも陸上部で走っているのが好きなスポーツ少女だ。
「国語はいいんだけど、数学と化学がねえ」
おっとりとした口調で永美が笑う。
「赤点さえ取らなきゃいいよ」
優希はそう言って空を見上げた。彼女たちの上を耳障りな音が抜けていく。自衛隊の飛行機だ。あっちは東京湾の方だろうか。
と、カシャリ、とシャッター音がしたのを耳が捉えた。そちらを見ると自転車に跨ってカメラを構える男子生徒がいた。緒方崇行。同じクラス、という以前に優希にとっては腐れ縁のような存在だった。
早紀が睨みつけると、彼は鼻で笑ってからさっさと自転車を漕いで行ってしまう。
「いいの?」
「気にしないで」
「でもどんな写真撮られてるか分かんないよ。あいつ陰気だし」
何故未だに優希の撮影を続けているのか、その理由は何となく理解していた。けれどそれについて彼女たちに話すものでもない。だからいつも「別にいいのよ」と言って誤魔化してしまう。
「あ」
永美が口を開けて二人を見る。
警報だ。訓練とは違う。
「とにかく学校に急ご」
そう言った早紀の言葉で駆け出そうとした三人の前に、一台の黒塗りの車が停まった。中から出てきたのは長身のがっちりとした体格の黒服だ。彼は優希の姿を見つけるなり「山根様ですね」と尋ねた。
「何?」
できる限り素っ気なく、けれどどこか諦めを含んだ返事をすると、男はほっとしたように一瞬表情を緩ませ、こう続けた。
「お話があります」
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