先生がいなかったら

2/3
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ
 それは彼が集中治療室で働いていた時のこと。  いつものように救急搬送された患者で賑わっていたが、その日の患者は事情が違っていた。運ばれてきたのは3歳の女の子で病名は心筋炎。彼が言うには心臓の風邪だそうだ。風邪だから放っておいても一週間かそこらで勝手に治る、でもその間に心臓が止まってしまうことがあるため、人工心肺装置につなぐ必要がある。それで一週間凌げれば勝ち、出来なければ死亡、という最初の対応で運命が大きく分かれてしまう病気なのだそうだ。  その子は心肺停止で心臓マッサージをされながら運ばれてきた。助かる方法はたった一つ、人工心肺装置につなげるかどうかだった。しかしただでさえ小さい体に太い管を入れるのは至難の技だ、それも心臓マッサージで揺れている体にだ。彼が言うにはその状況はまるで荒地を走る車の中で、針穴に糸を通すようなものらしい。彼は心臓を押しながらも今目の前に横わたるその女の子はもう助からないだろうと考えていた、そんな時だった。 「入りました」  一緒に処置をしていたとある医師の声が響き渡った。それは太い管をいれるためのワイヤーが入った、ということでそれが入れば装置に繋げられるということを意味した。声の主はその時いた医師の中でも最も器用で有名なT先生だった。彼によると、あの状況でワイヤーを入れられるのはT先生だけだっただろうとのこと。結局その後、女の子は助かって今では小学校に通っている。  もしT先生があの場にいなかったら、女の子は死んでいたかもしれない。するとその後の彼女を取り巻く環境も大きく変わっていたはずだ。いずれ出会う結婚相手は奥さんと知り合うこともなくなり、子どもが出来るのだとしたら、その一家そして子孫すべてが無くなっていた、そう考えるとその影響は計り知れない。T先生はちぎれそうなか細い人生の糸をつなげたんだ、と彼は言った。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!