花弥

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花弥

 月夜だった。この町で過ごす、最後の夜。わたしは、あの桜の木のもとに向かっていた。  別れを言いに来たのだ。世界でたった一人の友人であり、わたしの本当の声を知っている数少ない存在に。  その桜の木は、今にも朽ち果てそうな老木だった。もう花を咲かせなくなって、何年も経っている。  幼い頃、あの木の下で満開の桜を見上げた日のことを、強く覚えている。  きれいだった。眩い光と穏やかな風。その花びらのすべてを、独り占めしたい気持ちだった。あの春を抱きしめるために、わたしは生まれてきたのかもしれないと今は思う。わたしにとって、あの桜の木は本当に特別だった。  人前でうまく話せないわたしでも、桜の木には語りかけることができた。時たま、声を返してくれているような錯覚を起こすこともあった。たとえ言葉を交わすことができなくても、どこかで通じ合っている気がしていたのだ。  だけど、現実のわたしは、そうはいかない。愛しい人にさよならも言えないような人間だ。その未熟さを、大切な友人である桜の木にぶつけるようなひどい人間でもあった。  バス停横に、桜の木は変わらずに佇んでいた。本当に立っているのが不思議なくらいの老木だ。次にわたしがこの町を訪れた時、この桜はまだここに居てくれるだろうか。  わたしはゆっくりと桜の木に歩み寄った。ふと、剥がれかけた木皮の隙間から芽生えた小さな緑に気が付いた。  ――新芽だ。  驚いた。今にも朽ち落ちそうなこの桜のどこに、こんな力があったのだろう。  その芽の先には一輪の桜の花が咲いていた。  わたしは目を凝らす。花びらが微かに震えた。桜が、何かを伝えようとしている気がした。  わたしは、そっとその花びらに触れた。とたんに、視界に鮮烈な春の色彩が広がった。  見上げると、わたしは満開の桜の下にいた。優しい風が巻きおこる。音もなく、花吹雪がわたしを包み込む。いつか抱きしめた春の日と、同じ光景――。  眩しかった。暖かかった。懐かしい匂いがした。  桜の木は何も言わなかった。だけど、大好きだよって、言われてるみたいだった。本当の気持ちを伝えるのに、言葉なんていらないんだと思った。  いつの間にか、自分が微笑んでいることに気がついた。  ――ああ。わたし、笑えるんだ。幸せって、想えるんだ。  桜吹雪のスクリーンに投影されるかのように、彼の笑顔が蘇る。  また一つ、幸せな想いがこみ上げてくる。  この気持ちを、ちゃんと伝えなくちゃ、と思った。  どんなに不格好でもいい。どんなに時間がかかってもいい。彼に本当のわたしを伝えられたなら、それだけでいい。この桜が教えてくれたのだ。きっとわたしにも、わたしなりの伝え方があるはずだということを。  ほんの数回の瞬きの後、満開の桜は幻のように姿を消していた。しんとした闇の中に佇む老木の幹には、一輪の桜が変わらずに揺れていた。  ありがとう。  わたしは、その花にそっと口づけをした。  月明かりに照らされた花びらは、恋の雫が染み付いたみたいに優しい色をしていた。  きっといま、わたしの頬も同じ色に染まっている。
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