《重なるレンズ》

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《重なるレンズ》

キスをされた瞬間、あなたとずっと一緒にいる未来が見えた気がした。観覧車は回って、大きな窓に横浜のネオンが映っている。一瞬一瞬が、茶色のフイルムに収められた、ロマンス映画のカットのように回る。夜を溶かした海や港に停泊する豪華客船も、重なりあうふたりの影にピントを譲って、ぼやけていった。 荒くなったあなたの息の中で、私は両眼を塞ぐ。こんな幸福なことがあっていいのかな、吐息まじりに流れる不安に私はゆっくりと首を振る。 摂取量を遥かに超えて溢れ出した甘さに腰が引けて、何度も大切なモノを自分の力で踏みにじってきた人生。張り付いた卑屈と、不幸症。見比べて、反吐が出る。苦しさを我慢することが十八番で、幸せの受け取り方については、さっき立ち始めた子供とまるで変わらない。私の心は人を信じようとするたびに震えている。 ドラマや本でしか知らなかったことばかりが、立て続けに起きたせいだ。こんな時に限って、再発する治ったと思った悪癖。 今日だけは、そんなくだらない自己暗示の付け入られたくないって思っていたのに。手は前から動かない。あなたに全てを委ねることに、怯えているのだ。本能的な意味で。 あぁ、大好きな、あの漫画のヒロインは愛しい人の腕の中で、どんな顔をしていた?どんなことを呟いていた?何度も読み返したはずの展開さえ、全然うまく思い出せなくて、どうしようもない。アラームが鳴り、脳内はバニックに。思考を繋げる余裕なんてない。緊急事態に役に立たないものばかりで飾りつけたような、使えない頭だ。 そのまま、唇が離れると、ぴたりと磁石のようにふたりの目が重なる。いつもなら上にあるあなたの瞳、同じ目線になって、焦りまで全部、見透かれた気がする。でも、顔をそらすと 「こっちを向いて」 私の耳元であなたが優しく諭す。 息を呑んで、一瞬。白いワンピースの裾を掴まれて、少し後ろに倒されて、背中に鉄壁が当たる。冷たい感触で、自分の体の火照りに気づけば、恥ずかしさで余計に頬が真っ赤に染まる。身長の20センチ高いあなたの抱擁は、体のほとんどを飲み込んで、私はそのまま沈みこんだ。 ポニーテールの上がったうなじをあなたの右手が覆い、「そろそろ、降りるから、もう一回だけ……」と、今度は私の返事も待つこともなく、あなたがもう一度、口を寄せる。 唇を当てるだけの軽いキスが一コマずつが脳裏に描きだされていく様子は、どれもスローモションで、次第に、不安を霞ませていく。 私の心はあなたじゃなければ、埋まらない。あなたは付き合う前も私に沢山のプレゼントをくれた。小さな黒猫のネックレス、洋酒入りのバッカス、ロンバーンのメモ帳。贈り物に優劣はつけられないけれど、その中でも、この夜にくれたことはきっと、一生色あせない。かけがえのないものばかりに埋まって、心臓が跳ねている。 ほんの数分前まで、観覧車の高さを怖がっていたはずのあなたが、何億人もを押しこめてギュウギュウになった地球の中で、私を一人、見つめている。そんな現実が、どんなフィクションより信じられないまま、観覧車はガタリと揺れ、外にわずかに視線を移すと、余所見しないでという風に、あなたがわずかに笑みをこぼし、私の顔を引き戻すの。そんな、いつもより強引な仕草一つ一つにドキリとして、名前もわからない、未確認の感情がその度芽生えていく。 「大好き」 あなたの囁く声が耳を伝い、全身の血管を割くように、駆け巡っていく。漠然とした期待の延長線上にあった、幻想に指先が触れ、抑えようもなく耳までぼたリと林檎のように熟れる。 私は、あなただけが欲しかった。他にはなにも望まなかった。だから、およそ見積もって、あと60年の余生が許されるなら、その全部を、あなたに賭けてみたい、そう願ったんだ。 弾け出して風を切っていたはずの、観覧車も徐々に高度を落としていく。ずっと、続けばいいのになんて、無茶振りはもちろん、叶えられないまま、ゆっくりと、日常が近づいていく。 ゴンドラを降りると、不意に秋であることを忘れる。潮風の寒さに、もっと長い季節を過ごしたような気がした。 「はい、降りてください」 形式的な指示ひとつが角ばって聞こえるのは、きっと、自業自得なのだ。罪悪感が耳を狂わせても、鏡はバックの奥に眠ったまま。あなたの背に隠れるように段差に足をかけ、小指でそっと唇を拭った。でも、思惑とは裏腹に、指先はちっとも色づかないのだ。ご飯を食べた後で、塗り直したお気に入りの口紅はの行方を探ると、あなたの唇が少し……。 そんな風に強固な不安は意地を張って、ビクともしない。 第一、下から中の様子はほとんど見えるはずがないのだ。しかも、最後はちゃんと向かいの席にも戻った。絶対に大丈夫、でも、どこか気持ちは落ち着かず、動作は『意識しないように』意識する前より、余計、不自然に浮き上がって、目はあなたの口元を追っている。 その構図は、いつかテレビでやっていた、Gメンと万引き犯の駆け引きとそっくりだった。商品棚の前を何度も往復している万引き犯が、監視カメラ越しに警備をする覆面Gメンに捕まっていくのだ。視聴者の立場なら、なんでそんなことをやってしまうんだろう、自分から犯人だと名乗りでているようなものじゃないかと、もどかしくなる。が、こうして同じたちばになると人間の性質上、それが仕方のないことだとわかる。このジレンマに取り憑かれると、抜け出すのは簡単じゃない。 結局、私は最後まで誘導係の女性を直視できなかった。 あの人は、どんな顔をして、泥棒のように逃げていく私を見つめていたんだろう。階段を降りる度、冷静になっていく。どんどんまともにもどって、しまいにはさっきの燃え上がりに客観的な批評なんてしてしまって消えたくなる。そこまではいつもと同じ。反省会の結果、後悔をためて、自分を傷つける。だけど、これだけはいつもと違う。 —— あなたとキスをした。 何度も何度も頭をめぐったその事実は、緑の箱に詰められた濃いミルクチョコレートのよう。私を捕らえて、まるで離さない。だけど、悪い意味じゃない。だって、私が胸をはれるのはこの一つだけだ。初めてのキスの相手が、この世界であなただったこと。これ以外に誰かを愛すことなんて出来ない気がする、そんな相手とこうして……。 「どうしたの?」 3歩先で、あなたの声がする。うぅん、ちょっと考え事してただけ、私の答えに、2段下であなたが不思議そうに首を傾げて、笑う。 観覧車の中に比べて、景色は一段と澄んで見えた。さっきまで照明くらいの存在感しかなかった夜景も、徐々に形を取り戻して、ふたりの世界がゆらゆら掠れていく。 「こんなことする人間じゃなかったのにな」 そんな言葉も字面に反して、声色は明るいまま。後悔なんて、ほんとはどこにもないのだ。 「寒くなったね」 あなたが言った。 「海が近いからからかな?」 どうだろう、首を傾げて、細々としたことは一旦放って、あなたのとこまで小走りで追いつく。そのまま、観覧車につながる階段の最後の段差を飛び越えて、息を吐くと、夜の中にふたつの白い煙が立って、同時に消えた。 歩きながら手を擦っていたから、「手袋は?」と、あなたが聞く。 「忘れちゃった」 「そっか」って、あなたが小さく頷いたあとで、ポケットから出した左手をいきなり、私の指に絡める。あなたは長い前髪を揺らして、風が吹く。ふたりの動きがとまる。それから、「ほら、いこう」と、手を引かれるまで、私は握られた手とあなたの顔を見比べて、右往左往していた。 やっと、歩き出すと、一言だけ、「そんなに変わらないじゃん、温度」なんて、文句を返してみる。どっかで見たような、擦り倒された、やりとりさえ、相手次第でこんなに新しくなる。ギコチナイ進行も、私達らしくてすごく愛おしい。友達から抜け出そうと頑張ってくれている姿に嬉しくなって、スキップを踏んでしまう。私ってこんなにウブだっけ?手を繋いだのだって初めてじゃないけど、あなただと違う。全然、違うの。顔を真っ赤にしたまま、しばらく黙って歩いた。確かに、外の寒さなんて、気にならなくなっている。 そこからエレベータに乗り換えて、一階まで降りると、券売機の物陰で大学生のカップルが抱き合っているところに、バッタリ遭遇してしまって、どうする?あなたが興味津々に耳打ちするから、 「今度は、私達が脇役に回る番だね」 悪巧みをするみたく口の端だけをあげた。 ふざける時の指示役は、今回も私。ひさしを支える柱の影に隠れていけば、なんとか出口までいける。走るルートを示して、作戦開始の鐘代わりに、目配せしたら、同時に足をあげて、物音を立てずに身をかがめる。スピードは落とさずに、忍足だ。本当に忍者になったみたいな気分。野次馬根性は控えめに、長居は無用。 離れる前に一瞬だけ振り返ると、夜の中で、カップルは揺れ続けていた。券売機の方にしか照明がないから、暗がりで視界が閉ざされて、他人に見られていることも気づかないんだろう。不快なリップ音をダダ漏れにさせているところは滑稽でも、相手しか見えないほどのめり込んで、溺れているところは、正直、すごく羨ましい。 私も周りの目なんて気にせず、あなたと……なんて、似合わない想像をして、落ち込む。こんな真っ白なワンピースに身を包んだって、一朝一夕で中身の歪みは直らない。恋に盲目になるなんてのは無理な話だ。諦めて、悩みを抱えたまま生きていくしかない。消去法でしかなくとも、結局、知らぬが勝ちという結論は苦しすぎる。世界の広さを知らずに箱庭で暮らすような、無知が幸せの近道なんて、とても信じたくはない。 鈍感や世間知らずばかりが徳をする様子を目の当たりにしたって、私はそうやって意固地に無駄な考えを巡らせるのだ。 カップルが見えなくなる、門の先を超えて、一息つくと、あなたが「今の凄かったね」と、声をあげて笑った。その笑い声に釣られて、すぐに我慢できなくなって、私も同じように吹き出す。それで、一気に火がついて、止まらなくなった。お互いがあげる声や仕草につられて、笑いの連鎖は仲々とまらない。それで、息をするのも苦しいぐらいに大袈裟に笑っていたら、ふと、さっきのモヤモヤがちっちゃくしぼんでいることに気づく。いつもの私が嘘みたいで、正直、びっくり。私だけなら、出来なかった。そう、この感じ。いつの間にか、あなたが私を一から百まで変えていくのだ。 キスをするときのロマンチックなあなたも、目の前でへににょへにょ笑っている、いつものおちゃらけたあなたも、どっちも大好きで、嫌いなところなんて、ひとつも見つけられない。 愛されることは苦手でも、愛することにはこんなに自信がある。大丈夫、ずらりと並べられたびっくり箱を開けていくみたいに、あなたの意外なところが飛びだすたび、私は恋をするだけ。あなたをもっともっと深く愛せる未来がただただ、楽しみでたまらない。 テーマパークのゲートを出て進んだら、海風がさっきより強くなった気がした。私の前髪が靡き、潮とシャンプーの混ざった匂いは、バイバイまでのタイムリミットを吹聴するようで悪辣だ。そこら中を囲むビルの明かりが突然、焦燥を煽るみたいに嘲てくる。楽しい気分がまた、すぐにナイーブに切り替わる。いつも押し込めてる反動か、あなたの前だと、日めくりカレンダーを毎秒ちぎるレベルで感情が激しく入れ替わってしまう。 こんな楽しい雰囲気で、寂しい、と伝えたら本気に捉えられてしまうかな。重いと思われてしまうかな。さよならのことを考えたら、一気に湿ってしまう。今日が楽しすぎたから、終わるのが余計怖くなる。でも、そんな自分の気持ちなんかよりも、まずはあなたに嫌われたくない。引かれたくないって、先行するのは、後ろ向きな防衛本能。 本音をわざと隠すのに、でも、やっぱり、それを察してほしくもあって、繋いでいるあなたの手をこうやって、さらに強く握り返す。こんな遠回りばかり。 ーー私って、相当の馬鹿だな。 心底、自分の面倒くささに呆れながら、心のどこかではちょっとした奇跡を期待してしまう。あなただから。
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