《鏡の中の鏡にて》

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《鏡の中の鏡にて》

2回目の委員会は3日後の木曜だった。本なんてものを、まともに手に取ったのは小学生ぶりだった。読書感想文も、読んだことがある本を適当に家から引っ張り出して、忘れたところは読み返すわけもなく、ネットのまとめで補っていた。それで一ページも開かずに、作文を書き終えた時は、流石に自分のことを天才だと、褒めたくなった。 文字の解読は一番苦手な類だ。はっきり書かないことが芸術だという主張が、未だに受け入れられない。そんなのは現実だけで十分だ。裏にある意図や含みが、どんなに偉大なことでも、類推する労力がもったいないとしか思わない。結論だけを教えてほしい。 そんな調子だから、柿谷が言った通り、この本はだいぶ、不向きだった。でも、一度決めたことを折るのは、あまり好きじゃない。なんとか頭に文字を詰め終えた時、残っていたのは目の疲れだけだった。君のためじゃなきゃ、この苦行はこなせなかっただろう。 委員会の時、クラスごとにまとまって座るから、君は真ん中の席にいた。いつも通り、本もちゃんと持っている。カバーも、前と同じだ。タイムリミットは金井が来るまで、時間はそんなにない。深呼吸をして、事前に決めてきたセリフを暗唱して、君の隣に座ると、思い切って声をかける。 「鏡の中の鏡、それ、読んでるんだ」 「あぁ、うん」 突然、話しかけられて、君はびっくりした顔で、こっちを見た。 「実は、僕も」 予想より、手は震えなかった。多分、切り札があったおかげだ。バックを探るフリをして、教科書の前においていた本を出す。 「ほら。確か、これ、確か、同じ作者だったよね」 『はてしない物語』の表紙が見えた時、君の警戒が一気に解けたのがわかった。 「ほんとだ。『モモ』以外読んでる人見たことなかったから、ビックリ。偶然だね。よく、本読むの?」 「えっと、趣味ってほどじゃないけど、時々ね」 「このカバーについてる蛇が物語のラストにつながってるの、めっちゃ面白いいよね。あんまり、ジャケ買いしないけど、この本は装丁がよくて、図書館で借りた後、買っちゃった」 そんな展開 「なんか、いい本あったりする?昨日、この本も読み終わっちゃって」馴れ馴れしすぎたかもと心配になって、慌てて付け足す。「あぁ、迷惑じゃなければだけど……」 「全然、むしろ、あんまり学校で本読んでる人いないから、嬉しいよ」 「ほんと?なら、よかった」 「そうだね、ジャンルとか、よく読む系統ってある?」 いきなりの質問に、内心たじろいだ。 「特にないかな。有名どころとか、賞取ったやつを、呼んでるから」 そう答えると、君は腕組みをした。無難だが、これでいい。聞かれそうな質問には、ちゃんと答えられるように対策をしておいてよかった。 「世界観のあるのが好きなら、サン=テグジュペリは読みやすいけど、ちょっと、王道すぎるかな。『夜間飛行』とかマイナーどころなら、知らないかも」 「それって、『星の王子様』書いた人?」 たまたま、最近CMでみた名前が出てくるなんて、運が良かった。君がやっぱかというように、ちょっと複雑そうな顔頷く。 「うぅん、でも、待って。個人的にカフカとかカミュにまだ、挑戦してないなら、それも捨てがたいんだよね……」 君から繰り出される言葉のほとんどが意味不明で、これ以上、突っ込んで聞かれたらどうしようと、ヒヤヒヤした。 「わかった」と、腕組みをして悩んでいた君が急に声をあげて、身を起こす。「それなら、今度、一緒に図書館にいこうよ。やっぱ、ちゃんとオススメしたいし。いつなら時間ある?」 「いつでも」 「そんなわけないでしょ。放課後だったら、部活とかいそがしいんじゃない?」 君の深い黒い瞳、本心を見透かされたようで、ドキリとする。『いつでも』というのは君の予定より優先するものはないという意味だったけれど、君にそれが伝わるはずはなかった。 返事に困っていると、「三嶋君って、意外と、面白いんだね」君がクスリと笑って、提案をくれた。 「じゃあ、明日の昼休みはどう?」 「わかった。でも、なんか、ごめん」 「なんで、謝るの?」 「いや、迷惑だったかなって」 「迷惑だったら、誘わないって。むしろ、話しかけてくれて、嬉しかったよ。ありがとね」 それから、君はまた、何事もなかったように本に目を落とす。いきなりの出来事と名指しに、正直、頭が追いついていかなかった。 自分がどんな感情に陥っているのかも理解できない。僕自身を見失うくらいの衝撃。瞬きの仕方も不自然になる。話しただけで発作が起こる、キモすぎる自分を我ながら引く。が、今はそれどころじゃない。 僕に話しかけられて、君が『嬉しい』と思ってくれた? それからの会議なんて、上の空で、明日の昼休みのことだけを考えていた。現実味がなさすぎて、参った。頭をかしげる。 「少し時間をとるので、今回のスローガンを考えてください」 誰かが前に立って声をかけると、低い声がところどころで少しずつ広がって、次第に高い笑い声が混ざっていく。他の言葉なんて、入ってこない。 美術室からは、学校の中庭が見える。近くで、青々としたシナノキが揺れて、換気のための窓の隙間から入る風が、僕の鼻先まですっぱい匂いを運ぶ。 木々のざわめきとみんなの声の高まりが、爽やかなプレリュードを奏でているみたいだ。巣から出て、初めて空に飛び立つことを決めた雛のように、僕はやっと、書き出しに辿り着く。君の隣、新しい眺めに胸をはためかせる。 悩みも苦しみも、溜まっていたストレスも、すっかりなくなって、重かった足は生まれ変わったように軽い。大袈裟じゃなく、ここまで1000年くらいの時間が経った、そんな気分がする。 君を見た日から、僕の心は溶け出して、全く別のものに変わった。 今日くらいは、地軸の代わりに僕を中心にこの星が回ったって、バチが当たらないはずだ。ちっぽけな体でどれだけ、舞い上がったところで、まるで、熱狂が足りない。 君と話すまで、沢山転んで、身悶えしてきた。勢いだけではじまった始まりに一区切りをつけて、舞台裏で重ねた痛みの分だけ飛んでやる。それでも、漠然とした不安と広げすぎた展望に潰されそうになりながら、バランスを取れずにフラフラと動かす翼を、僕はまるで、止める気にはならない。クヨクヨする暇があるなら、単純明快な答えを抱いて、少しでも進んでみたい。
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