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《ヒナギクの涙》
週を跨ぐたびに、増えていく君のもの。部屋にたまっていくそれらを見ながら、まだ日もほとんど出ていない時間に弁当を持って、学校に行く。あれから、委員会以外でも君と話すようになって、君のことをさらに深く知った。
特に君が好きだと言う理由で聞き始めた、フジファブリックにはすっかり、ハマってしまって、通学時間はアルバムを聴きあさって、バスに揺られていた。
その頃には、君と時々、部活終わりに同じバスで帰ることが増えた。音楽の話が多かったけど、時たま、部活の話やクラスの人のことも話した。あの子のインスタがどうとか、この子とこの子が最近、険悪でとか、その類の話はわからなかった。でも、どんな時も必死に僕に語りかける君が愛しくて、にやけるのを必死に我慢していた。どんな脈絡かはわすれてしまったけれど、君が教えてくれたアンデルセンの『ヒナギク』の物語。あれが、今でも記憶に残っている。
「最近、読んだ話でね、こんなのがあったの」
君は僕の隣で、小さな本を開いた。バスの中だった。
「ヒバリに心を寄せた、小さなヒナギクの短い物語なの。あなたの感想が聞きたくて、もってきちゃった。ちょっと、長くなるけど……」
「構わないよ。どんな話か、教えて」
僕が答えると、君が小さく頷いた。
「田舎の別荘には立派なお庭があって、花壇には色とりどりの美しい花が咲き乱れていた。
そこには、よくヒバリが訪れて、歌を歌っていた。ヒナギクは、そんな素敵なヒバリのこと
が大好きだった。でも、掘割の側にいる自分に、あんなに素敵な方が振り向いてくれるはず
がないと、思っていた。
ただね、それで卑屈になっていたわけじゃない。ヒナギクは、ヒバリの声を聞いてさえいれるならよかったの。ヒナギクは、それくらいヒバリを一途に思い続けていた」
「でも、伝わらないのは、やっぱり、悲しいよ」と、ヒナギクと今の状況を重ね合わせて言うと、君は首を振った。
「ヒナギクはその時が一番、幸せだったのよ」
それで、君は話を続けた。
「ところが、ヒナギクの予想とは裏腹に、ヒバリはヒナギクを選んだ。実は気づいていないだけで、ヒナギクは十分魅力的な女の子だったっていう、あれね、シンデレラみたいな感じ。これは、よくある展開だった。
ヒバリは『なんて、かわいくて小さい花なんだろう』なんて甘いことを囁いて、ヒナギクの白い花びらにキスをした。周りにいた、美しいチューリップやバラやしゃくなげが嫉妬するくらいね。
ヒナギクの方も、天にも登るような心地だった。叶うわけがない片想いが実るなんて、こんな喜ばしいことはないって。それから、庭に咲いた、幾千もの花なんかに見向きもせず、ヒバリはただ一つのヒナギクのために歌って、踊ったの。そして、太陽の下でふたりは愛し合った」
「よかったね。単純だけど、やっぱり、僕はそういうハッピーエンドが好きだな」
僕が呑気に笑っても、君は笑い返してくれなかった。
「もちろん、物語はそれで終わらなかったのよ。よくある、普通の童話じゃないの。だから、あなたに聞いてほしかった。大事なのはこの後。
ヒバリがヒナギクに愛を伝えた次の日。ヒバリは自分の身の上を嘆いて、鳴いていた。少年達が、ヒバリを捕まえて、閉じ込めていたから。ヒバリは、ヒナギクの咲いていた部分の土と僅かな芝生が入った、小さなケージの中にいれられて、自由に飛ぶこともできなくなった。
さらにね、災難は重なった。少年達は幼くて、興味は移りやすかったから、外に出かけていってしまった。ヒバリを置きざりにしたままでよ。まともに水も与えられないで、彼は忘れ去られてしまった。太陽の高い日だったから、すぐに喉は干上がり、その飢えの苦しみに悶えた。
ヒナギクはなんとか、ヒバリを元気づける方法がないかって、考えた。でも、ヒナギクはただの花で、水をどこからかとってきてやることも、喋って気を紛らわせてやることも、できなかった。だから、夜を迎えた時には、もう、ヒバリはどんな歌をうたうこともできなくなった。そうして、命の灯がいくばくで消えるほど薄くなった時、ヒバリはヒナギクに語りかけた。
『人間はカゴの中に一塊の土を入れて、広い世界の代わりにしろと、示した。わずかな芝を緑の木と思い、君の白い花びらを香りたかい花畑と思え、と。あぁ、しかし、それは何の慰めにもならない。むしろ、僕が、どれほど沢山のものをなくしたかを、ありありと見せつけるだけだ』って。
そのまま、ヒバリは息絶えた。ヒナギクはヒバリを失った悲しみのあまり気を患い、低く低く項垂れたの。
あくる朝になって、ようやく少年達はヒバリが死んでいることに気づいた。
少年達は、ヒバリの亡骸を赤い箱に入れると、王様のように丁寧に葬った。散々、生きている間に苦しめておいて、死んでしまった後には、花を飾って、墓の前で涙を流す少年達の様子をみて、ヒナギクは人間の身勝手さひどく恨んだ。
ほどなくして、ヒバリがいなくなって、用済みになったケージの中の土は、ヒナギクもろとも道端のゴミにうち捨てられた。その中で、枯れていく、ヒナギクはそこで己の命が尽きるまで、もう、動かなくなったヒバリを慰める方法を一心に考え続けた。
それで、物語は終わり」
「本当に?」僕は驚いて、聞き返すと、君が沈んだ顔で頷き返した。
「有名じゃない理由が、わかるでしょ?評価されるものと本当を映すものは全然、違う。どんなに的をえた話でも、この結末じゃ現実をちゃんと移しているからこそ、流行らない」
「確かに。子供向けにしては、ちょっと、残酷というか、悲しすぎるかもね。小さい頃にひとりで読んだら、眠れなくなりそうだ」
僕が言うと、君は静かに笑って、言った。
「悲劇の原因は、ふたりに与えられた時間があまりに少なかったからか、それとも、ヒバリにはヒナギクの愛を受け止めるだけの容量がなかったからか。それはわかんない。まぁ、どちらにしろ、ヒナギクを傷つけたものは、少年たちの行動や運命の残酷さだけじゃなかったはずよ。
ヒナギクを狂わせた決定打は、きっと、最愛のヒバリからの『君が僕を苦しめる』という言葉。ヒナギクは、身が引きちぎれる想いがしたでしょう。私、この話を読むたびに胸がギュッて、すごく苦しい。好きな人からこんな言葉をぶつけられたら、普通、耐えられない。
でもね、それでも、最後までヒナギクは献身を貫いたの。そんなセリフを吐かれても、ヒナギクはやっぱり、狂おしいほどヒバリが好きで、好きでたまらなかったから。ヒナギクは、ヒバリを愛するあまり、彼を嫌いになることができなくなったの。
これがどういうことかわかる?」
僕はなにも答えられなかった。
「自分自身むげにした。一番、愛すべきものはなにか?私にはヒバリと恋することがヒナギクにとってよかったのか、それが未だに決着がつかない。恋に落ちるということは、なにかを犠牲にする覚悟かもしれない。でも、その分なにか別のものが相手から渡されなきゃ、そんなの不幸すぎるでしょ。
私には、この恋がヒナギクを縛る呪いのように見えてならないの」
君が口を閉ざした時、バスはそろそろ、3丁目まで来ていた。あと、5分もすれば駅まで着いてしまうだろう。君ともっと、ギリギリまで話していたくて、僕は言った。
「でも、ヒバリも可哀想じゃない?全然、自分は悪くないのに、ケージの中に入れられて、いきなり、自由を奪われて。僕なら、気が動転して、そういうこと言ってしまうかもしれない」君は頷いて、「確かに、そうね。すっかり、ヒバリに触れることを忘れていたわ。ありがとう」と、さっきより少し口調を明るくして君はいった。
「別に、ヒバリに同情していないわけじゃないの。だけど、私たちの死のほとんども同じように予告されないものばかりで、どこにいたって理不尽はやまない。台風やハリケーンで家がなくなったからって、誰もそれから生きるのをやめたりしないでしょ。それと同じ。
辛い時も、笑えるように、私たちはその時の、精一杯の幸せを探して、生きていかなきゃいけない。これは自論だけど、せめて、どんなどん底の時でも、自分の苦しみで、大切なヒトを傷つけちゃダメ。
もちろん、目に見える、わかりやすい結論がいつも、幸せに繋がるわけじゃない。だって、形のない透明な言葉ひとつで、例え、カゴの中で自由を奪われたとしても、理由なく死にゆこうとも、自分を救う術を見出せるわけだから。
『君を愛してる』ヒバリがそう一言呟くだけで、よかったの。それで、ヒナギクの魂は報われた。物語は、ハッピーエンドに変わった。
この世の運命がどんなに残酷でも、そうしたら、ふたりの魂はずっと、側にいられた。小説の最後はね、『ヒナギクのことを思い出すものは、だれひとりありませんでした』という言葉で、締めくくられている。
少年達だけじゃなく、最愛のヒバリにさえ忘れ去られ、ヒナギクは本当の意味で、孤独になった。愛の重さが違えば、思いの強い方に天秤は傾いて、どちらが犠牲になる未来がくるって。
結局、ふたりはこの世界での生を終えても、散り散りになってしまう。同じ檻の中にいても、通じあえなかったように。ヒナギクの愛だけが、涙ととともに行き場を失うの。愛は有限、返さなければすり減っていく。それでも、ヒナギクは呪いのように、ヒバリのことを愛すことをやめられない」
君はふと、話すのをやめて、物思いにかられているように深くため息をついた。そう話す君は、どこか遠くの星に住んでいるみたいだった。どこか儚くて、掴めない。重力のない宇宙で蹴り上げたように、僕から遠のいていくみたいだった。
「どんな愛も、持っている痛みは同じなら、簡単に手に入った『好き』ほど危ないものはないでしょう。育むのに時間をかけなかった恋には、空っぽになった心を埋める記憶も材料もどこにもないの。だから、ヒナギクのように、身を滅ぼすことになる。綺麗だった命を憎しみで黒くして、人間を恨んで死ぬの。たった、ひとりを愛したために、世界を悲しい色に染めて、死ぬの。それくらい、愛は盲目で、怖いもの」
『愛』が怖い、そんなことが確信を持って言えるくらい、君は……と、そんな的外れで、女々しい言葉が口から飛び出そうになって、僕は首を振る。
「人生は、いつか、別れが来ることばかりね」
どの愛のことを言っているんだろう。今も実はって、嫌な推測に蓋をする間もなく、全然、話の核心じゃないところで、血の気が引いていく。僕はバカだ。
「私にはね、恋や愛をする、覚悟がない。周りの子みたいに、気軽に付き合って、また別れたなんて、できないの。自分が壊れていきそうで。臆病者なのよ」
君の言葉の震えを聞いて、君と僕は案外、似たもの同士なのかなんて、ほんの少しだけ、安心した。
「それなら、今度は、愛されてみる方に回ればいいんじゃない? 」
わずかに溢れた、君の弱音の断片に縋り付くように、僕は続けた。
「君がヒバリになったって、いいんだよ。与えることにばかり、プレッシャーを感じなくてもいい。君がいるだけで、十分、救われる人がいるはずだよ」
「ありがとう。本当に、そうなれたら、いいのにね」
君が微かに笑う。その様子が月のようで、僕は思わず、手を伸ばしてしまった。「泣かないで」って、熱い頬に触れて、「泣いてないよ」と、君は返す。
「あぁ、ごめん。光の反射でそう見えただけだ」
慌てて、手を引っ込めても、言い訳はそれ以外に思いつかなくて、ふたりとも口をつぐんだ。君の心は泣いているんじゃないかなんて、ありきたりな言葉でも言って、抱きしめられる僕ならよかったのに。
「バイバイ」
その日、不意に君が死んでしまいそうで、反対方向の駅のほうを、君の姿が消えるまで、見ていた。君の悲しみごと、抱き締めたい。なのに、足や指さえ触れられない、距離感、もどかしい。近づいたり、離れたり、揺れ続ける夏を掻きむしりたくなった。
まだ、僕はスタート地点にも立っていない。空では、誰も気づかないまま、月が登っている。星づくの夜の中には居場所がなくて、光の中で白く透けた月。もし、君が僕のものになった時は、この手で、朝も昼も夜も、君の全てを守ってあげたい、僕はその時、決めたんだ。
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