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君の口から、また、おばあちゃんの話が出てきた時、僕は苦しくなった。ほんの一瞬だ。それから、君の話はまたすぐに違う話にそれた。だけど、僕はあの話が忘れられない。君のブルーを一口、飲み込んだ日。僕の胸に、あの夕暮れがかおり始める。
君と付き合うずっと前の話だ。
「あの頃が、一番幸せだった」
放課後に、君がこぼしたセリフに、胸が騒めいた。みんな教室にいたけれど、君はどこか僕の知らないところにいるみたいだった。机には、企画書と何冊かの旅行雑誌が置いてあった。初めは真面目に修学旅行のレクを考えていたけれど、1時間も経つと大抵、雑談の時間が始まる。その時は、4人くらいが残って、昔の話をしていた。それで、君の番が回ってきた。
「元々、おばあちゃんは一人で、私の家の近くに住んでた。おじいちゃんはずっと前に死んでて、引っ越すのもあれだからって、そのまま家にいたの。80歳を超えてもシャキシャキしてて、夜ご飯を食べに行ったり、おばあちゃんの作る卵焼きが大好きだったな。すごく、すごく、美味しかった。他にもね、一緒に花壇をいじったりしてたの。おばあちゃんとだけは、どんな秘密も話せた。小学校の間だけだけど」
「今は、おばあちゃんどうしてるの?」
隣で、金谷が聞いた。
「死んじゃったの。5年前くらいに」
君がいうと、みんなが顔を見合わせた。あ、ごめんね。私、空気読めないからさ、金谷が慌てて謝ると、君は笑った。
「いいの、いいの。人なんて、簡単に死んじゃうものだから、いつかはね。気にしないで」フワフワした見た目の君がいきなりそんなことをいったから、いい意味で僕は驚いた。「それまで、普通に話して、接して、なんの予兆もなく、居なくなるの。おばあちゃんが倒れているのを見つけたのはね、私だった。学校帰りに、貰ってた合鍵でおばあちゃんの家に寄ったら、シーンとしててね、電気がついてるのに、おかしいなって思ったの。それで、家に入ってみたら、階段の3段目くらいにおばあちゃんがうずくまってたのを見つけた。大丈夫?大丈夫?って声をかけたけど、おばあちゃんは全然、答えなかった。気が動転してる中でも、これは自分ひとりじゃどうしようもないってことだけわかって、とにかく、自分の家まで走った。事情はうまく話せなかったけど、私の手についた血とかでただごとじゃないってわかったのね。
それから、もう一度、おばあちゃんの家にいって、倒れてるおばあちゃんをみたら、ママは叫んでいた。救急車が来る前に、私は隣の家の人のところに預けられて、そのままママは夜まで帰ってこなかった。まぁ、結局、助からなかったんだけどね。階段から足を滑らせて、頭から落ちて、ほんとに一瞬だったらしい。私が見つけた時には、死んでたと、言われたわ。ほんとかうそはわからないけど。
でね、その時、知ったの。命が砂つぶほどの価値しかないってこと。誰も教えないだけで、それが真実。人間の本質はモノと変わらない。昨日を失ったら、止まるだけ」君の瞳は潤んでいた。
君の言葉で僕はまだ、誰かを失う本当の意味を知らないのだと、気づいた。僕が想像できるのは、転校での友達との別れや卒業のレベルだ。連絡先や住所は知らなくても、会おうと思えば会える、それ以上の共感の域までにしか達さない。
どこにいても会えない苦しみを抱えた君が「重い空気になっちゃったね。一旦、仕切り直して、次の人いこう」って、無邪気に笑っている姿に泣きそうになった。どんな苦しみでもいい。その痛みを肩代わりさせて欲しくて、こんな言葉が口から溢れそうになった。
――君が世界を恨んだ分だけ、僕になすりつけてくれ、と。
僕は君が黒のインキのバケツをとるなら、僕は喜んで磔になって、黒一色の中でもがきたい。
そういえば、僕は君が金木犀の話をしている君を見て、もう一つ思い出したことがある。
あの甘い匂いはモンシロチョウを避けるためでもあるって話。テレビに出てきた生物学者が曰く、口の構造上花粉を運べないモンシロチョウに蜜を取られないために、妨害物質の入った香りで追い払っているらしい、って。なんだか、君の話にも、たまにそういう節があるように感じるんだ。一歩踏み込むと、境界線をはられている。入ってくるなというよりも、入ってきたら、後悔するよと、諭されているような気分になる。多分、今まで、その苦しみの欠片を誰かに見せて、嫌な顔をされたり、笑われてきたりしたんだろう。僕がそんなことをするわけはないけど、君にとっては、それが無意識の防衛線なんだろう。
それがはっきりわかるから、君と話すたびに、世界は不公平だと、心底、感じる。こんなクソみたいに、惰性で生きている奴に、幸せな家族なんかを与えている反面で、天使のような君ばかりを踏んだり蹴ったり傷つけた挙句、放り投げておくなんて、僕には意味がわからない。神様は正気の沙汰じゃない。
最近、気づいた。僕らの中身は結構、似たところもあるけど、あまりにも育ってきた環境が違いすぎる。それが溝のようになって、どこか距離を開ける原因になっているんだ、って。多分、君を今からどれだけ僕が抱いたところで、家族に僕が貰った愛情や温かさには届きはしない。
僕は勘繰ってしまう。金木犀を秋の花だと言ったのに、一年中その香りを変えないのも、やっぱり、おばあちゃんに愛された記憶に君が執着している証拠なのか、と。
君がいつでも楽しそうに笑うから、余計に悲しい裏側を想像してしまう。アスファルトに映る君の影は大抵、完全な黒じゃない。いつも寂しさの色が混ざって、なんとなくグレーでどこか乾いた感じがする。夕焼けはそれを余計に引き立たせるから、僕は見ていられなかった。
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