《重なるレンズ》

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東京駅で降りた。あとは慣れているから大丈夫と、断った。つまり、ここでお別れ。あなたは最寄りまでついてくよといってくれたけど、流石にそれは私の良心が許さなかった。 東京駅は満員のピークだ。忙しさや音に酔ってしまうから、人混みはずっと苦手だった。時間があるなら、新宿乗り換えを避けて、迂回するぐらいのアレルギー持ちだから、今日はあなたが一緒でよかった。ホームを出てから、はぐれないように握った、あなたのダッフルコートの袖に、ホッとする。「すごい混んでるね。大丈夫?」あなたが心配してくれると、気にしないでと、ちょっと背伸びして、人の波間を縫って返す。その声かけがあれば、ベネズエラの路地裏だって、平気で闊歩できる気がした。 改札の端で振り向いて、私はもう一度、あなたの顔をみつめる。明日も会えるといえばそれまでだけど、こんなにまじまじとみれる機会もないし、名残惜しくてしかたない「また、遊ぼうね。大好きだよ」呟くあなたの声に頷いて、「うん、私も……」と答える。あぁ、うまくいかない。その言葉の続きがどうしても詰まってしまって、空白をなんとか、ありがとうでごまかすして、つぎはぎになった言葉に、あなたは一瞬、戸惑ったものの、すぐになんだよと、ツッコんで、許してくれる。 じゃあねの四文字の間の息継ぎで、沈黙まで飲み込めそうだ。壊れそうで壊れない、不器用な見つめ合いの中で、指先が離れ、待ちに待っていたはずの、あなたとのデートが、1秒ごとに終わっていく。 早すぎて、まだ、始まってもいない気がする。こんな馬鹿げた話があるかな。20分前よりも辛くならないはずだった。 ――限界まで、満たされていたはずだったの。 なのに、エスカレーターに乗って、振り返ってもまだ、そこにいて、小さく手を振るあなたを見ると、寂しくてたまらない。自分で思っていたより、私は欲まみれみたいね。どんなに一緒にいても、あなたが足りない。あなたに会って、私は飽きるという感覚を忘れて、心にリミッターをかけるのが苦手になった。人は体のリミッターを外すと、死んでしまうというけれど、心はどうだろう?エスカレーターは沈み込む。深海にひかれていくぐらい、息ができなくなる。 もしも、しがらみが手をひかない世界だったならと、詰め込まれた満員電車の中でひとり、思っている。私はそれくらい、あなたが好きなの。少し前まで、喉の奥で止まっていた言葉が溢れ出す。もう、あなたがいなくなった後で、いいたいことが溢れかえるのを止めにしたい。腐るほどの人が立っているのに、見回しても、360度知らない顔、こんな普通の日常にさえ、傷ついていたら生きていけないのは、わかっているのに、唇を噛み締める。自分が面倒くさいことなど、重々承知。こんなこと、友達にも家族にも相談しないから、私は二人の間ある海で溺れている。助けてと、声をかけたら、あなたが手を差し伸べてくれるに決まっているのに、海水を飲んで、静かにブクブク沈んでいく。 家まで歩く道すがらも、今日撮ったご飯やあなたの写真を見ていた。雲ひとつない空の中だ。冬は空気が澄んで、ずっと先までよく見える。西に浮かぶ月に薬指をあげて、あなたと付き合った、体育祭の終わりの放課後までのことをしみじみと思い出す。2週間ほど前のことなのに、重ねた時間の濃さのせいか、すごく昔のように感じる。 話したいことがあるから待っていてと、あなたからラインが送られてきた夜は死ぬほど嬉しくて、暴れた。足をバタつかせ、クッションに顔を埋め、父親が帰ってくるまで叫んで、ドアの音がしたら、慌てて部屋の電気を消した。 その夜はベットに潜って目を瞑っても、しばらく眠れなかった。あなたの好きな髪型はなんだろうから始まって、あなたは、あなたはって、あれこれ、気になることはキリない。今、考えたら、体育祭の競技で髪なんて崩れるし、体操着に着替えるんだから、早く寝ておくべきだったけど、あれもまぁ、いい思い出になったかな。 その後、朝に出来てしまった深刻なクマをコンシーラでごまかすのは、めちゃくちゃ大変だったし、髪をお団子にして、いつもはつけない香水をちょっとだけふって、眉毛を整えてってやってたら、出発がギリギリになってた。 体育祭中も、やっぱり、そわそわして、落ち着かなかった。審判の仕事で忙しいあなたはクラスの応援席にあまり帰ってくることはなくて、帰ってきても、すぐに誰かに呼ばれて、どこかに行った。早く会いたい、はやる想いが閉会式の時には止まらなくて、会を長引かせる校長の中身のないスピーチに苛立った。一日中、体全体がぼんやりとした熱を帯びているようだった。 空回りばっかで、笑っちゃうけど、あなたにそんなに会いたかったはずなのに、第三階段の前に立つと急に心細くなって、もはや、家に帰りたくなった。滲んだ手を開くと、空気はすごく冷たく感じた。もしも、これで私の思い上がりなんて結末だったら、なんて、悪い想像に押し潰れないように、あなたを好きな理由を並べることにした。そういえば、あなたとはどうやって、出会ったんだっけって、それからだ。 確か、たまたま、同じ修学旅行の委員になったのがきっかけだった。それから、好きな本の話題で盛り上がって、仲良くなった。初めのイメージは、少し怖そうな、無愛想な人だったのに、話すと意外にクシャッと笑うタイプで、優しくて、面白くてって、そうやって、いつの間にか、あなたの姿を追うようになった。だけど、何度考えても、好きになった理由は曖昧にしか、わからない。 頭を抱える。不思議だ。顔が好みだったわけでも、性格が似ているわけでもない。今まで付き合ってきた人ともまるで、タイプが違う。好きなところは?と、聞かれても足が速いとか、勉強ができるとか、そんな簡単に片付けられない。でも、好き。大好き。だから、多分、何が好きだとかじゃなく、全部が好きなんだ。考えても、結局、曖昧になってしまった。 告白されるなら、もちろん、返事はとっくに決まっていた。クラスの打ち上げは7時からで、みんな一度、家に帰ることになっていた。こんなに恋に全力になったのも、あなたのせい、責任とってよ、なんて強気に言えたら話は早かったのに、ズルい私は他人の答えや決断ばかりをこうして待ち続ける。 学校にはほとんど、人は残っていない。しんと静まり返った廊下の方から不意にバタバタと、音が聞こえると、それに合わせて、私の鼓動も大きくなっていくのがわかった。 「おまたせ」 あなたの姿を捉えた瞬間に、緊張で心臓が飛び出てしまいそうになって、ふらついた足を開いて、地面に踵をピッタリつけて、準備する。少しだけいつもより遠い距離感で、あなたの歩調がピタリと止まる。重たい沈黙を破ったのは、やっぱり、あなたの方だった。 「ごめん、遅くなっちゃって」 「気にしないでいいよ。審判の仕事があったんでしょ?」 「反省会の後、清掃も手伝わなくちゃいけなくて、結構、待たせちゃったよね?」 「大丈夫、さっきまで友達といたし、一、二分くらいしか待ってないよ」 嘘だ。本当は、15分は待っていた。でも、そんなこと咎める気にもならない。それでと、私が切り出したタイミングで、あなたの顔がこわばる。 「昨日、言ってた話したいことって、なに?委員のことで、相談したいことでもあった?」 我ながら、白々し過ぎる問いだ。それを聞いて、あなたは困ったように息を吐いた。失敗したかも。気を抜いたら叫び出してしまいそうなくらい、頭の中はテンパって、平静を装えているかも自信がなかった。 「あのさ……、話っていうのは」 わずかに時間が空いて、あなたと目が重なる。横から光が入ると、少し茶色がかるあなたの瞳。その奥で二つの影が交わって、弾けていく。 「好きなんだ」 「だから、俺と付き合ってほしい」 立て続けの告白が、私の心を撃ちぬく。体育祭が終わって、急に過疎になった学校中の時間も暑さの和らいだ夕方の気配も、ぴたりと止まって、まっすぐに命中した言葉が、私の涙腺を緩ませる。呆気に取られて、うまい返しも、可愛く笑う余裕も奪われた私は顔を崩して、倒れるようにあなたに抱きついた。こんなの想定外。いや、想定できるわけがない。目頭から涙が溢れて、鼻の奥が痛む。 変に強がりだから、嬉し泣きなんてできなかった。人前で泣くこと自体恥ずかしくて、本当の心を丸め込むのが得意なはず、だった。なのに、涙が出るだけ、私はどんどん弱くなっていく。 大きな腕が背中に回って、私はあなたの胸に顔を埋めた。少し震えたその腕の感触で、あぁ、怖かったのは、私だけじゃなかったんだと、知ってしまったら、涙腺はさらに緩んで、止まらない。大好き、私が呟いて、ほんとに?とあなたが聞き返したけど、もう、それには答えられなかった。答える必要もなかった。 「好きだ」あなたが繰り返す言葉に私が静かに何度も頷くと、抱き締める力がぎゅっと強くなる。初めて目の前で起こっている嘘みたいな現実が、胸の中で香りはじめる。夢じゃないんだって安堵が広がる。「よかった」と、君が本音を漏らすと、笑みがこぼれた。 ――あの日、私はあなたのものになった。
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