《金木犀の中で》

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《金木犀の中で》

誰もいなくなるのを待って、こっそりとあった二人きりの放課後。テストが終わった解放感と寝不足で、欠伸をした。 広いベンチに、わざわざ窮屈に座る。バックから出して、定期考査の点数を言い合って、毎回惨敗した後で、「馬鹿だな」って、あなたが笑ってくるから、「これでも、がんばったの。今回は補習もないし」私は怒ったフリをする。 「嘘だよ。よく頑張ったね」 そっぽを向く猫の機嫌をとるみたいに、ちょっと遠慮がちにあなたが頭を撫でてくるから、「うれしい」と、急に振り返って、あなたの手を私の頭に押し付けて、上目遣いでニコって笑ってみる。 「今の、なにが嬉しかったの?」 「それ、聞く?わかってるくせに、イジワルだね」少し考えて、答えた。 「じゃあ、あなたと目が合ったこと。はぁー、だって、ずーっと、寂しかったんだよ」 柄にもないぶりっ子でふざけてみたのに、あなたは真に受けて、視線を外す。久しぶりに話すから、ちょっとだけぎこちない会話と予想外の反応にドギマギする。やめてよ、こっちまで恥ずかしくなる。最近、そうやって感情がよく伝播している気がする。 「反則。かわいすぎるよ」と、私の肩に手を当てて、近づいたせいで、あなたが小さく息をもらした音まで鮮明に聞こえた。友達とも家族とも違う距離感に今更、ときめく私。 「返事に困るから、やめて」一気に蒸し上がる顔を覆うと、「ダメ、見せて」あなたが私の手をどけて、じっと目を合わせる。 「なに?」 「なんで、いつもそんなにかわいいの?」あなたがほっぺをつまむと、首をかしげて、その質問は秘匿する。こんなことを、馬鹿正直に答える必要なんてないだろう。 本当は、テストが終わって、すぐにトイレに駆け込んで、緩く結んでいた髪を解いて、あなたの好きなハーフアップになおして、前髪をコテで巻いている。それに、荒れた肌にはコンシーラとハイライト、血色のない唇にはリップも塗って、必死に寝不足の顔を隠しているんだ。 いいたくないことなんて、全部、笑ってすまそう。それくらいの小細工は、許されるだろう。会いたかったよって、抱きしめる前にあなたの言ってくれた言葉とその後で直接伝わる熱で、影の努力なんて、1から100まで、報われて、お釣りが出るくらい。あなたの想い以外に求めるものなんてないから。胸の高鳴りが、この瞬間のために1週間を生き抜いてきたんだ。 「いい匂いだね」 あなたが上から、私の髪の毛に触れる。 「これ、金木犀の匂いだよ」 「へぇー、金木犀ってこんな匂いなんだ。実は、見たことないんだよね」 「珍しくない?結構、有名な花だし、街でも結構、植えられてると思うけど」 「もちろん、名前は知ってるよ。曲なんかでも、時々出てくるし。そう、あれだ、歴史の偉人みたいなもんだよ。存在は知っているけど、実物っていうか、あんまり、花自体のイメージ自体はわかないんだ」 「えー、もったいない。でも、最近そういうの増えたよね。名前だけ知ってる本とか、人とか」 「確かに。うちの部活でも、一度も顔を見たことないヤツが何人かいるよ」 あなたは冗談風に言った。 「でもさ、そういうのって悲しいね。出会う機会はあったのに、そのチャンスを自分で潰してさ、最近、何かを知るたびに、存在だけの、空っぽの幽霊を量産してる気がする。タイトルだけ知っていて、開いたことがない本ばかりが図書館に増えると、それを知らなかった時より、憂鬱になるの。 あ、そういえば、話それすぎたね。ごめんごめん。えっと、金木犀だったよね。ちなみに、金木犀ってね、秋の始まりに咲く、オレンジ色の花なんだよ。そんなに大きな木じゃないから、昔、私のおばあちゃんの家にも咲いてたんだ」 「かけてみる?」聞きながら、ポーチの中から出した、小さいボトルを見て、香水?とあなたが聞く。 「香水じゃなくて、ボディミスト」 「香水とは違うの?同じに見える」 「そもそも、香水なんて使うの?使いそうに見えないけど」 「もちろん、僕はないけど、兄ちゃんが、そんな感じのほんとに似たような白いボトルを持ってたんだよ。前に、話したでしょ?最近、大学デビューして、オシャレに目覚めたってハナシ」 「あぁ、あのお兄ちゃんね。確かに、大学生なら、使っててもおかしくないよね。別に私も、そんなに詳しいわけじゃないけど、香水の方が匂いが濃いのかな。香水も持ってるけど、多分、学校じゃ滅多なことがない限りつけないな。先生にバレたら面倒だし、これなら、ギリギリ『柔軟剤です』ってごまかせる範囲だね。私の友達でもこっそり使ってる子、結構、いるんだよ」 「へぇ、気づかなかった。やっぱり、女子はそういうの気にするんだね」 「近づかないと、仲々分からないからね。てか、こんなの気づかなくていいよ。ほとんど、自己満だもん。私もこの匂いが懐かしいからつけてる、それだけだしね」 キャップを取って「ほら、つけるよ。腕、開いて」ノズルを押す。 あなたの方から流れてくる空気から、私と同じ匂いが香って、ちょっとロマンチックな展開に胸がドキドキする。同じことを思ったのか、腕越しにあなたも笑っている。 「やっぱり、この匂いが落ち着く。慣れてるのもあるけど、なんだか、雨の日に合いそうな匂いがする。切なくなる感じが、すごくいい」 その言葉で、私は笑った。 「でもね、雨が降ったら、実は、その花は落ちちゃうの。道端によく、落ちて踏みつけられているところを見かける。それくらい、ものすごく、短い命なの。すごく小さくて、はかなげで、風に吹かれれば、どんな花よりも甘く香る」  君はいった。 「なんだか、君みたいだ。話を聞いてから、なんとなく、そうかなって思ったけど、今、確信にかわったよ」 それで、私は声をあげて笑った。 「嘘だ。私は枯れないよ。ずっと、ここにいる」 「ほんと?僕には、そう見えない」どういうこと?って、聞く前に「どこにもいかないで」あなたがすがるような声で呟くと、私の肩を寄せる。今日は一段とあなたが甘すぎて、溶けてしまいそうになるから、なにかをこらえるように目をつぶる。あなたからする、同じ匂い。あぁ、嗅ぐたびに、嬉しくなる。私の頭の後ろで、あなたの柔らかい声が響く。 「やっぱり、この先も金木犀がどんな花か見なくていいや。街中でこの匂いがして、みんながその花の姿を追っても、僕だけは、あぁ、君の匂いがするって、一から百まで君の顔だけ思い出していたいから」その言葉で、なぜか泣きそうになる。まっすぐに胸に入ってきた愛に、あなたといられてよかったって、感動だけに身が犯されて、私の体は震える。冬に暖房のついたお店の中に入ると、逆に今までの冷たさを実感してしまうのと同じ。踏みつけられて、潰れた人生に無縁だった感情、言葉に呆気に取られながら、残った勢いであなたの手にボトルを握らせた。「そんなに気に入ったんなら、ひとつあげる」そしたら、あなたはそれを耳元で振って、まだ、たくさん入ってるよと、申し訳なさそうに私の方を見たけど、そんなの気にしなくていいのにって、心底、思う。私があげたいからあげているだけなんだ。 「そんなに高くはないから、いいの。薬局でも売ってるやつだから、欲しくなったらまた、自分で買えばいいし、それに」束縛みたいでいいと、口走りそうになってやめたのに、それに?って、すかさずあなたが聞く。私はそれにも答える気がなかった。とにかく、あげるって決めたの。そういう時だけ、察しがいいんんだから、私が頬を膨らませて、少し咎めるようにいっても、ねぇ、教えてよ。なにを思ってたか?って、君は全然引き下がらない。それで最後に口も開かないで、やれやれって首を振ると、あなたはなぜか満足そうに頷いた。 ボトルを握って「ありがとう。絶対、大事にする」と言われて、「その代わり、今度のデートでつけてきてね」と、墓穴を掘る。すかさず、ペアルック、もどき?と、あなたが突っ込む。あなたの尋問をこれ以上続けても、きっと、わざとらしくなっていくだけだ。次か次にトラップにかかって、ひとりで誘水の中をバシャバシャ藻がいている。「匂いなら、気づかれにくいでしょ。イベントもないのに、お揃いの服なんて浮かれているみたいでイヤだし、だから……」 「じゃあ、二人だけの秘密だ」 あなたがボトルを傾けながら、私の言葉に重ねるように目を輝かせて言った。そうやって、なんでもない日のサプライズで渡された花束みたいな、あなたからの愛は、私にはまだ、レベルが高すぎるんだよ。素直に喜べたら、いいのに、そういうのが下手すぎて、固まってしまう。駆け引きや転がし合いにには勝てたことがないし、「もう、この話は終わり」って、勝手にゲームから降りようと、立ち上がっても、あなたは途中棄権を全然、許してくれない。振り返ると、座ったままのあなたが、今度は手を広げている。また?さっき、したばっかじゃん、といっても、君は笑ったまま、「何度でもいいじゃん。だって、君が可愛いから」いや、お前だよと、いう言葉が唇の先まで出かかって、咳払いする。 「しかたないな。じゃあ、最後だよ」全く、あなたはどこまでもずるい。いつもは、割と寡黙でっとしている方なのに、私の前だけで時々、やったーって、フニャッと目を細くして、そんなに無邪気な笑顔を向けてきたら、そりゃあ、無条件降伏の他ないだろう。ただ、可愛いねって褒めるとかっこいいって言われたいって、凹んでたから、これは私の中だけに、とどめておいてあげよう、もう、しかたないな。 「わかったから、ほら、膝の上乗って」えー、やだよと、一瞬拒んだら、あなたがシュンとする。そんな風に眉を下げて、項垂れたら、私がなんでも言うことを聞くことに味を占めて「ねぇ、好きって、いって」と、顔を近づけて、立て続けにあなたが言う。ちょっと悔しくて、「好きだよ」今度は抵抗なしに、すぐに答えてみた。思ったより声を張り上げちゃって、馬鹿みたいな言葉が無人の廊下に突き抜ける。すると、視線の先で、あなたが唇を噛んで、うん、そっかと、だけ答える。面食らって、たじろいでる。これは予想以上だ。 「自分で頼んでおいて、照れるのやめてよ」、って、肩を叩いたら、「ごめん、だって、言ってくれると、思わなかったからさぁ」って、あなたは言った後で、瞑想に入りそうなぐらいの深い息をはいた。あなたは下を向いてる。緊張したり、動揺したりする時、あなたは視線を落とす。それが癖なんだってことも、付き合ったからわかったこと。私の髪にまた、顔を埋めた後で、満足したという風に、よし、帰ろうかと、あなたが呟いた。けど、私だって、逃がさない。公平性は保たなきゃ。 「ちょっと、待って。あなたから、聞いてないよ」 バレた?って、ジャケットを掴まれて、こっちを向いた、あなたは絵に描いたような悪い顔をしてる。「気づかれてないと思ってたのに。そういうとこだけ、めざといね」 「こういうのは、物物交換が暗黙の了解なの。到底、納得できません」不平を訴えて、口を尖らせ、ほら、早くと、あなたの返事をジッと待つ。「言ってくれなきゃ、動かないよ。私、結構、頑固なんだからね」その言葉に君は「わかった、わかった」と、渋々要求をのんだ、かのように見えた。 「大好きだよ。変なところで無気にところも含めて、めちゃくちゃ好き。愛してる」 うん、私が淡白に頷いて、やっぱり、ふたりで沈黙になる。結局、うまくかわされてしまった気がする。ポッと、頬が赤くなって、白旗ならぬ赤旗を振る。あなたが私の顔をのぞいて、「ほら、君も照れてる。ね、おあいこ」と、にこりと笑っていた。 あなたの手を解いて、地面に足をついたら、足が痺れていて、ビリビリした。「いく?」の問いに「そろそろ」と、返す。デジタル時計の方を向いて、予想の先をいく時刻と、ひとまわり明かりを落としていた、外の景色に改めて驚く。テスト終わり、みんなはどこかで遊ぶ約束をしていて、何人かのペアで足早に帰っていった。珍しく、ほとんどの部活が休みだった。 いつもみたいに学校で話していても、なんの障害もなかったから、気づけば、ここに来てから1時間も経っていた。あなたといると時間が早いのは当たり前としても、流石に今日は早すぎる。久しぶりにあなたに触れられて、テンションが上がっていたせいかな。体感は20分ぐらいだったのに、夜を迎えそう。空気と同じように一周分の針の間隔を飲みこんでしまったみたいで、なんだか狐につままれた気分だ。 「ん?いかないの」 「あぁ、ごめん。ちょっと、ボッとしてただけ。いこいこ」あなたの背中を追いながら、一歩身を引いて、廊下を歩く。校舎にふたりきり、その状況だけで、いつもの教室にもノスタルジックの魔法がかかる。こんなに広かったんだって、大したことない気づきにも感じてしまうほどの情緒に心がグラグラ、感傷に心までゆっくりとつかっている。34個の机の影、誰かがおいていった教科書、使いかけのチョーク、黒板の落書き、その全てに私たちの青春の色がすけている。色付きの下書きでみたって、変わらないくらいはっきり。壁に囲まれた、この直方体の世界の中に、なにか大切なものが、今にも弾けそうなくらい飽和している気がするけど、その正体はうまく言葉にはできそうにない。そのもどかしさが、まだ、飲んだこともないお酒で酔っているような 「運命って信じてる?」 運命?その疑問符と一緒に、あなたの足が一時停止線に触れたみたいに、ピタッと止まる。 「最近、少しだけそういうものを信じたくなったんだ」 「急にどうしたの?」 「なんとなく、思ったの。よく、未来は空白だって、言う人がいるけれど、本当はそうじゃないんじゃないかって。 透明な文字の盤上で操られてるみたいな……」 奇遇だね、僕も似たようなことを思ってたかもしれない、あなたがなにかを思い出したように言った。「大人は、僕らにどんな選択肢だってある、仕事に勤めたり、結婚したり、もう、なんでもできる年だって、言うけど、それは『ある』だけなんだと、思う。現実に落とし込んでみれば、選べるものは、実際、そんなに多くない。僕らは確かに、若い。だけど、17年だったら、17年分のおもりを背負っているから、今更、僕らは過去や自分の居場所に縛られずには、生きられない。進んでいく方向なんて、ほとんど決められてる」 窮屈ねって、私は返した。家にコンタクトを忘れたせいかもしれない。その時、少し遠くに立っていた、あなたの目が少しだけ横にずれて、なんだか別人の顔のように見えた、一瞬だけだけど、胸がざわつく。 「世界は広いけれど、自分の見れる世界はもっと、小さい。どんなに高くロケットで上がったって、この星の裏側まではわからない。 可能性は無限大なんて、そんな言葉、僕は嫌いだ。 生まれたところ、才能、容姿、運、お金、色んなものに支配されてる。他人が押し付ける理想より、僕らはちっぽけで、全然、自由じゃない」そうやって不意に口調を強めて語った時、あなたの本当の弱さに初めて触れられた気がして、私は嬉しかった。前を向いて歩いていくように見える、あなたが悩んでいるのが新鮮で、こんな一面もあるんだなって、その揺らぎが愛しくて、頭を撫でたくなった。でも、あなたの背が高すぎて、きっとうまくいかないだろう。「そんなに悲観しても、しょうがないよ。確かに、足元に筋書きは刻まれているかもしれない。でも、その筋書きはね、破るためにあるんだもん。ちゃんとした道がなきゃ、私はそれを逸れたり、間違ったりもできないでしょ。 帰る場所を持つ人だけが、初めて旅にでられるの。心の寄る方のなかったら、はなから、旅に出られない、それはね、さまよっていることに過ぎない。 あなたは17年を重りなんて、言ったけど、逆に17年も積み上げたことが、ちょっとした短い旅でくずれるはずないでしょ。別に、人間はマリオネットじゃない。糸なんてどこにもついてないし、出かけることを咎める人はいない。大切なのは、自分であとから書き込むことなの。ほら、コン詰め過ぎずに、気まぐれなくらいでいいじゃない? それにね、いいこともある。例えば、未来が書かれた透明の文字をなぞって、凹凸に運良く指先が引っかかったら、わずかに未来の気配を感じられる。ちょうど、点字に触れて、そこに書かれていることを読むみたいにね。予知夢も、ノストラダムスの預言もみんな、眉唾ものだけど、誰もそれが嘘だって完全には否定できない。だから、その時が来てみないと、地球が消滅するかもわからないのね。そんな疑いとか理性の隙間にある、ときめきの中で、私は生きてみたい。 ねえ、一年後の卒業式で、私たちがどうしているのかって、どう思う?」 「それなら、信じたいことが一つあるよ」 君が突然、口を開いた。 「なに?」 「卒業式の日、君が僕の隣で笑っていること」 そっかと、私は頷く。「私はね、こう思うの。教室の前で振り返って、繰り返し染み付いた、幾千の端書の残る教室をみて、みんなが一斉に涙を流す、って」 「じゃあ、その日、君も泣いているの?」 「わからない。でも、感情なんてすぐ変わるし、寂しくて泣いたって、最後は笑えているのかもしれないよ。あなたが側にいてくれたらね、そんな奇跡が起きる気がするの」 「だったら、どっちの予想も当たりだね」 あなたは笑った。そうだねって、私は答える。こんな思いつきに加わる、あなたの言葉。桜が咲くのはまだ先だけど、やっぱり、こういうイレギュラーが楽しくて、あなたに取り止めもない思いつきを話したくなる。 あなたの懸念通りに、日が陰ってく。横目で追うと、あと少しで、夜が始まろうとしていた。 「そろそろ、日没だね。ねぇ、あのスタジアムのところ。紺とオレンジが混ざって、桃色になってる」 教室についたベランダの方を指して、魔法みたいで、すごく綺麗と、ため息を吐くように言う。 「でも、色なんて、光の波長の違いに過ぎないよ。パレットの中でも、赤と青を混ぜたら紫になる、それと同じ原理」 「そうやって、なにもかも片付けちゃったら、つまんないよ。どっちが正解とか不正解とか、そうやって割り切るのは数学とか化学だけでもう、十分なの。 だからね、私はどんな時間より、夕方が好き。暗くも明るくもない街、いい加減なくらいで紛れ込むくらいがちょうどいい。完璧を求めて、壊れてしまうくらいなら、私はどっちつかずのままでいたい。ほら、屋根にとまってる烏だって、ピンク色になれるのよ」 その時、ほっぺたに小さくキスをされた。桃色に毛の色を染めた、あなたが呟く。 「太陽が沈んだら、寒くなっちゃうよ。次のバス、あと5分だから早く行こう」 今度は私のセーターの袖を掴んだ。私の言いたいことが分からない時、あなたはよくそうやってごまかす。あなたの目には、きっと、どんなに色が変わったって空は空のままで、夕暮れは夜の近さをあらわすサインには映らないんだろう。 私の感じるものの半分も、多分、あなたには伝わらない。あなたの世界で意味をなさないものがいつか、輝くことがあるかな?あったらいいな。ヘレンケラーが水を触って、涙を流したように、できたら、私の舌で、そのキラキラを教えてあげたい。 広い歩道の真ん中でも、あなたの手がぶつかる。これで2回目だ。いつも、あなたの方からばかりじゃ悪いかな。反省した後で、ポケット一個分くらいの、ちっちゃな覚悟を決める。それに、校門を出てから、後ろばかりをチラチラ見ているのも、ちょっと、気に食わない。この時間に歩いている同級生なんていないから、心配過ぎだって、出そうになる心の声をすんでのところで抑えて、手を出した。あなたは驚いたような顔で私を見る。 「繋ぎたいって、思ってたんじゃないの?」 「なんで、分かったの?」 逆になんで、バレていないと思っていたんだろうと、こっちが不思議になるほどだよ。おかしくなって、「えー、秘密」って言いながら笑うと、あなたは首をかしげた。こういう時のあなたの考えは、透明ガラスの中みたいで、わかりやすすぎて楽しい。 バス停が近づいて、少し前から気になっていたことを聞いてみる。 「そういえば、いつも勉強頑張ってるけど、受験でもするの?」 「あぁ、うん。考え中」あなたはそれ以上、聞かれたくなさそうだった。あなたの顔が一瞬曇ったのを、見逃さなかったって、無駄。だって、その訳を聞く勇気はないから。 私の高校は大学までの附属校で、外部受験をする人は成績上位層だけだ。大半がそのままエスカレータ式で、上の大学に進学する。私もそう。志望調査の1回目で文学部とかいて、提出した。 ただ、だからって、何も変わらないと思っていたし、受験するなら、純粋に応援するつもりでいた。だって、本来の高校生カップルなら、大学が離れるなんて当たり前のことだ。それで別れるなんて考えは一ミリだってあるわけなかった。正直、あなたも同じだって、私、楽天的過ぎたのかな? あなたの微妙な反応で、一気に翳りが出て、また、心が不安に塗り潰されて、なにも見えなくなる前に、「そっか、偉いね。頑張って」って、能天気を装っても、やっぱり、あなたは上の空。私の言葉に答えてくれない。不機嫌なふりをしても今回はダメそう。 「ねぇ、ソフトクリーム食べたい」 大声で言ってみたら、あなたがやっと、振り向いてくれて、少しホッとする。 「え、どこで?」 食いついた。この作戦は成功だ。 「いいところ、知ってるの。駅に着いたら、わかるから」 「ソフトクリームなんて、珍しいじゃん。ダイエット中じゃなかったっけ?」いつもみたいに、意地悪になるあなたの口元に「今日だけはいいの」シッと、指をつける。突然、仕掛けてみる行動で、ドキマギしたあなたの顔が好き。「テスト疲れたから、甘いものでもパッと食べたくなっちゃったの。今日は、蒼空のおごりかなぁ」 「しょうがいなぁ、でも、テストちゃんと頑張ったし、いいよ。俺のおごりでいこ。ミックスでも、なんでも好きなの頼みな」 「ごめん、うそうそ。それはちゃんと払います、って、あ、バスきたよ。乗ろう」 ソフトクリーム、ソフトクリームって、無邪気にいったら、ちょっと、計算高いくらいでいい。じゃなきゃ、自分のセンチメンタルに耐えられない。 話をそらしたことが、あなたに気づかないくらいに自然に装って、話を進められたはずだったのに、バスに乗ると、あなたは遠くを眺めて、自分の悩み事にまた、華を咲かせている。雨が降った後で森に深く霧がかかるみたいに、あなたの視線が私から行方不明になると、すぐに不安が胸をかすめる。心臓がきしんだ。ずっと、守っていてなんて、頼まない。でも、こんな風に心配にさせないでよと、不意に涙を流して、わがままを言いたくなる。 ――あなたは何を思っているの? 肝心なことは聞けないで、バスが動き出す。 私の願いは、ふたりのお城にいること。あなたは運命の王子様で、私に夢をみせ続けてくれる。ねぇ、そうでしょ? バスの窓にもたれかかって、心の中で呼びかける。スライドしていく景色、暗がりを増やす街角で、重くなり過ぎた、私の恋だけが移ろわない。
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