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《開かなかったカメラ》
半年前の春、前回のクラスで沢山友達ができたこともあって、新しいクラスまでの道の足取りは重かった。白紙のノートの一枚目を書くみたいに、胸躍るなにかを心のどこかで探していた。いつもと変わらないメンツにすれ違って、「あ、おはよう」と、交わす。みんな、自分の居場所を必死で挨拶の端々さえ飛び上がって忙しない。
小学生から繰り返した、このイベントに正直、摩耗していた。クラスが変われば、話さなくなるような友達付き合いや、面白くもないことにも手を叩く愛想笑いを作るのに必死になっても、いつかは崩れてしまうから、どこか虚しくて、くだらなく思える。
たかが17歳、されど17歳。真面目に生きてきたつもりだけど、自分の意思で決めてきたことはいくつあるだろう?気づけば、それなりの人生を送るために取り繕うことに全力で、自分自信の中身を洗いざらい並べても、ガラクタばかりだった現実に、薄々気づき初めて、肩を落とす。
目を背けたくたって、もう、無理だ。僕らはそろそろ、大人にならなくちゃいけない。同い年でテレビに出ている芸能人をみたり、デモを起こす活動家のニュースを聞くと、自分は世界に仮りばかり作って、返済が大変だなって、未来に抱えた負債に項垂れる。好きなものだけ食って、眠って、あとは言われたことをこなすだけ、だって、僕がいなくても、僕のできることは誰かできる。
ーー僕がいなくなった後で、どれほど世界は変わるのか?
それを知りたくて死にたくなるけど、幽霊になれる保証もないから、今日を惰性で生きてるだけ。
廊下にあいた大きな窓からは、突き抜けるような青空が広がっている。背は40センチちかくも伸びたのに、雲に乗って旅をしたいと思っていた幼い頃より、今の方が太陽が遠くみえる。
『いつから、こんなしょうもない奴になっていたんだろう?』
洗濯機のドラム缶の中のように、行き場もなく、ぐるぐる回る疑問。愚にもつかない考えは、すぐに忘れる主義なのに、その時に鍵って、全然、頭を離れなかった。リプレイ再生のような新学期に辟易として、自暴自棄気味で、新しいなにかを探していた。心が躍るようなにかを、世界をいっぺんされるなにかを……。きっと、その欲望は少し近い未来からの便りだったんだろう。
一目惚れをした。
クラスの戸を開けた瞬間、飛び込んできた景色。息を呑んだ。海の上の方位磁針が地球にひかれていくように、恋することに理屈などなないと、天使に矢をぶつけられたんだ。自分が相手に落ちていることも悟る前に、心が痺れて、息をからしている、そんな感覚。自分が恋をしていることに気づいたのは、しばらくたってからだった。
8組もクラスがあったから、名前も知らない、でも、確かに僕の学校の制服を着ている、その子は新学期、女子の群れから少し離れたところで、静かに本を読んでいた。心底、僕の人生が、トラッシュボックスに入り切るサイズじゃなくてよかったと思う。もし、クラスの扉を開ける時、全て望みを捨て切って、俯いてたら、僕の世界に色を咲かせる春の兆しにさえ気づけなかったと、考えるだけで、背筋が凍る。
君は知る由もないだろう。僕らの恋のは幕開けが、春に芽生えた、僕の片想いだったことに。
名前は、清宮 天音。出席番号順の席で、2列目の3番目に座っていた。
新学期のうわついた空気が、君のミステリアスな雰囲気を、ますます引き立てていたことは言うまでもない。教室は人混みでうるさいはずなのに、2つの耳も目も肺も、君の方を一直線に向かざるをえなかった。
とにかく風の強い、この日和に、開きっぱなしのカーテンが膨れるたびに、茶色がかった君の黒髪が揺れるのに魅入られてしまって、ボッと立ち尽くしながら、綺麗だなと、つぶやいた。時々、瞼まで長い髪が落ちると、少しかきあげて、また視線を落とす、そんななにげない姿にまで、いちいち目を配ってしまう。
ホームルームが始まるまでの時間、「また、お前かよ」なんて、友達と冗談を言いあっていた間も、宿題を見せ合っている時も、君の瞳が僕を捕らえることなんてないことはわかっているのに、一瞬の偶然を期待せずにはいられなくて、落ち込んだ。
――それから、君のことを、ちゃんと知り始めた。
例えば、本を読む姿から、すごくおとなしい子なのかなと、思っていたけれど、友達に呼ばれると、パッと明るく笑って、「なになに」って、楽しそうにはしゃぐギャップだったり、ALTの外国人の先生に日本語で話しかけちゃう、ちょっと天然なところだったりさ、とにかく可愛くて、しかたなかった。
どんなところも好きな上で、規則に縛られない、自由なところが、たまらなく眩しかった。正反対の人に惹かれるという話は、案外、的をえているのかもしれない。多分、君への愛の半分は憧れだった。こういうのをフェリアっていうらしい。ネットで調べた相性診断の結果で、無駄な知識ばかり増えていく。大袈裟じゃなく、僕の心臓が君を中心に回っている、そんな気がした。
君と近い席だったり、君と前のクラスの同じだったり、とにかく君のことを知っていそうな奴らから、君の趣味も、好きなものも、苦手なものも聞いた。君との共通点は確かに少なかったけれど、少しでも重なるところがあると、それだけでこっそり部屋の中ではしゃいだ。クラス替えから1ヶ月経っても、話す機会はなかった。名前のアイウエオ順が離れていたり、元々、君があんまり、男子と話すタイプじゃなかったとか、色々理由はあったけど、一番は勇気が出なかったからだ。君を前にするシュミレーションを何度繰り返しても、頭の中の僕はいつもテンパって、不審な挙動で君に訝しがられる結末ばかり。とにかく、ダサいところを見られて、嫌われるのが怖かった。
それでも、同じクラスだから、かろうじて接点はある。時々、君と廊下ですれ違うことがあった。いつも甘い匂いがした。服や髪や匂い、流行りに疎くて、なんの香りか分からなかったけれど、それが僕の一番好きな匂いになっていた。君と会って、自分も知らなかった自分自身に気づいた。こんなに人を愛して、こがれることができたなんて、思いもよらなかった。周りからどんなに茶化されても構わなかった。それくらい、君に夢中で、数ミリでもいいから近づきたかった。
あの夏、初めて女子に告白された時のことを不意に思い出す。中学2年の八月試合前で、午後の6時まで続いていた、部活終わりのことだった。あたりはもう、暗くなっていて、どこからともなくアブラゼミの声が響いていた。
僕に告白してきたのは、高橋 翠という名前の女子だった。
高橋はバスケ部のマネージャーで、一年下の後輩だった。傍からみていても、目をひくほど外見は可愛い子だった。目が大きくて、全体に色素が薄くて、小柄で、でも、逆にそれだけだった。手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、そんなことはなぜか微塵も思ったことがないし、これからも思うことがないと、感覚的にわかってしまった。
「好きです」と言われた瞬間に、断っていた。
「もっと、いい人がいるよ。俺にはもったいないから、ごめんね」
そう頭を下げると、高橋は「こちらこそ、すいませんでした」と、僕の手に押し付けるように言葉を投げて、走っていってしまった。それから、教室に向かう階段の方で、何人かの女子の声がした。なにを言っているのかは、はっきりわからない。予想は簡単につく。きっと、めちゃくちゃに貶されているんだろう。それくらい酷いことをしたのは、わかっていたけど、案の定そうなるかと、少し悲しい気分にもなった。一人取り残された僕は体育館の施錠をして帰った。次の日には告白の噂は回っていた。
「なんで、振ったんだよ。めちゃくちゃ可愛いじゃん?なにが不満だったの?」
同級生からの問いには、答えられなかった。あとで聞いた話だと、高橋は今年の入学組の中ではマドンナ的な存在で、付き合いたいと思っていた男子も大勢いたらしい。勉強も運動もできて、性格もいい、ちょっと考えれば、当たり前のことかもしれないと、頷けた。が、それを知ったら、もっと、冷めてしまった。
そのまま、3年まで部活で顔を合わせることはあっても、直接、ふたりきりで話す機会はなかった。高橋も振られた奴と話したくないだろうと思って、部長権限を使って、こっそり、担当のチームを変えて、関わるタイミングを最小限にしていたからだ。今、思うと、あれも逃げだったのかもしれない。
6月になって、最後の大会が終わり、部活を引退する頃には、この一件の記憶も薄れていた。
だから、卒業式の日、高橋に声をかけられた時は驚いた。これまで、ありがとうと、だけ伝えて、すぐにその場から去ろうとしたら、また、告白をされた。
「もう一回だけ、チャンスをくれませんか。好きです」
「ありがとう。でも、前にも言った通り、高橋にはもっといい人がいるから……」
すると、高橋の顔が一気に険しくなって、視線がキッと鋭くなった。
「先輩の、そういう優しいところが嫌いです。もう、いっそ、はっきり突き放してください。こんな断り方されたら、私、諦めきれないんです」
「君の希望を叶えられなくて、ごめん。でも……」
「私のどこが不満ですか?先輩って、彼女いないですよね。正直、私、普通の子よりかわいいし、器用だし、付き合ったらなんでも先輩のためにしますよ」
「そういうことじゃないんだ、どこが嫌とかじゃない」
――この子の何がダメなんだ?僕の頭をめぐる疑問に、明確な答えは出なかった。何度考えても、あるのは、一つの結果だけだった。
「ただ、高橋と付き合っても、幸せにできないっていうか。いや、誤魔化さないで言うわ。ちゃんと愛してはあげられない」
その言葉を聞くと、沈黙が一瞬、流れて、高橋が言った。
「わかりました。最後に、ケジメがついてよかったです」
落としていた視線を上げると、高橋は泣いていた。
「私がどんなに頑張ったって、先輩は振り向いてくれない。わかっていても、先輩の1番になりたくて、色んなことを試行錯誤する、そんな時間も楽しくて。先輩は私のことを幸せにできないって言ったけど、私は先輩を愛していた時間でも十分、幸せでした。ありがとうございました」
掠れた声で必死に話して、途切れ途切れになる言葉。どこかセリフじみたところが、ずっと前から用意してきたことを裏付けているようで、心が痛くなった。結局、なにも正解なんてないような気がした。どんな言葉をかけて慰めたところで、高橋を傷つけてしまうことに変わりはなかった。
「引退おめでとうございます。大好きでした」
高橋が笑った時、後ろで桜が舞っていた。引きつった頬、赤くなった目、綺麗に巻かれたショートカットの髪が風に揺れていた。いつでも、世界の中心にいる、そんな太陽のような子だった。だから、きっと、この涙も明日には乾いて、うまく進んでいくだろう。
高橋は、僕がいなくても幸せになれる。そんな独りよがりで、はっきりとした確信に包まれていた。
見かねた同級生の女子がそのうち高橋の方を囲んで、こちら側にはバスケ部の仲間が群がった。「高橋、お前のために髪まで切ったんだって」そんなことも他人に聞くまで、気づいてあげられなかった。
結局、制服の第2ボタンは残ったままだ。仲のいい後輩や友達に頼まれても渡さなかった。いや、渡せなかった。どうしても、高橋に悪い気がした。こんなこと贖罪にもなりっこないのに、引き出しの一番奥に、眠っているボタンを見ると、僕は少し安心する。
片想いがこんなに辛いなんて、知らなかった。高橋は元気にしているかな?新しい高校では、こんな最低な奴のことなんか忘れて、楽しく友達とやっていたらいいな。今になって、しみじみとする。ベットで横たわって、
世の中には、体験しないとわからないことが溢れている。僕が君に会うまで、知る由もなかったこと。一方通行の痛みと、そんな苦しささえ、君のためにしたことなら、幸せに思えること。背負いすぎた思い出の重みが、僕の足をとめる。そんなに簡単に次に行くことなんて、できるわけがない。積もっていくこの思いの欠片さえ、君には伝わらない。なにを投げ込んでも実らない。だからこそ、君を思っている時、愛する自信がないと、一人の女の子を泣かせて、ひどいことをした仕打ちが今になって、返ってきたんだと、変に納得してしまう瞬間がある。
放課後、グラウンドで陸上部のユニフォームを着て、走る君の姿を見たくて、少しだけ遅く帰ったこともある。息を切らせ、水を飲んで、僕の方に来る。それだけで嬉しくて、胸が躍った。
だけど、天音、ちょっと来て、なんて誰かが君を呼べば、君はランニングトラックの方へいく。待ってと、僕の口が動くわけもなく、どんどん遠くへ離れていく。やめて、こっちにきてよ、離れないでよって、その度に思い知る、僕には、まだ、席さえ用意されていない現実を。観客にもなれていない、顔なしの傍観者だと、わかっているのに、段階を無視しても、あの背中を追いかけたくて、フェンスを少し強く握って、小さなアザを作った。勝手に生産性のないヒステリーを起こしたって、僕は惨めなだけ、すごすごと帰っていくばかり。そんな煩悶でのたうち回っていた。
6月、初めての席替えには、命をかけた。もちろん、君と知り合うきっかけが欲しかったからだ。朝にみた星占いでは、2位で、期待に胸をむくらませていた。もしかしたら、君と隣になれるんじゃないかなんて、36分の1の奇跡を心の底から願った。
だから、散々な結果が出た時は、すごく落ち込んだ。教壇の近くとロッカーの隣、むしろ前より距離は離れて、相変わらず話せすこともできずに、君の後ろ姿をそっと見ているしかない。
休み時間も、君は僕の知らない本を読んで、僕を目に入れることはない。君の世界がどんな色をしているか。それは分からないけれど、僕のはいる隙間はどこにもないんだと、当たり前の事実さえ心を抉って、悲しくなった。
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