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《片割れの瞳》
雨が降ったあの日が人生で一番、最低な日だった。部活終わりに帰ろうとしたら、天気予報にもない、突然の雨が降った。6月の梅雨の時期ならよくあることだったから、教室にある置き傘を取らずに下へ降りた。でも、そう言う時に限って、君の姿を下駄箱でみつけた。君は下駄箱から少し顔を出して、雨の様子を伺っていた。手に傘はない。バス停まで走ればいいと思って、手ぶらだったことを悔やんだ。
間に合うだろうか?考える前には、走ることを決めた。後悔はしたくなかった。「あれ、先輩帰らないんですか?」ちょうど、部室から出てきた後輩に鉢合わせしても止まらずに「ちょっと、忘れ物した」と、だけ答えて、ロッカーに全速疾走。我ながらバスケをやめてもまだ、こんなに走れたんだと、ちょっと驚いた。こんなに必死になるのは、久しぶりだ。客観的に見たら、ダサいとか人の目を色々考えて、冷めてしまうことの多い、僕も君のためなら、こんなに泥臭くなれる。置き傘を持って戻る時、僕は映画の主役にでもなれたような気がした。
でも、帰ってきたら、ヒロインになるはずの君はどこをいなかった。キョロキョロと見回して、右を向いて左を向いて、下を向いて、それから、いるわけもない天井までくまなく探して、時間切れだったことを冷静に悟る。
空っぽになった玄関には、雨の音だけ馬鹿野郎と僕を嘲るみたいに響いている。僕の横を後輩が不思議そうな顔で「お疲れ様です」と、通り過ぎた。あぁ、うるさい、うるさい。耳を塞いで、呆然と立ちつくしていた僕はやけくそになって、肩からずり落ちた、バックをもう一度、持ち直す。
バス停まで、もう一度走ることを決めた。まだ、君がいるかもしれない。無謀だし、これに意味があるかはわからない。正直、今更、傘貸そうか?なんて聞くのは流石におかしいし、いたって多分、話しかけられないで終わるだろうって、なんとなく察していたけど、とりあえず、少しでも君の顔を見れたら満足だ。とにかく、僕はこれ以上、この骨折り損が報われる方法を知らない。どうしても、最後の望みを吹き消すまいと、躊躇なく土砂降りの中に突っ込んでいく。
校門をでて坂を下ると、向かい側にはもう、バスが停まっているのが見えた。いつもなら店の軒先を伝っていくが、そんな余裕はない。一直線に坂を駆け降りる。シャツは肌に絡み付いて、革靴に水が溜まっていたが、それぐらいじゃ、僕の足を止められない。前に行くことに夢中で、息切れすら感じない。水溜りを踏んで、ズボンもびしゃびしゃになっても、全ての瞬間が、カットになって、放映されている気がした。僕はあの瞬間、君のためだけに息をして、足を動かして、泥を被った。だけど、現実はいつだって思い描いたように、うまくいかない。
バスのエンジンがかかる、排気ガスの鈍い音がする。
バタン、そして僕の目と鼻の先でドアがしまった。待ってくれ、その声さえ、雨の中ではとどかない。
――そのまま、バスが発車する。
あぁーっと、叫んだ声もアスファルトにぶつかる雫がかき消した。あとほんの数秒が、足りなかった。僕は無力だ。僕の思いじゃ、なにも変わらない。近づこうとした分だけ反発しあう。運命に見放されて、世界のピントが僕から外れていく。
――君に会いたかった。
走る理由は、それだけ。こんなにも純粋な願いさえ叶わずに、僕は一人、街角で立っている。人は支え合いながらじゃなきゃ、生きていけないはずじゃないのか?誰か教えてくれよ。なんで、僕の思いは箸にも棒にもかからずに、ひとりぼっちの寒さにたえなきゃいけない?手にした傘が、本来の役割を果たすことなんてない。僕の心はかかしのように、アスファルトに根をはやして、恋は亡霊のように行き場をなくしている。
夏の空気を含み始めた、雨は思い。スカスカになった僕の中に、よく染み込んで、心をどこまでも、蝕む。
次のバスに乗る時、僕の手元に残ったのは、雫が垂れるほどびしょ濡れになった、バックだけだ。斜め右のおじさんが何事かという風に、僕を綺麗に二度見する。日常を運ぶバスの中で、世界の終わりみたいな顔で俯いていた、僕はどんな風に写っただろう。バスの窓に打ちつける雨さえ、戦場に注ぐ矢のように、絶望を掻き立てる。帰ってから、母に泥だらけになったズボンのわけを聞かれても、なにも答えなかった。事情を話したら、情けなさすぎる。星が歪んで見えたその夜は、ギターの練習もせずに、眠ってしまっていた。
起きた時の夢は空っぽだった。単に覚えていないだけかもしれない。普通なら思い出そうとしたのかもしれないけど、別に今は忘れたって構わなかった。むしろ、なにもかも忘れてしまいくらいだ。
時計を見ると、いつもより30分も早く起きていた。いつも遅刻ギリギリになるのに、こんな時ばっかり早起きになる。なんて、めんどくさい人間だ。ため息をついた拍子に、僕は涙をこぼした。ずっと、泣かないと決めていたのに、一粒溢れると、歯止めが効かなくなってしまう。上で寝ている兄貴にバレないように、唇を噛んで、声は殺した。
――あぁ、なんて惨めなんだろう。こうして静かに目を腫らしたところで、僕が泣いていることを、君は知らない。
結局、考えてしまう。そうやって、副次的に思い知る、当たり前の現実が、かさぶたを開かせるのは、わかりきっていた。だから、泣かないと決めていたのに。僕だって、君のためなら、どんなことも幸せだって、思いたかった。
涙と共に体がバラバラになっていくみたいだ。流れ出したその血は、時間が経てば止まるものじゃない。心の奥底から湧き出す痛みほど、尾を引いて、ずっと僕を苦しめる。
短いカーテンは低い日の光を防げない。起き上がる気力もないくせに、僕の目がさらに、はっきり開いていく。もう、眠れるわけがない。
困ってしまうよ。どうしたって、僕は君を愛することを止められない。どれだけ、傷ついて、どれだけ、苦しんでも、君のことばかり、今だって、君のために心を壊しているんだよ。
どんなに塗っても、剥がれてしまう、記憶の中の君の顔にかけたモザイク。そんな小細工は通用しない。映るモノ全て、君色にそまった後だから。
今更、君が抜けたら、僕は僕じゃなくなる。後悔しても、後の祭り。だから、早く、僕のものになってよ。この隙間を埋められるのは、君しかいないんだ。
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