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 警察学校時代の同期に、オカダジロウという男がいる。彼もまた高校卒業と同時に警察官採用試験を受け、警察学校に入ってきた。ショウからすると、一回りも年下の弟のような存在で、入学したての十八歳はまだ世間を知らぬ子供であり、ショウを兄のように慕っていた。そんなジロウと偶然、配属先が一緒になった。通常、各警察署に配属されるのは二、三名。全てにおいて成績優秀であったショウに比べ、ジロウは所謂劣等生であり、優秀な者とそうでない者とをペアにして配属する慣習が警察にはあった。二人は同じ万世橋署の同じ地域課に勤務するが、配属された交番がそれぞれ違った。最も事件、トラブルが多いのが秋葉原駅前交番で、ショウはそこに配置されたが、ジロウは比較的のんびりとした岩本町東交番であった。ショウは勤務したての頃から、年齢が上だったこともあるが、周囲に一目置かれていた。雰囲気と貫禄があり、すでに十年選手であるかのような落ち着きがあった。一方でジロウは体の線も細く、態度に落ち着きが無く、緊張すると少し吃る癖がある。それでもジロウは警察官である父に憧れて自らも警察官となり、正義感と誇りを胸に、怒鳴られながらも毎日を何とかやり過ごしていた。  ジロウは警察学校を卒業と同時に、東神田にある警視庁が借り上げた独身寮に入った。周囲は万世橋署の先輩警官ばかりで、一時も心休まることがなかった。署からの緊急応援に狩り出されるのはいつも新人であるジロウであり、寮に戻っても、何かと先輩たちの雑用を押し付けられる。高校時代も文化系の部活しか経験が無く、先輩後輩の上下関係の厳しさを知らずに育ったジロウには苦痛であった。特に同じく岩本町東交番に勤務するオニズカという三年先輩からは、しばしば指導を受けた。新人歓迎会の時に飲酒を強要され、ジロウは下戸であったので、未成年だからという理由で固辞したのだが、それがオニズカの気に障ったらしく、それ以来、何か雑用がある度に、ジロウが呼び出されるようになった。ジロウはそれでも、社会人とはこういうものかと自分に言い聞かせ、素直に従った。こんな時、話を聞いてくれるショウ先輩がいてくれたら。ショウは警察学校時代、同期の仲間には「ショウ先輩」と呼ばれ慕われていた。そのショウが入寮せずに一人暮らしをすると聞いて、ジロウはひどく落胆したが仕方のないことだった。それでも、寮が完全な個室であることに救いを感じていた。個室で一人きりになれる時間が至福の時であったからである。  部屋は六畳一間のカーペット敷き。簡易ベッドと机だけが備え付けられている。警察学校時代も寮生活だったが、他の寮生と同室で、プライバシーなど無かった。それに比べ、今は部屋の使い方など、個人の裁量に任されている。風呂、トイレは共同だが、家電やパソコン、趣味の物など、個人的な持ち込みも許されていた。ジロウは実家から、パソコンの他にマンガやゲーム、衣類を入れるプラスチック製のケース、それに幅五十センチ、高さ四十センチ程の水槽を持ち込んだ。「トリオップス」という水生生物を飼うためだった。入寮の際の荷物チェックでは、「金魚でも飼うのか?」とバカにされたが、ジロウは黙って頷いた。トリオップスについて説明しても理解されないことはわかっていた。  トリオップスを飼い始めたのは、ジロウがまだ高校生の頃である。高校の生物部に所属していて、古代生物であるトリオップスの存在を知った。別名「カブトエビ」。半透明で大きな円形の頭部と繊毛のような無数の足、そして長く先割れした尾がある。カブトガニをそのまま小さくしたような生物である。実は手軽に入手可能で、農薬の少ない水田では春先に普通に見られる。科学雑誌の付録として乾燥した卵が販売されているのを、ジロウが買ってきて、以来、産卵した卵を乾燥させて保存していた。トリオップスの卵は、乾燥状態でいつまでも生き続けることができる。そして、水と出合った時に孵化する。何とも神秘的な生き物だった。ジロウは水槽に水を張り、おが屑に埋もれた卵を水面に撒いた。すると数日後に卵は孵化し、僅か数ミリの生物が水槽を泳ぎまわることになる。そんな古代生物を見ていると、ジロウの心は癒された。その日、何か嫌なことがあっても、忘れることができた。  トリオップスは成長する。毎日少しずつ餌をやるうちに、カブトガニのような姿が次第に明確になってくる。子供の頃に社会科の授業で土器や化石のかけらを手にした時のような、熱いものが込み上げてくる。仕事で嫌なことがあった日は、必ずトリオップスに餌をやりながら話しかける。幼少の頃からジロウは感情を爆発させることがなかった。内に秘める性格のため自己主張が苦手で、友人もいない。そんなジロウにとってショウは、唯一昆虫や水生生物の話を聞いてくれる友人であり、自分をバカにしない人間であった。  部屋のドアを荒っぽく叩く音がする。 「おい、オカダ、いるんだろ、今日の夜、一階のミーティングルームで宴会やるから酒用意しとけ」  同じ岩本町東交番に勤務する三年先輩のオニズカである。ジロウが戸惑って、扉の向こうで曖昧な返事をする。 「ドアを開けろ、先輩に対して、その横柄な態度は何だ、貴様」  ジロウが慌ててドアを開け、隙間から顔を覗かせた。オニズカは足を扉の隙間に挟み、手で強引に引き開けた。 「入るぞ」  返事をする前にジロウの体を押し退け、部屋に入ってきた。オニズカはガムを噛みながら部屋の中を見回した。 「先輩の部屋チェックだ、何か文句あっか?」 「い、い、いえ」  ジロウが首を振って下を向いた。オニズカは、フンッと鼻を鳴らした。 「吃りやがって」  ジロウは下を向いたままだった。 「す、す、すみません」  肩を震わせた。 「つまらん部屋だな、何も無え」  舌打ちし部屋を出て行こうとしたが、ふと机の上に置かれている水槽が目に入った。 「何だ、その水槽は?」  ジロウが一瞬、水槽に目をやった。オニズカが水槽に近づいて覗き込んだ。 「何か飼ってるのか?」  腰をかがめ、水槽の中を執拗に覗いている。細く鋭い目の奥の黒い瞳が、容疑者を見るようにせわしなく動く。 「おい、オカダ、見た目、何もいないようだが、これは一体何だ?」 「そ、それは、カブトエビを飼うための水槽です」 「はぁ? カブトエビだ? 何だそれ」 「カ、カブトエビというのは・・・・・・そ、その」  また口篭った。カブトエビの説明をしたところで、オニズカが理解するとは思えなかった。 「い、今は何も飼ってません、先週死んでしまいましたから」  オニズカが急に興味を失って立ち上がる。 「カブトガニだか、カブトエビだか知らねぇが、気持ち悪い奴だな、飼ってないんだったら、水、さっさと捨てちまえよ」  水槽に手をかけた。ジロウが慌てて水槽の傍まで駆け寄った。 「オ、オニズカ先輩、す、すみません、それだけは勘弁して下さい」  しかし、オニズカはそのジロウの素早い動きを見て、細い目を開いた。 「お、何だよ、ただの水じゃねえのかよ、気持ち悪いから、捨てろ、捨てろ」 「嫌です」  とあくまで水槽の水を庇うジロウを面白がる。 「お前、本当は、水槽に何か隠してんじゃねえのか?」  ジロウの手を跳ね除け、水槽の水を全て流しにぶちまけた。ジロウは抵抗を諦め、溜息をついて、オニズカが水槽の底に残った砂利や水草を丹念に調べるのを見つめていた。オニズカの目つきは、疑いながら容疑者を見るそれであり、獲物を見る獣の目だった。 「クソッ、何もありゃしねぇ、勘が外れたな、それにしても、この水くっせえなぁ」  指を鼻に近づけて、眉間に皺を寄せた。ジロウは唇を噛んだ。 「まあ、いい、酒の用意しとけよ」  オニズカが部屋を出て行った。
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