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六
数日後の夕方、ショウが交番勤務を終え、一度署に戻り、着替えて帰宅途中、携帯電話が鳴った。ディスプレイに「李俊明」と表示される。以前と番号は変わっていなかったようだ。ショウは一呼吸置いて電話に出た。李は名乗らなかった。
「俺ニ何ノ用ダ?」
「もう一度、歌舞伎町のクラブ「F」と話をつけてくれないか?」
李はしばらく黙っていたが、ショウの声を思い出したようだった。
「嗚呼、アノ時ノ、悪イガ、アノ店ハ、モウ無イヨ」
「あの店が無くなったのか? いつ?」
「去年、阿修羅ト戦争ニナッタ」
ショウは警視庁の内部資料で見た、昨年の歌舞伎町、中国人殺害事件のことを思い出していた。世間的には殆んど注目されない、中国人同士の事件だった。
「確かちょうど一年前だったな、中国籍の男が歌舞伎町の路上で刃物で刺されて死んだ事件があったが、それが「F」の男だったのか? まさか左手人差し指の無い男じゃないだろうな?」
李は受話器の向こうで薄笑いを浮かべた。
「死ンダノハ店長ノ周トイウ男ダ、ソレガドウシタ?」
チューインガムを手渡しに来た、小太りの男を思い出した。
「あの男が殺されたのか」
息苦しさを感じた。
「店の奥にいた、左手人差し指の無い男を知らないか?」
李がフンと鼻を鳴らす。
「知ラナイネ」
世間では中国人同士の抗争を大きくニュースで取り上げることは無い。日本人の犠牲者が出れば話は別だが、マフィア同士、まして中国人同士の抗争に興味を抱く者は少ない。路上で中国人マフィアが殺害されたとしても、救急車のサイレンが今日も鳴っているくらいにしか思わない。ひっそりと処理され、また何も無かったかのような日常が繰り返されている。
「そうか、時間とらせて悪かったな」
ショウが通話を切ろうとした。
「ソノ男ハ今、池袋ニイル」
と李が呟いた。
「あの男を知っているのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「あの男の名前を教えてくれないか?」
「幾ラ出セル?」
「十万」
「名前ダケ教エテヤル、奴ノ名前ハ、陳建志。ソレ以上ハ、金ト引キ換エダ」
ショウは「陳」という名前の響きで、都内のATMで偽造カードを使った現金不正引き出し事件の容疑者の名前を思い出した。
「奴には、どこに行けば会える?」
「もう十万出セルカ?」
「ああ、勿論だ」
「池袋ニアル、「楓」トイウ店ダ」
「楓だと?」
「ソウ、中国人ノ女ガ経営シテイル」
「日本のヤクザが女にやらせている店か?」
李はそれを聞いて、また鼻で笑った。
「ノーノー、北陽会、手ガ出セナイ」
池袋は国内最大の広域指定暴力団「北陽会グループ」が取り仕切るシマである。その北陽会が手出しできないとはどういうことだろうか? 近年は池袋北口を中心に、チャイナタウン化し、中国マフィアの巣窟となりつつあると報告されているが。
「まあ、いい、俺をその楓とかいう店に案内してくれないか? 前の倍、出そう、四十万でどうだ?」
李は受話器の向こうで奇声を上げた。
「ワカッタヨォ、最初ノ情報料ト合ワセテ、六十万ニナルケドイイカ?」
「ああ、全くがめつい奴だな」
ショウが苦笑した。
「毎度マタ後デ連絡スル」
と流暢な日本語で答え、通話を切った。
数日して李から連絡があった。ショウの非番の日に合わせ、夜の八時に、池袋北口のロサ会館の中にあるバーで待ち合わせた。ショウがバーに入ると、フロアの隅にあるダーツで遊ぶ数人の若者がいるだけで、他に客の姿は無かった。若者はショウを一瞬見たが、すぐに、またダーツを投げ始めた。ダブダブのジーンズを「腰」で履いている。一見するとズボンのベルトが緩んで、尻が半分出るくらいまで垂れ下がり、股下が五十センチ程しか無いように見える。ニューヨークヤンキースのキャップを、つばを逆さにして被り、体の倍ほどもあるTシャツを着て、チェック柄のトランクスタイプのパンツが見えている。恐らくまだ十代後半のドロップアウトした若者だろう。ショウがカウンターの席についてビールを頼んでしばらくすると、微かに見覚えのある男が隣の席に座った。
「李俊明か?」
男が頷いた。
「金ハ持ッテキタカ?」
ショウが苦笑する。
「ああ、持って来た、だが、会ってすぐに金の話とはな。お前ら中国人はいつもそうなのか?」
李が静かに笑っている。ショウがハンドバッグから封筒に入った札を李の前のカウンターに滑らせた。
「とりあえず半分の三十万だ、後は店を無事に出られたら渡してやる」
李は苦笑しながらも、封筒の一万円札を覗くようにして数え始めた。ショウが歌舞伎町で待ち合わせた時と、時間が大きく異なる。
「こんな早い時間で大丈夫なのか?」
「心配ナイネ、警察モ、ヤクザモ来ナイ、早イ時間カラ盗品ノ売買ヤッテル、デモ、パーティーハヤラナイ、クスリノ売買ダケヤッテル」
「一般の客が入って来るだろう?」
「イイヤ、ビルノ中、全テ同胞ノ店、知ッテル者以外誰モ入ッテ来ナイ」
李は何度も札を数え直した。ショウは後ろの若者を気にしていた。先ほどからダーツの音がしない。
「おい、金を早くしまえ、周囲に気付かれるぞ」
「大丈夫、コノ辺ハ、我々中国系ノ天下ヨ、誰モ我々ニ喧嘩シカケテコナイ」
「池袋北口ってのは、今はそうなのか?」
「チャイナタウン、イズレ、デキル、ソウナレバ、誰モ手出シデキナクナル」
「でも、お前ら同胞同士のシマ争いがあるだろう?」
李は首を横に振った。
「池袋北口ノチャイナタウンハ、スデニ東北人ノモノダヨ、福建人モ、台湾人モ、皆、阿修羅ヲ恐レテ他ノシマニ移ッタヨ、東北人、今、最モ勢イアルネ、奴ラヲ大量ニ密航サセタ蛇頭ガ悔シガッテルヨ」
「蛇頭って、福建人のことか?」
「ソウ、福建人、初メ、貧シイ東北人利用シテ稼イダ、デモ、今ハ東北人、在日朝鮮人ト組ンデ、最モ稼イデル」
「それが阿修羅という連中か?」
「オ兄サン、詳シイネ、ソウヨ、東北人ノ住ム黒龍江省ハ、北朝鮮ニ近イ、交流モアル、密輸品、クスリノ売買モアル、日本ニ来テモ友達、在日朝鮮人、日本社会ニ深ク根付イテイル、他ノ中国人真似デキナイ」
ショウは李の目をジッと見つめた。この男の話を聞いていると、中国裏社会の様子がよくわかる。李自身がどのような立場なのかは知らないが、どこか一方に属している人間とは思えなかった。ただ、金のためなら、同胞の情報さえ売る卑しさはあるものの、自ら強盗をはたらくような男ではなさそうである。そして何故か、お調子者のような憎めなさがある。所轄の刑事には、個人的な付き合いとしての情報屋が一人や二人いると聞く。ショウは交番勤務の巡査だが、そんなこと構いやしない。ショウ独自の情報屋が必要だった。
「李、お前はどこの出身なんだ?」
李は一瞬眉をひそめた。どうやら他人の情報は金で売るくせに、自らの情報は売らないらしい。しかし、ここでいきなりショウが身分を明かしても、李はするりとかわして逃げてしまうだけだ。この男を味方につける何か良い方法は無いか、そんなことを考えている時だった。ショウと李の背後に数人の男の気配がして、ショウが振り向くと、先ほどまでダーツをして遊んでいた若者たちが立っていた。
「ねえ、オジサンたち、お金持ち?」
李の表情が青ざめていた。
「高そうな腕時計してるよね、俺たち金に困ってるんだよね」
ショウが苦笑した。
「だから何だ、お前らまだ未成年だろう? こんな酒場にたむろして、警察にでも見つかったら困るだろ、さっさと帰れ」
若者たちがニヤニヤしながら、互いに顔を見合わせている。
「俺たち、見ちゃったんだよね、そのオッサンに金渡すとこ、その金、俺たちにくれたら帰ってやってもいいよ」
李が茶封筒を必死に握りしめている。
「ダメだ、今、お前らに付き合ってる暇はない、さあ、行こう」
李を促して立ち上がり、バーテンダーに目配せした。
「お勘定」
若者たちがショウと李の前に立ち塞がった。
「ちょっと待てよ、オッサン、このまま帰れると思ってんのか?」
若者たちの中の一人が息巻いた。そして、ショウの襟に手をかけた瞬間、ショウは尻のポケットから手錠を出し、その男の手首に打ち込んだ。
「現行犯逮捕!」
その手錠を見た瞬間、連れの若者たちが一斉に走って逃走した。手錠をかけられた若者は青ざめていた。
「クソッ、マジかよ、ついてねぇ」
李は目を大きく見開いて、その場に立ち尽くしていたが、金を奪われなかった安堵感と共に、警察官である男から金を受け取ったことに気付いたようだ。
「金ハ全テ返スカラ、見逃シテクレヨ、今、捕マルト、本国ノ家族ガ・・・・・・」
金の入った封筒をショウに突き返した。ショウはククッと笑う。
「いつ、俺がお前を逮捕すると言った?」
李の顔に安堵の表情が浮かぶ。
「助カッタヨ、ダンナ、恩ニキル」
ショウは、またククッと笑い、うなだれた若者を一瞥してた。
「李、悪いが、今日はコイツを交番まで連れて行かねばならなくなった。楓に案内してもらうのはまた今度で構わないか?」
李は、その言葉の意味を理解したようだった。自分が警察官と付き合うことになるとは思ってもみなかったが、このタザキという若い警察官は、他の警察官とはどこか違う。
「李、心配するな、タダでとは言わない、いつも通り金は払ってやる」
李が頬を緩めた。
「ワカッタヨ、情報ガ必要ナ時ハ、電話シテ」
足早に店を出て行った。
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