22人が本棚に入れています
本棚に追加
七
ジロウの部屋の扉を叩く音がした。人を呼ぶというのではなく、物を乱暴に叩くような音である。
「いるんだろう? オカダ、開けろ!」
オニズカの声にジロウは一瞬吐き気を催した。昨夜は慣れない酒を飲まされ、気を失ってしまった。寮での不祥事が表に出るのを恐れてか救急車は呼ばず、風呂で冷たい水をかけられ、そのまま部屋に運び込まれた。自分でもどうやって部屋の鍵を開けたのか覚えていない。ただ頭の中で唯一自分の身を護る方法として、部屋の鍵をかけることだけは無意識に行ったのだ。洗面には昨夜の吐瀉物がまだ無残に残っていた。ジロウはそれを洗い流し、ふらつく足で部屋のドアを開けた。
「何だ、大丈夫そうじゃねぇか、俺はまた、本当に死んじまうんじゃねえかって、ヒヤヒヤしたぜ」
ジロウはその言葉を黙って聞いていた。学生の頃から体育会系のノリや先輩後輩の上下関係が苦手で、それを避けるようにしてジロウは生きてきた。しかし、尊敬する父と同じ警察官になるために、警察の試験を受けた時から、ジロウは避けては通れないものの存在を知った。警察は採用試験の時から、上下関係、規律、考え方、経歴を管理される。試験の合否に関わらず、受験生の家族、親戚、友人関係に至るまで徹底的に調べ上げられる。家族の住所、電話番号、学歴、職歴は当たり前、不明な箇所はその場で電話をかけ調べる。個人情報の保護など関係ない。違和感を覚えたが、憧れの父と同じ土俵に立ちたいという一心で、ここまで我慢してきたのである。採用されてすぐに入った警察学校は地獄だった。体力の無いジロウは毎日のようにどやしつけられ、上下関係と規律をこれでもかと叩き込まれた。上官の言うことは絶対だった。自信を失っていた時に声をかけてくれたのがタザキショウという男だった。彼はジロウよりも一回りも年上で、同期からも「ショウ先輩」と慕われていた。そんなショウ先輩が自分を気にかけてくれるとは夢にも思わなかった。上官に叱られた後には必ず声をかけてくれた。途中で挫折せずに卒業できたのはショウ先輩のおかげである。それに比べ、今、目の前に立つオニズカに対しては不信感でいっぱいだった。ジロウは正直、警察官の寮がこんな大酒飲みの体育会系合宿所みたいな場所だとは思ってもみなかった。信じられないほど毎日何らかのイベントがある。先週だって週初めに焼肉パーティーが敷地内で行われ、ジロウたちはその後片付けに深夜までかかった。朝から交番勤務をこなし、また夜は新しく着任した係長の歓迎会が署の近くの居酒屋であり参加を強制された。仮眠して夜勤。明けの非番の日に署内運動会の打ち合わせ兼、飲み会。ようやく一日休めると思いきや、急に上司から呼び出され、スポーツ大会のソフトボールチームのメンバーが足りないから来てくれとのこと。その後は夜まで飲み会があり、気付けばまた朝から交番勤務をしているような生活である。こんなのがずっと続くのかと思うと気が狂いそうだった。護ってくれる先輩も庇ってくれる同期もいない。話し相手すらいない。そんな時、ジロウは水槽の中の生物に話しかける。一時はオニズカに捨てられた水槽の水だったが、実はトリオップスの卵は水槽に敷き詰めた砂利に付着しており、全て流れ出たわけではなかった。卵は乾燥に強い。寧ろ一度乾燥状態に置かれなければ孵化しない。通常、水田の水は稲刈りの時期に干上がる。同時に生みつけられた卵も乾燥する。この自然のサイクルを経て、春先のせせらぎと共に新しい生命が誕生するのである。このトリオップスという生き物は約二億年前の古代ベルム紀から生息している。生きている化石などと呼ばれ必ずしも環境の変化に適応してきたわけではないが、乾燥に耐え次に孵化できる環境になるまで、じっと待つことができた。この環境の変化に耐えられる強さが、ここまで種を保存することができた理由である。ジロウは酒も付き合いも苦手で、警察寮の環境に今すぐ適応することはできないが、耐えることはできる。そう思うと、トリオップスを飼うことで心が癒されるのだった。
オニズカに水槽の水を捨てられてから数週間後、ジロウの水槽の中で、トリオップスが再び孵化した。トリオップスは生まれたばかりの頃は半透明だが、形はすでに出来上がっていて、カブトガニそっくりである。一本の長い尾が特徴的で、更に二本の尾に先が別れている。大きな頭部から触覚が伸び、胸部から鰓脚と呼ばれる繊毛のような脚が無数に生えている。カブトガニはどちらかと言うとクモ類に近いが、カブトエビは名前の通りエビに近い甲羅を持つ。頭部に大きな二つの目のような器官があるが、これはノープリウス眼と呼ばれ、頭の真ん中に小さく突き出た器官と併せて、三つ目で物を見ていると言われている。主に水田の雑草などを食べる。ジロウはオニズカに水槽の水を捨てられた後、残った砂利を一度乾燥させ、一部をジップロック付きのビニール袋に入れて保管しておいた。休眠卵と言って、こうしておけば何年でも保存しておくことができる。またいつオニズカに水槽ごとひっくり返されるかわからない。その時でも、保存した休眠卵を使えば、いつでもトリオップスを孵化させることができる。
今、ジロウの目の前の水槽の中で、十尾ほどのトリオップスが自由に泳ぎまわっている。ジロウは餌となる水草の他に、金魚の餌も併用し、トリオップスが餌を食べる様子を見て満足していた。世の中も、警察の中も、この水槽の中のように平和で、のどかだったらいいのに。ジロウは右に左に動きまわる古代生物をぼうっと見ていた。世話しなく鰓脚を動かしてはいるが、頭部の三つ目は、どことなく滑稽で愛らしかった。
最初のコメントを投稿しよう!