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「恐れ入った」
「なにが」
「なかなかいい目の付け所をしてる。まあ俺がそう思ったのは、俺もずっと同じことを思ってたからなんだけど」
わはは、と大きな笑い声をあげた笹木侑樹は大学のゼミ同期の男子だった。四年生に上がり、卒論のテーマが近いわたしたちは、よく二人で図書館に行き調べ物をしたり、終電ぎりぎりまでゼミ室にこもって卒論骨子を書いたりしていた。ほかのゼミ生は「とりあえず卒業させてくれれば構わない」というスタンスだったけれど、わたしも侑樹ももともと凝り性で、どうせ出すのならしっかりしたものを出そうと躍起になっていた。
壁に掛けられた時計は夜の十時を回ろうとしている。まだ残りますか、とゼミ室のドアをノックして訊いてきた警備員に「四年生になると夜が長くなるんすよ」と軽口をたたく侑樹の後頭部をわたしが軽く叩いたのは、ついさっきの出来事である。そんな雰囲気も手伝って、わたしは誰にも言うつもりのなかったこの「持論」を、ノートパソコンのキーボードを叩きながら彼に話してしまった。どうせあと数ヶ月で全員がばらばらの進路に向かうわけで、今更彼にどう思われようと構わないのだけど、ずっと心の奥底に仕舞い込んでいたものを他人に触れさせるのは、裸を見られることよりも恥ずかしい心地がした。
話を聴いている間、侑樹はずっと「おっ?」「おーん」「あーね」なんて生返事のようなリアクションばかりしていた。だから(これは絶対に引かれているやつだな……)と思いながらも(だったらいっそのこと、この男にだけは存分にドン引いてもらおう)と思うに至った。結局、話に夢中になってしまって後半はわたしもキーボードを打つ手が止まっていたけれど、今更数分手を止めたところで進捗に大きな影響は出ない。
それよりも、自分だけで抱えきれないこの気持ちを聴いてほしかった。とりあえずそっと手に取ってもらいたかった。もしも気に食わなかったら、帰り道でわたしと駅で別れた後、そのままゴミ箱に突っ込んでくれて構わないから。せめて、わたしが電車に乗り込んでから捨ててくれれば。そんな思いだった。
ところが、侑樹の口からは「唯さん、結構喋るんだなあ」とのんびりした声が聞こえてきた。そのあとに続いたのが「恐れ入った」だったけれど、何が、どう? 俺も同じことを思ってたから、って?
「なによ、それ」
「どれだけ他人に尽くしても、どいつもこいつもいざという時、自分を助けてくれなかった。だから他人に期待を抱かない生き方も当然選択肢として存在するけど、それじゃあまりに味気ない。なにより、自分を大勢の中の一人じゃなくて”工藤唯”という個人として認識してほしいけど、そんなこと甘っちょろすぎて誰にも言えないわ。……どう」
言えないわ、の部分をオーバーな演技で話されたのは少しばかり気に障ったが、話の中身自体は間違っていなかった。少なくとも右から左に受け流していたわけではないらしい。
「まあ、うん」
「いやあ、まったくもって唯さんの言う通りだな」
「だからどういう意味よ」
「人間の本質を突いてるんでない? もっとも経済学部の俺に心理学はわからんけど」
わたしだってそんなのわからないよ……と返したとき、唇が必要以上に尖ってしまったのは反省点だと思うことにした。この同級生にあざとさを発揮したところで、得はない。
そのはずなのだが。
ふ、と一息ついた彼は言った。
「あのさ、唯さん。承認欲求、って言葉があるじゃん」
「あるね」
「あれはメンヘラの専売特許じゃないよ」
「そこまで言ってないけど」
「違う。唯さんはそこまで、行ってないんだよ」
わからなくなってきた。彼はなぜ、この期に及んでしゃらくさい言い回しをするのだろう。
「言って、ではなくて、行って、って? どういうこと」
「辿り着いてないんだよ。たとえば”承認欲求”っていう言葉を聞いたとき、唯さんの頭の中にはどんな考えが浮かぶのさ」
「他人に認められたい、大事にされたいと思うこと」
「あとは?」
「他にあるの?」
「な、行ってないんだよ」
「だから」
ついに、ふざけてんの、と怒鳴ってしまいそうになったわたしを、侑樹が手をすっと上げて制した。
「承認欲求って気持ちは、自分が他人に認められたい、と思うことだけを指してるわけじゃないんだよ。自分で自分を認めたい、自分にも生きる価値があると思いたい……ってことも含まれている」
「自分で自分を認めたい?」
「そう。そして俺が思うに、その気持ちがあることによって、人は他の欲求を満たそうとしたり、願いを叶えようと思うことの動機づけになっているんだよ。人間を人間たらしめている根っこにあるのが、俺たちが日ごろ内心で”ピーピーうっせえわ”と思ってる、あの感情なんだよ」
確かに、面倒だし卑しいと思っているからこそ、わたしはそれが丸ごと表面に出てきてしまっている今の自分が、とても嫌で仕方ない。
しかし、侑樹が言っていることが正しければ「ああだこうだカッコつけたこと言ってるけど、お前だって人間だろ。だからそれでいいよ」という意味になるわけだ。
本当かよ。
こいつ、わたしのことをどうにかしようとして、適当なこと言ってるわけじゃないよね。
何も声に出して表さないまま、無意識に彼の表情をのぞき込んでいた。目が合った瞬間、頭が動いてわずかに逸らされる視線。代わりに頬のほくろにピントが合った。
なるほど、わたしと同じことをずっと考えていた……という彼も、また。
人間臭い。
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