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 水位はずっと上昇し続けて来た。人々はその事実を、呼吸が難しくなってからようやく受け入れた。現在、水面に顔を撫ぜられながら、人々は互いを浮きにし合ってその月の命を獲得している。子宮圏から出たばかりの若者達の足枷になっているのは、効力を失った後も膨らまされた愛である。  生活の知恵とは、悪意を善意に言い換えることで自分以外の闘争心を踏み消すことである。 「それでは赤杖さん、最後に聞いておきたいことはありますか?」  応募から第一、第二面接を経て、若者の脳に深く絡みついた網を手繰るありふれた悪人は、既に手応えを感じている。 「ちょっと変な質問かも知れないですけど」  確実に穏やかな捕食をされてゆく若者はすり鉢状の募集の中で逡巡しつつ会社の入り口に落ちてゆく。 「何でも大丈夫ですよ」 「社保って保障されるものでしょうか?」 「ええ。当然、健康保険、国民年金、雇用保険、全て完備されてますよ」 「よかったです。すいません、当たり前ですよね」 「いえいえ」 「え、っていうことは、前の会社って社保なかったんですか?」 「はい。まあ知り合いの会社で、小さいところだったっていうのもあって」 「それは酷いですね」 「毎日終電で帰って、土日は現場で、それで残業代とか休日手当とか出ないという感じでした」 「いや~、それはそれは、大変でしたね」 「あんな労働はもう二度と味わいたくないですよ。あ、別に牽制球投げてるわけじゃないですよ?当然御社は大丈夫でしょうから」 若者の疑いの目には、まだ癒え切っていない心の霜焼けをなぞる、相手の唇から覗く刃物の煌めきが映っているが、この疑心は寧ろ若者自身の消化を滑らかにしている。 「今考えると馬鹿でした。週四日で月40万なんて話されてたんですけど、普通は信じるわけないんですけど、なんで信じちゃったのか、世間を知らないって怖いですね」 「赤杖さん、社会人を二十年近くやっている経験から断言します。よく『騙される方が悪い』なんて言い方しますが、それは間違いです。騙す方が悪いんです。被害者が自分を責めちゃいけません。絶対に」 「そうですよね」 「騙す方が悪いんです。当たり前のことです。騙す方が悪いんです。赤杖さんがご自身を責める必要は全くありませんよ」 「有難う御座います。何か救われたというか、何というか、有難う御座います」  若者は早くも外気に痛みを感じる程に薄い皮膚に直接経験を重ねて厚くしてくれる仕事仲間をようやく探し当てたつもりでいる。若者がそのような居場所を求めているのは、他者を諦めて心に覆った面の皮の上に年輪を重ねていった結果、内側で肥大化した出来損ないがいつの日か孤独に耐え切れずにその醜悪な姿を人前に晒してしまうのを恐れているからである。 「うちは常識的なことはしっかりと守りますから。普通にね」  眼前に現れた数字を自分の通帳に加えようと目論むありふれた悪人は、若者がようやく見つけた春の振りをして両手を広げる。 「因みになんですけど」 「ええ」 「貴社のお休みって週二日ですよね?すいません、一応確認しておきたくなって」  若者は未熟さによるものだと偽ったかつての痛みが全て前回の捕食者による攻撃だったことを思い出し、再び階段の一つ一つを大きくして慎重に成長しようとするものの、マニュアル化された幻術によって階段の壁面を歩いて下っている自覚はない。  「全然大丈夫ですよ。求人票通りに週休二日制です」  ありふれた悪人は通過の自覚を持たせない程に大きく開けておいた最初の扉が、若者によって開けられたのだと、若者の手の届かない過去を指差す。 「え、あ、そうか」  追い風だと錯覚している勢いに乗っていた若者の眼前に、壁と思しきものが立ちはだかる。 「どうしました?」 「完全週休二日制じゃないんですね」 その日の為に練られた若者の外面が痩せて、かつての洗礼によって初めて自覚された餓鬼が浮き出て来る。しかしありふれた悪人が過去に出会った数々の敵が既に全員経験として味方になっている為に好人物は揺るがず、若者が背で覚える勢いの感触には、更に「若さ」や「運命」の響きが加わる。 「その点はご安心ください。求人票に記載されていたと思いますが、年間休日が定められていまして、それが116日になっています。これは計算すると、平均して週に二日、そ して一般的に仕事が休みになる祝日も休日にしないと達成できない数字になっていますので」 「成程」 「更に、うちは初年度の有給休暇を10日間設けています」 「それならよかったです。有難う御座います」 若者は高い段を踏み越えたつもりでいる。しかし実際は大きな階段一つ分地下に急落している。 「いやこれが当たり前ですから」  ありふれた悪人は成功を数えずに、社会人の証明書になって久しい慢性的な緊張感を少しも緩めない。そして微笑みによって若者が追い風だと誤認している自分の引力を更に大きくする。 「ですよね。自分ちょっと基準がズレてるのかも知れません」  エピソードが笑いにされなかったことは、若者をありふれた悪人の過去に存在させ、若者の将来像をありふれた悪人に似せる。若者は自尊心の谷から復帰した平地でありふれた悪人の背中を見るが、引き籠っていた時期よりも水面は近い。 「赤杖さん、辛い質問になってしまうでしょうけど」 「はい」 ありふれた悪人は同情を装って若者の殻を食べやすいように外してゆく。 「前の会社の上司の人って、『お前は社員なんだから』とか言って過重労働を強いて来ませんでした?」 「そうですね」 「ですよね、で、赤杖さんが何かミスをすると、それを理由に更に仕事を増やして来ませんでした?」 「はい。やっぱり多いパターンなんですか?」 「ブラック企業の典型的なパターンですね。フェアじゃない仕事量、仕事内容をフェアにする為に社員を貶めるんですよ。そして社員を鬱病等の精神疾患にして辞めさせて、社員が労基署に駆け込んだり、弁護士に相談したりする体力を奪っておくんです」 「成程」 若者は子供の舌特有の苦みが毒によるものだった真実を真実らしく伝えられ、ありふれた悪人と並んで底に向かって唾を吐く。若者は耐性ができていることに安堵しているので、薬剤師が処方する、アナフィラキシーショックを引き起こす為の知識を受け入れてゆく。 「世の中悪い人間が多過ぎます」 「そうですよね、前の上司とは普通に冗談を言い合ったりしてたんですけど、やっぱり悪人だったんですよね」 「今の社会って道徳を使って若者を騙そうとする大人が多過ぎるんですね」  上に硬直した食材を乗せるベルトコンベアは、疲労に脳を支配されないように慎重に言葉を選びながら若者を胃袋の底まで運ぶ。 「道徳、ですか」 「道徳って、元々は儒教の、目上の者が目下の者を助け、目下の者は目上の者を尊敬するっていう考え方で、日本に伝わってから今に至るまで一応続いているんですけど、徐々に守らない大人が増えて来たんですよね、ほら、今、時代の長寿になっている金持ちとかって大体ドライな考え方の人が多いと思いませんか?」 「ええ。思い浮かぶ人はいますね」 「不況とか、外国からの影響とか、理由は色々あると思いますが、とにかく道徳は確実に失われていったんですよね、そして道徳心を持っていない大人達の目の前に、教育を受けてまだ道徳心を失っていない子供達が現れたんです。そうなると、これを利用しない手はないと大人達は思う訳です。大人達は赤杖さんがされたような道徳を使った詭弁によって、自分は部下を守らないのにもかかわらず、部下には自分を尊敬し、言うことを聞く様に強要するのです」 「確かに、そう言われると前の会社の上司は『人としてちゃんとしろ』って言うことが多かったですね、当時は何故か納得してしまいましたけど」 「そういう人達は巧妙な罠を張って待っているものです。それは社会に出たばかりの若者を騙すのには十分な程のものです」  沢山の餌を踏み台にしているとはいえ、ありふれた悪人の足も際限なく湧き出る消化液で濡れている。 「あの人達には相手の痛みが分からないんでしょうか?」 「皆自分の生活を守るのに精一杯なんです。彼等彼女等に共通しているのは、良心の呵責を乗り越えることで一端の人間になれると思っている節があることですね。とにかく、可哀想なことに、今の若者は安心して努力できなくなっています。周囲の大人達が自分に自分の能力以上の業務を指示しようとしていないかを警戒しているから、能力の限界に挑戦できないんです。『若い内の苦労は買ってでもしろ』なんていう言葉は、もう若者達にとって自分に過重労働を強いる為の詭弁にしか聞こえなくなっています」  ありふれた悪人は、あえて本音に接することで吐きなれた物語に体温を持たせる。そのお陰で、若者は背後で鳴る咀嚼音に気が付かない。 「それは僕もちょっと思ってますね。やっぱり大人になるってことは、狡賢くなるってことなんでしょうね」 「いや、それはよくない考え方です。悪意に侵されています」  ありふれた悪人の作為的な瞳の輝きが若者には辿るべき朝日に見える。      「私はそれによる連鎖は断ち切らなくてはならないと思います。それが大人達の責任だと感じています。正しい道徳を後世に伝えてゆく為に、私は私自身に部下を守り育てることを課しています」 「具体的にどうされるのですか?」  アレルギーになった耳馴染の良い台詞に、若者は自分を操縦できるのは自分自身だけであることを思い出す。 「そうですね・・・」  ありふれた悪人は完成された答えをあえてその場で組み立て直す。そして若者はその手の皮の厚みを見逃す。 「すいません、難しい質問ですよね。でも自分の今後の為にも知っておかなくてならないと思ったもので」 「結局、私が誠意を持って赤杖さんに接することしかないと思います。合法的な規定に則り、仕事を通じて赤杖さんを育てることでしょうね」  胃袋の中を通う鋭い風は若者に僅かな生々しさによって自らその正体が息であることを現し、若者に温かみを誤認させる。 「分かりました。僕も頑張ります」 社会の思惑通り、外気を構成するものが人間の息だと錯覚した若者は、自分を生き長らえさせて来た街の一部になる為に熱い呼吸をする。 「赤杖さん、面接の段階で言うことじゃないとは思いますが、今の内にはっきりと申し上げておきます。誠意を現す為に」 「はい、何でしょう?」  本人に察知されないまま会社の出口に建設された断頭台の上でも、機能の一部になっている為にありふれた悪人の掌は乾いたままである。 「赤杖さんと一緒に働くとなったら、私は所長として赤杖さんの上司になります。そして正直厳しいことも言うと思います」 「ええ」 「でもそれは決して赤杖さんを貶めようとする為のものではなくて、赤杖さんのことをよく観察して、弱点を理解したからだと思ってください。勿論その際に良い面についても言及しますが、悪い部分についてもはっきりと指摘します。当然赤杖さんは嫌な気持ちになるでしょうが、逃げずに素直に聞いていただきたいと思います」 「かしこまりました」  若者は、もう首から上の重さを手放していいのだと喜んでいる。 「約束していただけますか?」  ありふれた悪人は、翻った蜂の一刺しを防ぐ為に、本人の手を借りて逃げ道への分岐点を過去にする。 「はい。覚悟します」 「有難う御座います。宜しくお願いします」 「こちらこそ、若輩者ですが、宜しくお願い致します」 「初めは厳しいでしょう。初めての仕事ですし、今の時期は非常に忙しくなっています。しかし指示はしっかりと聞いて、共に成長していきましょう」  社会の仕組みに言い換えたありふれた悪人の非を、それまでの行程が悪人自身にも丁寧に隠しているが、社会の仕組みはありふれた悪人と同義なので、あながち嘘ではない。 「はい。正直人間不信になっている部分があったので、今感動というか、ほっとしています」  若者はマジックミラーの前に誘導されているとは知らずに、若者自身の未来だと解釈させられた相手に好意を向ける。 「私も赤杖さんに出会えてよかったです」  一方的に作られた透明の壁は、家畜への共感を防ぐ為のものである。 「所長、と呼ぶのはちょっと早いですかね?」 「いや、ここだけの話ですけど」 「はい」 「出しますよ、内定。上に強く推薦しておきます。だからもう所長で大丈夫です」 「有難う御座います」 「赤杖さんなら、他の会社さんからも貰えると思いますが、是非うちをご検討いただければ幸いです」 「所長、ここだけの話ですけど」 「はい」 「もう決めてますよ」 「そうですか、本当に嬉しいです。一緒に頑張りましょう」 「はい」  一度横道に逸れた人生が正道に戻って来たと改めて克己する若者は未だに本人の思う横道の只中にいるのだが、若者の思う正道は街のどこにも通っておらず、人類社会の生命線は確信から逸れ続けることで辛うじて存在することができている。そこを行く他人の群れの多さを行く動機にしているありふれた悪人の通帳に刻まれる約束の数字は、その月も虚無感が産む油断の波から守られ、愛する妻と娘の寿命にあっけなく食われる。
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