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不思議に思いながらテーブルに道具を置き、封を開ける。中にはポストカードと手のひらくらいの大きさで少し厚みのある四角いものが入っていた。よく見ればそこには「桜」と書いてあり、どうやら桜の香りのついたティーバッグのようだった。優衣は、俺が水とコーヒーと酒以外の飲み物は口にしない人間だと知っているはずなのに。
今度はポストカードを手に取る。満開の桜と黄色い菜の花のコントラストが美しい写真の裏側には、見慣れた繊細な文字が短く綴られていた。
桜が咲きました。紅茶なんて淹れたことないだろうから書いておきます。
ティーバッグを底の深いマグカップに入れる。
沸騰仕立てのお湯を注ぐ。
フタをして二分蒸らす。
意図は分からなかったが、なんとなく言うことを聞いてみようと思った。ティーバッグの入ったマグカップに熱湯を入れる。フタなんてないからラップをして、スマホのタイマーで二分を計る。
タイマーが鳴ってラップと取ると、桜の香りが弾けた。桜の香りなんてよく知らないはずなのに、それが桜であると何故か認識できてしまう、不思議な香り。それはあの桜並木を脳裏に浮かばせた。青にピンク、オレンジ、黄緑。あるはずのない色まで見えたような気がした、あの春の日。部屋に充満した春は、時の流れを緩めた。
引き寄せられるようにマグに口づける。流れ込んできた液体は、ただの紅茶だった。甘やかな香りがするのに、甘くない。でも口内の残り香は甘いような気もする。鼻と口の間で齟齬が起きていて、脳が混乱しているのが分かる。
全く、俺は何をしてるんだろうか。自嘲気味にひとつ息を吐いてから、今朝スルーしたメッセージを開く。
お疲れさま。
たぶん今日あたり届くと思うんだけど、感情に任せておかしなもの送っちゃったから、お知らせ。
新入社員の子の指導とか全然向いてなくて落ち込んでた時に、ちょうどあの桜並木を通ったら満開でね。元気出たんだ。どうにかそれを共有したなっちゃって。
そっちは、調子どうかな。「目に見えるものを描いたんじゃ芸術じゃない!」とか騒いでた人が突然風景画はじめるなんて言い出したときのこと、今でもちょっと笑えちゃう。
いろいろと大変だと思うけどちゃんと休んでね。
本当に、俺は何をしていたんだ。誰にも生み出せない、俺だけの世界を表現したくて始めた絵は、いつの間にかこの上なく壮大なトワイライト・ビーチに飲み込まれてしまっていたらしい。
昨日と今日の分のスケッチを眺めると、どれもただ美しいだけの海が閉じ込められていた。今晩は海辺を散歩でもして考えてみよう。この海が、俺にとってどんなものなのか。
マグカップから立ちのぼる湯気は、窓から差し込む夕日でピンクに染まっていた。
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