アプロディティア

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第一章  ペロポネソス半島の南岸に、アプロディーテを祀る神殿がある。女神の聖地たるキュプロス島を遥かに望む岬に、灯台の如き高さを持って建立されていた。 正面の扉から入ると、内部の壁に沿った螺旋階段が真っ直ぐに上へと延びてゆく。途中に扉なども無く、ただこの通路のみである。神殿を訪れる者には、上を目指す以外に目的など有り得ないからだ。 塔を登り切ると、天頂部に外へ通じる扉が待っている。ここも迷う事なく押し開けて進む。途端に潮風が全身を満たし、波の音と海鳥の泣き声が耳に入ってくるのだった。 歳の頃は未だ少女と言えるばかり。真っ白くて小さな顔に、大きめの瞳が常に潤みを帯びて輝いている様な乙女だった。 乙女は暫し大きな瞳を閉じて瞑想する。その間、長い金色の髪は風に舞って、青い空を遊び続ける。ゆっくりと瞳を開き、真っ直ぐに先を見つめる。決意を示さんとばかりに一歩を踏み出すのだ。 傍らには乙女を見守る衛士が、護衛の任に就いている。大勢連れるのを嫌う乙女は、一番頼れる一人だけを選出していた。 平素であれば、如何なる敵にも及び腰などにはならぬ、屈強かつ使命に熱い男である。だが、この一歩目を踏み出す時、この時ばかりは生きた心地がせず、息を吞んでしまう。 この先の祠が最終的な目的地であるのだけれど、そこに辿り着く為には一本の道しかない。人が二人、肩を並べるのがせいぜいな幅の床面が、大人の男で20歩程の距離で通じている。壁は無く腰の高さに満たない手摺のみ。まるで宙空を進むが如し。下に目を向ければ、大海原が絨毯の様に敷き詰められている。海から伸びる数本の柱のみが、一定間隔を以って奇跡的なバランスでこの一本道を支えていた。正しく空中回廊と言えるこの道の存在が、神殿の神秘性を保っているのだと思い知らされる。 「じゃあザッハトルク、いつも通りここで待っていてね」 思い遣りから、乙女は明るく言ってくれる。衛士は引きつった表情を必死で隠そうと試みる。 「申し訳ございません姫君、自分が乗って崩れでもしたら一大事ですので」 「その通りよ。ザッハは重い鎧を着ているもの」 言い訳がましい言葉にも、やはり思い遣りを感じさせる明るい笑い声で応えるのだった。 空中回廊は乙女の歩幅では30歩近くかかる。その間、常に眼下では波が岩を打ち、風を吹き上げるのだ。途中で恐れおののき、立ち止まったり引き返したとしても、責められる者は決していない。 だが、信心を強く持つ者に恐怖心など皆無だ。その事を、まだあどけない華奢な身体の乙女は体現して見せる。一切の躊躇を持たぬ歩みで、目的地へと辿り着く。そこは青い空へとせり出した、岬の先の更に切っ先の端。 まるで空中に浮かぶが如き祠こそが、この神殿の本当の聖域なのだった。 祠の入り口は、重そうな岩扉で閉じられているのだが、見た目とは異なり軽い力でスーッと開く。 この時、乙女は女神に招かれていると感じ入るのであった。 (ありがとうございます。)感謝の言葉を心に抱く後ろで、岩扉は元の様に静かに閉じた。 そして訪れる歓喜の瞬間。目の前には、青い空と青い海が永遠の景色を以って広がっている。祠の反対側は岩壁が大きく口を開けていて、所謂オーシャンビューとなっていた。 何度訪れようとも、胸の高まりを抑えられはしない。身体の隅々までもが厳かな気持ちで満たされ、自然と跪き祈りを捧げる。 祠は、凸凹の無い真っ平な白い床で覆われ、四隅の同じく白い柱が天井たる岩壁を支えている。そこには、世俗な人間達が想像する様な豪奢な祭壇も女神像も存在しない。勿論、肉眼で捉える事は叶わないけれども、女神の生誕地であるキュプロスへと遠く想いを馳せる・・・それこそが、真なる祈りだった。 (父王も兄弟達も、さぞかし立派な祭壇があるのだろうとか言ってるけど・・・) 「教えてあげないわ。ここに辿り着いた者だけの特権だもの」 気遣いに長けた大人びた少女が、年頃に相応しい悪戯っぽい笑顔を見せる瞬間だった。 祈りを終えると掃除をするのが日課だった。神殿には巫女が仕えていた筈だが、いつの頃からか無人になっていたからだ。清潔な布で床や柱を拭くのだが、不思議な程に汚れは出ない。それでも一応はやるのが信心と言うものだ。 祠から踏み出て、例えるならばバルコニー部分の手摺を拭きながらぐるりと半周する。 この時常に対岸が視界に入ってくる。海原を越えた先は断崖絶壁となっていて、波が強く打ち水飛沫を飛ばしていた。ふと手を休めて、視線を上にすると崖の上には緑が広がっている。青い空と緑と、それもやはり美しい光景だった。 だがしかし、乙女の瞳は何かを求めて動いている。そして目当ての物を見つけて、更に大きく見開かれるのだった。 木々の陰から、野花がちらほらと咲く緑の大地へと、一頭の白馬が躍り出た。 探していたと言うのに、何故かドキリとして柱の後ろに身を隠してしまう。 (馬鹿ね。向こうから見返してくる訳がないのに・・・) 白馬は流れる様な脚さばきを見せる。危険な崖だと言うのに、恐れも知らずに際まで駆けまた踵を返す。真っ白い肢体を躍動させる姿は確かに優美だが・・・勿論、彼女が見惚れているのは馬ではない。当たり前に人が乗っている。赤茶けた髪をなびかせ、笑い声を青空に響かせる。快活な少年は、自分と同じ位の年頃だろうかと想像する。 神殿に訪れる日取りは暦で定期的に決めて、時間はいつも正午前にしていた。同日、同時刻に、対岸では少年が白馬に乗って現れる。そんな偶然が、たまたま何度か重なっているだけの事だ。 (だから別に、望んで眺めているわけではないの) そう言い訳をする心は、鼓動がバクバクと高鳴って、柱の陰から一歩も動けずにいた。 少年は一体何をしに来ているのだろうか?どうやら乗馬の訓練と兼ねて、危険な遊びを楽しんでいるみたいだ。無鉄砲さは少年の特権だ。見守る側の気持ちなど想いもよらないのだろうと、半ば呆れさせられる。 (本当にハラハラするわ)乙女はその胸の鼓動を、彼が落馬しやしないかと心配してる故だと決めつけた。 だが次の瞬間、不慮の事態が起きた。 崖の下から一羽の鳩が不意に飛び立ったのだ。鳩は白馬の足元をすり抜けて、青い空へと翼をはためかす。 たまらないのは乗り手の方だった。突然の出来事に意表を突かれ、手綱捌きを誤ってしまった。白馬の脚がもつれて、バランスが崩れたその場所は、崖の先端の部分だった。ただの落馬では済まない。そのまま崖下の海へと直行してしまい、乗り手も馬も運命を共にするより他にないだろう。 思わず柱の陰から飛び出していた。彼等の姿が視界から消えた・・・一体どうなったのか、心臓がはち切れそうだった。 僅かな時間の後、白い肢体が起き上がった。馬は倒れ込みはしたが、転落は逃れていた。そして乗り手の少年もまた、快活に立ち上がり馬の首にじゃれついた。 『今のはさすがに焦ったな』なんて言葉が聞こえてきそうだ。 その時再び鳩が舞った。少年の頭すれすれを飛行して、崖の先へと翼を広げる。『忌々しい奴め』と思ったか、彼は鳩の姿を目で追いかけた。その瞳は青い海と、そして対岸の神殿へと向けられた。 (こっちを向いたわ!) そう思った時、乙女は反射的に手を高く挙げ大きく振っていた。 『怪我はない?大丈夫なの?』そうゆう想いが、自然と身体を動かしたものだった。 対岸の少年は、鳩が飛び去った先に乙女がいて、自分に向けて手を振っているのだと素早く見て取った。両腕を天高く振り上げ、大きく大きく振り回して返事をした。潮風に乗って、快活な笑い声も聞こえてくる。 乙女は『彼が無事』だと安堵し、同時に『心配して』手を振った気持ちを理解していないと感付く。恐らくはただ無邪気に手を振り返してきた。初対面の女の子との出会いに喜び勇んでいるように。 (これではまるで・・・私からアプローチしたみたいじゃないの!) 急に恥ずかしくなって、そそくさと柱の陰に戻った。そっと覗いて見ると、未だに手を振り続けている。 「もう!そんなんじゃないんだから・・・」 赤らめた顔は、でも少し微笑んでいて・・・誰かに見られたら『いい事があった』とばれてしまうだろう。 頬の紅潮を抑える必要があったし、心臓の音もきっと周りの人に聞こえてしまう程大きかった。だからいつもよりも、随分と遅くまで祠に留まる事となってしまった。 深く深く深呼吸してから岩扉を開くと、明らかに心配顔の衛士が、何とか覗き込めないものかと奮闘していた。軽く会釈して謝意を顕す。胸の鼓動が治まったのを確認してから、帰り道の空中回廊を戻り始めた。 優しい潮風が吹く位では、支柱が傾く恐れも僅かに揺れる事も無い。何も不安になる必要はないのだ。 だがそれは、巨大な轟音が大地を揺るがさなければの話だった。 今この時、参事が起こった。海中深くの大地も同様に激しく揺れ、巻き上がった波は空中回廊にまで届く勢いを持った。支柱は全て振り子の如く左右に振れ、天板たる床面は下手をすれば横倒しになる程に揺れた。道の半ば過ぎまで進んでいた乙女は、床面を滑りほんの慰め程度の手摺にすがりつくより仕方が無かった。 衛士は瞬時に殺気づく。轟音の正体が何者であるか、それは一つしか考えられない。 (だとすれば、自分が姫君を護らなければ!何とかこちら側へ戻ってきて欲しいものだが) しかし出来る事と言えば、必死に腕を伸ばす事だけだ。慌てて乗ってしまえば、先程の言葉通り崩してしまい兼ねない。焦る衛士はしかし気付いていなかった。轟音は一度きりで連鎖する物では無かったと言う事を。 彼の予想が的中していたならば、こんな物では済まない。空中回廊どころか、神殿そのものをも崩壊させかねなかった筈だ。 乙女は逆に、危機的状況にありながら冷静に理解していた。揺れが落ち着くのを待って、衛士に微笑みかける。 「ごめんなさい。正午になってしまっていたわね」 「はっそうか!」衛士も姫君の言葉で状況を把握し、全身を纏った警戒心を解いた。早とちりで騒いだ事を、彼自身が一番恥じ入ったのだが、それも頷ける状況というものがある。 遥か美しい海を臨むその反対側、広大な大地を埋め尽くす景色には凄惨さを覚えずにはいられない。草一本生えない平野を挟んで、二つの陣営が対面している。互いの国が、可能な限りの戦力を敷いていた。 所狭しと巨大な投石機と大砲が並び、いつでも発射可能な様に岩石と弾が山積みになっている。巨体を持つ馬が鎖に繋がれ、その先に無骨な戦車が控える。更に前方では重装歩兵が隊列を成していた。盾を大地に根付かせ、天空に槍の刃を向ける彼等こそが互いの境界線を示す指標だ。常時、闘志を滾らせ続けなければならない。もう幾日を、兵士達はこんな緊張状態を耐え忍んだのだろうか。 本当に、今すぐにでも開戦となる危険があった。神殿であっても渦中に巻き込まれるのは必定である。 乙女は悲しかった。まだ幼い顔には、憂いを帯びた表情が痛々しい。 (どうしてこんな戦争を続けなければいけないのだろう?) 隣国との争いは乙女が物心ついた頃にはもう始まっていた。それが未だに収束に向かわないでいる。 アプロディーテは愛と美の女神であると同時に豊穣を司る女神でもある。神殿に通い続ける理由がそこにあった。「どうか・・・」祈りを捧げる言葉は常に胸の内にある。 「互いの国が豊かでありますように。諍いなど必要なく、人々が暮らして行けますように」 だがその祈りは、虚しく中空に消えていってしまう。乙女の息を苦しくさせる恐怖の影が、やはりこの戦場にあった。 通常の兵器よりもずっと後方、陣営のテント程近くに一際重々しい鋼鉄の塊が控えている。天高くその長筒をそびえ立たせる大大砲だ。10メートルを超える先から煙を立ち昇らせている。 『正午に火を放つ』それは時報では無い。隣国に対し我が国の勢力を誇示し、降服を促す脅しである。 そんな取り決めもまた、乙女にとって胸を締め付ける物でしかない。父王や兄弟へと『恐ろしい行いを止めて欲しい』と訴える事は、娘の身ではおこがましいと理解していた。 諦めの様な溜息。そしてもう一つ、重く圧し掛かる事実がある。 (・・・向こう岸は、敵国の領域だわ)
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