アプロディティア

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第十章 こうして見つめ合っていると、以前に『君の瞳が好きだ』と言ってくれたのを思い返す。 (あれはあれで、とてもロマンチックで嬉しかったけれど・・・けれどもう、満足ではないの。ただの恋人同士なだけなんて堪えられない。私達はもっと多くを求め、手に入れなければならないわ) その第一歩目として、乙女は宝剣を差し出した。銀色を傍らに置き、金色の剣を掲げかしづくのだった。 「さあ、貴方が黄金の剣の後継者となって。この国の王である証なの」 「君の国の伝統に則れと言うのだね。君もまた、そのルールには服従するの?」 「勿論よ。私は銀の剣を継承して、貴方の従者・・・いいえ、僕になるわ。既に貴方の為に剣を振るったしね」 そう語る時、乙女はうっとりと浸っている表情を浮かべた。床の銀色が更に鈍い光を増していた。 「ありがとう。君の気持ちに応えるよ」 案外素直に応じて、爽やかに微笑むものだから、乙女も嬉しくなってしまう。安心して彼を信じられた。 乙女は恭しく、献上の儀を模して黄金の剣を自らの頭上高くに両手で差し上げる。瞳を閉じ、心静かに想いが実る瞬間を待っていた。 ゆっくりとだが、懐かしい彼の体温が近づく。慣れ親しんだ温もりに包まれた・・・少年は剣を手にする前に、乙女を抱きしめたのだった。それはほんの刹那の事、乙女がびっくりして瞳を開いた時には、既に身体を離していた。 結果、目にしたのは少年の後ろ姿だった。彼女の元から駆け出した先に、未だ腰を抜かしたままの衛士がいる。 左手に少年は剣を握っていた。乙女の差し出す黄金の剣では無く、床に置かれた銀の剣を受け取っていたのだ。血が滴る切っ先を、少年は衛士の鼻先へと突き出す。そして真っ直ぐな瞳を向けて言い放った。 「これを見ろ!これはお前達の王の血だ!!私だ!この私、ユークリウスがお前達の王を殺したぞ!!」 暫し衛士は茫然としたが、相手の瞳の裏にある真意を読み解いた。熱意を呼び覚まし、雄叫びに似た声を発する。 「おおおー!!俺はお前の言葉を・・・信じるぞ!!ユークリウス!!」 ザッハトルクは少年に手を出す事なく、踵を返した。回廊をひた走りに走って、本館へと飛び入る。先ずは二人の皇子其々の寝所へ、続いて幹部達へと王殺害犯の名を言い触らして回る事に終始した。 マカローンは父の死に直面して嘆き悲しむばかりで、命令を下せない。タルトンは至急対策を練るべきだと思い付きはするが、騒ぎの中声が通らない。 結局のところ指揮系統が働かないので、犯人への追手は随分と後手に回るであろう。そうザッハトルクは予想して行動した。捕える気はさらさら無く、逆に少年の男気に感謝をしている程だった。 回廊を駆け、勢いをつけてジャンプをし窓に届いた。身を翻し庭に向けて飛び出す。 最後に少年は乙女へと振り返った。遠目に見る彼女は純真で麗しいあの時のままだ・・・愛しさを噛み締めた。 ただぼんやりと、乙女は立ち去る少年を見送った。何か不思議な感覚だけが、頭に靄を掛けている様だった。 その手に残された黄金の剣を、興味が無くなったおもちゃの如く打ち捨てた。何だか凄く軽い音を立てて転がった。少しづつ靄が晴れて、利発な頭を取り戻してゆく。妙に彼の後姿が脳裏に焼き付いていた。 (違和感を受けるわ。何かが変だ。何か・・・) 次第次第にはっきりする。彼は銀の剣を持って行った。剣はどこ?いや、そんなのはどうでも良い事だ。 (私にとって看過できない問題があるわ。それは何?・・・そうよ、彼は剣を左手に持っていた。利き腕は右の筈なのに・・・) 庭へ躍り出る時、ちらりと見えた。その時には左手は空で、右手に輝く何かをしっかりと握っていた。 あんなに大事そうにしなければならない物が、この世界にあるのだろうか? (それに彼は私の身体を抱きしめたわ。あれは何?愛撫とは感じられなかった・・・他に目的があったのかしら?) すっかり癖になっていて、胸元へ手を這わせた。『首飾り』の手触りと音色を感じたかった。 それが叶わないと知った。指は虚しく首元で空振るだけだ。この瞬間、乙女は全身から血の気が引く感覚を思い知った。 (あーあーあー・・・こうゆう事ね。手癖の悪いコソ泥根性が染みついたわね!『首飾り』が惜しくなったってこと!?) もはや指先に触れる物は消えた。けれど身体がそれを理解しない。認める事が出来ない!いつまでもそれを求めて胸から首を探しまわる。指先が爪を立て、肌に黒い痕をつけ、遂には赤い血を滲ませるまで。 「アー!アー!!アァーッ!!アァアーッ!!」 それは痛みからとも苦しみからとも判別出来ない、喘ぐような呻き声だ。乙女は唯一人で、喪失の悲しみに捕らわれ続けた。 静寂なる夜の平野を、駛馬は疾走する。天空からは星々が姿を消した。月すら厚い雲に阻まれて存在を顕せはしない。 空に輝くは、明けの明星金星の輝き唯一点。その一筋の光がスポットライトの如く、この悲恋物語の主人公たる少年を照らし出した。 目指す神殿は、なにせ激戦区の片隅である。大砲の流れ弾を散々に受け、見るも無残な姿と化していた。 『これが女神のお望みか?』と疑問を抱かずにはいられない。だが、さもありなん・・・所詮『彼女』にとっては、ただの人造物でしかないのだ。 神殿の袂で馬から降りたが、愛馬の足音は彼を追い続ける。少年は歩みを止め、その首元を抱き締めた。 「バーン心配かけて済まない。大丈夫だ、きっとうまくいくよ」 これまでの感謝と愛情を熱い抱擁に込めると、愛馬も応える様に鼻先を摺り寄せた。それは強い勇気をくれる儀式だった。 いつ崩れるとも知れぬ神殿へと、少年は踏み入って行く。壁の大穴をくぐり、間の抜けた階段を飛び上がり天頂に至った。激しく息を切らす少年の前に、最後の難関が立ちはだかる。祠への空中回廊もまた、戦禍の難を免れてはいなかったのである。構成する床面は何か所も砕け、合間から黒い海が見える。頼りなくふらつく支柱の上に、天板は僅かしか残っていない。 それでも躊躇している場合ではない。手前の床面へと体重を乗せると、途端にグラグラとした揺れが起こる。揺れのタイミングに合わせて、先の床面を目指しジャンプした。一歩間違えば、真っ暗な崖下へとダイブするしかない。そうで無くても、飛び移った先の支柱が崩れれば一貫の終わりだ。注意深く、同時に大胆さが必要なミッションだった。 15歩程は進んだだろうか、いよいよ祠が目前に迫った。ゴールが見えたが故に、焦って踏み出した先に急激なる亀裂が走った。 絶対絶命を迎える一瞬前に、闇を裂く叫び声が響いて少年は寸でで思い留まる事が出来た。 「だめよ!崩れるわ!!」 支柱の一本が横倒しとなり激しい水飛沫をあげる。水飛沫の向こう側に、細いしなやかな人影が立っていた。 「嘘だ。バーンより駛い馬なんている筈がない」少年はその眼を疑うより他に無かった。 屋敷からここまで、ましてや崩壊寸前の神殿の天頂へと、乙女一人で辿り着けるとはとても信じられなかった。 その謎を解き明かすが如く、突然乙女の背後の闇から・・・何百という鳩の群れが天空目指して飛び去った。少年は思わず驚愕の声を漏らす。 「そんなバカな・・・あれは作り話だ・・・」 こんな奇跡が起こるとすれば、それはやはり女神の力が働いているとしか説明がつかない。 「やはり、どうあっても許しは得られないのか・・・」少年の声は失意に萎んでゆく。 「ううん!そんな事はないわ!もう一人で苦しまないで!!」 悲痛な涙声は、かつての愛くるしい乙女を彷彿とさせた。少年の心に温かい希望の芽が顔を出す。 「貴方は一人じゃない、私がいるわ!一緒に女神様に祈りましょう!誠意を籠めて二人で祈れば、きっとお許し頂けるわ!」 「(そうか!首飾りの戒めから解き放たれたのか!)ルミフィーユ!君なのか?本当の君なのか!?」 「ええ!貴方を愛している、たった一人の私だわ!」 一旦崩れ始めたら、連鎖は留まりを知らない。少年の乗る天板も然りで、端からどんどん失われる。 「いつまでもそんな所にいては危ないわ。さあ、私の元へ帰ってきて!」 少年は頷き、慎重に足場を探る。バランスを取る為に両手を横に伸ばした。その右腕に、煌びやかな輝きを見止める。 「ああ、今すぐにでも愛しい貴方を感じたい。その腕に抱きしめられたいの!」 希望が少年の胸を搔き立てた。一歩また一歩と、懐かしい恋人へと向かっている。 「だから早く戻ってきて・・・『首飾り』を持って!!」 灯火だった温かさは一吹きで消え去った。はっきりと乙女は自らの欲望を顕わにしたのだ。 そして少年は見るのだった。乙女の潤んだ瞳、かつては夜の星々を映した美しい輝き・・・それはもう失われた。代わりに、じっと見つめる『首飾り』の妖しい光に埋め尽くされてしまった。恐らくは、自分の顔を映す余地も無いのだろうと悟った。 憤りと哀しみに任せて、少年は右腕を振り被った。渾身の力でもって、忌まわしい『首飾り』を夜の闇へと放り投げた。 ・・・つもりだったのに。その手は『首飾り』を手放してはいなかった。むしろ、しっかりと腕に絡め、握り締めていた。自分の身体が思う通りに動かせないと知った時、少年は絶望的な事実に打ちひしがれる。 「そうか・・・僕ももう、既に『ハルモニアの首飾り』の虜となっていたのだな」 最後の支柱にひびが入り、足場が崩れる。だがそれより先に、少年は自らの意志で身を投じると決めていた。 「ならば僕が一身に受けよう。その代わりに、どうか、どうかルミフィーユだけはお許し下さい」 切なる願いに命を捧げる。少年の最後の決断は、美しく涙を誘うものであったろう・・・それなのに。 『そうはいかないわぁ』 突然流れた声は、いつかの祠で聞いた声と同一であったと思う。だが今回は、荘厳さの全くない甘ったるい喋り方だった。 『もう少し愉しませて~』 はっとすると真っ白い細い手が迫っていた。堕ちゆく少年を、一蓮托生の『首飾り』を追い求めて、乙女は飛び降りていた。 「ルミフィーユ・・・こうなってはもう・・・」 少年は腕を広げて乙女を迎える。 (救う事は叶わない・・・全てを諦め、せめて抱き合いながら死に行こう) 儚い心中によるラストが、女神の『お好み』だったのだろうか?これで満足して頂けるのだろうか? 唐突に、少年は乙女の身体を突き飛ばした。堕ち行く姿勢なのに、全身のバネを弾けさせて僅かでも遠くへと。 それはきっと、乙女が少年の大切な『首飾り』に手をかけたからだ。ならばこそ、人並外れた力を発揮出来たと言うものだ。この蛮行を、しかし、冷静さとそして何より優しさを取り戻したユークリウスは肯定する。 何故ならば、反動でルミフイーユの身体が、陸地へ向けて飛んで行ったからである。 「バーン!!頼むー!!」 通じ合った親友の如き駛馬は、既に少年の心を察していた。岬を疾走して、天空へと跳躍する。その背は計算通りに乙女の落下地点を捉えた。膝を利用して衝撃を逃がした上で、巧みに乙女の身体を背中に収めた。 だが、如何に駛馬の脚が優れていようとも、空中で向きを変える事は出来ない。このままではどの道、海へ飛び込んでしまう。 普通ならば絶望する事態を、数々の不思議を目の当りにしてきた少年は打ち破れると信じた。 『首飾り』持つ者が、女神に代わって力を行使出来るのであれば、今は自分の手にある。 (ルミフィーユを救ってくれ!) 祈りに呼応して、夜空に飛び立った鳩が舞い戻って来た。白馬へと群がり、巨大な翼の形を成して背に繋がった。駛馬は天馬と化し、大きくゆったりと羽ばたき、海上を旋回する。 空中に留まり、天馬は静かに少年と向かい合う。その瞳が何かを訴えている。 「いや、いいんだ」自らの指に、食い込む程に握り締めた『首飾り』があった。 「僕が戻れば、『首飾り』もまた戻ってしまう。誰かがこれを女神に返さなければ・・・ちょっと泳いでキュプロスまで行ってくるよ」 無鉄砲で子供っぽい、ユークリウスらしい言葉を親友に残した。 少年の瞳が最後に見つめるのは、気を失っているルミフィーユの顔だった。閉じた瞳から大粒の涙が止めどなく流れ落ちる。 (それもまた、星の海のようだ) 溢れる想いを胸に海へと誘われる。不思議と苦しくはない、温かく包まれる様な心地だった。 失われてゆく意識の中で、幻聴だろうか?女神からのお褒めの言葉を聞いた。 翌朝を迎え、乙女は神殿を遥かに望む対岸の草原で目を覚ました。傍らには白い馬が草を食んでいる。 ずっと夢を見ている心地だった。神殿から堕ちた時、白馬に羽が生え空を飛んでここまで運んでくれた。 (それはユークリウスの想い。彼は自分の身を犠牲にして、私を救ってくれた) 数日は悲しみに暮れた。されど賢明なる姫君は、救われた命には成すべき事があると目覚める。 先ずは国を平定させる事。なにせ父王は誰か知らないが敵に討たれた・・・と、誰もが記憶していた。乙女自身すらも。 この国には剣の習わしがあり、誰もが周知している。当事者である二人の皇子も勿論で、父の死以来ずっと気になっていた。ルミフィーユはマカローンとタルトンを、兄弟3人だけで献上の儀を執り行う為に呼び寄せた。 「何かごめんなさい。成り行き上、私がお父様の代行を務めるみたいになってしまって」 兄と弟は互いにけん制し合い、戦々恐々としていたのだが、長女の出した結論は何より争いを生まぬ事を大事としていた。 黄金の剣を手に取り、渾身の力を込めて床に打ち付け始めた。皇子達はどうしたものかと困惑したが。必死に何度も繰り返す姿を見ている内に、その真意が伝わってきた。比較的力の強い兄が、乙女の細い腕を気遣う。 「貸してみろ。こうしたいのだろう?」 マカローンの決断に、タルトンも同意の意思を示す。ガンと大きな音が響き、遂に黄金の剣は真っ二つに折れた。 折れた其々を二人に授ける。これが乙女の考え抜いた末の献上の儀であった。 (申し訳ございませんお父様、大切な剣を。でもきっと、分かっていただけますね) 「二人にはそれぞれに欠点があるわ。でもだからこそ手に手を取るの。そうすれば国を治め、繁栄させる事が出来るわ」 自分の想いを兄弟達はしっかりと理解してくれた。不安もあっただけに嬉しかった。 「もう一つお願いがあるわ。二人の王の最初の仕事として、隣国と和平を結んで」 「ああ、賛成だ。あまりにも犠牲者を出し過ぎた。幹部達からも悲観的な意見が湧き上がっている」 「戦争を終わりにするのが、一番利益を生むことさ。まあ最初から分かっていたけどね」 2つ目の申し出も受け入れられた。となれば、乙女にはどうしても隣国を訪ねたい理由がある。 若き皇子を失った隣国の王には、深く哀悼の意を表した。国の再興の為、出来る限りの援助を約束した。その上で、自分と息子さんの関係を打ち明ける。お父様としては思いがけず、悲しみの中に微かな光明を見出す事が出来た。 「ありがとう。あれを想ってくれて」 『使命を果たすまで涙を見せない』そう乙女は決意していた。だからこの時が、少年を失って以来初めて泣いた瞬間だった。 隣国の復興の取り掛かりとして、山向こうの豊かな国との国交を開く為に尽力した。相手の王女は気が良く、次第に良い関係を築いた・・・最初はちょっとしたわだかまりがあったのだけれども。 「君がユークリウスの恋人だったんだ。そうか、お似合いだね・・・私はほんと、何にも無いからね」 「はい、信じます」心からそう返事をさせる正直さを感じた。 「それにしても惜しい男を失くした。あいつはまあ、なかなかにいい男だったな」 レクエアは言ってくれた。乙女も素直にその言葉を喜んだ。 一連の出来事はすべからく順調に進んだ。それはそれは不思議な程で、なんらかの女神による便宜が働いているとしか思えない。 そして何より不思議な事には、誰一人として『首飾り』の記憶を持っていない。山中の巫女はもう絶対に語りはしない。 こうなると、本当に『ハルモニアの首飾り』が彼らの元に実在したのか疑わしいものだ。 数年の後、アプロディーテ神殿は再建された。 ルミフィーユは再びお祈りに通い始める。もう安全なのに衛士ザッハトルクが着いて行くとしつこい。 「ザッハ、貴方ももうすぐ『お爺ちゃん』になるのだから、これからは家族を第一にして」 そう言い切って屋敷に置いてきた。お供には仲良しの白馬だけで十分だった。 元々祠のあった場所は崩れてしまったが、新しい神殿の天頂部に展望台を設け、以前と同様に祈りを捧げた。 遥かに青い海を臨むと、心の隅々までが清く澄んで行く。 乙女は時折、一頭のイルカを見かけるようになった。多分いつも同じイルカだとは思う。 白い波に乗って飛ぶように泳ぐ姿は、白馬で対岸を駆ける快活な少年と重なって見えた。自由で楽しそうに、もう何の苦しみもないとはしゃいでいる。眺めていると涙が浮かぶ程に嬉しくなるのだ。 そんな時いつも、背びれを跳ね上げて。まるで大きく腕を振り回しているかの様だった。 微笑んで手を振り返す。幸せな想い出だけを胸に浮かべて。
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