アプロディティア

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第二章 さて、対岸で腕を振り続けた少年はどうしたか?大大砲が放たれるより、少し前の時間まで対岸にいた。 落馬した時の腰の痛みは、一瞬にして吹き飛んでしまった。代わりに胸が躍って抑えられない。興奮し過ぎて居ても立ってもいられない。今にも身体が跳ね跳んで、どこかに行ってしまいそうだ。 迷惑千万を掛けられたのは可哀想な白馬で、飛びつかれてタテガミをクシャクシャにされる。男の子が美しい少女に心ときめかす。そんな時、相談相手に選ぶのはやはり『親友』だけだ。 「見たか!手を振ってくれたぞ!なあ、どう思う?どう思う?」 白馬は優し気な瞳を向け、親友の気持ちを察する。そして同意するかの如く首を下げるのだった。こうなると少年の気持ちは、留まる所を知らず天まで昇って行く。 「『脈あり』だって、お前もそう思うだろう!?」 この発言から、少年の方も乙女を以前から意識していた事が知れる。 今はもう初夏と言える頃合いなのだが、少年は冬から春へと変わる季節にあちらこちらへと走り回っていた。と言うのも、幼い時分より共に育った仔馬が立派な駛馬に成長したので、国中を走破してやろうと思っていたからである。この崖に行き着いた事は、その最中の全くの偶然であった。 海原の先に神殿があるのは、幼い頃から知っていた。戦地の只中なので、陸から近づく事は許されていなかった。対岸から改めて眺めてみると、随分と高くて立派な建物だと思った。 「アプロディーテの神殿なんだってさ。どうゆう女神様かは良く知らないけどね」 白馬にそんな不信神を打ち明け、遠目が利くのを利用して物珍しく観察してみる。特に興味が湧いたのは、天辺から伸びる例の空中回廊だった。神殿からどこへ繋がっているのだろうか?更に崖の際まで歩を進めて、初めて祠の存在に気が付いた。小さな隠れ家みたいで面白かった。内部までは流石に見通せず地団駄を踏んでいると、バルコニーに乙女が出て来た。 「あっ人がいる!あの道を渡って来てるのかな?」 最初の感想は、随分と勇気のある少女だなと言うものだった。次にかいがいしく掃除する姿に好感を抱くに至った。そして最後には、素朴な身なりながらどこか気品を感じさせる横顔にすっかり魅入られた。 度々訪れる内に、どうやら乙女が現れる日付と時間を掴んだ。当然それに合わせて、自分のスケジュールも調節したのである。 つまり二人は偶然と必然の狭間で、互いに互いを遠くから見つめて、各々胸を高ぶらせていたのだった。 今日は、そんな均衡が僅かに崩れた。これから進展があるかも知れない、そう思い描くだけで興奮してしまう。 「今にして思えば、あの鳩のおかげだったな。何らかの神の御使いだったのかも知れない」 さして信心も無い癖に都合良く考えるのも、無邪気な少年の特権と言える。 されど、いつまでも余韻に浸ってはいられない。興奮したが故に、余計に腹が減ってきた。 「もう昼だな。今日の所は帰ろう、バーン」 名前を呼ばれると、白馬は行儀よく少年を背に迎える。そしてその後は見事な駛馬と化すのだった。 しばらくは木々の中を走り、抜けてからは緑の平野が続く。次第に自然と別れを告げ、人の住まう土地へと入って行った。 駛馬の行く先に高い城壁が見えて来た。戦時下にある国は、すっぽりと覆い隠されていた。人々の家も畑や果樹園すら、この城壁の中にある。王城のみならず、国民の生活の全てを守るのが役割だ。 正面の門は余程の時しか開かれないので、脇に廻って荷馬車なんかと一緒に入城するのが常だ。門兵には若者も多く、気の知れた仲になっていた。駛馬共々、まるで自由に行き来出来ている。 城へと続くなだらかな道を、のんびりと進む。道沿いに広がる人々の生活を眺めるのが、楽しみの一つだった。 まず畑が広がり、農耕に励む人々が忙しくしていた。人が良く、乗馬する姿を見つけては手を振ってくれる。少年もまた手を振り返し、懸命に働く人々に親しみと敬意を覚えるのだった。続く果樹園からは果物の甘い香りがする。『今年も豊作だ』と喜ばしい報告が聞けた。その先には城下町が広がり、活気の良い声が飛び交っている。大人も子供も、幸せに暮らす国の有様が肌で感じられた。 王城と町の間には、一応塀が築かれている。とは言え、門は全開で乗馬したまま楽々と侵入出来てしまう。ふと見ると、一人のおじさんが門の前まで出てきて人々を微笑ましく眺めていた。その表情を見ていると、自分と同じ気持ちでいると感じて、少年は嬉しく思うのだった。 「国が栄えてさえいれば、争いなんかは必要無くなる。そうは思わないか?ユークリウス」 驚いた事におじさんの想いは、どこかの国の姫君の祈りと同じ。相争う国なれど、人の想うところは一緒だ。 「そうですね父上。しかし共も連れずに出歩くのは控えた方が良いのでは?」 「こんなナリの男を誰が王と思うものか」 確かに薄汚れた布の服に、王冠も付けていない。ただのおじさんと言ってしまったのも無理はないだろう。 正午を迎えたのはこのタイミングだった。轟音の後、大地にドーンと打ち付ける鋼鉄の弾が落ちた衝撃が伝わる。 大大砲は空に向かって打ち上げ、敵陣地の荒涼とした大地へと弾を落とす。 火薬は投じていないので、弾は破裂せずに地面にゴロゴロと転がる。それがどんどん溜まっていっていた。 振動が響くばかりで、破壊される訳でも、人が傷つけられる訳でも無い。それでも、おじさんは腰を抜かしてしまった。息子のユークリウスが肩を貸さねば歩けなかった。 「ええい!忌々しいバカ大砲が!!」 父親の憤慨は全く正当と思えた。事実、大砲を放つ目的は悪意に満ちている。 この最強兵器にかかれば、城壁なぞ役に立たない。いつでも攻撃出来るのだと豪語する真意を持つ。 脅迫の対象は国王だけでは無い。城壁内に暮らす人々全てに、開戦の兆候を示しているのだ。農作業の手は止まり、果樹園では果物が落ちてしまう。町の活気は火が消えた様に静まりかえる。あちらこちらから、子供の泣き声が、人々の嘆きの声が湧き上がる。 如何に脅しだと分かっていても、破壊の恐怖は直ぐ近くに存在するのだと心に刻み付けられる。一見幸せそうに暮らす人々も実のところは、いつ始まるか知れない戦争の膠着状態に、身体も心も疲れ切っているのが実情だ。 (その上更に脅えをもたらすとは!) 少年の心の内で沸々とした怒りが、憎むべき大大砲へと向けられてゆく。 一方の王国、その王たる者は威光に満ちた老人であった。 若き日は戦場に身を置く事を誉れとし、年老いてなお、鋭い眼光を失わぬ強者である。その厳しい顔付きから笑顔を見る事は叶わぬが、唯一愛娘へ向ける時だけは、僅かに表情が柔らかくなる。王に使える者は皆、息子達には見せぬ愛情が姫君には注がれていると感じ取っていた。 「ルミフィーユを呼べ」と言えば、決まり事として従者達は退出する。二人きりにしなければ、首が飛ぶかも知れないのだ。 神殿から戻って直ぐの呼出しであったが、乙女は疲れ一つ見せない顔で父王の寝所へと赴いた。如何に強者であろうとも、やはり年波には抗えない。最近はめっきりベット横での謁見となっていた。 「少しばかり弱気になっているのかも知れんが・・・」 従者達が聞けば飛び上がって驚く話ぶりだが、娘のルミフィーユにだけは見せる顔がそこにあるのだろう。 「はい、どうなさいましたか?」 乙女はあくまで真摯に父王の言葉を受け止める。 「お前は『黄金の剣・銀の剣』の伝承を知っておるな?」 それは、幼い頃から度々聞かされてきた物語の様な決まり事。何故か少し怖いニュアンスを持っていると記憶にあった。 深く頷いた後、父王の枕元に隣接した壁へ視線を移す。遥か見上げる高さには、我が国の紋章旗が掲げられている。その下、と言っても乙女の背丈では届かぬ位置に、二振りの剣が恭しく飾られていた。 一つは刃から剣柄に至るまでが、眩い輝きを放つ金箔で覆われ、更に宝石による装飾が施された長振りの剣。もう一振りは、長さも僅かに短く全体に装飾の無い、しかし研ぎ澄まされた刃の鋭さで輝く銀の剣だった。 王は横になってはいたが、剣を見上げる時いつにも増して鋭い視線となる。 「当家はテーバイ王家の血筋を引く由緒ある家柄だ。だが家督相続の度に、血で血を洗う争いが繰り返された。これを憂いた先祖が定めたのが『黄金の剣・銀の剣』の鉄則なのだ」 「二人の者が並び立った時、先の王から『黄金の剣』を与えられた者が新たな王となり、『銀の剣』の者は終生これに仕える」 父が僅かに話疲れてきたと見て取り、後半は乙女が変わって言葉を繋いだ。聡明さと優しさを併せ持つ、これこそが王の頑なさをも解かす乙女の魅力だった。 満足気に頷き、王はいよいよ本題へと入る。それは信頼を寄せる愛娘にしか明かせない話であった。 「明け方にふと目を覚ますと、身体は自由に動かず、ただ不穏な気配だけが渦巻いておった。ポツリと額に水滴が滴り落ちた。ぬるりとした感覚が、その正体を物語っていた。驚き見上げると『銀の剣』の刃が真っ赤に染まっていた。 額を濡らしたのは、刃から流れ出た血なのだ。わしは力づくで身体を起こし、全てが夢であったと知る事が出来たのだが。 ・・・これは何かの凶兆ではないのか?」 さしもの父王にも動揺が見られる。気持ちを察して、乙女は努めて穏やかな口調を選んだ。 「確かに、明け方の夢は正夢となる・・・とは言います。でもそれは、神からの御啓示と捉える事も出来ます。後継者選びを慎重にする様にと、注意を促しておいでです。それは神が、我が国を気に留めて下さっている証です」 ベットの上の老人は、ふーっと長い息を吐く。やはり話してみて正解だと感じていた。 「意見を聞かせてくれないか?わしの二人の息子・・・どちらが『黄金の剣』に相応しいと思うか?」 「そうですね~」この質問には、正直冷や汗が流れた。何と答えて良いのか困ってしまう。 ルミフィーユは2番目の子供にあたり、上と下にそれぞれ男兄弟がいた。別に嫌っているのでも仲が悪いのでも無いが、なにせ乙女は嘘がつけない性分なものだから、言葉を選ぶのに苦労する。 「お兄様は人望はあると思います。大きな声ではっきりと意見をおっしゃる方だから・・・ただ、意見を言うのは結構だけど・・・あんまり考え無しだったりするから、ちょっと困った事になったりしますね。 その点、弟は考えはあるみたいですね。考えてはいるみたい・・・でも、ぼそぼそ言うのが聞こえないから・・・」 どう言っても結局はディスってしまう。乙女は恥じ入って口をつぐむより無かった。その気持ちを誰よりも理解出来るのは父王であった。息子達の問題点は重々承知の上での質問だった。 「つまる所一長一短があり、決め兼ねるという事だな。わしの命ある内に決めねばな」 父王が弱気となる真なる理由はそこにあった。自らの死期を察し、後継ぎへの不安が募る一方なのだった。息子達は剣の定めには従うとして、やはり愚なる者が『黄金の剣』を握れば国は落ちぶれてしまうであろう。 「長生きせねばな。隣国とも決着を着けねばならぬし」 余程の弱気が募っての事か、娘相手に戦争の話を口にした。乙女としては、耳を疑う出来事だった。 「その事なのですがっ」 今なら聞いて貰えるかも知れない!乙女は思い切った。 「一旦、戦争をお止めになっては如何でしょうか?隣国は資源が底を着いていると聞きます。またあの大きな大砲の投入により、軍備面においても大きなアドバンテージを持っていると言えるでしょう。客観的に見て、我が国は間違いなく優位です。話し合いを申し出れば、きっと良い条件で和平を結べるはず・・・」 それはやはり出過ぎた真似であった。言葉を言い切れない内に、鋭い視線に諭された。 「・・・申し訳ございません。娘の分際で」 落ち込み涙を浮かべる愛娘に、父王は深い愛情を感じる。ベットから手を差出し、俯く頭に置いた。 「言う通りだ。だがな、お前ははっきりと意見が出来る。しっかりと裏打ちされた考えも持っている・・・息子だったならば悩まずに済むと、口惜しく思う時がある」 思い遣りに溢れた言葉に耐え切れず、乙女は涙を流した。父のベットにすがりついて、声を上げて泣いた。
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