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第五章
何日経っても、やるせない気持ちを持て余すばかりだった。
駛馬を乗り回し、陽が暮れるまで闇雲に走る。さすがの駛馬も疲れを見せ、呆れていると脚の運びで伝わってくる。迷惑掛けて申し訳ない気持ちはあるが、他に気を紛らわす方法が思い当たらない。
城に戻ると、何やら騒がしくしていた。聞くと、客人が訪れ広間で宴を催しているらしい。成程、見慣れない顔と装束の者が城内を往来している。やたらに逞しい肉体を露出した格好の、粗野な雰囲気の男達だ。
そして広間の上座には、褐色の肌に黒いショートヘアーの女性が立膝をついている。仲間の男達同様の装束で、手脚だけでなく胸元や腹部も露わにして、がぶがぶと酒を煽っているのだった。眉をしかめずにはいられない。乙女らしい嗜みも恥辱心も持ち合わせていないのかと呆れてしまう。
(これだから山向こうの国とは、相容れる気になれない)
憤然とする気持ちを抑え、上座へと挨拶に出向く。父は既に酔いが回り、すっかり上機嫌となっていた。
「レクエア様、主役が戻りました。息子のユークリウスです」
「おお、君がそうか。まあ末永く宜しくな」
なんだこの会話?どうやら少年の不在の内に、結構重要な段階まで話が進んでしまっているらしい。
言い返そうとするが、これだけの喧騒では話にならないのは明らか。しばらく様子を伺い、なんとか王女を連れ出す事に成功した。
いつの間にか祝いの宴と化していた為、兵士や使用人にも酒が振る舞われた。あちこちで小規模な宴会が始まっているのだ。回廊も庭も落ち着いて話が出来る場では無い。止む無く少年は、自らの寝所へと王女を招き入れる事とした。
「出会ったばかりだというのに、いきなりか。君は見た目以上に大胆なのだな」
そんな物言いをされる覚えはない。憤慨しそうになったが、もう一度だけ堪える事にした。
「とにかく落ち着いて話し合いをさせて下さい」
レクエアは何を躊躇う事も無く、少年のベットに腰を下ろした。褐色の長い脚をすらーっと伸ばして、リラックスモードに入るつもりだ。
「それで?何の話をしようというのだ?」
「あなたの真意です!あなたの国は鉱物資源も豊かだし、港も抑えている。我が国と交流を持つメリットがあるとは思えない」
真っ直ぐで熱い少年の姿勢に、多少面倒そうな仕草を見せはする。それでもレクエアは、誠意を以って答えるべきだと思い至る。水差しを手に取り口をつけた。酒にはめっぽう強い様で、あれだけ飲んでいたにも関わらず、簡単に酔いから覚醒した。
「無論、目論見はある」
夜は深まりを見せ、酒宴の喧騒も収まりつつある。反対に少年の寝所での対談は、新たな展開を見せようとしていた。
「君達が戦場としている平野の片隅に、アプロディーテの神殿があるだろう?そこに仕えていた巫女が、戦禍を嫌って我が国に流れてきた。
私は退屈していてな、何か面白い話がないかと持ち掛けた。そして聞いたんだ、あの神殿に・・・女神の『贈り物』が奉納されているとな」
「話が見えないな。神殿と国交がどう関わりを持つというのか?」
「だからさ、君達に勝ってもらって神殿を領地とする。『贈り物』を戦利品として摂取出来るだろう?」
「やはり分からない。だったら隣国に持ち掛ける方が手っ取り早いのでは?」
「安々とくれてやる奴がどこにいる?弱い方に恩を着せて、せしめてやろうという腹だよ」
カチンとくる言い回しではあるが、裏を返せば嘘偽りなく話しているのだと考えられる。
「・・・婚儀は?どうゆうつもりで言い出した事なのか?」
「神殿の奉納品だからな、それなりの御膳立てが必要だ。新しい妃への婚礼の祝いであれば、誰もが納得するというものだろ?」
「そんな物の為に!あなたは自分の身を捧げようと言うのか!?」
つい感情的になって叫んでしまった。現在進行形で苦しむ少年は、『愛』は至上でどんな宝物にも替え難い筈と信じていた。
だが、人によって価値観は変わるのだ。レクエアは少年の激情を全く意に介さなかった。
「美を司る女神が、『贈り物』と自ら称した品だぞ。そこには女神の権威が掛かっている。人々も神も、誰一人としてケチを付けられる者があってはならないのだ」
『贈り物』について語り始めた時、レクエアの様子は明らかに変わった。頬が紅潮し瞳が熱を帯び、息遣いが荒くなる。
「この話を聞いて以来、私は寝ても覚めてもその事ばかりだ。装身具となれば、どうあっても身に着けたい。身に着けた姿を鏡に映したい」
彼女の両の手が、露わな太腿の外側を擦り始めた。せわしなく上下に、指の痕が残る程に強く。
「君も想像してみろ!女神の神秘が生み出した造形品が、人の手の届く所に存在するのだ!この身に触れるのだ!」
次第次第に、太腿に痕を残す行為は外側から内側へと移行してゆく。内腿に挟んだ手が、更に激しく早く蠢く。
「どんな材質なのか見当もつかない。金や銀が及びもつかない輝きを発するに違いない!肌触りは?重さは?」
膝を固く閉じた姿勢で、つま先まで小刻みに震わせる。両の脚の付け根に手を深く潜らせ、指を蠢くままにしている。
「細工はどうだ?デザインは?人の英知などでは及びもつかない、至高の美がそこにあるのではないのか!?妄想する『贈り物』は・・・いや、きっとこんな物ではない!私に出来るのはただ思い描くだけ!思うだけ、思うだけで私は!私は!」
激しい息遣いと甘い匂い。指先を濡らす水滴を飛び散らせて、レクエアはベットに倒れ込む。夢見るような虚ろな瞳で、全身を痙攣させていた。
『人のベットで何してるんだ?この人は!』
そんな発言に至るゆとりは無い。少年はレクエアの異常な行動を目の当りにして恐れを成した。
(これは常識がないとか、淫乱だとかいうレベルを遥かに超えている。何かに憑依されているとしか考えられない!)
咄嗟に、気を失いかけた女性を心配して抱き抱える。少年の取った行動は至極真っ当だ・・・だが、僅かばかり軽率であった。
薄っすらとレクエアは瞳を開いた。熱く潤んだままの瞳は、未だ正気に返っていない証である。
「ああ、抱いてくれるのかい?」
ニュンフの如き色気を醸し出す女性に魅入られ、すっかり隙だらけになった。
気が付いた時には、レクエアの顔が目の前から消えていた。彼女の黒髪は、もっとずっと身体の下の方に宛がわれていた。
既に身体のある部分を彼女に掴まれていた。こうなると身体が硬直してしまう・・・一部だけでなく、全身がという意味である。
「男女の営みなど、一時的な快楽でしかない。けれど、唯一の慰みとなって・・・」
語尾が聞き取れなかった。話してる途中に、何かを口の中に入れたらしい。
それは清楚な恋人からは得られなかった行為で、少年はすっかりこの感覚の虜となってしまった。恍惚に身を委ねる彼の身体は、容易くベットに押し倒される。脚を上げ、レクエアが彼を跨いで上に乗ってきた。彼女の衣服はほとんどはだけている。窓からの薄明かりに照らされ、その褐色の肢体は妖しい魅力を放っていた。
少年の理性は死んでしまったのだろうか?だとすれば、最早彼女の好きに任せ、黙って従うだけだ。何をしようとしているのかは明らかだ。レクエアは腰を上げ、少年の最も熱い部分を、彼女の湿った部分へと誘おうとしている。
その一部始終を、少年はすっかり虚ろとなった瞳で見届け様としていた。空っぽの心で、快楽だけに溺れる骸に落ちんとしていた。
駛馬のいななきが響いたのはその時だ。少年の理性は完全には死んでいない、瞬時に正気を取り戻した。レクエアの脚の間から身体をすり抜け、跳ね飛んで起き上がる。素早く衣服を手にし、裸のまま窓から外へ降り立つ。
走りながら服を着終えると、計ったかの様に駛馬が現れた。
「聞こえたぞ!見たんだな!?バーン!!」
親友は返事の代わりに背を示す。行く先は、愛する人が待つ祠でしか有り得ない。
姫君はタルトン皇子と話して以来、屋敷から外出をしない。日課の神殿参りさえ、すっかりご無沙汰している。
侍女達に何をしているのかと聞いたところ、年長者の教えを乞い、熱心に織物をされていると言う。確か織物は苦手で、それとなく避けてきた習い事の筈だ。何らかの気持ちの切り替えがあったのやも知れない。失恋のショックを乗り越え、前向きに花嫁修業に打ち込んでいるのだとすれば喜ばしい限りだ。
だから衛士ザッハトルクは、もう夜中に勝手口を見張る必要は無いだろうと考え始めていた。
最後にしようと決めた夜、聞き馴染んだ軽やかな足音に耳を疑った。よりによって今夜、姫君は姿を見せた。こそこそ隠れる選択をせずに、真っ直ぐに衛士に向かって歩いてきた。
久しぶりに伺う姫君の顔は少しやつれていて、とてつもなく思い詰めた表情で瞳を潤ませている。
「お願いがあるの。今夜一晩だけ、目をつぶって欲しいの」
こんな切ない願いをされては、叶えたいのが人情というもの。しかし衛士の努めとして、引き受ける訳にはいかない。
返答に窮する衛士の目前で、なんと姫君がひざまずこうとしていた。そんな事をされては堪ったものではない。
「お止め下さい!私如きにそんな振る舞いを!姫君は熱に浮かされておいでなのです!!」
「お願いだから・・・本当に、これで最後にするから・・・」
懇願する声は既に涙声だった。まるで小さい子を苛めているかの様な罪悪感に打ちのめされる。胸に大事そうに純白の反物を抱きしめている。ずっと織物に打ち込んでいた理由が察せられた。
ザッハトルクはぎゅっと目を閉じる。彼の脳裏に、護衛の任に着いてから現在までの姫君の姿が蘇っていた。
まだ幼い時分に母を亡くした。王族の娘として恥ずかしくない人でありなさい、というのが遺言だった。頑なに母の言葉に従い、姫君としての礼儀と知識を学んだ。常に誠実で慎ましい少女であろうとし、大人びていった。そして現時点がある。誰に対しても優しく、誰からも愛される乙女へと成長を遂げた。母の遺言は果たされたのだ。
だがそれは逆に言えば、普通の女の子らしさを取り上げられた人生だった。
大抵の女子であれば、何度でも口にする『一生に一度のお願い』・・・だが、この娘の場合は絶対に違う。
(初めて口にした、たった一度きりの我がままだ!)
くるりと大きな背を向けた。言葉に出す訳にはいかないが、彼はそうして意思を示したのだ。
乙女もまた、言葉にする事を控えた。心の中でだけ礼を言って、衛士の背を通り抜けた。
平野を疾駆する間、少々乗馬が辛いという肉体的事情があったが、腰を浮かす事で何とか回避していた。
いつもの崖に辿り着くと、ほんの数日しかご無沙汰していなかったと言うのに、妙に懐かしい祠を眺めた。駛馬も先にこの場へ立ち寄っていた。そして同じく祠を見て異変に気付いた。だから、いなないて少年に知らせたのだ。
今そこから、ぼんやりとした光が漏れている。その意味を知っているのは男女一組と馬一頭のみである。
愛するルミフィーユの存在を少年は確信した。
恋人達が訪れた時だけ、祠は光を放つ。冷静に考えてみればおかしな話だが、恋に夢中であればどんな事も不思議じゃない。『女神の祝福』が成せる奇跡を自分達は享受している。地上の如何なる事も、これに勝る物では有り得ない。
だから裏切りなんてあってはならない。そう分かっていた筈だというのに、少年はレクエアとの出来事を悔恨する。
(本当に情けない。ちょっと逢えなかったからと、ルミフィーユに対し不貞を働こうとするなんて。危なかった・・・本当にもうあとちょっと、ほんの数センチで、取り返しがつかなくなってしまっていた)
少年は意気揚揚と駛馬を駆けさせた。ただ一途に、恋人との再会と変わらぬ関係を期待していた。
それは乙女も同じ事、祠で待っていれば、きっと少年は見つけてくれる。例え昼間に合図を交わしていなくても。強く信じて疑いはしない。ただ少年と違っているのは、胸に湧き上がる悲しみを抱えている事だった。
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