1人が本棚に入れています
本棚に追加
第六章
熱い抱擁に包まれて、乙女は幸せを噛み締める。けれども、幸せなら幸せな程に悲しみも襲い掛かってくる。
彼はいつにも増して、自分の身体を求めてくる。激しくぶつけてくる様な愛情に身を差し出した。ひとつひとつ・・・口づけも愛撫も、舐める事も吸う事も、彼の行為のひとつひとつが愛おしい。
何故ならそれは今夜限り、もう味わう事の叶わなくなる悦びだから。
だからこそ大切にしたい。より深く感じたい。彼が望むどんな行為にでも応えてあげたかった。愛おしさが、止めどない涙に姿を変え溢れ続けた。
少年は彼女の涙を、あくまで肉体的な悦びの故だと思って、自分の技術もまんざらでは無いと傲り高ぶっていた。
まったく男とは仕様の無い生き物です。
互いに幾度かの肉体的到達点を迎えた後、恋人達はぐったりとなった身体を横たえる。
僅かばかり少年は眠ってしまったらしい。夢の中で、白く輝く蝶が舞っていた。場所はどうやらこの祠らしい。蝶を捕まえようと追いかけたが、その手をするりとすり抜けてしまう。闇雲に手を振り回しても捕まえられないでいる内に、蝶はどこぞへと消えてしまった。
勿論、呑気に夢なんか見てる場合ではない。夜が明ける前に互いの家に戻らなければならない事情の持ち主達だ。
起こしてくれたのは乙女である。既に衣服を整え、涙と頬の痕も拭き取っていた。慌てて少年も自分の服を求める。その手にふわりと、真新しい綺麗な衣服が渡される。
「これを着て。私が織った物なの」
屋敷から出掛ける時に、大事そうに胸に抱いていた純白な反物。あれは彼へのプレゼントとして、丹精込めて編んだ物だった。
「思ったよりね、時間が掛かってしまったの。待たせてしまって、ごめんなさい」
殊勝な乙女の言葉に答える方法は、飛び上がって喜んで袖を通す事だ。少年はその通りにして、着用した姿を乙女に見せた。
「ぴったりだ!似合うかい?」
これで乙女は輝くばかりの笑顔を取り戻してくれる。そう信じた少年は、乙女の反応に言葉を失った。大きな瞳からまたもや、はらはらと大粒の涙が零れ落ちる。乙女自信も口惜しい想いを抱いていた。
(せっかく涙を拭いて、綺麗な顔で『お別れ』の言葉を告げるつもりだったのに)
結局涙ながらの告白となってしまった。もう二度と逢えない事情を、ぐすぐす言いながら伝えた。
衝撃を受けた少年は、別れたくなくて色々頭を回転させた。
『昼間逢えば』とか『場所を変える』とか。けれどその全てが、純真な乙女に嘘をつかせる思いつきだった。
(どうあっても、ただルミフィーユを苦しめてしまうだけだ!)
黙って抱きしめると、乙女は縋り付いて泣いた。新しい服の肌触りと、愛しい人のぬくもりが、少年の胸を激しく締め付けた。
城へ戻ると、父が血相を変えていた。
「レクエア様が、夜明けを待たずに帰られた。えらい剣幕だったぞ!」
「そうですか、結構です。あんな方と二度と顔を合わす必要はありません」
勢い余って、彼女について色々喋ってしまいそうになった。一部始終を聞けば、誰もが少年の味方をしてくれるのは必定。だが、女性の夜の行為を暴露するのは男子としてあるまじき事。最低な男にはなりたくなかった。
「そうか・・・」とがっくり肩を落とす父に、同情する気持ちには今はなれない。そんな余裕がないのだ。
「これも返さないといけないな」父の呟きの対象は、先日運び込まれた品々を指していた。広間に点々とする、山向こうの国の贈呈品。黄金の器・花瓶が目に入って舌打ちする。
あらゆる豪奢品が、ただただ派手で人の目を惹きつけんとするだけの、エゴに満ちた醜い品物としか映らない。
(どんな高価な物であっても、この一枚の織物に遠く及ばない!)
純白の服を抱きしめる気持ちで着ていた。糸の一本一本、縫い目の一つ一つが愛おしい。そして同時に絶望するのだ。黄金が及ばないならば、それに見合う返礼品は存在しないのだと。
(どうすればいい?彼女の気持ちに応えるには・・・この身の深い愛情を示せるだけの品物が、この世界に存在するのだろうか?)
沸々とした想いを抱えながら寝所に入ったのだが、ベットの染みを目にしてまたもやイラッとする。シーツをぐるぐる巻きにして廊下に放り出した。ほのかにレクエアの匂いが残っていた。
(まったく腹立たしい!昨夜ここであった事は全て忘れたいのに!)
だが嫌な記憶の中に、一つだけ有意義な内容があった。レクエアが語った、今風に言うならば都市伝説みたいな話。
「そうだ神殿に・・・女神の『贈り物』があるのだ」
もし本当にあるならば、レクエアよりよっぽどルミフィーユに相応しい。彼女は女神を敬愛しているのだから。
最早、少年の頭の中は『贈り物』の事以外考えられなくなってしまった。
夜の神殿へは幾度も訪れてはいたが、今夜ばかりは趣きが違っている。
星々も月も、出来るならば自分を照らし出さないで欲しいと願った。女神にも目を伏せていて欲しかった。不安だった。今の自分には何も後ろ盾が無い。まったくうまく事が運ぶイメージが思い浮かばなかった。
それでも何かに突き動かされる様に、ここまで来てしまった。何かとは、乙女を想うあまりの無謀さなのだろうか?
当然ながら、正面扉には鍵が掛かっている。他に出入り口を知っている訳ではない。思いも寄らず、鉤爪のついたロープの扱いが上手くなっていたので、これを用いて壁をよじ登り登頂に成功した。
(盗人のようだ)と罪悪感を覚えつつも(愛を成就させる為に必要だ)と悪行を正当化しようと試みる。
今まで空中回廊を難なく渡っていたが、今は恐怖を感じた。女神が怒り、振り落とされるかも知れないと頭を過った。それは取り越し苦労で渡る事が出来た。残るは祠の岩扉だけだが、この先は許された者だけが入れる領域の筈だ。
(女神から拒絶されては・・・)正直無理だと思っていた。奉納品目当てで忍び込む行為が、認められる訳がない。
だが意外にも、すんなりと祠は少年を招き入れた。乙女がいないので、床も柱も淡い光を発してはおらず全くの暗闇だった。
手探りで進み、どうやら祠の中心に至ったらしい。この先どうやって探せば良いのか途方に暮れる。
(招き入れてくれたのであれば、私の望みもご存じの筈です。どうかご返事を下さい)
結局のところ、女神の慈悲に頼るより他にない。少年は祈りを捧げて、じっと答えを待った。耳に届くのはさざ波の音だけ・・・だがその中に、微かなささやきの如き声が混じった。
『愛を望む者よ』・・・厳かな響きを持つ女性の声だ。もしかすると女神が発しているのかも知れない。
天井から、白く輝く光がひらひらと降ってきた。それはあたかも、夢の中で遭遇した光る蝶の様であった。
『愛を掴まんとする者よ』・・・きっと言葉通りに従えば良いのだ。一途に信じる心に任せるべきだ。
少年は光に手を伸ばしたが、いつかの夢と同じくすり抜けてしまう。だが消えた先は確認出来た。
『愛を探し求める者よ』・・・探すべきは蝶の行く先だ。星の光が入り込む位置の床へと消えた。
忘れもしない、乙女と抱き合い目覚めた場所だ。床に触れても滑らかで何ら仕掛けの様な物はない。
『愛を押し開く者よ』・・・結構具体的なヒントをくれる女神様だと感心する。
両手を重ねて床に置き、全体重を乗せて圧してみた。すると音も無く、一部分が内側へと凹んだ。
『愛を恐れぬ者よ』・・・少々曖昧な表現に変わった。少年は読み解く事に成功するだろうか。
床下に空間があった。暗闇の中に恐れずに手を入れると、何か指に触れる物があった。
『愛を欲くする者へ』・・・最後の言葉は語尾が違う。漠然とした呼びかけでは無く、特定の人物に祝福を与えている。
「それは私の事だ!」叫ぶと共に、指に触れた品物を強く握り締めた。
この瞬間に少年は確信していた。その手の中に女神の『贈り物』を掴んだ。何に変える事も敵わぬ、至高の宝物を。興奮で涙が溢れ出した。人生で経験した覚えも無い程の喜びが、心に満々ているのを感じていた。
(大丈夫だ。そう、これならば・・・これならば伝えられる。ルミフィーユの想いに応えられる!)
織物に打ち込んでいられたあの頃は、まだ良かったのだと最近になって思い知らされた。夜ともなれば、愛しい人との思い出がフィードバックして、胸に寂しさが湧き立ち瞳を濡らす。そんな毎日の繰り返しだ。
他の誰にも苦しい胸の内を打ち明ける訳にはいかない。涙を人に見られぬ様に寝所に引き込もるしかない。そうやって虚しく日々を重ねて、いつの間にか年を取ってしまうのだろうと、乙女は悲観に暮れていた。
(もうあんな風に誰かを愛する事なんて決してないのだから)
まあもっとも、突然の侵入者が現れるまではの話だったのだが。
「何日か掛けて、きちんと下調べしたから大丈夫。見張りとか、窓の高さとか。壁を上り下りするのは、もうお手の物だしね」
こんなに心配してるのに、少年は呆気らかんと言い放つのだった。
「それよりもさ。君にプレゼントを持ってきたんだ」
(何故だか妙に浮かれているわ。私がどんな想いで、ここ数日を過ごしていたかも知らないで)
子供っぽい性格は大好きだが、ちょっと無神経な処には呆れてしまう。少しだけおかんむりなのにも、彼は気付きもしない。
「後ろを向いて、髪を上げてくれるかい?」
「もう、勝手なんだから」口では不平を言うが、やはり内心は嬉しい。素直に言う通りにしてしまう。
手前に鏡を置いて、少年の仕草を見つめていたら、鏡越しに目が合った。
「あーダメだよ!見ていては!驚かせたいんだからさ」
「さっきはそう言わなかったわ」
反論しつつも、やっぱり目を閉じてあげる事にした。プレゼントはどうやら首飾りの様だ。少年が身に着けさせてくれるのが嬉しい。
「さあ、もういいよ」彼の言葉には熱が籠り、ひどく指が震えている。何故だかとても興奮している様子だった。
(余程自信があるのね。私はもう、どんな物だって・・・貴方から貰える物なら何だって嬉しいのに)
実のところ、乙女はバーンと名乗る少年の素性を知らない。いつも軽装だし、飾り物も身に着けていないし。
(馬を飼っているのだから、農場関連よね。ひょっとして競走馬を育てる一家なのかも)
さほど裕福ではないだろうと勝手に想定して、無理をさせてしまったのなら返してあげようとすら思っていた。
ゆっくりと気持ちを込めて瞼を開く。少しづつ明るくなり、鏡がはね返した自身の姿が瞳に映る。
胸元の右から左へと、オーロラが覆ったのではないかと乙女は見間違えた。
計算し尽されてカットされた宝石達が、光を取り込み内側で増幅して眩い輝きにして外界に放っている。お互いの光を大小様々な宝石達が反射し合う。正に美の競演が成されるが故に、輝きは多彩なものとなる。時に紅、時に青、混ざり合い紫やオレンジにすら流れる様に色を変えてゆく。
一つ一つの宝石を透明なチェーンが囲みつつ、同時に各々の宝石を繋ぎ合わせ、独立したペンダント状を成して連ならせる。全体としてシンメトリーを保ち整合美を感じさせながら、流動性をも併せ持つ奇跡的なデザイン。僅かな風に応じ宝石はさざ波の様に動いて、輝きと美しいハーモニーの如き音色を奏でるのだった。
一目見た瞬間、乙女の瞳はうっとりとして、恍惚の表情を浮かべた。
流れる様に指で撫で、その輝きと音色を味わう。肌に触れる感触は、まるで愛撫の様に心地良いものだと感じ入ってしまう。
暫し酔いしれたが、乙女ははたと正気を取り戻す。よっぽど慌てた表情で少年へと振り返った。
「ダメよ!このような品物、とても貰えないわ!国中の・・・いえ世界中の富を集めたって、きっと敵いやしないわ!!」
率直過ぎる反応が愛しくて仕方なくて、後ろから首飾りごと乙女を抱きしめた。
「君からの贈り物と、そして想いに対する僕の答えなんだ。これ位でなければ顕せやしない・・・どうか受け取って欲しい、証として」
頭がぼうっとして思考能力を失う。それは彼の言葉が故と、乙女は信じたかった。
もう一度鏡を見つめて、指で触れてみて。奇跡としか思えない美しさに陶酔してゆく。同時に理性が崩壊する感覚を心地よく感じていた。
そして最後には、素直な想いを言葉に顕していた。
「ありがとう・・・これ、私の物なのね」
最初のコメントを投稿しよう!