アプロディティア

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第七章 ・・・あれは夢の中の出来事だったのかも知れない。そう、とても現実とは思えない体験だった。 夜の海岸を、あの崖を目指していつもの様に駛馬を飛ばしていたんだ。君からお別れを切り出された後で、僕はもうやり切れない気持ちをどこかにぶつけたくてさ。気持ちの赴くままにどんどん加速していった。もはや駛馬の背すら着いてこれない程に。 気が付くと宙に浮かんでいた。人が飛べる訳がないと思うだろ?でも違う、翼があったんだ。幾百もの鳩だよ。周りを取り囲む彼らが羽ばたいて、巻き上がる風に僕の身体が乗っていたんだ。 辿り着いたのは神殿の頂上で、一目散に祠を目指したよ。懐かしいあの場所は光のない暗闇で、戸惑いはしたけれど。輝く蝶が舞っていて、声がした。間違いなく女神の声だ。導かれて蝶に手を伸ばした。 次の瞬間、僕はやはり駛馬の背にいた。けれど輝く蝶は姿を変え、この手の中に納まっていたんだ。 「素敵なお話。そう、女神の思し召しに従ったのね」 裸体に首飾りを着けたままの姿で、乙女は少年の腕に抱かれ、嬉しそうに話を聞いていた。少年としては、ちょっとばかり話を盛ってしまった事に気まずさを感じてはいた。 (でもまあ、大筋で嘘は言っていないだろう。女神から授かったのに違いはないのだから) 正直に『他の女性に教えられて、忍び込んで床下から掘り出した』なんて言ったら興ざめしてしまう。 何にしろ、乙女は無邪気に喜んでくれた。今日のところはこれで満足しよう。 (本当は渡してすぐ帰るつもりだったのに。男の性とは仕様の無いものだ) なにせ敵国の王族の屋敷、こんなに危険な情事は他にない。少年は身を起こし、脱ぎ捨てた衣服を探した。 「待って!誰か来るわ」 乙女の声に反応してベットに再び潜り込んだ。緊迫して耳を澄ますが、何も聞こえはしない。ふと気づくと、シーツの中に乙女も入り込んでいて、そしてくすくすと少女っぽく笑っていた。 「えっ?ひょっとして・・・」 こくんと頷く顔は可愛いが・・・少年は信じられなかった。それはルミフィーユらしくない冗談だった。 「そんなに焦らなくたって大丈夫よ。女神様のお望みに従って、もっともっと愛し合わなければいけないわ」 言葉通りに乙女は、今までの彼女からは想像もつかない積極的な行いをする。 口づけから身体に沿って、彼の皮膚を唾液まみれにした。ねちゃねちゃと音を立てて、身体と身体を激しく擦り合わせる。 いつもは少年が乙女を『お人形さんの様に大切に扱う』のだが、逆になっていた。上になった状態で位置を変え、互いの頭にお尻が宛がわられる体勢になった。乙女は唇と舌で奉仕し、彼にも同じ事を求める。ぐいぐいとお尻を押し付けられると、少年も夢中になって行為に及んだ。もう十分に満たされたところで、乙女は上半身を起こす。 愛しい相手の顔をじっと見つめながら、ゆっくりと焦らすように腰を浮かしてゆく。清楚な乙女の大胆な行動に、驚きの表情を隠せない。どうやら彼女も読み取った様だ。 「あら?いけなかったかしら?こうゆうの、私ねとても興味があったの」 少しばかりばつが悪い。レクエアとの出来事が頭を過りはした。けれどそれは、ほんの一瞬だけだ。 深く吐息の音を奏でて深く腰を落とすと、互いに未経験の感覚が全身を捉えた。気持ちの入った恋人同士でしか辿り着けない境地がある。もう余計な考えなど入り込む隙はなかった 天に響き渡るラッパの音がする。それは、大大砲に変わる時報として、最近はめっきり親しまれていた。 しかしながら、この状況で耳にするとは信じ難い。うっかり眠ってしまったらしいが、いつもの彼女なら起こしてくれる筈だった。 「ずっとあなたの寝顔を見つめていたかったの」 そう言って微笑む乙女は、またもや少年の身体へと腕を回してきた。さすがに呆れて、思わず手を払ってしまった。 「ごめん。でも、もう日が高く上がってしまっているんだよ?」 「そんなの構うことないわ。そうだ、あなたの好きな馬みたいになってみたいわ。とても興味があるの。いけないかしら?」 昨夜とは違い、今度ははっきりと人の足音がする。姫君を心配して、侍女達が騒ぎを起こしていた。 「人が来る!僕はもう行かなければ!!」 「構いやしないわ。愛し合う行いを恥じる必要なんてない。それに、誰かに見られながらって・・・とっても興味があるわ」 「何を言ってるんだ!?君はどうかしてしまったんだ!!」 寝所に侍女達が入り込み、裸体の男性を見て悲鳴を上げる。少年は素早く窓に向かうが、忘れ物に気付いて立ち止まる。 真新しい衣は、愛しい乙女が織った大切な物だ。だが、それを手にしたのは乙女の方が早かった。そして信じ難い光景を目にする。あの細っそりとした手が、縫い目から衣服を裂いてしまったのだ。 「裸じゃ逃げられないでしょ?大人しく戻って来て」 「君は・・・君は」彼女のプレゼントと彼女の顔とを交互に見つめる。 もし他の誰かが破いたならば、直情的に怒りをぶつけただろう。想いの籠った品物は、彼女自身と同じく愛おしかった。愛情が交錯して頭が混乱した。だが今は涙を拭い、無残な衣服を取り戻して乙女を突き放すしかなかった。 純白の名残を腰にだけ巻いて窓を目指す。乙女も素早く、裸の首から下をすっぽりシーツで覆い隠してから叫んだ。 「ザッハ!来なさい!!」 衛士ザッハトルクは廊下に控えていた。非常事態と言えども、やはり姫君の寝所に立ち入る事は出来ずにいたのである。 屈強な衛士を相手にしては、少年は絶体絶命かと思われた。しかし勇んで飛び込んだ衛士は、男の顔を見て動揺する。 この隙を見逃さず、少年は窓から飛び降りた。高さは3階建て程あるのだが、飛び跳ねた駛馬の背が、少年をうまくキャッチした。風の様に走り去る少年を、窓から見下ろし衛士は地団駄を踏む。 一連の出来事を冷静に見ていた乙女は、ある事実を読み取っていた。 「ザッハ、彼の素性を知っているの?」 「はっ!隣国の皇子、ユークリウスです」 「そう、だったら話は簡単ね」 乙女はシーツの下で首飾りに触れ、軽く音を奏でる。 「・・・国ごと、手に入れてしまえば良いのだわ」 ほぼ連日、屋敷内の会議場において第一皇子マカローンを中心とした軍議が開催されていた。マカローンは侵攻を強硬せんとして大声を張り上げるが、周りの幹部達は慎重な発言をする。 「しかし、兵士達にも休息を与えねばなりません」兵団長が言えば、 「大砲の弾を造るにも手間が掛かります」と軍備長も同調する。 第二皇子たるタルトンが、それに輪を掛けて否定的な意見をぼそぼそと言う。 こうなるとマカローンはすっかり威厳を失くし、拗ねた様な態度を取り始めて話が進まなくなる。結局、決定は毎日先送りになり、戦争の膠着状態だけが続くのだった。 会議室前で見張りに立つ衛士にまで、中の様子は丸聞こえだ。まとまらない無意味な会議に虚しさを覚えていた。そろそろ終わりだと頃合いを計っていた時、意外すぎる人物が会議場を目指して歩いてきた。 「如何しましたか?この先は軍議の場です。姫君の来る場所ではありません」 「そう・・・」乙女は衛士の顔を一瞥して「出直してくるわね」とあっさり引き下がった。 ザッハトルクとしても疑問だった。姫君は戦争を忌み嫌っていた筈、だから神殿に祈りを捧げていると仰っていたのだ。 首を捻っていると、再び人の気配がした。軽やかな足音は、幼い頃からよく知る乙女のものに違いないのだが。あり様は目を見張る物だった。王族の正装を大胆にアレンジして、デコルテ部分を大きく露出した絹のドレスを身に纏い。 白い胸元には、この世の物とは思えない煌びやかな首飾りを輝かせていた。 「うわあぁぁ!」あまりの事に、衛士は悲鳴をあげた。 思わず飛び退き、逞しい背中で扉をぶち壊した。会議室内に飛び入って尻もちを付いてしまった。 「何事だ!!」神聖なる軍議を邪魔する者に対し、幹部達は怒りを顕わにしたが、それは一瞬で鎮まった。 一目でも乙女の姿を目にしたが最後、彼らはまるで蛇に睨まれた蛙の如しとなった。 首飾りの輝きと奏でる音色だけが支配する内へ、乙女は優雅に歩み入る。誰とも無く称賛する声が漏れた。 『千の薔薇よりも、なお美しいアプロディーテ』 満足気に微笑を湛え、乙女は会議の上座に立った。議長たるマカローンが口をぽかーんと開けている。 「会議はどうなっているのですか?お兄様」 妹である事を忘れて見惚れていたが、何とか我に返って兄らしい態度を醸し出そうとする。 「うむ、私としては侵攻作戦を展開したいところだが、何分不足があってな。慎重に話し合いを進めている処だ」 「お兄様」深く溜息をつく「お兄様って本当に・・・」何かを言い掛けたが、ぐっと堪えて会話を続ける。 「戦争に勝つ為に必要な条件って何でしょう?分かりますか?」 「それはやはり、兵士の士気であったり大砲の弾の数であったりだな」 「違います」食い気味にきっぱりと否定してみせる。 「えー?」マカローンはショックを受け、絶望染みた情けない顔をした。 このやり取りで既に、愚かな兄と話しても不毛と読み取った。訴えるべきは実際に軍を動かす幹部達なのだ。 意識的にであろうか。殊更に首飾りを揺らし、全幹部達の目を釘付けにした上で呼びかける。 「人と人、国と国とが互いの正義を旗印に戦う場面において、勝敗を喫するのは戦力の差なんかではないのよ。兵力だ武器の威力だと御託を述べるのは無意味な事。人の能力を越えた次元で、語られるべきだわ。 そこには明確なる神のご意志が働いている。どちらの正義を認め、勝利の栄冠を授けるか?神がお決めになるのだわ。歴史が既に物語っている。テーバイもトロイアも、その括りから外れるものではないわ」 皆の視界は首飾りに埋め尽くされ、首飾りの奏でる音色と相まって、乙女の言葉が心地よく耳に入ってくる。 「さあ、そこで皆さんに伺いたいの。我が国に女神のご加護が示されたとお思いになりませんか?疑う事すら罪深い、約束された勝利の兆しを目にしていると信じられないのでしょうか?」 会場内の者達はすっかり陶酔して、目の前の乙女こそが女神そのものと思えてならない。幹部達は其々に拳を振り上げて立ちあがった。嬉々とした表情を浮かべ、目の色が変わっていた。 「兵士の尻を引っ叩いて参ります!」兵団長が叫べば、 「大砲の弾をじゃんじゃん造らせましょう!」軍備長も同調する。 「おお、みんな!やる気になったか!?ようし!ようし!!」 ショックを引き摺った為、多少勢いに乗り遅れはしたが、周りの士気を受けマカローンもガッツポーズを見せる。 勢い勇んで彼らは飛び出して行く。口々に勝利を叫び、肩を組んで国家を斉唱しながら。道すがらに屈強な衛士がまだ腰を抜かしていたので、数人で引っ張り出す事にした。ザッハトルクは誰よりも青ざめていた。乙女の変貌ぶりに理解が及ばぬまま、引き摺って行軍に参加させられた。 会議の席に残ったのはタルトンのみだった。ずっと目を伏せていたが、怯えた子犬の様にして乙女を見上げた。お得意の嫌味っぽいぶつぶつ口調は封印された。代わりに言い訳がましく震えた声を絞り出す。 「ね、姉さん・・・僕はあくまで、姉さんの身を案じていたのだからね」 「分かっているわ。私は優等生のいい子ちゃんだもの」 前かがみになると、首飾りが優美な音を立ててタルトンの身体に覆い被さった。不思議な宝物の触感は、身に着ける者の心に応じる。今は氷の様に冷たく、タルトンの背筋を凍えさせた。 最早言葉を失い、哀願する瞳を向けるだけ。まな板の上の魚になった心境だ。 「ところで、私の意見には従うのよね?」 怒りを回避出来ると思うと、天にも昇る気持ちになった。一も二も無く姉に従うと決めた。 「もちろん!勝てる戦争にケチを付けたりしないよ!」 彼もまた闇雲に飛び出して行き、こうして戦争に歯止めを利かす者は誰もいなくなった。
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