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番外編 受付嬢たちの乱・中
ニゲルに抱きついていた黒手袋の魔術士は、少し前にサウザンドルインズにやって来たばかりの流れの冒険者だということがわかった。ヒューゲルさんにキスをしていた白手袋はその日到着したばかりだったらしく、あまり見かけない白手袋に酒場の冒険者たちが盛り上がり、注がれるままにエールを飲みすぎての顛末だったらしい。
ベロベロに酔っ払ったところにアイクと一緒にヒューゲルさんが現れ、とんでもなくいい男が来たと勢いでキスしてしまった、と、次の日に本人が謝りに来た。謝罪を受けたヒューゲルさんは「飲み過ぎには注意しろ」とだけ言い、あっさりと許した。
「まぁ、そういうところがいいところなんだろうけど」
ちらっとアイクを見ると、何か考え込んでいるような顔をしている。
「アイク?」
「……」
「アイク」
「え……、って、僕はまた……。すみません」
「大丈夫だけど、……もしかして、昨日のことが気になってる?」
昨日のこと、というのは、例の白手袋がヒューゲルさんに謝りに来たことだ。はっきり言わなくてもアイクには伝わったようで、「まったく気にならない、ってことは、ないんですけど」と困り顔になる。
「まぁ、ああいう大人の態度を取れるところが、ヒューゲルさんのいいところだと思うけど」
「はい、僕もそう思います。それに、一昨日も昨日も、フロインからちゃんと話を聞きましたし」
「じゃあ、昨日謝罪を受ける前に解決してたんだ?」
「はい。っていうか、僕も最初から見ていたんで」
なるほど、ことの顛末を見ていたなら必要以上に怒ったり焦ったりはしないか。
その点、俺のほうは相手が誰かわかっても、どういう経緯でああいうことになったのだとか、その後どうなっただとかが聞けないせいで、まだもやもやが続いている。
(まさか、覗き見していたとも言えないしな)
言ってもいいんだろうが、なんだかバツが悪くて言い出せなかった。
「じゃあ、何が気になってるの? 難しい顔をしてたけど」
「あの……、別に不満ってほどじゃないんですけど」
「うん」
「その……、もう少し、はっきりと拒否してくれたらって思ってしまって」
前にも同じようなことを口にしていたのを思い出す。その気持ちは俺にも十分わかることで、「うん、俺もそう思うことが多々あるかな」と答えた。
「フロインは優しいから、強く拒絶できないことはわかってるんです。そんなところも、……好き、なんですけど。でも、もうちょっと、なんていうか、」
「ビシッとしてほしいよね」
「……はい」
ヒューゲルさんの優しさは、きっと性格的なものだろう。自分から強く出るのは苦手なようで、強引になるのはアイクを相手にしているときくらいだ。
ニゲルは来るもの拒まずが長かったからか、寄ってきても気にしないし去っても気にしない。悪く言えば近づいてくる人に関心がないということで、それでも表情や態度に出ないからか周囲に気づかれることはないようだった。
(ま、それが裏目に出て必要以上にモテるんだろうけど)
「モテる恋人って、厄介だね」
「はい……」
二人してハァとため息をついた。
そんなもやもやとした状態が続いていたからか、さらに二週間経った酒場でそれは起きた。
この日、実質的には研修中だったアイクが一人前の受付として認められたという知らせがギルドマスターから届き、酒場は大いに盛り上がっていた。
休みだったアイクと、しばらく休みを取っていないからとリィナが夜間業務を代わってくれた俺は、揃って酒場でエールを飲んでいた。馴染みの人たちも流れの冒険者も「黄金の受付嬢が揃い踏みだ」と、いつも以上の早さで酒樽を開け、俺たちのグラスには次々とエールが注がれていた。
勧められるがままに飲み進めていた俺は、気分が高揚するのを感じていた。これは少し酔ったかなと思い、アイクは大丈夫だろうかと隣を見る。碧眼が少し潤んでいるから酔ってはいるようだが、顔色はいつもと変わらないからまだ大丈夫だろう。
ニコニコ笑いながら注ぎ足されたエールを飲むアイクを見て、本当にがんばったなと俺までうれしくなる。自分が一人前の受付になったときのことを思い出したりもして、ますます気分が盛り上がった。
ふと、アイクの碧眼がこちらを見ていることに気がついた。視線が合った後にこりと笑った顔が、どうしてかやけにかわいく見える。
いや、アイクはかわいい。ニゲルは俺のことをかわいいと言うが、かわいいと言うのはアイクみたいな男のことを言うのだ。
(きっとニゲルは、かわいいってことも言い慣れているんだろう)
だからあれほどポンポンと出てくるに違いない。そう思ったら、急にニゲルのことが腹立たしく思えてきた。これまでの出来事を思い出し、さらに苛々としてしまう。
女性の扱いに手慣れているから巨乳を押しつけられたんだ。言い寄られ、必要以上に密着されたりもする。それだけじゃない。男にだって言い寄られるし、抱きつかれたりもしている。
何もかも全部、ニゲルが手慣れているせいだ。手慣れすぎて隙だらけだから、あんなことになるんだ。俺には「隙を見せたら駄目ですからね。すぐに食べられてしまいますよ」なんて言うくせに、自分はどうなんだ。ニゲルのほうこそ隙だらけだから、簡単に密着されるし抱きつかれるんだろう。
「そりゃ俺だってニゲルのことは信じてるけど、抱きつかれるなんてあり得ない」
「僕もフロインのことは信じてますけど、キスされるとか油断しすぎですよね」
ぽろりとこぼれた独り言は隣に座るアイクに聞こえてしまったようで、それなりに酔っていたらしいアイクが相槌を打つようにヒューゲルさんへの不満を口にした。
「そうだよね。二人とも俺たちのことには口うるさいけど、自分たちはどうなんだって言ってやりたいよ」
「同感です。僕たちがどれだけ心配してるのか、わからせてやりたいです」
ひと言漏れると、堰を切ったように言いたかった言葉が口を衝く。それはアイクも同じだったのか、酔った勢いもあって二人して次々と言葉が続いた。
「そうそう。信じていても目にすれば嫌な気持ちになるって、教えてやりたい」
「……ハイネさぁん」
「あーもう、泣かないで。今日はアイクのお祝いなんだから」
「だって、フロインは見回りでいないし」
「ニゲルもだよ。こんな大事な日なのにね。そりゃあ見回りも大事だってわかってるけどさ」
「僕もわかってるけど、でも、でも、」
このとき、周りがシンと静まり返っていることに俺は気づけないでいた。あれほどのどんちゃん騒ぎが静かになっていることすらわからないなんて、相当酔っていたに違いない。
周囲の変化に気づくことなく、俺は泣きそうになっているアイクの頭を撫でていた。
「アイクはこんなにがんばり屋さんだし、とてもかわいいよ」
「ハイネさんだってすごいし、それに美人です」
「ふふ、ありがとう。まったく、俺たちを恋人にしておいて二人のほうが隙だらけって、どういうことなんだ」
「抱きつかれるしキスされるし、もうっ」
「ほんとだよ。……そうだ、じゃあさ、俺たちもキスしちゃおうか」
「キス!」
ポンと赤くなったアイクは、俺から見ても間違いなくかわいかった。そう思うこと自体が酔っ払っている証拠なのにそれに気づくこともなく、俺もアイクも高揚した気持ちのまま顔を寄せ合った。
そっと触れたアイクの唇は温かく、しっとりしていて触り心地がいい。ニゲルのように官能的には感じないが、気持ちがよくてふわふわする。少し離れて、それからまたチュッとくっつけたところで、グイッと体を後ろに引かれて椅子から落ちそうになった。
「ちょっと、なに」
気持ちよかったのを邪魔され、思わず刺々しい声を出しながら振り返ると、そこには軽装備のままのニゲルが立っていた。顔はやけに険しく、眉間には皺が寄り、灰青色の目は随分と細くなっている。
「なに」
「何じゃないでしょう。何やってるんですか」
不機嫌さ丸出しの声に、俺の気分はますます急降下した。そもそもニゲルが悪いんじゃないかと、さっきまで吐き出していた言葉を思い出してムッとなる。
「何って、キスだけど」
「見ればわかります。そうじゃなくて、なんでアイクとキスしてるんですか」
「したかったから」
「……酔ってるのはわかりますけど、だからってキスは駄目ですよね」
ニゲルの声に被さるように背後からヒューゲルさんの叱るような声が聞こえ、直後にアイクの「だって、フロインもキスされてた!」と言う声が響いた。
そうだ、ニゲルだって黒手袋に抱きつかれていた。そのことを思い出し、ざわざわとした不快な気持ちが首をもたげる。
「ニゲルだって、抱きつかれてた」
「は?」
「ニゲルなら避けられるはずなのに、おとなしく抱きつかれてた」
「ハイネさん?」
「避けないで、ぎゅうって抱きつくのを受け止めてた」
「なに言って、……って、あぁ、」
いま思い出しました、というような顔に、ますます腹が立った。
俺はあの光景を忘れられないでいたのに、ニゲルにとってはすぐに忘れてしまうくらい日常茶飯事のことなんだろうか。四六時中一緒にいるわけじゃないし、モテるニゲルは俺の知らないところで言い寄られて、あんなふうに抱きつかれているのかもしれない。それに、ヒューゲルさんのようにキスだってされているかもしれない。
そう思うと急に不安になり、高揚した気分も腹立たしい気持ちも一気に霧散する。
「……ニゲルのほうが、隙だらけのくせに」
「ハイネさん、今夜はもう帰りましょう」
「ニゲルが悪い」
「はい、避けなかった俺が悪かったです」
「……ばか」
「馬鹿な俺ですけど、一緒に帰りましょう」
手を引かれ、今度はおとなしく従った。よろける俺の腰に手を回したニゲルと一緒に酒場を後にする。
そういえばアイクはどうしただろうかとドアを出たところで振り返ると、ヒューゲルさんに抱き抱えられて出てくる姿が見えた。きっと二人もこのまま帰るのだろう。
「足元に気をつけて」
「……うん」
よろけながら向かったのは、俺の住むアパルトメントだった。
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