ツィゴイネルワイゼン

1/1
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 ツィゴイネルワイゼン  ハハハ。そんなに怖がるコタアないよ。マアもっとコッチへ来たまえ。どうせ電車は事故で遅れているんだ。チョットくらい僕に付き合ってくれてもいいだろう。サアサア、一杯。安い酒だがね。……どうだい、美味いもんだろう。僕も昨日初めて飲んだのだがね、イヤこの値段でこの味なら文句無しだね。ウンウン。では僕も失敬して……。エエト何の話だっけ。  ……そうそう。そうだった。どうして君を酒に誘ったかという話だったね。ナアニ、大した理由じゃないよ。君は○○大学に通うK君だろう。……ウンウンやっぱりそうだったか。……ハハハ、ソラア分かるよ。君は気付いていないのかもしれないが、この界隈じゃ君はちょっとした有名人だからね。  ……何でって、君はあのヴァイオリンに非常な興味を示しているそうじゃないか。この町は君のトコの大学に支えられているようなものだからね。自然、町の住民も音楽に詳しくなってくる。チョット音楽をカジった者なら、あのヴァイオリンのことも、それにまつわるオソロシイ呪詛(のろい)も、至極当然に耳に入る。その中にあってあのヴァイオリンの音が聴いてみたいなんて言う奴ァ、君くらいのもんだよ。ハハハ。  ……ウン。イヤ実を言うと僕はそのヴァイオリンの事を知っているんだ。……マアマア落ち着いて。ほら、もう一杯。……どうだい。少しは落ち着いてきたかい。ハハハ、イヤァ失敬失敬。言い方が悪かったね。知っているといっても、人伝(ひとづて)に聞いた話なんだ。マアそんなに露骨にガッカリしなさんな。それでも君が思っている、あるいは知っている以上の事は話してあげられると思うから。  ……ハハハ、現金な奴だなァ君は。さっきも言ったけど、あくまでも人から聞いた話だからね。どんな尾ビレや背ビレが付いてるか分からないけど、それでもいいかい。……ウンウン。君ならそう言うと思っていたよ。それじゃあ話してあげよう……。  あのヴァイオリンは元々、ちょうど今の君のような、ある音大生が造ったものなんだ。仮に名前を光太郎とでも名付けておこうか。  光太郎君は偏屈で神経質な青年だった。いつも蒼白い顔に大きな眼鏡をかけて、ヴァイオリンを入れたケースを大事そうに抱えながらヒョロヒョロと猫背で歩く姿は、マアお世辞にも格好いいとはいえないね。まだヴァイオリンの腕がいいとあれば救いもあったが、素人が聴いても下手糞と分かるくらいだったから、本当に救いが無い。そのくせ音楽の事に関しては人一倍やかましく、あるとき同じヴァイオリン専科の一人がその事をからかったんだ。 「オイ、光太郎。貴様は口だけはイッチョマエに偉そうなことをほざくが、一度だってまともに弾いたためしがあるのか。下手糞な奴ほど色んな屁理屈をコネクリまわして自分を正当化しようとするものだが、成程。お前が弁舌師の才能があることだけは分かった」  辺りに群がっていた連中からドッと笑いが起こると、光太郎君はみるみる顔を紅潮させて、青黒い静脈をピクピクとこめかみに浮かべながら怒鳴り返した。 「僕は演奏が下手なんじゃない。他人から弾けと言われるとどうしても心が乗らないから、その空虚さが素直に音に表れているだけだ。そんなことも分からない君たちこそ、いかに心を込めて演奏していないか。いかに技術に頼りきっているか自覚するべきだ。  ビブラートも、レガートも、トリルもピチカートも、所詮は曲芸師の真似事に過ぎないじゃないか。音楽とは単に音譜を並べて楽譜通りに弾けばいいというものじゃない。真の心を込めて、自らの精神でもって奏でるものなんだ。  君たちはどうだ。たしかに技術では僕より数段上だろう。だがどんなに技術だけを磨いても、そんなものは常に画一的な動きをする工場機械の雑音と何も変わらないッ」  ちょっかいを出した男もこれには頭にきて「この野郎ッ、馬鹿にするなッ」と光太郎君の襟元を掴んで殴りかかろうとしたところを、光太郎君のたった一人の友人である青年が止めに入って、何とか事なきを得たんだ。  橘というその青年は、光太郎君とは真反対のスラッとした長身の美青年で、仕立てのいいスーツを着こなし、頭の回転も速く、おまけにヴァイオリンの腕も学内有数の腕前だというから、二人がもし幼馴染みでなければ、おそらく一生関わり合うことはなかっただろうね。 「相変わらずだね。君は」  橘青年が嘆息して言っても、光太郎君は反省した様子もなく答えた。 「ふん、あいつらが無知なのがいけないのさ。音楽の本質も何も分かっちゃいない」 「だけど工場機械の雑音っていうのは言い過ぎだぜ。それに君はどう思っているか知らないが、彼らも彼らなりにきちんと心を込めて演奏していると俺は思うが」  この言葉に光太郎君は驚いて、失望したようにやや怒気を孕んだ声で言った。 「そんなことは知っているさ。問題はどれだけ心を込めているかだ。音譜の一つ一つに命を懸けて、演奏が終わった途端死んでも構わないと、それだけの決意を持って弾いている奴が誰一人いないと僕は嘆いているのだ」 「君はいつもその決意を持って弾いているのかい」  橘青年は訝しがって尋ねた。というのも、光太郎君がまともにヴァイオリンを演奏している姿を彼自身も見たことがなかったんだ。というより、内心では光太郎に言いがかりをつけてきた連中の言い分の方が正しいと彼もまた考えていたし、この思い切った大見栄に少し腹を立ててもいた。  ところが光太郎君は少しも動じることなく自信に満ちた笑みさえ浮かべている。 「ああ。その通りさ。いや、正確に言えばようやく弾けるようになったという方が正しいかな。これまではどんなに僕が命を懸けても、ヴァイオリンの方がビビっちゃって、良い音を出すことが出来なかったんだ。だけど素晴らしいヴァイオリンを手にすることが叶ってね」  気が乗らないと良い演奏が出来ない。気を込めても良い演奏が出来ない。……ナンダ。結局自分の技術の未熟さを楽器のせいにしているだけじゃないか。イヨイヨ持って腹立たしい男だ……と君は考えているんだろう。イヤ、分かるよ。この時の橘青年の心中も、今の君と全く同じだったんだからね。  ところが光太郎君は、今の我々の心の内を見透かしたかのように得意気な笑みを浮かべながら続けた。 「君、今の僕の言葉を聞いて内心腹を立てているだろう。楽器が悪いと言いがかりをつけるなんて初心者以下だと。  君の考えはもっともだ。言葉だけじゃ、そうとられても無理はない。だから今日の晩に僕の家に来るといい。そこで君に聴かせてあげよう。僕の本当の演奏を」  その日の晩七時頃に、橘青年は言われたとおり光太郎君が一人暮らしをしている町外れの一軒家に向かった。  光太郎君の家系というのは代々音楽家を輩出している名家だったのだが、祖父の代に没落し、後を継いだ彼の父親も光太郎君が生まれて間もなく夭逝したため家は困窮にあえぎ、光太郎君が引き継いだ財産はこの一軒家のみで、彼は自分の使う楽器でさえ、そこいらで売っているような安物のヴァイオリンを使わざるを得ない立場だったんだ。  そして橘青年は「素晴らしいヴァイオリンを手にしたと言っていたが、いったいどのようにして入手したのだろう。買えるほどの金は持っていないはずだし、まさか盗んだとは思えないが」と、友人として光太郎君のことを心配しながらも「あの光太郎が認めるほどの素晴らしいヴァイオリンとはいったいどのような音色を奏でるのだろう」と、音楽家としての好奇心を抱かずにはいられなかった。  そうして橘青年は光太郎君の家に着いた。ちょっと見た目にはアトリエ風の総二階の建物で、白いペンキの剥がれ落ちた場所から所々古い木材が覗いているのを見ると、かなり年代が経っているらしい。 「やあ。待っていたよ。さあ入ってくれたまえ」  光太郎君に導かれるまま、橘青年は軋んだ音をさせる廊下を歩き、二人は階段を上がって広い部屋に入った。古い造りにもかかわらず防音はしっかりとしていて、また近くに民家もなく、好きなように音を出せる環境だったから、橘青年は心密かに羨ましく思っていたのだが、それを口に出すのは何となく自分で許せなかったので、彼は黙って光太郎君が準備している姿を見続けていた。 「それでは始めたいと思うが、君、エルガーの『愛の挨拶』のピアノ伴奏を弾けるかい」 「ああ。ピアノ専科のやつほどの腕前はないけれど」 「十分だよ。ではよろしく頼む」  いつになく上機嫌な光太郎君の様子に少し戸惑いながら、橘青年は部屋の中央にあったピアノの椅子に座った。傍らに立つ光太郎君は、彼が自慢していたと思しきヴァイオリンを構えて、いつでも始めてくれといった様子。 「ではいくよ」  意を決してピアノを弾き始めた橘青年は、直後に鳴り出した光太郎君のヴァイオリンの音に、全身の毛が総立ちになるほどの衝撃を受けた。  それは初夏の日の青空のようにどこまでもさわやかに透き通り、桃の香りのように瑞々しい甘さを持っていて、4分の2拍によるヴァイオリンとピアノの舞踏は、あたかも少年と少女がお互いに淡い想いを抱きながらダンスをしているかのようで、まさしく『愛の挨拶』の名のとおり、誰かを好きになることへの喜びに満ちた響きだった。  伴奏をしている橘青年自身も、いつしか光太郎君のヴァイオリンに合わせることが嬉しくなって、夢中でピアノを弾き続けた。二つの楽器がハーモニーを形成し、重なりあって一つの音楽へと昇華されていく様は、二人の間で素晴らしい高揚感と幸福感を感じさせてくれた。  やがて演奏が終わると、橘青年はしばらくの間呆然として余韻の中を漂っていた。それは甘い音楽の陶酔から、つまらない現実世界へ引き戻される瞬間を出来るだけ後にしようと試みているかのようでもあった。 「い……、いったい……、どんなトリックを……、使ったんだい……」  ようやく口が聞けるようになってから橘青年は尋ねた。いつも調子はずれの耳障りな音しか出してこなかった光太郎君が、何をどうひっくり返したらこんなに純粋無垢な音色を奏でられるというのか。橘青年はほとんど息切れを起こすほど胸が苦しくなった。 「別にトリックなんか使っちゃいないさ。これが僕の本当の実力だよ。……と言いたいところだが、他ならぬ君のことだ。特別に教えてあげよう。ただし、君だから教えるんだ。絶対に他の者に話してはいけないよ。いいね」  心を落ち着けて、橘青年が頷く。 「とは言っても、奇術師なんかが使うチャチでせこいトリックなんかは本当に使ってないんだよ。ただ、このヴァイオリンは僕自身が誂えたものでね。そこに僕流の音楽に対する情熱と奥義が込められているのさ」  光太郎君が大切そうに抱えているヴァイオリンは、見たところ普通のヴァイオリンと大差ないように思えたが、橘青年は話の続きを待った。 「材質はスプルース、メイプル、エボニーと、ごく一般的なものを使っている。もちろん何百年も前の木材なんか高価で買えやしないから、そこいらの店で簡単に手に入るような、普通のよりもむしろ少し安いものだよ。ただ、魂柱の位置を音の鳴りが最善に響く位置から、あえて少しだけずらしているんだ。  知ってのとおり魂柱というのは、ヴァイオリンが音を奏でた時に表板から裏板へとボディ全体に音を響き渡らせるための、いわば心臓であり大動脈な訳だけれども、ほとんどの人間はこの魂柱の位置を最も音が良く聴こえる位置に置きたがる。しかしね、それこそが心ではなく技術で弾いているということの何よりの証なのだよ」 「というと……、一体どういうことだい」 「ああ、いけないね。君みたいな将来を期待された者がそんなこと言っちゃあ。  いいかい。前にも言ったけれど、音楽というのは心で弾くものなんだ。それなのに技術だけで最善の音が鳴るように調節してしまったら、心を込める余地が無くなってしまうじゃないか。だからこそ、魂柱は八割くらいの音が鳴る位置に置いといて、心を宿すための空白を残しておかないと」  ここで言っておくと、決して光太郎君のヴァイオリンが感情過多という訳ではないよ。君にも経験はあると思うが、自分の好きな曲でも演奏者によって「ここはもう少しフェルマータを効かせてほしいな」とか「ここは少し装飾しすぎじゃないか」といったことを感じたことがあるだろう。言わば演奏者のクセなのだが、この光太郎君の演奏には確かに彼自身のクセはあるものの、そういった引っ掛かりを不思議と全く感じさせない、とても聞き心地のいい音色だったんだ。  ともあれ橘青年の心境は、肩透かしをくらったような、香具師(やし)に騙されたような、どこか納得のいかない心持ちだったのだが、光太郎君はそんな彼を嘲笑するかのように続けた。 「アハハハハ。可笑しいね。僕はごくごく当たり前のことを言っているに過ぎないのに、君はまだ納得出来ないようだね。学内でも指折りの優等生が音楽の基本理念に思い悩み、下から数えた方が早いような落ちこぼれの僕がそれを簡単に飲み込んで、あまつさえ君を圧倒させているなんて、思えば滑稽なものだよ。アハアハアハ……」  この無神経な光太郎君の発言に橘青年は思わずカッとなった。いくら友人同士とはいえ、彼らは同時にライバルでもある訳だし、橘青年も言葉にこそしなかったかれど、自分が上位の成績であることを誇りに思っていたし、ある意味では光太郎君のことを見下してもいたんだからね。 「ふん。魂柱の位置をずらして音色を変えるなんて、結局は君が言っていたせこいトリックに過ぎないじゃないか」  橘青年が負け惜しみじみた文句を言うと、光太郎君はあらかじめ予想していたらしく、ますます得意気になった。 「だが君は感銘を受けた筈だ。違うとは言わせないよ。あんなに放心状態になっていたんだから。  それにね、僕のヴァイオリンの本当の秘密はこれとは別にあるんだよ。  今まで誰にも打ち明けていなかったけれど、僕はある女性に非常に強い恋心を抱いてしまったんだ。自分でも驚いたよ。周りにいる連中は音楽を知ったつもりでその実何も分かっていない、いけ好かない連中ばかりだと思っていたのに。  しかし彼女は素晴らしい。彼女のヴァイオリンを初めて聴いた時、ああこの人は音楽の本質が何なのかを心得ている。彼女は僕の考えにきっと同調してくれるとはっきりと確信したよ。見たまえ。これを」  と言って、光太郎君は自分の左手首をシャツから覗かせた。そこには幾筋もの青黒い傷痕が横に並んでいて、しかもそのどれもが新しい。 「僕は彼女への想いを音に響かせるために、自分の血をこのヴァイオリンに染み込ませたのさ。君が先程甘い陶酔にうたれていたのは、僕の彼女への……音無沙夜華嬢への愛が、君にも真直ぐに伝わったからだろう。  これで分かったかい。僕がいかに音楽に命を賭けているのかを。もっとも、一流の音楽家は皆このくらいのことはしていてもおかしくはないけれど。  それにしても、誰かを好きになるということは素晴らしいことだね。灰色にしか見えなかった世界が急に色付いたかのようだよ。あぁ……、彼女に早く聴かせたいナァ……。僕のこの華やいだ想いを――」  橘青年は恐怖した。イヤ、光太郎君の常軌を逸した言動にじゃないよ。あれ程の心揺さぶられる音色がたったひとりの女性への愛で綴られていたということ、そして何よりその女性というのがあの音無嬢だという事実に、彼は愕然としたんだ。  音無嬢というのは彼らと同じヴァイオリン専科の学生でね。ズバ抜けた音楽の素養とその美しい容姿で、学内では知らぬ者などいない有名人だった。  彼女は幼い頃からその才能を余すところなく発揮し、数々のコンクールで優勝。師事したマエストロに逆に説法して唖然とさせるなんてのはしょっちゅうで、おまけに大学へは学長自らが頭を下げて入ってもらったという逸話までついてる。学生でありながらプロの演奏家として海外でも活躍し、しかもこれが色白切れ目のモノスゴイ美人ときているから、マア無粋な光太郎君でも惚れてしまうのは無理もないね。普通こういう完璧美人は高嶺の花過ぎてかえって恋愛感情を抱きにくいものなんだが、光太郎君は自分の身の程なんて考えたこともないからね。ハハハ。  ところがここにもうひとり音無嬢への恋情をコッソリと強く抱いている男がいたんだ。そう。他ならぬ橘青年さ。彼の音無嬢への想いも決して光太郎君に引けをとるものではなかったんだが、しかし橘青年は光太郎君に戦慄を抱かざるを得なかった。  ――俺に出来るだろうか。自分の想いを曲に乗せて、光太郎以上の演奏をすることが……。否、俺には出来ない。認めたくはないが、俺には奴のような音楽に対する独自の考えなど持ち合わせていない。思想の点では俺はごくごく凡庸な男に過ぎないのだ。腕には自信があったが、今の光太郎の演奏と自分の演奏とで、どちらが深い音を出しているかは比べるまでもない。  俺は負けるのか……。音無嬢への情熱も、音楽へのアプローチも、俺は光太郎に追い抜かれるのか……。  そう考えた途端、橘青年の心中は恐怖でいっぱいになった。同時に「何とかして光太郎を出し抜かねばならぬ……。光太郎と音無嬢が接触するのだけはなんとしても防がなくては……」という焦燥が焦がすように胸へと渦巻いた。  というのも音無嬢というのは少々変わったところがあってね。普段は物静かな澄ました美人なんだが、こと音楽のことになると途端に目の色を変えて饒舌に語り出す性質の持ち主でね。それだけなら別段変わったことじゃないんだが、音楽を語る時の彼女の瞳というのがギラギラとした鋭さの中にどことなく陰があって、まるで人に化けた妖狐が狐の姿に戻った時の瞳と形容すればいいのか、とにかく一種の狂人めいたモノスゴイ迫力を持っていたんだ。  その妖しさが彼女の神秘的な魅力でもあり、橘青年もそこに惹かれたのだけれども、そういったこの世のものならぬ妖しい雰囲気は光太郎君のヴァイオリンにも確かに存在していて、だからこそ橘青年は光太郎君と音無嬢を何としても逢わせる訳にはいかなかったのさ。光太郎君の演奏を聴いたら音無嬢はきっと奴の虜になってしまう。光太郎君の狂った音楽理論も、彼女には新しい思想哲学のように受け取るだろう。そして二人は……。おのれ光太郎、忌々しい奴……。とマアこんな感じで、橘青年の苦悩葛藤推して知るべし、だよ。幸いにも音無嬢は海外公演中で帰国まで二週間あったから、その間になんとかいい案を考えなければと、橘青年は必死になって頭を絞ったんだ。  ところがそれから一週間が経ち、十日が過ぎても橘青年は有効な手立てを考えることが出来なかった。イヤ、正確に言えばたった一つだけ手段があるにはあったんだが、それをするにはあまりに倫理から逸脱しているし、光太郎君との友情さえ裏切ってしまうことになるから、橘青年はあえてその方法から目を逸らしていたんだ。  しかし音無嬢がイヨイヨ明日帰ってくるという日を迎えても、結局橘青年は他の手段を見つけられず、忘れようとしながら心の隅でずっとうずくまっていた黒い考えがムクムクと起き上がってくるのを止めることが出来なかった。そして彼はとうとうそれを実行したんだ。  橘青年はまず光太郎君を酒に誘い出し、その際「僕は少し寄るところがあるから、もし時間に遅れるようなら先に店に入っていてくれ」と言ってヴァイオリンから光太郎君を遠ざけた。そうしてあらかじめ作っておいた合鍵を用いて光太郎君の家に侵入すると、光太郎君のヴァイオリンをケースから抜き取り、代わりに近くの楽器店で買った一番高価なヴァイオリンとをコッソリ入れ替えておいたんだ。 「俺が悪いんじゃない……。俺はいつも光太郎の尻拭いをしてきてやったんだ。喧嘩の時も、借金の立て替えも、素行不良で退学にならないように何とか学校へ計らったのも、みんな光太郎のことを親友だと思ったからこそ助けてやったんだ。  それなのに奴は俺に礼を言うどころか、俺の想い人の音無嬢を奪おうとし、あまつさえ俺を追い抜こうとするなんて……。何という恩知らず。厚顔無恥。これではあまりに俺が報われないじゃないか。  そうだ。このヴァイオリンは今まで俺がしてきてやったことへの正当な謝礼なのだ。俺には受け取る権利がある。いやむしろこれは俺にこそふさわしいものなのだ――」  とか何とか屁理屈にすらならない理屈で自分を正当化しながらね。  しかもその後で橘青年は約束どおり光太郎君と酒を飲んだというんだから、まったく、どっちが厚顔無恥なんだか分かりゃしないよ。ハハハ。マァ、彼も後ろめたさと罪悪感を酒で誤魔化したい気持ちもあったろうから、半ばヤケクソだったんだろうね。  さて、件の音無嬢が帰って来た当日、学校はちょっとしたお祭り騒ぎだった。平日でいつもどおり授業もあるから、あまり派手派手しい出迎えはなかったけれど、それでも国内外で指折りのヴァイオリニストとされているんだからね。ソラァ、男子も女子も教師でさえも、暇さえあれば一目みたいと列をなし輪を作り、学校中がソワソワした雰囲気に包まれていたんだ。  橘青年も当然その一人ではあったけれども、彼は昨日自分が行ったことがやはりどうしても気になって仕方なく、全ては音無嬢の心を得るために不正を働いたにもかかわらず、肝心の彼女のことが抜け落ちてしまうほど、彼は自責の念にかられていたんだ。  ──友人を騙し、裏切り、俺は本当にこれでいいのだろうか。そもそも光太郎には俺に対して何の罪もない。音無嬢への俺の気持ちも奴は当然知らないし、悪意があって俺と同じ女を好きになった訳でもない。このヴァイオリンにしても、奴が苦心惨憺してようやく作り上げた物だろう。それを俺は盗んだのだ……。ああ、俺はこれからどんな顔で光太郎に会えばいいのだろう……。  良心の呵責を今になって感じながら、そうかと言って今さら返す訳にもいかず、橘青年は頭を抱えて悶絶していた。幸か不幸か光太郎君は今日は学校に来ていないようで、橘青年は校門をうろつきながら、ああでもないこうでもないと心と身体を行ったり来たりさせていた。  と、そこへ背後から「あら、橘さん」という澄んだ声がして、橘青年が吃驚して振り返ると、木々の間からそそぐ木漏れ日の中で、心持ち首を傾げるようにして音無嬢が佇んでいたんだ。 「橘さんも中庭へ散歩に来られたの」  ちょっと鼻にかかった甘い声の中に、まつげの長い、黒目の大きい、少し毒を含んだような音無嬢の瞳が橘青年を捉えると、彼はもうそれだけでさっきまでの葛藤なんてアッサリと忘れて、それどころか憧れの彼女が自分の名前を覚えていてくれたということにスッカリ舞い上がっちゃったんだから、情けなくも滑稽な話だよ。しかしそうは言っても彼をあまり責めるのは酷かもしれないね。考えてもごらんよ。君だって自分の大好きな若い女優からニッコリと微笑みかけられて、自分の名前をその口唇から囁かれたら、大抵のことは飛んで行っちゃうだろう。実は僕もそうなんだけれどね。ハハハ。  その後会話にならない会話をツギハギにしながら、橘青年は「先生からこれまでの授業内容やら色んな書類なんかの一式を渡すように言われているから、第三自習室で待っててもらえないか」という、音無嬢と二人きりになるために頭を捻って考え付いた台詞を何とか言うと、光太郎君のヴァイオリンを持って彼女の元へ向かったんだ。  その時にはもう彼に罪悪感なんて欠片も残っちゃいない。むしろウキウキする心を抑えることに神経を使っていたんだからね。ともあれ、ようやく音無嬢と二人きりになれた橘青年は、待ちきれない様子で単刀直入に切り出した。 「音無さん、僕はあなたに謝らなくてはなりません。というのも僕はあなたと二人きりになりたいがために嘘をついていたのです。先生から書類を預かったというのもすべてデタラメです。しかしどうか許して下さい。こうでもしなければ、あなたと話をすることも叶わなかったでしょうから」  それからは聞いているこっちが恥ずかしくなるような美辞麗句の嵐と、沙翁の舞台劇に出てきそうな熱っぽい賛句の洪水で、普段の橘青年なら絶対に言えなかっただろうけれど、いやはや恋とは人をこうまで大胆にさせるものなんだね。  そうした橘青年の情熱的な口上とは対照的に、音無嬢は初めこそ少し戸惑いを見せたものの、話の意図が分かってくるにつれて、いつも通りの穏やかで冷たい微笑みを浮かべて言ったんだ。 「橘さん、お気持ちは大変嬉しいのですけれど、今の私は音楽に一途に精進しようと考えていますので、申し訳御座いませんが、あなたとお付き合いすることは出来ません」  判で押したような音無嬢の言葉は、いかにも有名人らしい誘いを断ることに慣れた言い方だった。しかし橘青年、この程度のことは予測済みで、光太郎君のヴァイオリンを取り出しながら舞台俳優じみた仕草でなおも続ける。 「ええ、もちろんいきなりこんなことを言われては困ってしまうのも当然です。どんなに尊い想いであっても言葉にした瞬間、途端に嘘っぽく軽薄な響きを持ってしまうように、例え一万の言葉を尽くしても僕のこの気持ちを伝えることは出来ないでしょう。  そこで僕はあなたへの想いをこのヴァイオリンに託すことにしたのです。これは僕の気持ちをあなたへ届けるために、僕自身が作ったものです。どうか聴いて下さい」  橘青年は光太郎君がそうしようとしていたように『愛の挨拶』を弾いたんだ。ピアノによる範奏こそなかったけれど、それでも音無嬢の気を引くには十分だった。ヴァイオリンの音が部屋に響き始めた途端、それまでさして興味を持ってなかった彼女の瞳がみるみるうちに妖しく輝き出し、先日の橘青年の心境そのままに、音無嬢は演奏が終わった後もうっとりと夢見るように音色の余韻に陶酔していた様子で、頃良しとみた橘青年は光太郎君が語った音楽理論をそっくりそのまま自分の考えとして音無嬢に語ったんだ。これは極めて効果的だったね。予想した通り彼女は光太郎君の理論に夢中になった。何も知らない音無嬢は、今まで聞いたこともないくらい斬新で、誰よりも音楽の本質を言い当てているその言葉を、目の前にいる橘青年の言葉だと素直に信じて、すっかり彼の罠に嵌ってしまったんだ。橘青年はまんまと光太郎君の計画を乗っ取り、それを成功させた訳さ。彼も中々の悪党だよね。ハハハ。  その後二人は光太郎君のヴァイオリンを弾きあったり──橘青年は光太郎君流の──音楽を語りあったりしながら、翌日また会う約束をして別れた。時刻は八時前。外は大降りの雨が降っていて、音無嬢は自宅から迎えに来た車で、橘青年は教室にあった置き傘を持ってそれぞれの帰途についた。  橘青年は光太郎君のヴァイオリンを胸に抱いたまま、今日あったことをまるで夢のように思いながら、胸の奥で何度も反芻する度に浮き上がる心を楽しんでいたんだ。土砂降りの雨の中にあっても彼の心は春の日差しのようで、ぬかるんだ足元でさえ軽やかだった。  と、そこへ橘青年の行く手を阻むように誰かが立っていることに気付いて、彼は歩みを止めた。月は雨雲に隠され、郊外の真っ暗な夜道には二人の他に人気はなく、傘に当たる雨音だけがいびつに響く。目の前の人物は人相も風体も分からない影だけの存在であるかのように黒く、その中にあって白目だけが浮き上がったようにギラギラと光っている。 「待っていたよ。君を」  影の中から赤い口が開き、若いのか年寄りなのか分からない低い男の声が聞こえると、橘青年はさっきまでの暖かい気持ちから、一気に冷や水を全身に浴びたような寒気に襲われた。 「お前は誰だ」 「分からないのか。おれだよ。光太郎だ」  雲の合間から光る雷鳴が轟きとともに辺りを照らすと、幽鬼のようなモノスゴイ形相をした光太郎君が一瞬あらわになって、橘青年は思わず後ずさる。 「こ、光太郎、こんなどしゃぶりの雨の中で傘も差さずにどうしたんだ」 「どうしたも何も言っただろう。君を待っていたと。理由は説明するまでもなく分かっているはずだ」 「……さあ、見当もつかないな」  とぼける橘青年に、光太郎君の影は全身を痙攣させるほどの怒りをもってその存在感を増大させ、あたかも巨大な黒い壁のごとく橘青年の前に立ちふさがり、木々の梢を震わせる強風に乗せて「ふざけるなッ」と怒鳴り散らした。 「おれのヴァイオリンを盗んだ奴が貴様だということはとっくに承知しているんだッ。おれが何故今日学校に来なかったか分かるか。おれのヴァイオリンを安物のヴァイオリンとすり替えて盗んだ奴を見つけるために町中の楽器店を回っていたからだ。  本当は最初から薄々感づいてはいたんだ。あのヴァイオリンはお前にしか見せていなかったんだからな。しかしおれはその可能性を否定し続けた。『あいつはおれの無二の親友だ。あいつがそんなことをするはずがない。きっとうっかり誰かに喋って、その誰かが盗み出したに違いない』とな。  ところがやっと件の楽器店を見つけて店主に問いただしてみればどうだ。聞けば聞くほど、替え玉のヴァイオリンを買った奴の特徴がお前にそっくりじゃないか。話を聞こうと学校に行けば、お……、お前は……、音無嬢と……ッ」  光太郎君の声がだんだん震えだして、涙声になる。 「お、おれは愚かな男だと自分でも分かっている。しかしおれは……、お前だけは親友でいてくれると……、お前だけはおれの味方でいてくれると……信じていたのに……ッ」  ここまで聞くとさすがの橘青年も心が痛んだ。自分は光太郎君に土下座して許しを請うべきなのではないか。謝っても光太郎君との友情は戻らないかもしれないが、真っ当な人間として道を歩きたいなら今しかないのではないか、とね。  しかし橘青年が良心を取り戻そうとしていたそのとき、ウフフッ、という笑い声がどこからともなく聞こえたような気がして、その声に引き戻されるように彼は再び考え直した。  ──今さら謝ってどうする。俺は一度道を踏み外した人間なのだ。それに今謝ってしまえば、ヴァイオリンは光太郎の下に戻り、音無嬢も奪われてしまう。そして俺は何もかもを失うのだ。  本当にいいのか、それで。俺は本当にそんな結末を望んでいるのか──。  そう考えると、橘青年の心に勇気とはとても呼べない開き直ったしたたかな意思が湧き起こってきて、彼は光太郎君に対する今までの鬱憤と「どうにでもなれ」といったやけっぱちな気持ちとを混ぜ合わせながら、光太郎君と正面から対峙した。 「ふん。何を言っているのかさっぱり分からないが、このヴァイオリンは正真正銘俺のものだ。何があったのか知らないが、いいかげんなことを言わないでもらいたいな」 「よ……、よくもぬけぬけとッ。おれのヴァイオリンと……、おれの女も奪い取っておきながらッ」 「おいおい、いつから音無嬢がお前の女になったんだ。それにヴァイオリンが盗まれたと言っているが、お前の手に持っているものは一体何なんだ」 「さっきから言っているだろう。これは今お前が持っているおれのヴァイオリンとすり替えられたものだと。お前は上手くやったつもりなのだろうが、音を聴けばすぐに違いがハッキリと分かるんだからな」 「アッハッハ。『音の違い』ね。お前はいつも自分に不都合なことがあると、そうやって何かのせいにする」 「な……何だとッ」 「お前は自分の未熟さを認める勇気がないんだろう。だから楽器が悪いだの、気分が乗らないだのと難癖をつけて、結局は自分の都合のいいように逃げているに過ぎないじゃないか。 今度の話だって、たまたま上手く弾けたときの音色を自分で過大評価して、その音が出なくなったらヴァイオリンが盗まれたと騒ぎ立てているだけじゃないのか。恥ずかしいとは思わないのかね、全く……」  滔々と喋りながら流れるように相手へ必殺の一撃を繰り返すその口撃は、実に頭のいい橘青年らしい語りではあったけれども、しかしこのとき彼は致命的なミスを犯していたんだ。すなわち、議論や口喧嘩では「完璧過ぎる勝ち方をしてはならない」ということさ。それがどんなに危険なことか彼は気付かないまま、いつも戸惑わされてばかりいる光太郎君に対して、自分が優位に立ったことで何となく勝ったような気分になって、光太郎君を得意げに見下ろしていたんだ。  ついさっきまで人ならざるモノの気配を漂わせていた光太郎君は、急に大人しくなって黙ったまま動かない。何も言い返せないのか、情けない奴め。と橘青年がいくぶん戸惑いながら勝利を確信したのもつかの間。彼は光太郎君の様子が先ほどとは違うことに気が付いた。 冷たく激しい豪雨の中、光太郎君はその気配を急速にしぼませてゆく。月は雲に隠れて、光太郎君の身体は闇と同化するように暗い影に覆われて見えなくなる。にもかかわらず、膝下だけはぼんやりと斜めに照らされていて、しかし灯りが何処から来ているものなのかは分からない。  ここに至って、橘青年は身体の芯から恐怖を感じた。  ──何かが違う……、さっきまでの光太郎はいびつながらもまだ人の気配を残していた。しかし今の奴は……「本当に」人間ではなくなってしまったかのような──。  次の瞬間、光太郎君が橘青年にいきなり飛びかかった。それは怒気や殺気を孕んだ人間というよりは、もっと本能的な獣じみた動きだった。 「ま、待て。光太郎ッ」  ぬかるみに押し倒されて馬乗りにされた橘青年が必死に叫ぶ。再びの雷鳴に、光太郎君が手に持っている何かが光り、それを橘青年に向けて振り下ろそうとしている。 「ウワァーッ」  光太郎君が持っているものが何にせよ、おそらくは刃物だろう。橘青年は必死になって抵抗した。光太郎君の手を掴み、右に左に無我夢中でかわす中にあっても、光太郎君の顔はまるでそこだけ黒く塗りつぶしたかのように影になっていて、表情を見ることさえ出来ない。だからこそ余計に得体の知れない化物に襲われているように思えて、橘青年は恐怖に駆られながら無茶苦茶に手足を動かした。 「畜生ッ」  吹っ切れた橘青年が掛け声と共に体勢を入れ替えると、光太郎君が持っていた刃物を奪い取って叫んだ。 「お前なんかにッ」  それを相手に向けて振り下ろす。 「ヴァイオリンもッ」  振り下ろす。 「音無嬢もッ」  振り下ろす。 「渡すものかッ」  最後にもう一度。  冷たい大雨が、橘青年の頭からうなじ、背中を通って足先まで流れてゆく。雫に打たれて囁きあう木々の中心に、肩で息をする彼が敵を討ち取った武者のように立っていて、その視線の先に、身体から漏れ出る血で水溜りに赤い渦を描く光太郎君の死体があった。 「おい……光太郎……」  言いながら、何度も何度も光太郎君の身体をゆするけれども、光太郎君はピクリともしない。  橘青年は事ここに至ってようやく我に返った。彼は急いで近くの家に助けを求めるべく走って──と思いきや、そうじゃないのがこの男の本性さ。  ──俺が悪いんじゃない……。光太郎の方が襲い掛かってきたんだ。仕方のない正当防衛だったんだ……。 そんなことよりも早くこの場から逃げなければ……。姿を見られでもしたら一巻の終わりだ。 ……イヤイヤ、この大雨だ。人がいることは分かっても人相までは分かるまい。落ち着け……。とにかく落ち着いて、決定的な証拠だけは残さないようにしなくては──。 といったようなことを、動揺で目まぐるしく乱れた呼吸になりながらも冷静に考えられる辺りが、橘青年の頭の良さたる証なんだろうね。状況に応じて瞬時に頭を切り替えるといえば聞こえはいいが、マア、要するに自分のことしか考えていない悪党だね。ハハハ。 そして彼は手にしたナイフの指紋を急いでふき取り、辺りを窺った。周囲は林に囲まれていて灯りは見えない。聞こえるのは激しい雨粒が木々の葉に打ちつけられる音ばかりで、 人がいる気配は全くない。それでも細心の注意を払って、彼はもう一度自分を取り囲む闇の中を見つめた。  ──誰かに見られただろうか……。いや、この大雨にこんな町外れを、しかも夜中に歩いている奴はいないだろう。多少の痕跡もこの雨が消してくれるのが不幸中の幸いか……。  橘青年はそう結論付けると、めったに人が通らない林に向けて走り出そうとして──、雨と泥にまみれたヴァイオリンケースが転がったままなことに気が付いた。さっきまで自分のものであると彼自身も思い込んでいた、光太郎君のヴァイオリンがね。  僅かな逡巡の後、橘青年はケースを胸にしっかりと抱えて走り出した。中身がどうあれケースは自分のものなのだから、現場に証拠を残さないようにしようという彼の論理に従えば、どこにも迷う必要なんてないにもかかわらず、彼は心の奥で「俺が悪いんじゃない……。奴の方から襲って来たんだ……。俺は決して強盗なんかじゃない……」と、家に着くまでずっと、誰かに向けて言い訳をするように、自分の良心と必死に戦っていたのさ。  次の日の朝、橘青年は猛烈な頭痛と悪寒を抱えて布団に包まったままガタガタと震えていた。当然のことながら昨夜は一睡も出来ず、光太郎君を殺してしまったことやこれからのことを考えているうちに、何らの答えも導き出せぬままトウトウ朝を迎えてしまったんだ。  ――光太郎の死体はもう見つかった頃だろうか……。自分の所へもキットすぐに刑事が聞き込みに来るに違いない。だからこそ平生と同じように振舞わなくては……。そのためには今すぐ起きて学校へ行かなければ……。イヤイヤ、この最悪な体調のまま行ったところで、普段どおりに振舞えるとは到底思えない。かえってボロを出すだけになりはしないだろうか……。しかし今日に限って学校を欠席したら、刑事に不審に見られるに違いない……。そうだ、刑事といえば証拠は現場に残っていないだろうか。それにアリバイを何とか誤魔化せるよう考えなくては――。  とマア、こんな具合に輾転反側しながらああでもない、こうでもないと考えているうちに時刻は十時を過ぎてしまっていて、橘青年は起きることも寝ることも出来ずに、ああでもないこうでもないと苦悶を繰り返すばかりだった。おまけに昨日の大雨に打たれて風邪を引いてしまったらしく、熱のある頭は何度も何度も思考が堂々巡りするばかり。  ――ここにこのままいても埒があかない。やはり起きて学校へ行くべきだろうか――  何度目かの思考が巡ってきたとき、果たして下宿先の女中が橘青年の部屋へ声をかけてきた。 「橘さん――。橘さん――。起きていらっしゃいますか。警察の方が来て、お話しを伺いたいそうなんです」  ――来たッ。  その声を聞いた橘青年は心臓を鷲掴みにされたかのようにイヨイヨ身体の震えを大きくして、それでもなんとか咽喉の奥から搾り出すような声で「今開けます」と答えると、自室として間借りしている六畳のふすまを開けた。  そこにはいかにも人の良さそうな、柔和な微笑を浮かべた恰幅のいい年かさの男と、それとは正反対の背の高い、神経質そうな細い眼を油断なく光らせた若い男が、連れ立っていたんだ。 「おはようございます。私は○○警察署の富永と申します。こっちは部下の若林です」  年かさの刑事がその見た目どおりの穏やかな声で手帳を見せるも、橘青年は口の中でモゴモゴと「ああ」とか「どうも」とか、返事にならない言葉を返すので精一杯だった。 「オヤ、どうされました。酷く具合が悪そうで」 「いえ、その……」  光太郎君に言い返したときの切れ味鋭い迫力は鳴りを潜め、口はドモり、眼は泳ぎ、橘青年は刑事が自分の所へ来たというだけでもう、蛇に睨まれた蛙よろしく逃げ場もなく絶体絶命捕まえられたような気になってしまったんだから、情けないやら正直なのやら。マアいずれにしても褒められたものじゃないがね。ハハハ。  ともあれ橘青年、やっと「ちょっと風邪を引いてしまったもので」と思い出したように答えると、富永刑事はさも気の毒そうに「ハハァ、そうですか。いや、昨日はすごい大雨でしたからな」と同情するまなざしを向けて続けた。 「傘はお持ちじゃなかったのですか」 「エッ……」 「いえね、さっきここの御主人に窺ったのですが、あなたは昨晩土砂降りの雨の中、傘も持たず全身ずぶ濡れで戻ってこられたそうじゃありませんか。しかも何を訊いてもうわのそらで、食事も風呂も入らず早々に寝床に引き払ってしまったと言って、御主人あなたのことを心配しておられましたよ」 「そ、そうですか……。いえ、その、傘は……、そう、傘を風に持っていかれまして。それで……」  光太郎君との関係を訊かれるものとばかり思っていた橘青年は、この予想外の質問に、まるで背後からいきなり指の関節を逆に曲げられたような気分になった。それでもマア何とか咄嗟に言い訳を考えて答えるには答えたんだが、彼は今に至るまで傘のことなんか頭からスッポリ抜け落ちてしまっていたんだ。  ――やられたッ。光太郎を殺したとき、一刻も早く立ち去りたい一心で傘のことなんかまるで考えていなかったッ。糞……、迂闊だった……ッ。  橘青年の顔から、自分でも分かるくらい血の気が引いていって、イヨイヨ万事休す……。かと思いきや、富永刑事は「ああ、分かりますよ」と最前と同じニコニコした笑みを浮かべるばかり。 「イヤ、私もよくやっちまうんです。この間も――」  と話を続けようとしたところへ、隣にいた若林刑事が「富永さん」とたしなめるように一言告げると、富永刑事は「失敬失敬」とばつの悪そうな顔つきを取り繕うように真面目な顔をして、咳払いとともに橘青年へ向き直った。 「橘さん、あなたには少々辛いことをご報告しなくてはなりません。……あなたのご友人である坂上光太郎さんが、昨夜何者かに殺害されたのです」  普通、殺人犯が刑事からこういったことを言われたときはスッ惚けて驚いてみせるのが定石なのは、探偵小説や活動なんかでもよくあると思うんだが、橘青年は最前の不意打ちをくらったときからもう、そんな余裕なんてまるでなくて、ただただボンヤリと当たり前のことであるかのように頷いてみせるのが精一杯だったんだ。 「オヤ。あまり驚かれていませんね。もうどなたかにお聞きだったのですか」 「ええ……、まあ……」 「そうでしたか。ところで、昨日の晩八時頃、あなたはどこで何をしていましたか」  いきなり急角度から事件の最重要なところへ斬りかかられて、橘青年は思わずギョッとして身を縮こませた。咄嗟に「家に帰っている途中でした……」と答えたものの、橘青年は富永刑事の瞳が妖しく光ったのを見逃さなかった。ドンドン心臓の鼓動が速くなり、息遣いも荒くなってゆくことを自覚しながら、モウ彼にはどうすることも出来なくなっていたんだ。 「そのとき誰かと一緒でしたか」 「イエ……」 「何か乗り物に乗ったりはしませんでしたか。都電とか、乗合とか」 「イエ……何も……」  橘青年の返答を聞いて、富永刑事は部下の若林刑事とボソボソと小声で相談しているようだったが、すぐにニッコリとした微笑とともに橘青年へ振り返ると、まるで医者が幼児に向けてコワクナイヨと言うように、穏やかに声をかけてきた。 「橘さん、お辛い気持ちのところ申し訳ないのですが、あなたは被害者の唯一の友人だったそうで。色々とお話を窺いたいので、署までご同行願えませんか」  ──言うと思った……。これに同意すれば、連中は適当な理由をつけて俺を牢にブチ込むのだろう……。イヤだ……。まだ俺は自由でいたい……。  橘青年はイヨイヨ戦慄した。「署までご同行願えませんか」などという台詞は、それこそ探偵小説で刑事が犯人を逃がさぬよう囲って閉じ込めるときに使われる、定番中の定番の台詞だからね。  熱で朦朧としていた橘青年も、これには迂闊に答えず「すみません……。ちょっと熱で頭がボンヤリしていて、まともな受け答えが出来そうにありませんので……」とか何とか言って逃げたんだが、彼にとって(さいわい)だったのは、熱が出ているのも具合が悪いのもすべて本当に見えたということで、こうなると富永刑事としても無理強いする訳にもいかない。 「フム……。それはいけませんな。仕方がない。日を改めてまた伺います」  思いの外アッサリと帰ろうとする二人を見て、橘青年は内心安堵のため息をついていたんだが、ホッとしたのもつかの間。富永刑事は「ああ、そうそう」と、忘れ物を思い出したくらいの気安さで振り返ると、橘青年にニッコリ微笑みかけた。 「坂上さんが何者かに殺されたことを、どなたからお聞きになったのですか」 「エッ……、イヤ、それは……」  二度目の不意打ちに、橘青年はまたもたじろいだ。そうしてモゴモゴと早口で何かを呟いて下宿先の主人の名を告げると、富永刑事はわざとらしく見えるほどに大仰に顔をしかめて言った。 「それは妙ですな。御主人は昨夜から今朝に至るまでずっと君とは顔を合わせていないそうなんですが」 「じゃ、じゃあ僕の勘違いです。多分、夢うつつに誰かの話し声が耳に入ったんでしょう」  上目遣いに問い詰めるような眼差しを向ける富永刑事に、橘青年は冷や汗を流し流し、口をぱくぱくさせ、しどろもどろになりながら、最後の知恵を振り絞って答えた。  それを聞くと富永刑事は「なるほど」と最前の笑みを取り戻しながら続ける。 「合点がいきました。イヤ、つまらないことを訊いて申し訳ない。どうも私は子供の時分から少しでも気になることがあると調べずにはいられない性質でして」  ご自愛なさって下さいという言葉を残して去ってゆく二人の刑事を見送って、橘青年は膝から崩折れた。  ――もう駄目だ……。あの富永という刑事は俺を完全に疑っている。若林という若い奴もそうだ……。きっと明日の朝には現場にあった傘を持ってきて俺の指紋を照合しに来るに違いない……。俺は刑務所に入れられて死刑になるのだ……。あぁ……光太郎、すまない。俺は取り返しのつかないことをしてしまった……。  と、今さらになって人としての良心を取り戻した橘青年は、さめざめと涙を流し、悔いを改め……オヤ、君は彼に同情しているようだね。ハハハ。君はまだ橘という青年の人間性を理解していないのかい。人を殺しておきながら、わが身に法の手が伸びようとすると途端に気弱になって、自分勝手な事故憐憫を罪悪感で覆っているだけの小悪党だよ。マア、この後の話を聞けばすぐに君の評価も変わるだろう。  橘青年は布団に潜り、己の犯した罪と罰に恐れ慄きながら一日中震えて過ごした。そうして夜になると、あの音無嬢が彼を訪ねて来たんだ。驚く橘青年に、彼女は「昨日また会うと約束したでしょう。それなのにあなたは学校へ来ていないんですもの」と淡々とした声で小首を傾げてみせる。  当然、彼にはそんなことを覚えていられる余裕なぞなかったんだが、今まで生きてきた中で人生のドン底まで落ちていた橘青年にとっては、まさに地獄に仏だったろうね。イヤ、地獄に女神というべきかな。ハハハ。 「お、音無さんッ。僕はもう駄目です。人間として最低のクズです。僕の犯した卑劣で浅ましい行いを、どうか聞いて下さいッ」  橘青年はほとんど縋り付く勢いで音無嬢に懇願した。  戸惑いを見せる音無嬢のことなどおかまいなしに、彼は今までのことを全部洗いざらいブチまけたんだ。あのヴァイオリンが光太郎君の物であること。音楽と音無嬢への二つの情熱によって、光太郎君がそれを創り上げたということ。自分の語った音楽理論が光太郎君からの受け売りに過ぎないということ。そして自分が光太郎君のヴァイオリンを盗み出し、諍いの末に彼を殺害してしまったこと……。 「僕はもうおしまいです。僕は近いうちに逮捕されるでしょう。その前にあなたに真実のことを話しておきたかったのです。僕はつくづく自分というものが嫌になりました。あなたを騙し、自分を騙り、あげくの果てには光太郎をこの手で……」  ウッ、ウッ、ウッ――。と、零れ落ちる涙をぬぐうこともせず、橘青年は嗚咽と共に音無嬢へ懺悔する。  しかし音無嬢はそんな彼を見て、白けたような、呆れたようなため息をひとつつくばかりで、一向に動じる気配がない。そればかりか、つまらなそうな、退屈な三文芝居を見せられたような目で橘青年を見やると、小馬鹿にしたように鼻で笑い、しかしながら優しく甘い、慈悲のこもった声で彼に言ったんだ。 「それで、橘さんはあのヴァイオリンが喪われてしまってもいいとお考えになっていらっしゃるの」 「エッ――」 「経緯はどうであれ、あのヴァイオリンは世界中のどの音楽史の中にも未だかつて存在したことのないほどの強烈な魅力を持つ名器、いえ神器ですのよ。あなたが逮捕されれば、その神の器たるヴァイオリンは警察に押収され、金輪際陽の目をみることなく、暗い棚の中でただ朽ち果ててゆくのを静かに待つだけになるでしょう。そんなことが許されていいと、あなたは本気でお思いなの」  音無嬢に罪を告白すれば、きっと自分は軽蔑され、怖れられ、二度と口も聞いてもらえぬだろう。けれどそれで良い。そのまま打ちひしがれた気持ちで警察へ自首しよう――あるいはもしかしたら、罪を赦し、受け入れ、二人で一緒に逃げましょうと言ってくれるかもしれない――などと、悔恨とわずかな期待を抱いていた橘青年は、この音無嬢の予想だにしなかった返答を聞いて、一瞬何を言われたのか理解出来ず、思考が飛んでいきそうになった。 「卑しくも音楽家であるのなら橘さん、あのヴァイオリンがどれほどの価値あるものか、そしてそれを喪ってしまうことが世界中の音楽家にとってどれほどの損失であるか、お分かりになるでしょう」 「そ、それはそうかもしれませんが……」  未だ思考が追いつかない橘青年へ畳み掛けるように音無嬢はグイと迫り、そして慈しみに満ちた微笑を彼へ向けて言った。 「大丈夫。あなたは私が守ってあげます」 「エッ――」  橘青年は再び驚いて、目を円くしながら音無嬢を見やった。 「私の家は政財界に顔が利きますの。もちろん警察にも。私からお父様へ話せば、あなたへの嫌疑など塵のように消えてしまいますでしょう」 「し、しかしそれは……、イエ、いけません。いけません。僕は現場に証拠を残してしまったのです。昨日学校へ持って行った傘なんですが、僕は光太郎を殺した際に、一刻も早く現場から立ち去りたい思いから、つい失念してその傘を現場に残したままにしてしまったのです。いくら音無さんのお父上でも、あれほどハッキリとした証拠を覆すのは難しいでしょう……」 「それで、あなたはそのことを刑事にお話になったの」 「いいえ。風で傘をだめにしてしまったと――」 「アリバイは」 「何も答えていません。具合が悪くて、刑事たちはまた日を改めて来ると言って去りました」  音無嬢はそれを聞くと、狐のような笑みを浮かべて、突然ケタタマしく笑い出した。 「ホホホホホホ。それなら大丈夫ですわ。いいですか橘さん。今度刑事が来たらこう答えるのです。自分は事件当夜、私の家で食事をとりながら私と熱心に音楽談義をしていたと。  今まで私とは接点がなかったけれど、そうですわね……学校で偶々サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』について意気投合し、そのまま夕食に呼ばれたのだと。  そうして帰りの車は遠慮して歩きながら帰っていた途中、傘をだめにしてしまって、仕方なしにズブ濡れで帰ることにしたと」  よろしいですねと念を押す音無嬢に、しかし橘青年は項垂れたままモゴモゴと態度をはっきりしない。 「橘さん、よろしいですね」  音無嬢の強い口調に流されるまま、橘青年はどうにか頷き返すと、音無嬢は厳めしい教師のような顔付きで「よろしい」と一言告げて、背を向ける。 「では、刑事が見張っているかもしれませんから、私はこれで帰りますが、橘さん、くれぐれも油断なきようお願いしますよ」  最後にそう告げると、音無嬢は去っていった。  あとに残された橘青年は、突然の事態の変わりようにアタマが追い付かない心持ちだった。あたかも回していたレコードが急にまったく別の曲を流し始めたかのようにね。  静かになった自室で状況の整理をしようと試みるも、元々高かった熱がさらに上がってゆくばかりで、橘青年はウーンと唸りながら蒲団に倒れて、そのまま意識を失ってしまったんだ。  次の日、橘青年が目を覚ますと、時計の針はとうに昼過ぎを差していた。  熱は幾分下がっていたものの、蒲団から動く気にもなれず、宿の夫婦のお見舞いも、女中の看病もすべて断って、彼はただふて寝するような心持ちで「エイ、どうにでもなりやがれ……」と、やけっぱちになったり、そうかと思えば「イヤだ……。捕まりたくない……」と泣き事をもらしたりと、マア、情けないやら子供じみているやら。ともあれ典型的な小心者には違いないね。ハハハ。  ところが夕方を過ぎ、夜を越え、次の日の朝になっても富永警部はやって来ない。  橘青年は針の筵のような心地で自室をウロウロしながら「どうせ逮捕されるのなら、逃げられるところまで逃げてやろうか……」と思ったり「イヤイヤ……、音無嬢がキット何とかしてくれるはず。今は下手に動かない方がいい……」と考え直したりと、相変わらずの優柔不断と臆病風を同時に発しつつ、ああでもない、こうでもないとウンウン唸っていたんだが、要は自分から何かしら動く度胸がなかったんだね。ハハハ。  そうしてまた夕方が来て、橘青年の元へ音無嬢が訪れると、彼はまるで主人の帰りを待ちわびた飼い犬のようにしっぽを振りながら、音無嬢の言うことをひとつも聞き漏らさぬようにとクマで落ち窪んだ眼をギラギラ光らせていたんだが、その顔付きといったらマア、地獄を這いずる亡者そのもの、あるいは永遠に彼岸を彷徨う幽鬼なんて形容がピッタリの酷いもので、しかし音無嬢はそんな彼を見ても呆れたような、嘲笑するようなため息をついただけで眉ひとつ動かさないんだから、これほど恐ろしい女性も中々いないよ、君。 「橘さん、安心して下さい。お父様に頼んであなたを捜査対象から外すようお願いしましたから、警察ももうやって来ないでしょう」 「エッ──」  音無嬢のそっけない、必要なことだけを伝えた言い方に、橘青年は最初何を言われたのか分からなかった。 「ですから、あなたはもう何も心配することなく、これまでの生活を続けられるということです」 「ソ……、そんなタッタ一言で……」  人道に悖る殺人という大罪を犯し、法律的にも倫理的にも社会的にも赦されぬ十字架を背負ってしまった橘青年をほとんど一顧だにせず、平気な顔をしながら、たかが電話一本ですべて無かったことにしてしまう音無嬢の凄然たる物腰に、橘青年は一種の恐怖すら感じた。  ──何という傲岸不遜であろう。物事を自分の思い通りに進めるためには、倫理、道徳を無視することなど厭わない。しかもそのことに対する後ろめたさも良心の呵責もまったく感じていない……。  これこそ本当の悪魔……。音無嬢は現代に甦ったサロメなのではないかしらん──。  しかしほとんど同時に、彼はこうも思った。  ──ハハハ。何を言っていやがる。自らの目的のために人殺しまでやってのけた俺も、彼女と同じ穴のムジナじゃないか。それに敵に回すと恐ろしいが、味方でいてくれればこんなに心強い相手もいない。そうだ。俺は音無嬢と共に生きることが出来るのだ。俺を捕まえたければ捕まえてみるがいい。富永警部も、若林とかいう若い刑事も、そして他ならぬ光太郎も、ザマア見やがれ……。ハハハ──。  こうなるともう、橘青年は開き直った強かさとヤケクソ気味な大胆不敵さで、音無嬢にヒヒヒッと暗い笑みを向けながら礼を述べたんだが、どうだい? これでもまだ彼に同情するかい? ……ハハハ。そう。君の言うとおり。彼は小心者のろくでなしだよ。 「音無さん、僕が間違っていました。今まで僕は人並みの良心と協調性で周囲と波風立てないよう、慎重に生きてきたんですがそのせいでどれだけ多くの損を被ってきたことか、今になってようやく気付くことが出来ました。同時にそんなものには何の価値もなく、却って自らの人生を無駄にすり減らしてしまうだけの日和見主義に過ぎないということも。  音無さん、僕はもう自分のやったことなんかに気を取られるのは止めにします。後悔なんて馬鹿馬鹿しい。誰が何と言おうと、あのヴァイオリンは僕のものです」 「ホホホホホ。その意気ですわ、橘さん。けれど、私の協力あってのことだということをくれぐれも忘れないで下さいましね」 「忘れるはずがないじゃありませんか。音無さんは言ってみれば、僕にとって命の恩人みたいなものですからね。  いや、実際に命の恩人です。あなたがいなければ、僕はとうに捕まって牢にブチ込まれていたでしょう。それは音楽家としての死を意味します。僕はまだ未熟にして、音無さんのようにプロの演奏家という訳ではありませんが、それでも音楽に懸ける情熱は人一倍持っていると自負しています。ですから音無さん、あなたは二重の意味で僕の命の恩人なのです」 「ホホホ。でしたらプロとしてデビュウなさったらよろしいわ。  先日、ロシヤの著名な演奏家であるピョートル・ペドロフスキー氏がお亡くなりになったでしょう。彼の公演が一ヶ月後に**帝国劇場で開かれる予定だったのですけれど、急なことで、演奏会の予定が空いてしまいましたの。代わりといってはなんですが、橘さんさえよろしければ、舞台に立ってみませんか」 「エッ、僕がプロに……」  この音無嬢の思わぬ申し出に、橘青年は一も二もなく飛び付いた。そうして運命とは下っているときはドン底まで落ちてゆくが、上り調子になるとこんなにも僥好続きになるものかと、わが身ながら不思議な感慨が胸に迫ってくるようだった。  さて、それからの一ヶ月をどう表したものか。間違いなく橘青年の人生にとって最高な期間であったことは間違いないがね。何せ欲しかった女も、ヴァイオリンも、名声さえ手に入れようというのだからね。  事実、彼は幸福だった。音無嬢となかば同棲するようにかつての光太郎君の家に籠り、朝から二人で光太郎君のヴァイオリンを一日中弾いては、疲れたら気ままに眠る、というような生活をずっと続け、音無嬢が光太郎君のヴァイオリンを弾くたびに、情緒溢れる音色で自分への愛を睦いでくれていることを確信して、橘青年はウットリと何度も幸せを味わったものだった。  ところがそんな蜜のような日々は、ほんの些細な、チョットした気まぐれがきっかけで、終局へと向かうことになる。  今まで二人が演奏してきたのは、例えばクライスラーの『愛の喜び』とか、ベートーベンの『ロマンス』といった、明るく、甘美な長調の曲ばかりだったんだが、暗い短調の曲は二人とも絶対に演奏しようとしなかった。  イヤ、もちろん光太郎君のヴァイオリンを手に入れて浮かれる気持ちはあったんだろう。けれどもお互いに示し合わせたわけでもないのに、二人は努めて明るい曲ばかりを選んで弾いていたんだ。妙な話だろう。短調にだってヴァイオリンの名曲は多いのに。  君はどうしてだと思うかね。……フム、暗い曲はどうしても殺人を思い出させてしまう……良心の呵責から逃げていた……。ハハハ。君は人がいいね。この二人にはもうそんな気持ちなんて残っちゃいないよ。光太郎君を殺したことだって、自転車で猫を轢いたくらいにしか思ってないんだから。  ……本当はね、怖かったのさ。愛の情熱や人生の希望を、こんなにも暖かく、慈しみ深く歌い上げてくれるこのヴァイオリンに、かなしみや怒りの感情をのせて演奏したら、いったいどうなってしまうのか。彼らの鋭い音楽的感性が、ほとんど本能的ともいえる警告と忌避を発していたんだろう。  その直感は正しかったのにね。幸福に慣れてきた橘青年は、つい新しい刺激が欲しくなって、チョットくらいなら大丈夫だろうと、短調の曲を弾いてみることにしたんだ。ドヴォルザークの「スラヴ舞曲第一〇番」を。  その甘やかで物哀しい旋律が響いた瞬間、橘青年と音無嬢は慄然として、全身の毛が総立ちになった。今までの真っ直ぐな愛を謳った楽曲とはまるで異なり、暗い所で密かに燃える(ほむら)のような、糖蜜に全身を浸されながら甘い甘い毒を少しずつ飲んでいるような、怖いくらい耽美で退廃的な悦楽に、えもいわれぬ恍惚を感じたんだ。  その快感は他の何よりも替えがたく、未知の刺激と熱情を血管へ直接注ぎ込むようで、演奏を終えた橘青年と音無嬢は、未だ興奮冷めやらぬ瞳でお互いを見やると、音無嬢は我慢出来ない様子で橘青年の手からヴァイオリンをひったくり、彼にピアノ伴奏を急かした。  光太郎君のヴァイオリンは交代で弾く約束だったので、橘青年も渋々ヴァイオリンを手渡したんだが、本音を言えば、彼ももっともっと弾きたくてたまらなかったんだ。ずっと。死ぬまで自分だけのものにしておきたいとね。  思えばこれが悲劇の始まり、いや序曲というべきかな。人間っていうのは、つくづく愚かだよね。あるいは自ら破滅へ向かいたがる因子が精神の奥深くに組み込まれているのかもしれないね。ハハハ。  そこからはもう、二人ともヴァイオリンを弾くこと以外何も考えられなくなっちゃって、朝も昼も夜も、学校はおろか、食事も、風呂も、睡眠さえ摂る時間を惜しんで狂ったように弾き続けたんだ。時おり換えの弦がなくなって町へ買いに行くときも、橘青年の頭の中は常に「早く帰ってヴァイオリンを弾きたい」という思いにとらわれていて、久しぶりに会った友人や知人が彼の変貌振りを心配しても、上の空で大丈夫だと答えるのみで、しかも自分の顔が嗤っていることに気付いてもいない。音無嬢も似たり寄ったりの状態さ。  こうなるともう、あとはドン底まで下ってゆくだけだよ。まるで阿片中毒者のように他の物事には目もくれず、ただひたすらにヴァイオリンだけを弾く日々がその後も続き、橘青年も音無嬢も、髪は乱れ、頬はやつれ、しかし血走った目だけは異様な熱情を灯したまま常にギラギラと見開かれていて、時おり気が触れたような金切り声を発しながら「イヒヒヒヒ」「オホホホホ」と哄笑する。しかも毎日長時間の演奏をするものだから、ヴァイオリンの腕だけはドンドン上達していって、より一層演奏に磨きがかかり、さらにヴァイオリンの音にのめり込んでゆく……といった塩梅さ。  そしてとうとう運命の日。  その日は橘青年のプロデビュウ公演の前日で、彼は担当者の人間と打ち合わせをするために家を空けていた。打ち合わせの要請自体は何度も打診があったんだが、橘青年はすべて無視していたんだ。そんなことよりも光太郎君のヴァイオリンを弾くことの方が、彼にとって何十倍も大事だったからね。  しかしさすがに前日くらいは一度話をしておかないと段取りが分からないから、橘青年は仕方なく打ち合わせに出掛けた訳なんだが、その間、光太郎君のヴァイオリンを音無嬢がずっと好き放題弾きっきりにしていると思うと、まるで恋人と友人を長い時間二人きりで過ごさせるような、不安とも嫉妬ともつかない感情がムラムラと沸いてきて、彼はトテモ気が気じゃなかった。しかも今まで一度も打ち合わせなんか行かなかったものだから、これまでの伝達や知っておくべき事柄なんかを全部まとめて聞かされるハメになっちゃって、彼はただただ早く終わりたいと願いつつ、担当者が不愉快な顔をするのもおかまいなしに、じれったさと苛立ちを露骨に表しながら、剣呑な態度で適当に相槌を打っていったんだ。  いてもたってもいられない心持ちで橘青年がようやく家に帰ったのは、すでに夜も更けたころだった。  はやる気持ちを落ち着かせようと、彼は家に入る前に一旦立ち止まり、深呼吸をしてから扉を開けた。  そこに一切の灯りはなく、月明かりがわずかにさす土間口から奥へ向かって、より一層濃い闇が誘うように手招いていた。二階からは松脂の切れた弓と弦の擦れ合うヴァイオリンの耳障りな音が絶え間なく鳴っていて、その雰囲気の異様さに、彼は生唾を飲み込んだ。  ──オカシイ……。この空気は尋常ではない。音無嬢は一体──  橘青年は首筋から背中にかけての毛が総立ちになるような恐ろしさを感じながら、暗闇の中、足音を鳴らさぬよう、一歩一歩、慎重に歩いていった。明かりを灯して気配を悟られればすぐにでも襲われそうで、しかし一体何に襲われるのか、考えるのも嫌だった。  そうして階段までたどり着くと、キキキィ──ッという硝子を爪で引っ掻くような、今にも擦りきれそうなヴァイオリンの音がイヨイヨ強く鳴り響く。旋律でなく、和音でなく、ただただ精神をかき乱すような音の連なりが、バロック様式よろしく果てしのない無限の音階となって、狂々(くるくる)狂々(くるくる)と、橘青年の鼓膜から脳髄、心臓へと駆け巡ってゆく。一歩上がるごとに階段は、ミシリ──、ミシリ──、とまるで家中に反響しているかのような軋んだ音を立て、ヤットの思いで彼が二階の扉の前に立った瞬間──。  ヴァイオリンの音が、ピタリと止んだ。  辺りはただならぬ静寂に包まれ、橘青年は立ちすくんだまま、イヨイヨ動けなくなった。息が詰まるほどの暗闇と沈黙の中から、身を潜ませた夜叉や幽鬼がジッとこちらを睨み、今にも襲いかかってくるのではと思わせるほどの奇怪な空気が四方から漂って来ていて、扉の向こうからは人ならざる獣のような気配が匂い立つほど濃密に迫ってきている 「……橘さん、お帰りになったの……」  全身を流れる汗に身体を冷やされながら、恐怖に怯え、進むことも下がることも出来ずに棒立ちになっている橘青年へ向けて、部屋の中から扉越しに、かすかに微笑みを含んだような音無嬢の声がした。 「エ、エエ。ただいま戻りました……」 「ホホホ。そんなところに突っ立ってないで中に入ればよろしいのに」  いつも立て付けの悪い音を立てる古い扉が、このときばかりは音もなくスゥーッと開いて、橘青年を招く。  部屋の中は、そこに存在するものすべてを取り込むかのような深い闇で満たされていて、あらゆるものの境界が曖昧になり、輪郭さえも融けて消えゆく黒い空間に、ただ音無嬢の白目だけがポッカリと宙に浮かんだように彼を見つめている。  ──何だ、この音無嬢の変貌は……。言葉遣いは平素と変わらぬように聞こえるが、その性質、雰囲気、佇まい、すべてが不気味に変質してしまっている……。まるで──  そこまで考えて、彼は身震いした。自分の考えがあまりにも恐ろしく、それでいながら的外れではない、むしろ本質を突いた真実であるように思えてならなかったので……。  猛獣の檻に入れられたかのような気持ちで橘青年が動けずにいると、不意に「ネエ……橘さん……」と、妙に甘えるような声音で、音無嬢が話しかけてきた。 「ナ……、何ですか……」 「私ネ……、今日一日ズットこのヴァイオリンを弾いていて、思いましたの。この神器は、私にこそ相応しい楽器なんじゃないかしらって……。だってこのヴァイオリンは、今まで一度も手にしたことがないくらい、私の想いや気持ちを真直ぐに表してくれる、本当にステキに私と相性がピッタリなヴァイオリンなんですもの。高い音から低い音まで、音それ自体が立体になって迫ってくるみたいに、胸の内の心象風景がパァーッと広がってゆくの。ドコまでも、ドコまでも……。果てしなく、無限に……。  私、弾けば弾くほど虜になったみたいなのよ。もう元の平凡で退屈な楽器には戻れないわ……。  だから……ネ、私に譲って頂戴……。いいでしょう……。ネ……。お願いよ……」  橘青年は戦慄した。イヤ、熱に(うな)された音無嬢の声が、闇と同化しながら橘青年の皮膚にベッタリと纏わりついてくるからではない。  それ以上に彼を恐怖せしめたのは、あのヴァイオリン──光太郎君を殺し、奪い取り、警察に目をつけられても決して手離さなかった──を、他人に横取りされるかもしれないという、彼にとって最も怖れていたことが現実になったからだった。 「イ……、イイエ。駄目です。いくら音無嬢の頼みでも、こればっかりは……」 「あらそう。だったらあなたのこと、警察に言っちゃおうかしら。ウフフ……」 「エッ──」  からかうような音無嬢の蓮っ葉な態度はそのままに、しかし冗談のようにも聞こえず、橘青年はこの唐突な発言に真意をはかりかねて、何も言い返せなかった。 「アラ、どうしたの橘さん。黙り込んじゃって。何も可笑しなことはないでしょう。だって私がお父様から警察へ手を回していなければ、あなたは今ごろ刑務所の中ですのよ。加えて私はあなたのプロデビュウの足掛かりを整えてまであげたというのに、あなたは私に何の返礼もしないでいるばかりか、私のホンのちっぽけな願いさえ、断ろうというのですもの。こんな不義理な扱いはないわ。そうでしょう」 「ソ、それは……」  そうかもしれませんが、と言いかけた橘青年は、自分が音無嬢に言いくるめられそうになっていることに気付いて、危ういところで言葉を飲んだ。と同時に、こうした彼女の手管を目の当たりにして、ある別の可能性に思い至った。  ──音無嬢は、最初からこうすることが目的で俺に近付いたのではないかしらん……。この世にふたつと存在しないヴァイオリンを是が非でも手に入れるために、光太郎をけしかけた後で俺に殺させ、今また用済みになった俺を恩人という肩書きで脅し、自分は無傷のまま、最大の利益を得ようとしているとしたら── 「音無さん……、最初からそれが目的で僕に近付いたのですか。最初から、光太郎のヴァイオリンを手に入れるために……」 「サア……、何のことでしょう。ウフフッ……」  心意の量れない音無嬢の声音に、橘青年は思った。  ──やはり音無嬢は俺のことをダシにするつもりなのだ……。考えてみれば、光太郎が何故あの日あの場所で待ち構えていられたのか疑問だったのだ。俺があの時刻、あの場所を通ることをあらかじめ知っていなければ、待ち伏せなど出来ないはずではないか。キット音無嬢は俺と教室で語らう前に、光太郎と会っていたに違いない。そうして奴のヴァイオリンのことを知り、俺に奪わせ……。  橘青年の脳裏に、光太郎君を殺したときの情景がマザマザと蘇る。あのどしゃ降りの雨の中で、良心を捨て、友人を殺す決意を固めたとき、どこからともなく女の笑い声が聞こえたような気がしたことを。そして彼は気付いた。その笑い声が、今の音無嬢の声にソックリであるということを。  頭の中で妄執がグルグルと渦を巻き、恐怖とはまた別の感情を逆撫でてゆく。呼吸が荒くなり、ワナワナと身体を震わせる橘青年へ、音無嬢が背後から艶かしい手つきで首筋をなぞる。 「ネ……いいでしょう……。あなたは私の言うことを聞かなければならないのよ……お分かりでしょう。……ウフフッ」  橘青年は音無嬢の手を乱暴に弾いて振り返ると、闇に慣れてきた瞳にボンヤリと映る彼女の手からヴァイオリンをひったくり、声高に叫んだ。 「おのれ女狐めッ。俺をタブらかそうったってそうはゆくものか。これは……、これは俺のモノだッ」  ヴァイオリンを奪われた音無嬢は、にわかに目を吊り上げ、肩をいからし、金切り声を発しながら橘青年に飛び掛かってくる。  壁に押し付けられ、予想外の力の強さに驚きつつも、しかし橘青年は決してヴァイオリンを手離さない。狂犬病の瘰患者のように歯列を剥き出しにして、奇声を上げながらモノスゴイ形相で襲い掛かってくる音無嬢に負けじと、橘青年は何度かの格闘の末、ヴァイオリンを手にしたまま、両腕で音無嬢の喉元を力イッパイ締め上げた。  一切の灯りのない暗闇の中、音無嬢の血走った目が大きく見開かれ、空気を求めて開けられた口から、ヨダレとともに声なき叫びが漏れる。その姿の醜い事……。オゾましい事……。 「ギッ、ギッ、ギッ──」  絞められた咽頭(のど)の奥、喘ぎと苦しみの狭間から、なおも憤怒と怨嗟を吐き散らすその様は、まさしく地獄の羅刹女が顕現したかのようで、橘青年は恐怖と怒りに(おのの)きながら、さらに腕に力を込めた。 「死ねッ、人の皮を被った化物めッ」  腕に食い込む音無嬢の爪を物ともせず、橘青年は親指で気道を押し潰すと、失禁し、意識を朦朧とさせている彼女を締め上げたまま、踊り場へと運ぶ。 「地獄へ、還れッ」  宙へ浮かんだ彼女の脚がバタバタと断末魔の抵抗を試みるも、橘青年は意に介さず、音無嬢を踊り場から放り落とすと、彼女は最期にヒュッ──と小さく空気を漏らし、家中に響くほどの凄まじい音をさせながら、ゴミクタのように階段を転げ落ちていった。  辺りは深閑として、鳥の声も、虫の羽音も、風の梢さえ聞こえず、ただ橘青年の荒い息使いと速い心音のみが、彼の耳に届いている。  橘青年は二階から動かなくなった音無嬢を見下ろして、乱れた息を整えた。先ほどまでの恐怖感は薄らいでゆき、徐々に勝利という二文字が心中を輝かしく満たし始めると、急に笑いが込み上げて来て、彼は人知れず肩を揺らした。  ──イヒヒヒヒ……。これで俺のヴァイオリンを奪う者は誰もいなくなった……。俺は世界で唯一無二のヴァイオリニストになるのだ……。光太郎も、音無嬢も、俺を呪詛(のろ)いたければ呪詛うがいい──。  未来の栄光を確信した橘青年の哄笑が闇の中へと吸い込まれてゆく。手にした光太郎君のヴァイオリンに頬擦りせんばかりの勢いで熱烈な情愛と執着を注ぎながら、しばし余韻に浸っていた橘青年だったが、しかし辺りは聞く者とて誰もいない、元通りの闇と静寂が白けたような無関心さを示すのみで、その乾いた冷淡な世界の反応を目の当たりにした彼は、あたかも夢から醒めたように、たった今まで抱いていた激情と歓喜が消え失せ、自分が取り返しのつかない殺人を再び犯してしまったという現実に立ち返り、急速に我に返った。 「オ……、オ、音無さんッ」  灯りをつけ、橘青年は急いで音無嬢の元へ駆け付けるも、既に手遅れ。頚部圧迫により、目玉は飛び出し、舌は垂れ下がり、おまけに階段から落とされたときの衝撃で脳挫傷を起こしたらしく、頭部と耳からネットリとした真っ赤な血がドクドクと流れ出ている。  ──俺は何ということをしでかしてしまったのだ……。光太郎だけでなく、あんなにも愛しく想っていた音無嬢までこの手にかけてしまうとは……。クソッ……。どうして……、どうしてこんなことに……。  激しい後悔と罪の意識に(さいな)まれつつ、しかし橘青年の手にはいまだ光太郎君のヴァイオリンがシッカリと握られている。動揺と混乱でワナワナと震えながら硬直した彼の手は、彼の意思とは関係なく、ヴァイオリンを決して離そうとしない。  ──思えばこのヴァイオリンがすべての元凶なのだ……。これには音楽家であれば誰しもが虜になるほどの強烈な呪詛(のろい)が込められている……。光太郎と音無嬢の運命をその情念と魔力によって狂わせ、生命を奪い、彼らの歓喜と熱情、怨嗟と狂気を吸い込みながら、なおも音の脈動を貪欲に肥大化させ続けているという呪詛が……。そしてその呪詛に取り込まれ、殺人という大罪を犯しながら依然としてヴァイオリンを手離せないでいる俺が、俺こそが、音楽の魔に魅いられた悪魔そのものだったのだ──。  ……フゥ。一息に熱っぽく話していたら、少し疲れてしまったよ。……オヤ、口を湿らそうと思ったのにグラスが空だった。スミマセ──ン……アララ、行っちゃった。いけないね。どうも僕は人から置いてけぼりにされる質でね。ハハハ。すまないが君、モウ一杯頼んでもらえないか。……ウン。どうもありがとう。君も何か注文するといいよ。……何、そんなことはいいから早く続きを聞かせてくれって。君も好き者だね。やっぱり僕の見立てに狂いはなかったようだ。ハハハ。イヤァ、失敬失敬。それじゃあ続きを話してあげよう……。  橘青年はこれまでの行いを反省し、警察に自首……などと思うような人間じゃないのは、既に君にも分かっているよね。……どうしたんだい、そんな意外そうな顔をして。まさか本気でそう思っていたんじゃあるまいね。ハハハ。確かに音無嬢に駆け寄ったときの彼には罪悪感があったかもしれない。しかし次の瞬間にはこう思っていたんだ。  ──急いで音無嬢の死体を隠さなくては……。明日は俺のデビュウ公演の日だというのに、こんなことが明るみになれば俺の人生は終わりだ……。特にあの富永と若林という二人の刑事に見つかってしまったら、今度こそ俺は逃げられないだろう……。何としても、何としても逃げ切らなくては──。  とね。結局我が身が一番なのは変わらない小心者の悪党さ。  橘青年は最初、音無嬢の死体を庭へ埋めようとしたんだが、アトリエの何処を探してもシャベルが見付けられないので、彼はとりあえず死体を物置にしている地下室へ隠すことに決めた。  しかし死体っていうのは結構重いという話を君も聞いたことがあるだろう。力イッパイに引き摺って行っても一度に数十センチしか動かないうえに、乱雑に扱うものだから、手足は折れ曲がり、髪は振り乱れ、おまけに頭から流れっぱなしの血の跡がベッタリと床に付いちゃって。それはそれは悲惨な様相を示したものだよ。  橘青年がどうにかこうにか死体を地下室まで運び、跡を片付けたときにはもう夜が明けていて、彼はすでに動けないくらいグッタリとしていたんだが、身体についた血や臭いを取るためにタップリと時間をかけて風呂に入り、仮眠をとって目覚めると、気分は落ち着き、頭はスッキリと冴え、彼は平素のときの冷静さを取り戻すことが出来た。  そうして彼は丁寧に髪を整え、髭を剃り、夜会服に着替えると、待たせていたハイヤーに乗り込み、公演会場へと車を走らせたんだ。君も知っているだろう。そう。光太郎君のヴァイオリンを伝説たらしめた、あの有名な惨劇を引き起こした場所……帝国記念ホールさ。……そのときの橘青年の気持ちかい。ハハハ。それはまた後で話してあげるよ。  会場に着くと、忙しなく動く職員は皆ピリピリとしていて、一緒に演奏する楽団員たちも手持ち無沙汰に苛立ちを隠せない様子だった。マア当然だね。公演の主役たる橘青年は今まで一度しか打合せに来たことがない上に、リハーサルにすら来ていないんだから。楽団員にしてみればどう音を合わせればいいのか見当がつかないし、彼が何を考えているのかサッパリ理解出来なかっただろう。事実、彼が到着するまで公演を中止にすべきか否か、皆で話し合っていたくらいだしね。  その橘青年は、今朝までの彼とはまるで別人のように深々と皆に頭を下げて、これまでの無礼と不敬を謝り、自らのおこがましさを反省する弁を述べ、「今更ではありますがどうぞよろしくお願いいたします」と、殊勝に頼み込んだんだが、実を言うとこれは橘青年の巧妙な心理戦略だったんだ  ──俺は何としてもこのデビュウ公演を失敗に終わらせる訳にはいかない……。光太郎や音無嬢のことなどモウ知ったことか。どのみち奴らは生き返ることなどないんだからな……。そんなことよりも俺の未来だ。将来だ。俺は必ず歴史に名を残す偉大なヴァイオリニストになってみせる……。俺の初公演を絶対に成功させてみせる……。しかしそのためには職員や楽団員の協力が不可欠だ。……いいさ。いくらでも頭を下げてやる……。媚びを売ってやる……。今だけはな──。  どうだい。彼も子悪党から本物の悪党へと昇進したと思わないか。……そう。君の言うとおり、音無嬢の死体を隠したあとの彼が大人しくしていたのは、いかにしてこのドン底から這い上がり、自らの運命を輝かしいものへと導くか、沈思黙考していたからからさ。……ハハハ。そうだね。彼は紛れもない大悪党だよ。  職員も楽団員もまだ思うところはあったんだが、ともあれ、いがみ合っていても始まらない。開演まであまり時間は残されていないし、橘青年が来た以上は中止にする訳にもいかない。急いで音合わせをし、段取りを整えながらも、しかし橘青年は光太郎君のヴァイオリンを決して使おうとしなかった。持ってきてはいたものの、決してケースからは取り出さず、もっぱら自分のヴァイオリンのみを使って演奏していたんだ。  ウンウン。何を聞きたいのかは分かっているとも。どうして彼は光太郎君のヴァイオリンを使わないのか、ということだろう。  実は橘青年自身も、このときの自分の気持ちが分からなかったんだ。二人の人間を殺してでも手元に置いておきたかったあのヴァイオリンを、人生の一番大事な局面でどうして使おうと思わないのか。無論、彼とて音楽家の端くれであるから、何にも頼らず自分の演奏のみで勝負したいというプライドもあっただろうが、しかしね、彼は気付いていなかったようだけれども、それ以上に怖かったのさ。光太郎君のヴァイオリンが。ある種の神仏のように触れると障りが起こるような気がしてね。しかもただの神仏ではなく、もっと禍々しい、忌々しい、不穏な気配が、ただそこにあるというだけで溢れ出ている。あたかも階段から落とされた音無嬢の頭から押さえても押さえても粘質な血が止めどなく流れ出ていたようにね……。それでも手放せないというのが呪詛(のろ)いたる所以だよ。ハハハ。  さて、いよいよ開演のときが近づいてきた。客席はほとんど埋まり、聴衆が開始の合図をソワソワしながら待っている。  一方の橘青年も、舞台袖で待機しながら、何度も深呼吸をしては生唾を飲み込み、緊張した面持ちで出番を待っていたんだ。  ──イヨイヨ俺の音楽人生がここから始まるのだ……。決して誇れるような道のりではなかったが、しかし今日このときから俺は生まれ変わるのだ。プロヴァイオリニスト・橘誠一郎として──。  そんなことを考えているうちに開幕のブザーが鳴り、彼はステージに進んだ。聴衆の暖かな拍手に迎えられ、まずは指揮者に、次いでコンサートマスターに握手をすると、最後に客席へ向けて一礼をする。 「皆様、本日はようこそおいで下さいました。私の記念すべきプロデビュウ公演に、皆様のような耳聡い方々にお越し頂いたことは大変光栄であり、名誉なことであります。今日という日が私にとってだけでなく、皆様にとっても忘れ得ぬ日となって頂ければ幸いです。どうぞ最後までお楽しみ下さい」  挨拶も簡潔に、彼はヴァイオリンを構えた。最初の曲目はチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調』。君も猛練習した経験があるだろう。ヴァイオリニストを目指す者なら誰もが通る定番の曲を一番に選んだのは、彼なりに運命に立ち向かう気概を見せたつもりなんだろうね。コソコソすることなく、堂々と王道を突き進んでゆく、とね。  橘青年が指揮者に目配せで頷くと、指揮者が頷き返し、ゆっくりと指揮棒を振り始めた。オーケストラが静かな序奏から、雲を割って降り注ぐ暖かな日射しのように盛り上がりを見せる。聴衆の期待値を一気に押し上げながらイヨイヨ橘青年のソロへと移行すると、その瞬間、客席の間から感嘆のどよめきがわずかに漏れた。  あたかも春の到来を告げる雲雀(ひばり)を思わせる、華やいだ、きらびやかな音色が客席へと舞い降り、奔放な音階が水しぶきに反射する陽光のごとく跳ね踊ると、楽曲の色彩を軽やかに彩って、様々な景色を映し出してみせる。  聴衆の心は一息で夢中になったね。技巧が上手いだけの奏者は珍しくはないが、彼のように作曲者の意図や楽曲から受ける心象風景をきちんと技術に乗せられる、いわゆる表現力というものを同時に備えた奏者はそうそういないからね。しかも彼は眉目秀麗で、おまけに今朝までのゴタゴタで目付きが妙に鋭く、ギラギラと陰を帯びて光っているのも、客席から見れば精悍に見えたんだろうね、演奏する姿が余計に(さま)になっていたんだ。彼がその日の朝まで、音無嬢の死体を隠すために汗みずくになりながら必死になっていたなんて、誰も想像すらしなかっただろうけどもね。ハハハ。……ウン。君の言うとおりさ。余計な嫉妬や焦りに振り回されず、まっとうに音楽の道を歩んでいれば、彼ほどの実力なら間違いなく一流の奏者になれただろうに。愚かだよね、まったく。ハハハ。  その後も順調に公演は続き、時に軽やかに、時に哀愁を込めて奏でられる橘青年の演奏に、聴衆は皆ウットリとして、瞬く間に時間は過ぎていった。  最後の曲目、ベートーベンの『ヴァイオリン協奏曲』が終わると、橘青年は客席へ向けて何度も礼を繰返して、万雷の拍手と歓声に見送られながら舞台袖に下がった。彼は込み上げてくる歓喜を隠そうともせず、迎えた職員たちに久方ぶりの笑顔を振り撒くとともに、栄光を掴んだことを確信したんだ。  ──勝利だッ。俺は運命に打ち勝ったのだッ。光太郎……音無嬢……見ているか、この光景を。聴衆も楽団員も、皆俺の演奏に引き込まれていただろう。しかも使ったのは、光太郎のではなく俺のヴァイオリンだ。つまりこの拍手も賛辞も、すべて純粋に俺自身へ向けられたものなのだ。  お前たちはきっと、あの世で俺を怨んでいることだろう。しかしどんなに俺を怨もうと、口惜しさに地団駄を踏もうと、お前たちには何も出来まい。(ほぞ)を噛みながら好きなだけ俺を呪詛うがいい。どうせ最後に笑うのはこの俺だ……。ハハハハハ──。  勝鬨(かちどき)を上げんばかりの橘青年はしかし、職員たちの態度が妙に醒めた、というよりも戸惑いや困惑の入り交じった浮かない表情をしていることに気付いたんだ。  怪訝に思う彼の後ろから、不意に「こんにちは」と声をかけられて、橘青年はハッとして振り返った。 「ヤア。どうも」  そこにはあの冨永と若林の二人の刑事が立っていて、橘青年は喜びの頂点から冷水を浴びたように、血の気がサッと引いていくのが分かった。 「イヤア、素晴らしい演奏でした。まさに心が震えるというんでしょうか、感動しましたよ。私は芸術には縁のない人生を送ってきましたから、あまりアテにはならないかもしれませんが」  気味の悪いほどニコニコと拍手をしている冨永刑事と、対照的に細い眼を油断なく光らせている若林刑事の組み合わせに、橘青年はただ引き吊った笑みを浮かべるのみ。  それでも何とか余裕を見せようと、彼はわざと明るい調子で冨永刑事に両手を広げてみせた。 「これはこれは。いらしていたんですか。お声をかけて頂ければ、一番いい席をご用意致しましたのに」  橘青年の上擦った声音に、若林刑事は神経質そうに睨み返し、冨永刑事は「イヤイヤ」と、失笑気味に首を横に振る。 「そんなことをしてしまっては、折角の公演を台無しにしてしまいます。何せ今日があなたにとって最初で最後の公演になるでしょうから」  冨永刑事はそこで一瞬間をおいて、その穏やかな物腰からは想像もつかないほど低い声で橘青年に告げたんだ。 「橘誠一郎さん。あなたを音無沙夜華嬢殺害の容疑で逮捕します」  もっとも怖れていた一言を突き付けられた橘青年は、あたかも胸にポッカリと大きな穴が開いて、自分自身がその黒い中心へ向かって収斂(しゅうれん)してゆくような感覚を抱いた。  ヨロヨロとよろめき、背中を壁に押し付けることで何とか崩折れる寸前で立っている彼に、冨永刑事は続ける。 「我々は最初から──坂上光太郎さんが殺されたときから、あなたを疑っていたんですよ。  通常、犯罪を犯した人間は、シラを切ってとぼけた態度で警察(われわれ)を迎えるか、逮捕されることを恐れて逃亡を図るかのどちらかなんですが、あなたはどちらとも決めかねていたようですね。態度にあからさまに表れていましたよ。被害者の関係者をまず疑え、という捜査の鉄則を持ち出すまでもなく、一目で『ハハン、コイツが犯人だナ』と分かりましたよ。あなたは上手くかわしましたが、正直、この時点ではすぐに解決出来る簡単な事件だと思っていたんですがね。まさかあなたがあの音無財閥のご令嬢と懇意にしていたとは計算外でした。  我々の調べたところでは、あなたと音無沙夜華嬢との接点は何もなかったはずです。だからこそ『ここで捕まえられなくても、どうせすぐに逮捕状が出るだろう。監視をつけておけばボロを出すかもしれないしナ』と高をくくっていたんですが……。いったいいつ音無嬢とあんなにもなったのやら」 「ぜ……全部、知っていたのですか。僕が音無嬢と……」 「ええ。知っていましたとも。上役から捜査の中止命令が出たあとも、この若林を使ってあなたのアトリエをずっと見張っていましたからね。そうしたら昨夜、あなたが尋常ではない様子でアトリエ中をあっちへ行ったりこっちへ行ったりし始めて。『コレァ、何かヤらかしやがったナ』とピンと来て、あなたが出ていったあとでコッソリと忍び込んでみれば、あにはからんや。地下から音無嬢の無惨な遺体が見付かったじゃありませんか。  ……本当につくづくあのときあなたを捕まえておけばよかったと思います。一生の不覚でした。任意同行だったとはいえ、多少強引にでも引っ張っていれば音無嬢をむざむざ殺させることにはならなかったのに」  橘青年は今度こそ膝から崩折れた。二人の刑事の冷たい視線を受けながらガックリと四つん這いになる姿に、イヨイヨこの悪党も報いを受けるときが来た……とはならないのは君も知っているだろう。絶望に打ちひしがれ、未来への希望を失い、それでも未だ消えない妖しい(ほむら)が彼の心の奥底で危うく揺らめいていて、その赤黒い炎が身体の内側から徐々に拡がり、精神、魂までも焼き付くすと、橘青年は音もなく立ち上がって刑事たちと向き合った。 「分かりました。すべてお話しします。ただ……最後にもう一曲だけ、弾かせて頂けませんか」  二人の刑事は拒否する言葉を言おうとして、思わず咽頭(のど)を詰まらせた。橘青年の顔付きが、まるで憑き物が落ちたかのように清らかなものになっていると同時に、まるで月明かりに照らされた(やいば)のような、どこか凄味を帯びた、得体の知れぬ微笑を浮かべていたので──。 「……アンコールに応えなくては」  彼が視線を向けた舞台の先からは、鳴り止まぬ拍手が絶え間なく続いている。逆光を浴び、影になった橘青年の顔から、据わった瞳だけが別の生物のようにヌラヌラと微動していて、富永刑事も若林刑事も、なかば気圧されるように頷くしかなかった。  二人を最前列の席へ誘導するよう職員に頼み、橘青年は光太郎君のヴァイオリンをケースから取り出すと、再び舞台上に現れた。  まるで最前のやり取りをなぞるように、彼は客席をグルリと見回して拍手に応え、ヴァイオリンを構える。  曲目はサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』。彼は指揮者のタクトが動く瞬間を注意深く見定め、最も有名なGーCーDーEsーDーCの冒頭部──通常は伴奏のみで、ソリストは演奏しない箇所──を、オーケストラと共に思い切りかき鳴らしたんだ。喜怒哀楽その他すべての感情や情動を込めて、愉悦と怨嗟を(うつわ)イッパイに満たした、他ならぬ光太郎君のヴァイオリンを用いてね。  その衝撃はうねりとなって、ホールにいた聴衆へ全方位から襲い掛かった。  最初に悲鳴を上げたのは最前列に座っていた若林刑事さ。解き放たれたありとあらゆる情念の波を真正面から浴びて、彼は「ウワァーッ」と叫び声を上げながら、白眼を剥き、頭を抱えていきなり駆け出したんだ。それに呼応するようにホールのあちこちから悲鳴や苦悶の叫びが上がり、まるで爆心地から黒煙が立ち上るがごとく拡がってゆく。  けれどもオーケストラの楽団員は、あたかも光太郎君のヴァイオリンの音が彼らを奏者に付き従う自動人形に変えてしまったかのように、表情を一切変えることなく伴奏を続けている。彼らの目の前で、今まさに惨劇の幕が開かれたということに気付きもしないままね。  曲はモデラートから緩やかなレントに移り、悲哀を帯びた旋律が深まってゆくにつれて、悲鳴は気狂いじみた哄笑に、苦悶は暴力を伴う怒声へと変わってゆく。格調高い調度品がきらびやかな飴色の照明に照らされてキラキラと輝く中、タキシードや夜会服をきちんと着込んだ紳士たちや、美しく着飾った淑女たちが、歓喜と、憤怒と、哀切と、快楽に酔い回され、情念の坩堝(るつぼ)と化したホールを精神病者のようにあてもなく彷徨(さまよ)い歩く。誰もが光太郎君のヴァイオリンの音に精神を狂わされ、あるいは自己の魂を見失い、ツィゴイネルワイゼンの旋律に情動の赴くまま、目まぐるしく感情を千変万化させている。  そうした混沌の中で、狂人の誰かが緞帳に火を着けた。炎は瞬く間に燃え上がり、舞い落ちる火の粉が天鵞絨(びろうど)のドレスやカシミヤの夜会服に燃え移ると、火だるまになった者たちは金切り声を発しながら、あるいは哄笑を上げながら、のたうち回って炎を拡散させる。  それでも橘青年の演奏は止むことなく、わずかな灯りの射す夜の夢のような陶酔を与える第二部に移ると、灰暗(ほのぐら)く甘い旋律が妖しく薫るように奏でられ、炎に包まれた客席、舞台、天井と混ざり合いながら、ウットリするほどの耽美な地獄絵図を描き出す。指揮者もオーケストラも皆すでに炎に覆われていて、伴奏なんか聞こえるはずもないのに、しかし確かにその場にいた全員が、狂気に曝されながらもシッカリと橘青年の演奏に寄り添う音を聞いていたんだ。  君……、想像してみたまえ。  阿鼻叫喚(あびきょうかん)欣喜雀躍(きんきじゃくやく)が渦巻く混沌の炎の中、崩壊してゆく大伽藍を舞台に、生者と死者が、天使と悪魔が、キューピッドと死神が、各々の手を取り合い、流麗さを増してゆくツィゴイネルワイゼンの()にのせて、踊りながら哄笑しているその様を──。  美しいだろう。生命を睹してでもその場にいたいと思わしめるほどの一大パノラマ。まるで天国と地獄の結婚式のようだ。そう思わないかい。ハハハ。  今や炎はホールすべてを覆い、屋根や壁の一部が崩落し始めている。それでも橘青年の演奏は止まることなく、哀切を帯びた旋律は激情さを伴うアレグロへと急変し、曲は終幕の第三部へと移る。  あたかも生命の最期の輝きを振り絞るかのように、音符は目まぐるしく昇り降りを繰返し、リズムは瞬間を彩りながら舞い跳ねる。それら音楽の兄弟が交互に表と裏を演じ、激しい衝動の赴くまま、人間のPathosを奔放に解放してゆく。誰もが感情を、情念を、観念を超越し、喜びは怒りと、哀しみは快楽と同一化され、夢と現を、生と死を、彼岸と此岸を等しく顕在化させる終局のハーモニーが恍惚へ向けてドンドン加速しながら最期の音を奏でたその刹那──。  ──人々は炎に抱かれながら、光太郎君のヴァイオリンに魂を捧げたのさ。  ホールは全焼。聴衆も、楽団員も、職員も、全員が焼死。ただひとり、死体を確認出来なかった橘青年の行方を除いてね……。  何処へ消えてしまったのか、だって。ハハハ。君ァまだ気付いていなかったのかい。目の前にいるじゃないか。……ウン。そうとも。実は橘青年というのはこの僕なんだ。……ハハハ。六十過ぎの爺さんにしか見えないとは言ってくれるね。これでも三十五にもなっていないんだけどもね。マア信じられないというのも無理はないけれども、しかし本当のことなんだ。  考えてもみたまえ。又聞きでここまで微に入り細を穿つまでの話が出来ると思うかい。……その通り。今話したことはすべて、この僕の実体験だよ。……まだ信じられないかい。  それならこれはどうだね。……そんなに怖がるコタァないよ。ズット君が欲しがっていたヴァイオリンじゃないか。ハハハ。……オット。そういえば何故君にこんな話をしたのか、肝心のところを言ってなかったね。  帝国記念ホールの火災のあと、僕はあちこちを転々としながら者乞いのような生活を続けていたんだ。その間何度、このヴァイオリンを葬り、自分も生命を絶とうと思ったことか。けれどもね、いざ壊してしまおうとすると、最後にモウ一度だけ弾いてみようという気になってくる。そうして弾き始めると、また一瞬で虜になっちゃって、魂を削られながらも弾きたくて聴きたくて仕方なくなってくるのさ。そしてその度に「この極めて稀有なヴァイオリンを葬ってしまうのはあまりに惜しい……。せめて誰かに引き継がなくては死んでも死にきれぬ……」と考え直してしまうんだ。マア、音無嬢には遠く及ばないが、僕も音楽家だからね。というのは言い訳に過ぎないかもしれないが、要するに阿片中毒者と同じだよ。分かっちゃいるけどヤメラレナイ。おかげで髪毛は真白になるし、身体はドンドンやつれていって、今じゃ見る影もないよ。ハハハ。  そうして気が付けば十年近くも彷徨(さまよ)い、ようやくこれを託せる人間を見付けたんだ。そう。他ならぬ君だよ。  喜びたまえ。このヴァイオリンは今から君のものだ。……何、そんなに怖いヴァイオリンは触りたくない、だって。ハハハ。自分を誤魔化しちゃあいけないよ、君。言葉では拒否しているが、今の君の瞳は音無嬢が向けていた視線とソックリの目をしているじゃないか。  それにね、これほどまでに妖しい魅力を秘めたヴァイオリンはこの世にふたつとないものだよ。ストラディヴァリやグァルネリが神が宿りし神器なら、これは魔神が宿りし魔器さ。世界のどこを探したって、音楽の魔神を封じ込めたヴァイオリンなんてこれ以外に存在しないだろう。  断言するよ。君は絶対このヴァイオリンの虜になる。それが君の運命であり、君にかけられた呪詛(のろ)いなんだからね。ハハハ。  ──さてと。随分長い間話し込んでしまったね。そろそろ僕はおいとまするよ。もう逝かなくちゃいけないんだ。この十年近く、光太郎と音無嬢が地獄からズット僕のことを呼び続けていてね。僕は「このヴァイオリンに相応しい誰かを見付けるまで、もうチョット待ってくれ」と言い言い、どうにか勘弁してもらっていたんだが、こんなにも時間が経ってしまっていては、キット二人も向こうでカンカンになっていることだろう。やれやれ。今のうちに謝りの言葉を沢山考えておかないとね。ハハハ。  ともあれ、これでもう思い残すことはないよ。君、失くしたり壊したりしないよう、シッカリと大事に使ってくれよ。そうして有名になって、僕たちのいる地獄の底まで音を届けてくれたまえ。皆喜ぶだろうから。ハハハ。  ──アァ……ヨッコイショ……。それじゃあ、死んでくるかァ────。  ハハハ。  ハハハハハ。  ハッハッハッハッハ────。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!