春に毒をそそぐ

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 私が愛したのは、とても悪い人だった。  三つ年上のシュンちゃんは、いつだって一人だった。でもそれはイジメと言うには少し違っていて、みんな彼が怖かったのだと思う。時々見えない誰かと話していたり、突然奇声をあげたり。小学生なのにランドセルではなく、くしゃくしゃの黒いナップサックをいつも背負っていたし、その中に小さなナイフのような物が入っていたとも聞いた。彼がヤバい子だということは、大人も子どもも周知の事実で、彼が人の輪の中に入っていないことが普通だった。シュンちゃんから近付いてくることもない。みんなも率先して仲間はずれにしているわけではない。でも仲間に入れてあげようともしない。誰かが呼んでいた「シュンちゃん」という呼び方を、なんとなくみんな真似して口にしていただけ。でも私と同じように実際にはシュンちゃんと喋ったことのない人はたくさんいたのだと思う。  シュンちゃんは、いつだって一人だった。  大きくなるにつれて、シュンちゃんは徐々に目立たなくなっていった。奇行が減ったのか、みんながそれ程興味をもたなくなったのか、その存在は薄れていく。  初めてシュンちゃんと会話をしたのは私が中学生になってからのことだった。通学路にある、古い空き家の敷地内を塀の隙間からふと覗いた時、奥の庭に見たことのある後ろ姿が見えた気がした。もう夏も間近だというのに、その後ろ姿は黒い学生服を着ていて、ボサボサの癖毛頭が生温い風に吹かれて揺れていた。シュンちゃんだ。そう確信を持った瞬間、ゴクリと音を立てて唾が喉を流れていったのが分かった。ほんの少し躊躇った足を一歩踏み出した。その後はもう吸い寄せられるように、私は荒れ果てた庭に足を踏み入れた。 「なに、やってるの?」 恐る恐る声を掛けると、黒い背中がびくっと動く。ゆっくり振り返った彼は何も言わず、背中を丸くしてじっと私を見る。私よりずっと大きな体をしているのに、その目は酷く怯えているようだった。 「待って、逃げないで!」 再び背中を向けて庭の奥へ走りだそうとした彼に向かって、少し大きな声を出した。   「逃げないで。」 もう一度、今度は声を抑えてゆっくり言う。振り返った彼の怯えたような目が再び私を捉える。 「何もしない。何もしなくて良い。だから、ここに一緒にいても良い?」 そう尋ねると、彼は何も言わずに困惑の表情を浮かべる。でももう逃げようとはしなかった。  私は朽ちかけた縁側の端に座った。私の動向を横目で見る彼は、私が座って動きを止めるとようやくその大きな体を動かした。縁側ではなく、少し離れた地面に直接座る。不揃いに生えた雑草が彼の足元と腰回りを隠す。ボサボサに伸びた髪の隙間から見える耳と頬。空を見上げているかのような顔の角度。斜め後ろからでは、彼の視線の先に何があるのか分からない。  そのまま、一時間程過ごした。何も話さず何もせず、ただ私は視界の端に彼の後ろ姿を映しならが空の色が徐々に変わっていく様子を眺めていた。  彼はよくその空き家の庭にいた。ようやく怯えた目を向けられなくなったのは、空き家で同じ時間を過ごすようになって四回目のことだった。彼は黒い学生服は脱いだものの長袖のシャツを腕まくりもせずに着ている。 「長袖、暑くない?」 そう尋ねても彼は首を横に振るだけ。縁側に座る私と、地面に座る彼。ボサボサの癖毛頭が左右に揺れる。話し掛ける言葉に反応はしてくれるけれど、まだ一度も彼の声を聞いていない。思い返してみても、同じ小学校に通っていた時から学年の違う彼が喋っている所を見た記憶がない。黒いくしゃくしゃのナップサックを背負ったボサボサの癖毛頭の男の子が、公園や学校の近くを歩いている場面しか浮かばない。 「お腹空いたな。」 そう呟くと、視界の端に背の高い彼が立っていた。無言で差し出されたのは飴玉だった。 「くれるの?」 尋ねると、深く頷く。初めて彼から詰めた距離。離れた所から見るより、実際の彼はとても背が高い。見上げた所にある顔は、ボサボサの癖毛頭の中に大きな瞳があって、右目の下には小さな黒子が見えた。とても平凡な顔だなと思った。  黒いくしゃくしゃのナップサックを背負ったボサボサの癖毛頭の男の子の顔を、私ははっきりとは覚えていない。覚えていないけれど、なんとなく自分の中で作ったイメージがあって、尾ひれがつく噂でどんどん怪物みたいな姿に変わっていった。想像上のシュンちゃんは、何をするか分からない危険な子。怪物みたいな、きっと恐ろしい顔をしているに違いない。そんなふうに思い込んでいた。でも今目の前に立っている彼の顔は、驚くほど平凡だった。 「ありがとう。」 くしゃくしゃの包み紙。ひらがなで‘いちごみるく’と書かれている。思わずくすりと笑ってしまう。目の前の彼は困ったような表情をしていた。 「あ、ごめんね。飴ありがとう。これ私好きなの。嬉しい。」 そう言葉を並べると、彼の表情が少し和らいだ気がした。 「ねぇ、‘シュンちゃん’って呼んでも良い?」 貰った飴の袋を握り締めて尋ねた。一瞬驚いたような表情をして、彼はゆっくりと深く頷く。その姿を見て、私は飴を握り締めていた手の力を抜く。 「私は、彩音(あやね)。」 「あや、ね、ちゃん」 初めて聞いた声。まるで小さな子どものように言う。初めて出来た友達の名前を呼ぶように、どこか嬉しそうに、噛み締めるように。私は、それがとてもくすぐったかった。  それからぽつりぽつりと会話をするようになった。名前を呼んで、挨拶をして、「お腹空いたね」とか「明日は雨が降るらしいよ」とか、そんな他愛もない会話をするだけ。縁側と地面だった距離は、縁側の端と端になった。  もう何度も会っているけれど、シュンちゃんは独り言も言わないし奇声をあげることもない。怖いことは何もしない。いつも持っているくしゃくしゃの黒いナップサックは、中身が入っているのかどうか分からない。もしかしたら噂通り中にナイフが入っているのかもしれないけれど、そもそもそれが真実だったのかただの噂だったのかも分からない。  一つ言えることは、今のシュンちゃんは私に何もしてこない。  今日もシュンちゃんは空き家の庭にいた。出会った頃より青々と伸びた雑草が眩しい。縁側に座っていたシュンちゃんはその場に立ち上がる。  「昨日の雨すごかったね。」 梅雨はとっくに明けたというのに、連日激しい雨が降り続いていた。雨の日はこの空き家の前を通らずに通学する。この通りは道が凸凹で、深くて広い水溜りがあちこちに出来る。長靴を履かなくなった中学生にとってはかなりの悪路だった。 「ここ、池みたいだったよ。」 シュンちゃんはそう言って笑う。 「シュンちゃん、雨の日もここにいるの?」 「毎日ではないけど。」 何でもないことのようにそう言う。 「雨が、止む瞬間の空を見たいんだ。」 「雨が止む瞬間?」 シュンちゃんは頷くだけでそれ以上何も言わない。シュンちゃんにはシュンちゃんの世界がある。私にも私の世界があるように。 「私も今度見てみる。雨が止む瞬間の空。」 そう言うと、ボサボサの癖毛頭の隙間からシュンちゃんの嬉しそうな顔が見えた。シュンちゃんは分かりにくいだけで、ちゃんと喜怒哀楽を表現している。真っ直ぐシュンちゃんと向き合えば、ボサボサ頭に隠れた表情もちゃんと見える。 「シュンちゃんの好きなもの、また教えて。」 シュンちゃんのそんな顔をまた見たいと思った。シュンちゃんは頷く。 「彩音ちゃんも、教えて。」 躊躇いがちにそう言ったシュンちゃんに向かって大きく頷く。シュンちゃんが笑う。私の態度一つで、こんなにも喜んでくれる。シュンちゃんといると温かい。とても、温かい。  シュンちゃんと空き家の庭で過ごすようになって、随分日に焼けたような気がする。日当たりの良い縁側は、座っていると眠くなる。縁側の柱にもたれ掛かるようにして、私は時々眠った。  どれくらい時間が経ったのか、気が付くと私は日に当たっておらず影の中にいた。夕方のこの時間はいつも西日が当たって眩しいくらいなのに。目を開けて顔を上げる。すると私の正面、1メートル程離れたところにシュンちゃんが立っていた。 「···シュンちゃん?何してるの?」 尋ねるとシュンちゃんは体ごとこちらを向く。 「おはよう、彩音ちゃん。」 西日に当たっていたシュンちゃんは、こめかみに薄っすら汗をかいているようだった。 「おはよう。また寝ちゃってた。シュンちゃんは何してるの?」 「···彩音ちゃん、眩しいかと思って。」 小声でそう言う。私は驚いて立ち上がる。 「日よけになってくれてたの?私が寝てる間ずっと。」 少し大きな声で言うと、シュンちゃんは気まずそうに俯く。 「違うの、ごめんね。怒ってるんじゃなくてびっくりしちゃって。ありがたいし嬉しいけど、そんなことしなくても良いんだよ。」 シュンちゃんは顔を上げ、困ったように笑う。 「···何かあると、困るから。」 そう、小さく言う。その言葉の意味が分からず首を傾げると、シュンちゃんは黙って首を横に振る。 「シュンちゃんは、ここで寝ちゃったことないの?」 わざと明るい声で尋ねた。でもシュンちゃんはさっきと同じように首を横に振る。 「うまく、眠れないんだ。」 「···そうなんだ。」 ‘ここ’で眠れない、そういう意味ではなさそうだった。 「私もね、あるよ。上手に眠れない時。」 シュンちゃんは顔を上げる。 「一緒だね。」 笑って言うと、シュンちゃんはまた困ったように笑って頷いた。  夏休みに入り、久しぶりに空き家にやって来た。 「シュンちゃん、ドーナツ食べない?」 夏休みも、シュンちゃんは長袖シャツに黒いズボンを履いている。ワンピース一枚にサンダル姿の私とはまるで季節が違っている。 「···ドーナツ?」 「そう。暇だから作ったの。でも食べきれないからさ。」 ドーナツの入った紙袋を差し出す。縁側に座ったままのシュンちゃんは困ったような、でも嬉しそうな顔して紙袋を受け取る。両手で持った紙袋を太腿の上に置いて、じっとその辺りに視線を向けていた。 「彩音ちゃん、ありがとう。」 顔を上げないままシュンちゃんは言う。 「···シュンちゃん?」 しばらく経っても顔を上げない。シュンちゃんの前にしゃがんで、覗き込むように見上げた。ちらっとこちらを見たシュンちゃんと目が合う。 「ドーナツ、好きじゃなかった?」 シュンちゃんは首を横に振る。 「どこか、体調悪い?」 また首を横に振る。 「シュンちゃん?」 カサリ、と紙袋が音を立てた。 「···彩音ちゃん、もう来ないかと思った。」 ぽつりとシュンちゃんは言う。 「あ、そっか。ごめんね、夏休みだから。···私のこと、待っていてくれてたの?」 躊躇いがちに頷くシュンちゃんを見て、胸の奥がぎゅっとなる。 「ありがとう、シュンちゃん。すごく、嬉しい。」 素直にそう言うと、顔を上げたシュンちゃんと目が合った。私より大きいのに。私より年上なのに。目の前にいるシュンちゃんは小さな子どものようだった。  縁側の端と端に座って、シュンちゃんはあっという間に三つあったドーナツを食べ切った。ただでさえ暑いのに、夕方になり西日がきつくて汗が流れる。 「ここから、花火が見えるんだよ。」 「花火?明日の花火大会のこと?」 シュンちゃんは頷く。確かに花火を打ち上げる川はこの方角にあって、視界を遮るような高い建物は何もない。 「毎年ここで見てるの?」 「だいたい。ここにいると、花火が始まる。」 花火大会が始まるような時間まで、シュンちゃんはここにいる。たぶん、わざわざ見に来ているわけではないのだろうな、とは思う。 「あ、」 シュンちゃんが小さく声を出す。 「どうしたの?」 シュンちゃんは遠くをじっと見つめる。 「彩音ちゃん、そろそろ帰った方が良いかもしれない。」 シュンちゃんからそんなことを言われたのは初めてだった。 「雨が、降るよ。」 私の返事を待つ前にシュンちゃんは言う。 「雨?」 「見て、あっち。」 シュンちゃんの指差す方を見ると、正面の空に巨大な積乱雲が見えた。思わず息を飲むのほどの大きさの雲は、真っ黒な影を纏いながら少しずつ大きくなっていく。あんなに晴れていた空が暗闇に飲み込まれていくようだった。 「···光った。」 暗闇の中にいくつもの雷光。冷たい風が吹き始める。汗が急激に冷えていく。 「彩音ちゃん、今ならまだ間に合うかもしれないよ。」 シュンちゃんは真っ直ぐ前を見たまま言う。 「シュンちゃんは?」 「俺は、」 強い風で、シュンちゃんの癖毛頭が揺れる。 「ここにいたい。」 シュンちゃんは、やってくる積乱雲を見つめたまま。風に髪がなびき、シュンちゃんの横顔がはっきりと見える。私は握った拳にぎゅっと力を込めた。 「私も、ここにいたい。」 シュンちゃんの視線がこちらに移る。 「前にシュンちゃんが言っていた、‘雨が止む瞬間’もここで見てみたい。」 暗闇と、雷光が音を伴い近付いてくる。シュンちゃんは、頷く。何も言わなかったけれど、真っ直ぐ私の目を見て、深く一度だけ頷いた。  自ら雨を待つのは初めてだった。ずっと、雨は好きではなかった。外遊びや体育が出来なくなる。小学生だった頃の私は遠足の前日も、運動会の前日も必ずてるてる坊主を作った。雨が降るのを待ち望んだことはない。でも今、近付いてくる大きな雨雲に、何故か胸が高鳴る。  風が冷たく、強くなる。雷光がはっきりと見える。空がいっそう暗くなる。 「···きた。」 シュンちゃんがそう呟いた瞬間、バラバラバラと音を立てて雨が降り始めた。空を見上げた。吸い込まれそうな真っ黒な雲が無数の雨粒を落とす。痛みを感じる程の大きな雨粒は、次第に数を増やし視界を滲ませていく。 「···すごいね、シュンちゃん!」 大きな声を出したつもりだったけれど、雨音と雷鳴でシュンちゃんには届いていない。空を見上げるシュンちゃんは、瞬きもせずにじっと立っている。たぶん今、シュンちゃんに私の声は届かない。私も視線を空に移す。雨が顔を叩く。その強さに思わず目を閉じてしまう。顔が、髪が、服がみるみるズブ濡れになっていく。  目を開ける。真っ黒な空から無数の雨。皮膚を突き抜けて体の奥まで入り込んでくるような、そんな雨。これほど強い雨ならばどんなものでも洗い流せるのだろうか。そんなことをふと考える。私の中のもの、私を取り巻く世界、そのすべてから不必要なものだけを綺麗に洗い流して欲しい。  シュンちゃんは、今何を考えているのだろう。いつも雨を見ながら何を感じているのだろう。少し離れた所にいるシュンちゃんを見た。さっきと変わらず空を仰ぐその顔が、何故か分からないけれど泣いているように見えた。シュンちゃんの世界は、一体どんな世界?洗い流して欲しいと願ってしまうような、歪な世界ではなければいいけれど。 ···ーーードーン!!!!! 目を開けていられないような光とほぼ同時に、地響きと伴に雷鳴が轟く。思わず身を縮ませた。シュンちゃんも驚いたのか、目を丸くしてこちらに視線を向けた。そして、目が合ったシュンちゃんが笑う。ずぶ濡れになったシュンちゃんは、ボサボサの癖毛頭がややストレートに変わっていた。 「びっくりしたね。」 シュンちゃんが言う。 「すごかったね。」 珍しく声色が明るいシュンちゃんの声を聞いて、嬉しくなった。 「あはは」 「ふふふ」 雨の音にかき消されながらも、時々聞こえるシュンちゃんの笑い声。シュンちゃんも私もズブ濡れだった。でも、嫌ではなかった。  やがて雨は勢いをなくし、徐々に空が明るさを取り戻していく。 「雨が、止むね。」 シュンちゃんは言う。強い風で雲が上空から姿を消していく。雷鳴が遠くなる。バラバラと音を立てていた雨が、パラパラ、そしてサラサラと消えていく。 「···あ、止んだ。」 いくら空を見上げていても、もう雨は降ってこない。雨が、止んだ。あの強い雨は、何かほんの少しでも私から不必要なものを洗い流してくれたのだろうか。  シュンちゃんが長袖長ズボンを着ていてもあまり目立たない季節がやって来た。 「この飴って、シュンちゃんが選んで買ってるの?」 いちごみるくの飴を二人で舐めながら、ふと疑問に思い尋ねた。 「ばあちゃんが、この飴好きなんだ。」 「一緒に住んでるの?」 「うん。俺が、ばあちゃんちに住んでる。」 淡々と話すシュンちゃん。どこまで尋ねていいのか分からない。 「えっと···シュンちゃんだけ?」 「うん。俺以外はみんな隣町にいる。」 「シュンちゃん、小学校もこっちだよね?」 「それくらいから、ばあちゃんちにいる。」 私は、シュンちゃんの家がどこにあるのかも知らないし、もちろん家族構成すら知らない。でも、たぶんシュンちゃんが置かれた状況は普通とは少し違う。   「お婆さん、まだ若いの?」 なんとなくそう尋ねた。シュンちゃんは首を傾げる。 「歳は、分からない。でも、」 シュンちゃんは俯く。 「最近、前より何もしなくなった。」 ‘何もしなくなった’ その‘何も’が何を、どこまでのことを指すのか分からない。 「シュンちゃん髪伸びたね。」 触れてはいけない気がした。話を変えるために、前よりボサボサに伸びたシュンちゃんの頭を見ながらそう言った。 「そうかな。じゃあそろそろ切る。」 「どこの美容院行ってるの?それとも床屋さん?」 シュンちゃんは首を傾げる。 「自分で、切る。」 驚いたけれど、昔からボサボサだったシュンちゃんの頭を思い返せば自分で切っていたというのも納得出来た。 「普通のハサミで?」 「うん。今持ってないから、今度までには切るよ。」 「私、今ハサミ持ってるよ?」 鞄から筆箱を取り出して、中に入っているハサミがシュンちゃんに見えるように口を開く。シュンちゃんは縁側の端から身を乗り出して覗き込む。 「切ってあげようか?」 シュンちゃんは驚いたような顔をする。 「私自分で前髪切ってるし。シュンちゃんよりは上手に出来る気がする。」 そう言うとシュンちゃんは嬉しそうに頷いた。  筆箱の中からハサミを取り出して、縁側の端にいるシュンちゃんに近付く。シュンちゃんは膝を手のひらで隠すように動かし、姿勢を正す。縁側に座るシュンちゃんの後ろに、私は靴を履いたまま膝立ちになった。  顔周りやうなじを隠すように伸びた髪は、毛量も多く酷い癖毛で所々毛玉になって絡まっていた。  右手でハサミを持つ。チャキ···と小さな音がする。シュンちゃんの背中がほんの少し震えるように動いた気がした。 「切るね。」 そう言って後頭部の髪に触れた瞬間、シュンちゃんの肩と背中が服越しでも分かる程、物凄い勢いで強張った。驚いて、私はハサミを持った右手をシュンちゃんから遠ざける。シュンちゃんの緊張が移ってしまったかのように、手に力が入る。 「···ごめんね、シュンちゃん。怖かった?」 シュンちゃんは肩で呼吸をしながら首を横に振る。 「大丈夫。ごめん、彩音ちゃん。続けて。」 何かを押し殺すような声。シュンちゃんはこっちを見ない。緩むことのない体の強張りを隠すように、シュンちゃんはカラカラに渇いた声で笑う。 「彩音ちゃんが髪切ってくれるの、嬉しい。」 そのシュンちゃんの声と背中が、あまりにもチグハグで、なんて返事をしたら良いのか分からない。だから何も言えないまま、ハサミを持った右手をゆっくりとシュンちゃんに近付けた。  襟足の髪を、左手でそっと掬う。想像していたより、ずっと柔らかな髪だった。でも、私の手はそこで止まる。 「···っ」 出そうになった声を咄嗟に押し込めた。掬った髪の下、現れたうなじには赤黒いような濃い紫のような痣があった。それ程古いものではない気がした。何をしたら、こんなところにこんな大きな痣が出来るのだろう。でも、何も言えなかった。何も聞けないまま、その痣がきちんと隠れる程の長さの髪を残して毛先の方から切って行く。ジャキッジャキッと音が鳴る度、シュンちゃんの背中が微かに震えた。 「シュンちゃんの髪、うちにある犬のぬいぐるみみたい。」 使い古したごわごわのタオルのようになってしまったぬいぐるみ。普段何とも思わないシュンちゃんとの沈黙が今は耐えられなくて、そう言った。 「へへ。」 するとシュンちゃんは笑った。その拍子に背中の力が少し抜けたような気がした。別に褒めたつもりはないのに、シュンちゃんは嬉しそうだった。  髪を切り終えたシュンちゃんは、口元を緩ませて自分の頭を触っている。 「ごめんね、あんまり上手に切れなかった。」 シュンちゃんが自分で切った髪よりはマシだったけれど、決して上手くもない。ボサボサの癖毛頭が一回り小さくなっただけだ。 「ありがとう、彩音ちゃん。」 シュンちゃんは笑う。今までで一番嬉しそうに。  立ち上がったシュンちゃんが、私に背を向ける。私よりずっと背が高くて広い背中のシュンちゃん。でもシュンちゃんは、いつも何かに怯えている。  出会ってから一年が経とうとしていた。暑くなってきてもシュンちゃんは相変わらず厚着だった。  先月再び髪を切った時には、あの首の痣は消えていた。安心した。でも、胸はざわつく。  私は、シュンちゃんの髪以外に触れることはない。髪に触れる時でさえ、シュンちゃんの背中は強張り、震えている。だからシュンちゃんが長袖長ズボンを着続ける理由になんとなく察しがついていても、私はそれ以上踏み込めない。  いつも通り、学校帰りに空き家の前を通る。私の背よりも高い塀に囲まれた空き家は、玄関先の塀のない所から覗き込まなければ縁側にシュンちゃんがいるかどうか分からない。  シュンちゃんも毎日いるわけではないし、私も毎日来るわけではない。今日は、明日の英語の授業の予習をしなけれはいけない日だった。早めに帰らないと。そう思いながら、空き家の前を通り過ぎようとした···その時、視界の端に黒い学生服が見えた気がした。立ち止まって、庭を覗き込む。縁側の上にシュンちゃんが俯せに横たわっていた。 「シュンちゃん!」 私は慌ててシュンちゃんに駆け寄った。顔は見えない。ボロボロの靴底がこっちを向いている。 「シュンちゃん!」 名前を呼びながら縁側に上り、シュンちゃんの横に膝をつく。静かに肩が上下しているのを見て、ひとまず安堵した。眠っているのだろうか。でも呼んでもシュンちゃんは反応しない。 「···シュン、ちゃん」 さっきまでよりずっと小さな声で名前を呼んで、静かに上下する左肩に触れた。···その瞬間、勢いよく体を起こしたシュンちゃんが仰け反るように私から離れた。突然荒くなった呼吸。大きく見開いた目は、たぶん目の前にいる私を見ていない。驚いた私は縁側から地面へ落ちるように移動した。何も言えなかった。  そしてシュンちゃんは、頭を抱えるようにして言う。泣きそうな声で、何度も何度も。 「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」 雨が降り出して、庭から走り去っていくまでシュンちゃんは私でない誰かに謝り続けていた。私は、シュンちゃんの姿が見えなくなってからようやく、凍ったように動けなかった体を動かす。制服が雨と泥で汚れていた。ぐちゃぐちゃだった。  それから一週間経っても、シュンちゃんは一度も空き家に現れなかった。私は道から覗くだけだったり、縁側に座って待ったりしたけれど、シュンちゃんに会えない日々が過ぎていく。でも別にシュンちゃんのことばかりを考えて過ごすわけではない。私には私の世界がある。シュンちゃんとここで過ごす時間は、逃避のようなものだった。現実とは違う、不思議な空間。その中にいる時は、ほんの少し強くなれたような気になる。  二週間が経った。朝から暑い。制服の衣替えはまだ来週だった。腕に貼り付くセーラー服を捲り、私は縁側に座る。雑草が随分伸びた。シュンちゃんに会えない間にどんどん生い茂っていく。  ガサッと草を踏む音がした。 「···彩音ちゃん」 初めてここで会った時のような、酷く怯えた顔だった。 「久しぶり、シュンちゃん。」 できる限り普通に、笑って言った。また伸びてきたボサボサの癖毛がシュンちゃんの顔を霞ませる。 「こっち、おいでよ。」 一瞬戸惑うような顔をしたシュンちゃんは、俯きながら近付いてくる。決して隣には座らない。縁側の、一番端。 「···この前、ごめん、なさい。」 ポツリとそう聞こえた。 「ううん。突然触っちゃった私が悪かったの。びっくりさせちゃったよね。ごめんね、シュンちゃん。」 言葉が次々出て来て早口になる。間違えてしまうと、もう二度とシュンちゃんとこうやって会えなくなってしまうかもしれない。 「シュンちゃんは悪くないよ。何も、悪くない。」 驚いて逃げ出した。それだけのことなのに、シュンちゃんはもっと悪いことをしてしまったような顔をしている。  「違うよ。俺は悪い奴なんだ。俺が、全部悪いんだ。」 頭を抱え込むように俯くシュンちゃん。 「どうして、そんなこと言うの?」 シュンちゃんは頭を抱えたまま首を横に振る。 「あんなことで、私はシュンちゃんのこと嫌いになったりしないよ。」 シュンちゃんに向けて体を乗り出すようにしてそう言った。すると、シュンちゃんが俯いたまま動きを止めた。凍ってしまったかのように、ピタリと。 「シュンちゃんと私は、友達でしょ?」 動きを止めていたシュンちゃんの背中が小さく震えた。泣いているような気がした。  それから、シュンちゃんはぽつりぽつりと話し始めた。 八歳離れた兄がいること。 その兄とうまくいかず、シュンちゃんだけが家を出され今のお婆さんの家で暮らしていること。 両親は会いに来てくれないこと。 兄だけが時々やって来て、その度に痛くて怖くて悲しいことをされること。 突然夜中に来ることもあって、怖くてうまく眠れなくなってしまったこと。 お婆さんも両親も、誰も助けてくれないこと。 シュンちゃんは、本当に一人ぼっちだった。 「彩音ちゃんも、本当は俺のこと、嫌い?」 シュンちゃんの傷は深い。とても、とても深い。 「私は、シュンちゃんのこと大好き。」 治っていく傷ばかりじゃない。深く深く、えぐられ続けるだけの傷だってある。 「私は、シュンちゃんが嫌がることは絶対にしない。」 なんて言えば伝わるのだろう。 「もし、私の言動で嫌なところがあったら全部言って。」 どんな言葉なら、その深い傷を癒せるのだろう。 「シュンちゃんとずっと友達でいたいから。」 何も言わないシュンちゃんが、唇を噛んでこっちを見ていた。私は縁側の端から一度立ち上がり、ゆっくりと縁側の反対の端に向かって歩き出す。  シュンちゃんの手が、震えていた。私はシュンちゃんの隣にそっと座る。長袖から出た手の甲には、火傷の痕のようなものが見えた。 「···俺は、悪い奴なのに?」 その言葉に答える代わりに、震える手を握った。触れても、シュンちゃんは逃げようとしなかった。  やがて震えがおさまってきた大きな手をよりいっそう強く握る。私は味方だよ。そう伝えたくて。  それから私は、シュンちゃんに言い続けた。 「何かされそうになったら逃げようよ。」 「やめてって言おうよ。」 「誰か大人に助けて貰おうよ。」 そんな簡単なことじゃない。それくらい私にだって分かる。だからシュンちゃんは困ったように笑うだけ。 「みんな、兄さんの味方だから。」  深い深いシュンちゃんの傷。長袖長ズボン姿でも、痛々しさを隠しきれていない時がある。何度同じことを言っても、シュンちゃんは首を縦には振らない。 「お兄さんは間違ってる。」 「そんな酷いことが出来るなんておかしい。」 「シュンちゃんは悪くない。」 シュンちゃんは全てに俯く。 「俺が、悪いんだよ。」 季節が、変わる。シュンちゃんの傷は増えていく。   「自分も同じ目に遭わないと分からないんだよ。」 「人を傷付ける人は、仕返しされたって仕方ないよ。」 「シュンちゃんには、同じことをしても良い権利があるよ。」 届いて。シュンちゃん。 「ねぇ、だからーーー···」 シュンちゃんの瞳はあまりにも澄んでいる。 「復讐しようよ。」 きっとその深い傷を利用して、どんな色にだって染められる。 「良いんだよ。シュンちゃんはこんなにも傷付いたんだから。」 取り戻そうよ、シュンちゃんの世界を。 「お兄さんさえいなければ、」 誰にも傷付けられることのない、幸せな世界を。 「シュンちゃんは幸せになれるよ。」  シュンちゃんとここで会うようになって二年が経っていた。  そしてシュンちゃんはゆっくりと顔を上げる。 「あいつも、傷付いたらいいんだ。」 その瞳は、確かな色を持っていた。 「彩音ちゃん、見ていてくれる?」 シュンちゃんからの初めての頼み事だった。 「私は、シュンちゃんの味方だよ。」 大きな手をぎゅっと握った。  それからシュンちゃんは、体の傷を見せてくれた。本当は、誰にも見られたくなんかなかっただろうに。首、肩、背中、胸、お腹、腕···時間が経っても消しきれない傷や痣。まだ真新しいものもある。私はその一つ一つに触れる。 「痛いね。」 シュンちゃんは頷く。 「怖かったね。」 シュンちゃんは頷く。 「よく、耐えたね。」 シュンちゃんは頷く。 「よく、頑張ったね。」 背中が、震えた。 「もう我慢しなくて良いだよ、シュンちゃん。」 その背中にそっと額を当てた。  今夜もシュンちゃんは黒い学生服を着て、黒いくしゃくしゃのナップサックを背負っていた。伸びてきた髪は、敢えて切らずにいた。その方が、顔が見えにくくて都合が良い。  あの空き家の庭以外でシュンちゃんと会うのは初めてだった。人通りの多い駅前のコンビニ横に立つシュンちゃんは、違和感無く街に溶け込んでいる。ずっと、とても大きいと思っていたシュンちゃんが、実はそれ程大きいわけではないことに気付く。私よりは大きい。でも街の中に立つシュンちゃんは、むしろ小さく見えた。ボサボサの癖毛頭も、蒸し暑い中での学生服も、いろいろな格好をした人達が行き交うこの中でならさほど目立たない。シュンちゃんに‘ヤバい子’‘危険な子’というレッテルを貼り続けたあの世界が、狭すぎたのだ。今なら、そう思えた。 「高校は、辞めたんだ。」 ぽつりと、シュンちゃんは言う。 「···そうなんだ。」 別に驚かなかった。たぶん、もうずっと前からシュンちゃんはちゃんと高校に通っていない気がしていたから。 「シュンちゃん、」 コンビニの店内から漏れる明かりが、暗い闇の中に立つシュンちゃんを後ろから照らす。 「きっとうまくいくよ。」 そのぼんやりとした明かりに照らされて、シュンちゃんは何も言わずにただ微笑む。優しい顔だった。  今からシュンちゃんが何をしようとしているのか、私以外誰も知らない。  薄暗い路地へ向かってシュンちゃんは何も言わずに歩き出す。ここからは別行動だ。私は一緒に歩いていると思われない程の距離をとって、その背中を追う。あの庭で何度も見た背中なのに、知らない人のように見える。もう、何かに怯え、震えていた背中ではない。  駅から離れていくと、やがて寂れた公園が現れる。木々の間から中に入り、公園の真ん中を突っ切るようにしてシュンちゃんは歩いて行く。早足で歩くシュンちゃんの姿を見失わないように、私は息をあげながら必死についていく。夜の公園は不気味だった。さっきまで駅前にはあんなにも人が溢れていたのに、ここには誰もいない。鬱蒼と茂った木々が、生温い風に吹かれてカサカサと音をたてる。こんな不気味な空間の中を、シュンちゃんは気に留める様子もなく進んでいく。  シュンちゃんが公園を抜けた。向こうの道も人通りはない。こんなところに本当にシュンちゃんの兄は現れるのだろうか。公園の中から私は、道に立ち止まったシュンちゃんの横顔を見つめた。暗くて表情は分からない。でも、今のシュンちゃんには迷いがない。  しばらくすると、シュンちゃんの視線の先に人影が現れた。ここからではよく見えない。たぶん、男の人。右手に鞄を持ち、背筋を伸ばして歩く姿がぼんやりと暗闇の中に映し出される。シュンちゃんを傷付け続けた八歳上の兄。一体どんな人なのだろう。  そんなことを考えていると、一歩踏み出した拍子に足元に落ちていた小枝を踏んでしまう。パキッと音がする。その瞬間、その音が合図になったかのようにシュンちゃんが走り出した。シュンちゃんが走っている姿を初めて見た。想像よりずっと速く、ずっと綺麗に走る。ポツポツと照らす街灯の灯りが、シュンちゃんにスポットライトを当てる。ライトのない所で、人影に追いつく。人影が驚くように振り返ろうとした時、シュンちゃんはその背中を蹴り飛ばした。  息が、止まる。  道路に倒れた人影。その背中をシュンちゃんは何度も蹴った。何度も、何度も。声が聞こえる。呻くような、叫ぶような声が。それがシュンちゃんの声なのか、シュンちゃんの兄の声なのかは分からない。  心拍数が上がる。私は公園から飛び出して、二人がいる道の直線上に立った。隠れることも忘れて、少し離れた場所からその様子を食い入るように見た。目が離せない。その光景が、貼り付くように頭の中に入り込む。  大人の男を、学生服を着たシュンちゃんが何度も、何度も蹴る。蹴り飛ばすような蹴り方が、やがて踏みつけるように変わる。抵抗しようとしていた相手の動きが鈍くなる。シュンちゃんは蹴るのを止めて、仰向けに転がした相手の上に馬乗りになった。ドスッと鈍い音が鳴る。何度も、何度も。馬乗りのまま殴った。  いつしか相手の抵抗がほぼなくなった。シュンちゃんの背中が大きく上下している。あの、空き家で見た背中はもういない。シュンちゃんは、強くなった。こんなにも。  動かなくなったシュンちゃん。終わったのだろうか、復讐が。上下する背中に向かって私は歩き出す。見ていただけなのに、私の心臓は大きな音をたてていた。興奮していた。すごいよ、シュンちゃん。シュンちゃんに近付きながら、なんて言葉をかけようか考える。‘よくがんばったね’、‘すごいね’、どれもしっくりこない。とにかく、この胸の高鳴りとともにシュンちゃんを労って、一緒にここから逃げようと思った。 「シュンちゃ」 自分の声が、スッと消えた。シュンちゃんがくしゃくしゃのナップサックから取り出した物が、ナイフのように見えたから。シュンちゃんが、それを持った右手を大きく振り上げる。終わりじゃなかった。そうか、ちゃんと終わらせるなら、こうしなくちゃいけない。蹴って、殴って、終わるわけじゃない。‘ちゃんと’終わらせなければ、また報復される。  お腹の底がざわつく。手のひらに汗が滲む。足が、震える。でも私は見届けなければ。最後までちゃんと、シュンちゃんの復讐を見届けないと。  震える足に力を込めて私は走った。距離はそれ程遠くなかったはずなのに、なかなかシュンちゃんのところへたどり着かない。  シュンちゃんが、叫びながら泣いている。 「死ねよ!死ねよ死ねよ!!」 泣きながら振り上げられたナイフ。 「シュン、ちゃん」 聞こえたかどうか分からない程の声しか出ない。走って、ようやくシュンちゃんの隣に回り込んだ。そこに現れた光景に目を見張った。 嘘。 背筋が凍る。額から汗が噴き出す。震えていた足が、崩れ落ちそうになる。 嘘 嘘 嘘 信じられない。でも目の前の光景は、現実だ。 「···ダメ!!!!」 無我夢中で、シュンちゃんの左半身を思い切り突き飛ばした。
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