39人が本棚に入れています
本棚に追加
「優貴さん、金魚のことに詳しいですね」
「うん。美術部のレンタル金魚屋って、僕のことだから」
「そうだと思ってました」
優貴さんは、意味もなく、美術室の石膏像や、不思議な金魚のことを語ったわけじゃない。
あたしに「美しい謎」の、その先まで来て欲しいと望んでる。
もっと深いところへ潜って、“僕”のことを探して欲しいって。そう言ってるんだ。
あたしは、心臓が重く脈打つのを感じた。
これは、恋や恐怖によるものじゃない。
ただ、優貴さんの期待に応えなきゃいけない。彼の見せてくれた謎を、解決に導かなきゃいけないって、それを重圧に感じてるだけ。
「レンタル金魚屋のことを聞いて、あたし、ちょっと思い出したことがあるんです。セントラルパークの夏祭りで、毎年、金魚すくいコーナーにいた兄妹……。『俺んちの金魚だ』って言うのが口癖だった」
きらきらとした瞳の兄妹だった。
「もしかしたら……優貴さんは、そのお兄さんのほうじゃないかな、なんて思ってたんですけど」
あたしは今、上手に笑えてるだろうか。
「そうじゃないですよね? だって、相談所のプロフィール表に記載されていた家族構成は、『父、母、兄』でした。だとしたら、あなたは兄じゃない。優貴さんはーー」
「正解。千夏さんは、案外鋭いね。そう、僕は妹のほう。いや、妹だったと言ったほうが正しいかな」
そう聞くと、途端に女性らしく見えるのが不思議だ。でもやっぱり、優貴さんは男の人だった。
「性転換の手術をしたんだ。ずっと、自分の身体に違和感があったから。今は、身体も戸籍も男だよ」
トランスジェンダー。
昔から、心と身体の性別が一致しなかった。
身体は女性のものなのに、意識は女と男の狭間を行き交うようで、けれど、次第に膨らみを増す乳房が邪魔だということだけは、はっきり分かった。
彼は淡々と話した。
「僕も、あのコメットみたいになりたかった。自分を守るために、体の色を変えられたら良かったのにって、何度も思ったよ」
何て言葉をかければいいのか分からない。
勇気のないあたしは、結局、唇を引き結んで、彼の言葉に耳を傾けることしかできない。
「今でこそ、こうやって平然と話してるけど。当時は相当悩んだし、苦しかった。両親とも衝突した。というか、僕が一方的に、イライラしてたのかな。美術室の石膏像に、カツラや髭、ネクタイをつけて、仮装させてみたのも僕。男と女の境目はどこにあるんだろうって、知りたくて。毎朝起きるたびに、涙が止まらなくなることもあったよ」
優貴さんは、溜息を吐いた。
「……それでね、ついにやっちゃったんだ、ガシャーンってね」
「ヴィーナス像を、壊しちゃったんですね」
完全には理解してあげられないかもしれないけど、想像はできる。
優貴さんは、借り物の器を前にして、めちゃくちゃにしてやりたくなったのだ。
「そうだよ。先生にこっぴどく叱られてさぁ。そんなんで、落ち込んでたら、能天気な文芸部の女子が現れた。誰のことか、もう分かるよね?」
最初のコメントを投稿しよう!