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夕陽で赤みがかる、美術室の工作台。
放課後に、ひとり佇んでいた背の高い女の子。長い前髪に隠れた彼女の瞳が、突然押しかけたあたしを認めて、驚いたように見開かれた。
「壊れた石膏像を見せてくれたのは、優貴さんだったんですね」
「僕を見つけてくれてありがとう。それから……欠けたヴィーナス像を見て、『これはこれでいい』って言ってくれたこと、ずっと覚えてたよ」
あまりにも優しく微笑むから、あたしは何だか気恥ずかしくなってしまった。
「優貴さんは、女の人が好きなんですか」
「そうだね」
「じゃあ、あたしのことも好きなんですか」
「それはどうだろう? 僕は少し、疲れてたのかな。相談所の検索システムで、千夏さんを指名したのは、ただ単に、懐かしい思い出に縋りたかっただけなのかも」
きっと、性別転換をしてからも、彼はたくさんの悪意に晒されてきたのだろう。
例えばお見合いの場で、お互いに意気投合したとして、そこで“秘密”を打ち明けてーー騙されたと、罵る女もいたかもしれない。
彼は今後、日常のちょっとしたことにさえ、傷付いて生きていく。
そう考えると切なくて、あたしはわざと明るい声を出した。
「ちょっと。その気がないなら、乙女を弄ばないでくださいよ」
「乙女って、自分で言うかな」
喉の奥で笑いを噛み殺した優貴さんは、何の気なしに、自身の前髪を触った。
「その、前髪を触るのは癖ですか」
「え?」
「あたしに石膏像を見せてくれた時も、同じ仕草をしてましたよね」
こういう、どうでもいいことだけは覚えてるんだよなぁ。
あたしが指摘すると、優貴さんは弾かれたように、前髪から手を離した。そしてそのまま、腕時計に目をやる。
「そろそろ1時間経つね」
「あ、ほんとだ。あの、もしよかったら、帰りにセントラルパークの夏祭りに寄って行きませんか」
「ああ、夏祭り、今日だったんだね」
あたしたちは席を立つ。
すっかり水っぽくなったジュースの中で、小さな氷が涼しげな音を立てた。
あたしはこの時、気付かなかった。
あたしを前にすると、自分の前髪を触ってしまう優貴さん。
彼の前髪をいじる癖は、好意のある相手に対して、表れる仕草だってことに。
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