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「別に。それ以上はなかったから安心して。愛しい奥さんと間違えでもしたんだろ? ……そうだ、あんた、スマホ。ずっと奥さんのスマホから娘がかけてきてたぞ。俺より娘さんに謝って早く帰ってやれよ」  俺がポケットを指差すと、ウィルソン氏は大事なことを思い出したように表情を止め、急いでスマホを確認した。 「……なんてことだ。ミアを一人きりにするなんて!」  「一人きり? どう考えても幼児の声だったぞ。あんたの妻もどうしてんだよ。ああ、そんなのはいい。とにかく早く帰ってやれ!」  幼い頃、狭くて汚いアパートで一人の夜を何度も過ごしていた自分を思い出す。あの頃、怖くて寂しくて、毎晩震えていた。  俺は狼狽するウィルソン氏を立たせるのを手伝い、玄関に向かって身体を押した。  全く、いい大人が情けない。確か三十三歳くらいだったよな。この人。これで本当に会社の社長やれてんのかよ。  玄関のドアを開く。これでサヨナラだ。慣れない善行終了、と思った。だが、突然ウィルソン氏が俺に振り返り、両方の手首を掴んで来た。 「君、ミヤマエ……だったね。頼む、家に付いてきてくれないか?」 「は? なに言って……」 「ミヤマエ、オフィスに入るのは何時だ」 「いや、今日はデザインだけだからオフィスへは行かない。て言うか、なんで俺の名前知って」 「なら大丈夫だな。さあ、行こう」  最後には声がかぶり、馬鹿力に引っ張られる。 「え、待って、ちょっと……!」  ルームシューズに上着無し、アパートの鍵もかけられずに、俺はタクシーに押し込まれ、ウィルソン氏の自宅へと連れ去られた。  アパートに強盗が入ってたら、きっちり慰謝料頂くからな!   ❋❋❋  タクシーに乗ったものの、ほんの数分でウィルソン氏の自宅へ到着する。  ブロードウェイ駅とセントラルパークウエスト駅の中間辺りに位置する高級コンドミニアムの最上階が彼の家だ。ヨーロッパの高級ホテルを彷彿とさせる大理石のエントランスにはドアマンが立っている。 「おはようございます、ウィルソン様……そちらは」  汚れた服をだらしなくひっかけているウィルソン氏と、明らかに部屋着の俺を、ドアマンは怪訝な目で刺す。 「彼は友人だ」      ウィルソン氏は小さく言ってドアマンに多目のチップを渡し、足早にエレベーターへ向かった。  まだ朝の六時過ぎ。ドアマン以外の人間とはすれ違わないことに安堵する。  しっかし、エレベーターの中まできんぴか。この分じゃ部屋の中も凄いんだろうな。  ──と、普段は立ち入れない豪華さに、期待の気持ちいっぱいで足を踏み入れた室内は。 「なんだ、これ……」  玄関を開けるなり生ゴミの匂いがして、ホワイトオークの床には泥や埃がついたままになっている。  ウィルソン氏に付いて入ったリビングルームも同じく荒れていた。  三面がガラス張りで、正面にセントラルパークの緑が、右側にはハドソンリバーの水景、左側にはミッドタウンやダウンタウン、ハドソンヤーズのスカイラインが広がっているのに、室内には衣服や食品ゴミ、新聞に子供の玩具や本が散乱している。
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