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 ウィルソン家での生活を始めてから一か月。  週に一度はハウスクリーニング業者が入るようになった家は、贅沢な(しつら)えの本来の輝きを取り戻し、まさに豪華な邸宅と言ったところだ。  だが、その他の業者はミアが拒否する為に、清掃以外の家事は主に俺が担っている。  そりゃあ育児放棄されて育った俺だ。たいていのことなら自分でやってきたし、できる。器用な方だと思うし。  でも「担う」ほど立ち入るつもりじゃなかった。それがなぜこうなっているかと言うと──── 「ああ、またスクランブルエッグになってしまったよ、ヒュー」  俺がこの家に入った日に無精髭を剃り、伸ばし放しだった髪を切ったウィルソン氏も、俳優さながらの本来の輝きを取り戻した。  だが、その甘いマスクの眉根を寄せたウィルソン氏──ジェイは、今朝も不器用全開だ。プレーンオムレツでさえ、何度教えても作ることができない。 「ヒュー、おなか空いた」  ミアはナイフとフォークをそれぞれの手に握り、楽器のようにテーブルを叩いた。  ジェイ、はウィルソン氏の名前のジェイデンの愛称。ヒュー、は「マフユ」を舌足らずで言えないミアが「マフュ」をさらに省略して俺をそう呼ぶのを、ジェイも真似している愛称だ。 「ミア、食器をそんなふうに扱うな。マナー違反だ」  キッチンから言うと、ミアはぷうっと頬を膨らませる。だが、素直に食器を置いて「手はお膝」の言いつけを守った。  ミアは今でも俺と必要最小限しか話さないし一定の距離も取っている。それでも、飯と言うのはどの国どの年齢であっても心を掴む最大のアイテムではないかと思う。  一緒に暮らすことになったあの朝、この家の冷蔵庫にはなぁんにもなかった。でも、食品庫にはパスタとコーンビーフの缶詰、ブロックトマトの缶詰があって。それで作ったコーンビーフパスタを、ミアは口の周りをベタベタにしながら頬張った。  それからも、俺が作る手の混んでない食事を残さず食べるんだ。食事の時だけは俺に目を合わせて話を聞くしね。 「いいか、ミア。背は伸ばしてフォークの柄のところは汚さないよう、音が立たないよう、量をセーブして食べるんだ」 「ん」  男娼の頃に客に教えこまれたテーブルマナーが仕事以外に役立つ時が来るなんて。  相手は四歳の子供だけど、ジェイの会社はきっと上場するだろうし、社長令嬢としての立ち居振る舞いを本格的に学ぶ時に、ほんの少しでも困らないように手助けしたい。俺には勉強は教えられないから、これくらいだけど。 「ヒュー! どうしよう。お気に入りのシャツがシワシワだ」  ミアにフルーツの皿を出していれば、ジェイがランドリールームから飛び出して来た。 「……だから、それは生地が特殊だから別洗いだって前も言ったじゃん。やり直すから置いといて」 「ごめんよ」  軽くため息をつく。  ジェイは自分のことを「なにをやっても劣等性で」と表現していたけど、生活能力に関しては本当にポンコツだ。ジュリアが亡くなってから俺に会うまで、ジェイはともかくミアが良く生き延びたと思う。
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