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殺意が芽生える、という表現は言い得て妙だ。土の中でうごめいていた輪郭のあやふやな感情たちが、ぶつかり、混ざり合うなかである日、殺意という芽の形に昇華するのだ。散逸していたエネルギーが一気に収束するこの芽生えの瞬間を、そういえば私は人生で一度だけ、目撃したことがあったのだ―。
受験生には息抜きが必要だ。地元の私立高校に通っていた私は、高3になってすぐそのことに気がついた。昼は学校、夜は塾。どっちもがんばっていては若さで身は持っても心が持たない。クラスの大半が塾通いということもあり、クラスの雰囲気はなんとなく、昼は少し息抜きして夜がんばる、という方向へ流れていった。目立つ男子の中には先生にちょっかいを出す奴もいて、授業が中断されたり遅れたりすることは多々あった。でもクラスのほとんどは学校の授業を話半分に聞いているし、先生もそれを知ってか、さして注意はしなかった。この状況に先生を含め、クラスみんなが甘んじている―そう思っていた。が、1人だけ声をあげた女の子がいた。その子は塾に行っていなかった。本人は行きたがったが、家庭の経済的理由で行けなかったらしい。そして傍目から見てひどく要領の悪い子だった。本来ならわかりやすい授業を一生懸命聞いて、先生にたくさん質問してようやく理解できるといった感じであったにも関わらず、先生はやる気なし、生徒は半分おふざけの授業では全く理解できなかったのだろう。ある日の授業中、バンッと机を叩いたかと思えば物凄い剣幕で、「私の勉強の邪魔をするなボンボン共が!」とツバを飛ばし叫んでしまった。
彼女がもう少し器用だったら、と思う。私たちにもう少し心の余裕があったなら、また違った結末になったかもしれない。その日から彼女は消えてしまったのだ、わたしたちの仲間という範疇から。そして敵という新たなポジションを与えられてしまった。
暴力とか、ドラマで見るようなひどいいじめはなかったと思う。そこまでの悪人はいなかった。ただ静かに、クラス全員が彼女を嫌ってしまった。
そして彼女は結局どこの大学にも受からなかった。
卒業式の前日、彼女はある企画を私たちにもちかけた。繰り返すが、私たちは悪人ではない。受験も終わり、ストレスから開放されて心の余裕が生まれた私たちは、自分たちがしてきたことに多少の後ろめたさを感じていた。だから私たちは謝りこそしなかったが、その企画に全員で参加した。彼女は笑っていた。私たちは安堵し、談笑し始めた。彼女は私の斜め前で、クラスメイト何人かと話していた。すっかり気が緩んでいたのだろう、そのクラスメイトの1人が彼女に向かって、「てかさー大学全落ちとかマジ要領悪すぎー」と言って笑っていた。彼女も一緒に笑っている、周りにはそう見えたのだろう。だが私の角度からは見えてしまった、彼女の、力を入れすぎて真っ白になった拳が。そして私の視線に気づいた彼女が一瞬見せた表情が。それは彼女の中にしまっていたどす黒いものが、成すべきカタチを見つけた瞬間だった。殺意が芽生えた瞬間だった。
あの殺意の芽がどうなったのか、私は知らなかった。それどころか、芽生えの瞬間を目撃したことはもちろん、彼女のことすらすっかり忘れていた。ついさっきまでは。今はわかる。あの芽は花を咲かせていたのだ。だが咲かせたのは一輪のバラではなかった。遠くからは1つに見えるが、近くで見るとたくさんの花が集まって咲いている、そんな桜のような花を彼女は咲かせたのだ―。
あの卒業式の前日、殺意の芽生えのあと、彼女は何をしたんだっけ、みんなから集めて、それで、10年後に、みんなに会いに行くよと言ったんだっけ、でも今日彼女は来なかった。来たのは1通の手紙だけ。桜の花言葉は、なんだったかな。そうだたしか、私を忘れないで―。
意識が薄れていく。
手から、足から、力が抜けていく。
ぼやけた視界の中、かろうじて見えた小さく揺らめく光は、散りゆく桜の花びらだったのだろうか。
最後に、何かが床に落ちる音が聞こえた。
手紙 表面
「10年後の私へ」
手紙 中身
「10年後の私は、何をしていますか?
自分のやりたいこと、できてますか?
できてるといいな。それで、ゆりやちさと、
できればともや、ゆうじとも笑、ずっと友達
だといいな。それでそれで、オトナな恋とか
しちゃってたらサイコーです!笑
最後に、この企画を考えてくれたさくらちゃん
に感謝!」
手紙 裏面
「この企画を提案した人のこと覚えていますか。
もし覚えているのなら、よく思い出して
ください。そして何か思うところがあるのな
ら、この手紙は1ヶ月開けないでください。
そうでないのなら、どうぞ開けてください。
今も昔も、変わらぬ姿のあなたで―」
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