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一、 墳神唯一は黒いマスクを手放せない。
昔住んでいたこの冨浦町に再び戻ってきたのは一か月前。
おばあちゃんが庭で転んで両足を骨折して、一人で歩くのが困難になったから戻ってきた。五歳まで住んでいたらしいこの町を私はうっすらとしか覚えていない。
夏休みに、隣の家の同じ年の海士野陸と蝉取りしたり川で泳いだりしていたから全く知らないわけではない。
ただ中学に上がったぐらいから、身長も伸びて男っぽくなった陸はテニス部に入ったらしく、夏休みに帰省しても全く会えない日々だった。
そんな折に夏休み明けに転校してきて、友達も作らない私を心配してちょくちょく海士野の方から話しかけてくれるようになったんだけど。
「……私がここに住んでたの、幼稚園に入る前までなんだけど」
海士野の口から『小学校の時に同じクラスだったじゃん』と言われて首を傾げた。
先生と共に教室から出て行った彼を私は知らなかった。
「なんでだろ、咄嗟にそう思ったんだよなあ。それより、教室で何してたんだよ」
「……日誌。書き終わった後、夏休み前のクラスの人の日誌をパラパラ見てたの」
そうしたら急に眠くなって、うとうとしていたら先ほどの墳神という男が私の座っている席の前に座って顔を覗き込んでいた。
濡れ烏みたいな艶やかな黒い髪に、狐みたいに細い目、そして真っ黒なマスクに驚いてしまった。なんというか、一瞬、妖怪か何かの類に思えてしまった。
「日誌でチェックするよりクラスの奴らともっと話せばいいだろ。お前、なんでそっけない態度とるんだよ」
「別に。……人見知りなの」
「お前、前の学校で沢山友達いたじゃん。てか、マネージャーの話は考えてくれたのか?」
友達も作らず、家に帰ってひたすらおばあちゃんと一緒に家でゴロゴロする私に、海士野はとんでもないことを言い出した。
弱小テニス部のマネージャーになってくれ、という。
冨浦高校は小さな公立高校で全校生徒120人弱。
一学年二クラスの普通科のみ。小さな田舎町にある唯一の高校なので、小学校から高校まで代わり映えのない面子らしい。
そんな知り合いしかいない高校で、人も少ない上に田舎のせいで強い部もないくせにマネージャーを募集するとは、強気もいいところだ。
「あのね、私」
言いかけたのに言葉が上手く出てこない。
『一緒の高校に行こうねって言ったのに、嘘つき!』
向けられた強い言葉が突き刺さって、私の喉が声を発しない。
「私に構ってくる海士野もうざい」
思ってもいない言葉が吐き出された。こんなことが言いたかったわけじゃないのに、喉から出てくる言葉が、私の気持ちの真逆を吐露する。
呆然とした海士野の顔を見て、胸がえぐられる様だった。
アイツの前ではうるさくて、偉そうな私が、きっと学校では喋らず話しかけても乗り気じゃなさそうな様子なのを見て心配してくれてるんだ。
転校してきて一週間。
なのに、全然友達ができないのは、さっきのあの言葉のせいだ。
『一緒の高校に行こうね、って言ったのに、嘘つき!』
そう言ったのは、前の高校で同じクラスになった美里。
中学からずっと一緒に美術部に入っていて、秋にあるレストランを貸し切って展示会をする美術部がある高校に一緒に受験した、親友だった。
ショートカットに、大きな目。小動物みたいにちいさく動くその姿は可愛かった。
145センチの彼女の隣に160センチ超えの私が隣に並ぶとまるで自分が男みたいにがさつで大雑把に思えた。
一緒に入学したのに、夏休み前に転校してしまった私を、彼女は責めた。
でも私だって転校したくなかったし、美里と離れたくなかった。私だって辛かったのに、自分だけ泣いて悲劇のヒロインみたいな美里が少しずるいとさえ思ってしまった。
『一緒の高校に来たから、嘘じゃないでしょ』
そんなこと言いたくなかったのに、冷たい言葉が出てしまって、でも公開した時にはすでに遅かった。
泣きながら帰っていく美里は、長い影を伸ばしつつも私から遠ざかって行ったのだから。
「天邪鬼って言うんだよ」
「うわ、出た! 墳神……えっと」
「唯一。隣のクラスなんだけどなあ」
黒いマスクを顎までずらすと、ぬるっとした動きで近づいてくる。足音もないのが少し不気味だった。
「僕のこと、知らない?」
「知らない、ですけど。隣のクラスってことも今日知ったし」
なぜか隣に並んで歩いてくるので、すすっと距離をとるとぬるっと近づかれた。
失礼だけど、かなり不気味だ。狐みたいな細い目が三日月みたいににんまり曲がって笑われると、少し怖い。顔の造形は悪くないのに。
「僕のこと、変な人やなあって思ってるやろ」
「お、思ってない。思ってない」
「ほら、天邪鬼になっとる」
「私、こっちの道だから」
慌てて遠回りになってしまう方角に走り出すと、なぜか墳神くんもついてきた。
「俺の家、この商店街通り抜けた向こうの神社なんだ。墳神神社って言う天災の厄除けを――」
「聞いてないし、ちょっと慣れ慣らしいんだけど」
いい加減、張り付くような悪寒に叫んでしまった。墳神くんは目を見開いて立ち止まる。
「一人で帰りたいので、もういいでしょうか?」
「友達になりたいなって思っとんやけど、いい?」
私たちは同時に話しかけてしまった。
彼の言葉は、なぜかくらくらしてしまう。
「いやです」
「ほら、天邪鬼」
「さっきから、なんですか?」
同い年の男の子に、なぜか敬語で話してしまう。けど、それほど彼にはどこか不気味な、私たちとは違う何かがある。
「うーん。どこから話せばいいかな。えっとね」
ぬるっとゆったりとした言葉選びに、私は腕を組み、足でリズムを刻みながら待った。
「君が転校してきた初日に、あいさつしたんだ。でも君は僕が見えていなかった」
「……はあ」
こんな目立つ人の挨拶を気づかなかったばっかりに、目を付けられてしまったのか。もしかしたらこの人がこの高校のボスなの?
「僕が見えないってことは、言葉に思いっきり抵抗力があって、僕の言霊が届かないんやなあって思って」
「そ、ソーデスカ」
大変だ。この人、ちょっと何を言っているのかわからない、頭がおかしい人だ。
「信じてないやろ。でも俺の声が効果ないならこの町で君は危険なんよ」
「あの、私、宗教とかそーゆうの興味ないので」
「違うってば」
困ったな、と頭をくしゃくしゃ掻く彼は、一瞬だけ人間らしかった。
いや、私と同じ人間なのだから当たりまえなんだけどなんていうのだろうか。
ちょっとだけ彼が私とは違う線の上にいるような、不思議な感覚になる。
「この冨浦町って、海が遠いからさ。昔はよく旱魃になってな。それで人々は神頼みしか残されていなかった。遠い昔の話なんやけどな」
「……なに?」
「乾いた大地を潤すには、俺みたいな言霊使いにお願いするしかなかったんや」
彼は天を仰いだ。そして小さく呟いた。
「黄葉(もみちば)を散らすしぐれの降るなへに」
一瞬、喉を押さえた彼がすぐにマスクをつけた。
「これで今夜、雨が降るよ」
「うそ」
携帯を取りだして、天気予報を見たが今週は全部晴れだった。
「夜さへぞ寒き、ひといし寝れば、ってね」
くすくす笑うと、彼は私を置いて商店街の方へ吸い込まれていった。
「……なに、あの人」
その夜、天気予報を無視して雨が降ったことは言うまでもない。
「唯織ちゃん、唯織ちゃん」
ぽたぽたと縁側の屋根から落ちてくる雨粒を眺めていたら、おばあちゃんが私の名前を呼んだ。
すぐにおばあちゃんの部屋に行くと、窓際に寄せられたベットの上でおばあちゃんが編み物をしているところだった。
おばあちゃんは80歳を超えるのに、小さくてかわいくて、お爺ちゃん曰く富浦町一番の美人だったと自慢していた。私もおじいちゃんの言っていたことは本当だと思う。一緒にいて気持ちが朗らかになる人なんておばあちゃんぐらいだ。
「どうしたの?」
「突然雨が降ってきたでしょう。陸くん、傘持ってたかしらと思って」
「陸も高校生だよ。雨ぐらい濡れても大丈夫だってば」
「でもねえ、私の代わりに出かけてくれてたのよ」
しわしわの頬を触って申し訳なさそうに窓の外を見る。
「陸は部活があって忙しいでしょ。今度からお使いは私に頼んでいいよ」
「あら、ほんとうに? 陸くんが毎朝来てくれたから甘えてたけど、そうね。唯織ちゃんがいるなら頼もうかしら」
学校から帰ったら、再放送のドラマを見ながら宿題したりゲームしたり漫画を読むだけで暇なのでお使いぐらい問題はなかった。
「じゃあ、明日おはぎをお供えしてきてもらおうかしら。墳神神社に」
ただし、近寄りたくないものもあるのだけど。
「えーっとそこは場所がわからない、かなあ」
「あら、商店街の向こうよ。秋に千秋祭りがあって、あなたも行ったことあるのよ」
記憶がない。幼稚園より前の記憶ってここら辺は海士野と遊んだ記憶しかないのに。
「おばあちゃん、あのね、墳神唯一って知ってる?」
「墳神唯一?」
不思議そうに首をかしげて窓の方へ視線をさまよわせるが、首を振る。
「墳神神社の神主さんは、文一さんだしねえ。どなたかしら」
「……そう、なんだ」
同じ町にずっといるはずのおばあちゃんが知らないっておかしい。
いや、おばあちゃんの方が生まれた時からここにいるんだから知らないはずない。
ここに引っ越すって決まった次の日には海士野のおばさんから連絡がきたぐらいだし。
人口の少ない富浦町だから、住民票を移しに市役所に行ったらすっごく歓迎されて、お米十キロと名物の干しシイタケと蜜柑までもらったもん。その時、私のことをすでに把握していた。噂でも流れていたんだと思う。
墳神神社はこの町の守り神だとしたら息子を知らないはずがない。
「どうしたの? 難しい顔して。もしかして墳神神社の親戚の人なのかしら」
「そうかもね。私も全然詳しくないから聞きたかっただけなの。おかしい人でね。今日雨が降るってわかってたの。予報では一週間晴れだったのに、よ」
「墳神神社は言霊さまだからねえ。雨を降らせてほしいと私たちが願えば、叶えてくださるよ。この町はそうやって生きてきたんだからねえ」
「言霊さまって、なに?」
さっきの墳神唯一と同じことを言ったおばあちゃんに聞こうとした。なのに、縁側の戸がノックもなしに開いて、青空みたいなレインコートを着た海士野がずかずかと入ってきた。
「おばあちゃん、お使い行ってきたよ。濡れたら大変だから濡れないように何十にも包んできた」
「まあ陸くん、ありがとうねえ」
おばあちゃんが作りかけの編み物をベットサイドの棚に置くと、海士野が何十にもビニール袋に入れていたものを、輝く目で見ている。
濡れたビニール袋を外し、濡れていない袋になったら海士野は優しくおばあちゃんの手のひらに乗せた。ビニール袋の中は、小豆だった。
「それ何に使うの?」
「ふふ。お手玉を作ろうと思ってね。でも足が悪いでしょう。日向に小豆を干して乾燥させることができなくなったから、お友達に少し譲ってもらったのよ」
「ふうん」
「布はね、もう着られなくなった古い浴衣の生地を切って使おうと思ってるの。唯織ちゃんと陸くんも着ていた浴衣もあるのよ」
おばあちゃんが楽しそうに語っているのを、海士野も嬉しそうに笑っていた。
海士野のお母さんとお父さんは働いているので、幼稚園はいつもお迎えが一番最後だったらしい。その海士野をときどきおばあちゃんが隣のよしみとやらで迎えに行ったり夕飯を分けたりと近所付き合いをしていた。なので海士野は、今のおばあちゃんに恩返しをしているのだと思う。
「そのお手玉って千秋祭りのときに公民館で昔のおもちゃ遊びってコーナーで使うやつだろ? それまでには足を治そうな」
「そうよ。おばあちゃん。ギプスが取れたら一緒にお散歩しようね」
「そうね。頑張らなくっちゃ」
小豆を見ながら、私はきっとまた嘘をついた。うちの親は海士野にも本当のことを言っていないらしい。
おばあちゃんの骨は脆くなっていて、もう松葉杖なしで歩けないのは確実で……もしかしたら車椅子の生活になるかもしれないことも。
天邪鬼――。
彼が言った言葉が本当のように、私の口からは思っていることの反対しか言えなくなっていた。
***
『あそこの唯一って息子が不気味だから、やっぱりお使いはいやだ!』
そう言いたかったのに私は、なんとも情けないへらっとした顔で『いいよ』と昨日は言ってしまって後悔した。
もう夏が終わりに近づき、秋の中間服に衣替えが始まる十月に差し掛かるとはいえ、おはぎを学校で一日持っていたら傷んでしまう。
どうしたらいいか……海士野に相談しようか悩んだけどこんな時だけ頼るのも情けない気がして、担任に頼んだ。
するとおはぎは職員室の冷蔵庫に保管してくれることになった。
おばあちゃんの足のことも、おばあちゃんが神社にお参りを欠かさない人だったことを知っているらしく話はスムーズで助かった。
けど、行きたくない。彼を放課後見つけたら押し付けてしまおうかとも思う。
授業中、昨日の帰りの彼の言動を思い出して窓を見る。
雨に濡れた土と葉の香りとアスファルトの匂いが感じる、秋が手に落ちてきそうな日。
『これで今夜、雨が降るよ』
まるで魔法みたいな言葉だった。彼が本当に魔法を唱えたのかと思ってしまった。
ちょっと空気というのかな。私たちが身にまとっている空気とは違う。それもあってか、昨日のあれを信じてしまいそうになる。まるで瞬きした短い間の白昼夢のよう。
「唯織。部活見に来いよ」
放課後、気が重くて教科書を全部机の中に置いてしまおうと思っていた時だった。
逃げないようにカバンをかけている左側に、海士野が立ち阻んできた。
「今日はおばあちゃんのお使いがあるから無理だって」
「じゃあいつならいいん? てか友達できた?」
「うるさいってば」
海士野と話しているのを、黒板を消していた女子数人が見てこそこそ話しているのが見えた。それが嫌でカバンを持つと、そそくさと逃げ出す。
「おい、唯織」
「またいつかね。いつか」
海士野は、同じテニス部の男友達たちに捕まってからかわれているようだったのでさっさと逃げた。
億劫だと思ってしまった。私がここに転校してきたのだって私の意志ではない。
それに高校を出たら大学はこの町から出て都会に行く予定だ。たった数年ここにいるだけなのに、友達を作ってまたあんな思いをするのは億劫だと思った。それならおばあちゃんと話している方が気が楽だった。
「失礼します。荷物、ありがとうございました」
担任のおじいちゃん先生こと木下先生がうちわでいいよって合図してくれた。
呑気に地元の野球の試合を見ているようだった。冷蔵庫からおはぎを取り出すと、どうしたものかタイミングよく墳神くんが職員室に入ってきた。
「うわ」
「うわって、……あ、それおはぎ?」
私の手に持っている風呂敷を見ただけで中身を当ててきた。
黒いマスクは分厚くて、少しくぐもった声で何か違和感を感じた。
「そう。墳神神社に届けてって頼まれたんだけど、渡してもいい?」
「ちょっと待ってて」
墳神君は、数学の先生にやりなおしの宿題のプリントを出してから、私の方へ戻ってきた。
「神社、どうせなら来てよ」
「え、いやですけど」
「即答かい。来てよ」
「おーい、墳神。転校生をナンパするな」
数学の先生の、デリカシーのない大きな声に職員室中にどっと笑い声が響いた。
恥ずかしくなって、おはぎを押し付けると職員室から飛び出した。
「あ、唯織ちゃん」
なれならしく下の名前で呼ばれるのも嫌だった。変なことで目立ちたくないのに、あの男が近づくとどうしてもいやだ。
『影が離れとうないと、泣いてるよ』
まただ。ぞくっと背中を撫でられるような声に振り替える。すると、マスクを外した墳神唯一が、にこっと笑っていた。
『神社まで一緒に行こうね』
「い、いや。ついてこないで」
「君には色々もっと話したいことがあるんだ。だから」
「いやだ! 気持ち悪いんだよ、あんた」
近づいてきた彼から逃げる瞬間、言いたくもないのに傷つける言葉が吐かれた。
すぐに口を両手で覆ったけど、無理だった。墳神くんにはばっちり聞こえてしまっていた。
「あ、大丈夫だよ。君、今、天邪鬼だし」
マスクを口に戻しながら彼は笑う。
「けど、言霊使っちゃったから影は離れないから、どれだけ逃げたくても逃げられないんだ。ごめんね」
彼の言葉通り、私は彼の影が離れる距離まで逃げられないことが分かった。
逃げようとしたら磁石のように引っ張られて全く動けなくなる。足が泥の中に入って身動きがとれないかんじ。
「あんた、本当になんなの?」
「わー、そのリアクション新鮮だなあ」
黒いマスクのせいで、驚いているのか驚いていないのかわからない。ひょうひょうとした言葉に少しイラっときた。
私はなんで友達もいない高校で、昨日まで知らなかった男の子と一緒に下校してるの。
最悪だ。お父さん、お母さん、おばあちゃんに知られませんように。
「俺ね、たまにこの町から消えるんだよね」
「……は? 消える?」
「だから、見えてる間は静かに高校生活を送りたいのに、君が俺を見えていなかったから焦ったんだ。ここらへんって墳神家の言霊で守られてる部分あるし」
彼は偶に俺とか僕とか、一人称がめちゃくちゃになっているような気がする。
そしていつも彼の話す言葉は的を得ないような、曖昧な言葉が多い。
「俺が攻撃的な言葉を相手に投げたら、攻撃できる。だからマスクの裏に制御用の印を書いて力を封印してるんだけどね」
「待って。色々言われたらますます信じられなくなるから待って」
「……そう?」
思議そうな様子の彼が、なんだか少し寂しそうに見えた。
私は彼を知らない。なのに彼は私に知っているようにふるまってもらいたそう。なんだかそれも少し息苦しく感じた。
「そうだ。今日は僕が君の家まで送るよ。おはぎのお礼をしたいし」
「あー……その方が助かります」
商店街を抜けて墳神神社に行くのはリスキーすぎる。誰にみられて何を言われるかわかったものじゃない。
「君のおばあちゃん、よく神社に来てくれていたからね」
「……おばあちゃんのこと知ってるの?」
「まあ、一応墳神神社の息子ですから」
「でもおばあちゃんは、あなたのこと知らなかったよ」
「……それは、まずいな」
急に声のトーンが低くなった。そして深くため息をついた。
「でも仕方ないか。君のおばあちゃんはずっと家から出ていないやんね。病院ぐらいだし。僕の力が及ばないんやろう。よかった、それを知れて」
「……一体何、それ」
「まあ、会えばわかるよ」
おはぎを持った彼は、すたすたと歩いて私の家の方向へ曲がっていく。
家まで把握されていたのかと思うと、少し不気味だった。
天気のいい日だった。少し額にじわりと汗がにじむ程度には暑い。
秋に向けて日が落ちるのが早くなっているはずなのに、今日は少し暑い。
富浦高校は中間服はあるのだけど、なんと襟が茶色で袖口も茶色の糸でギザギザに縫われていて、可愛くない。ので観察してみると、皆、夏服と寒ければカーディガンを着るようだ。
カーディガンも指定の可愛くない茶色の飾りっ気のないやつだが、皆、思い思いに改造したりブランド服のカーディガンにしたり意外と校則は緩い。私も夏服のまま秋は過ごす予定だった。
「あ、おばあちゃん」
家の庭先まで来ると、窓を開けて何かを吊るそうと懸命に手を伸ばしているおばあちゃんに駆け寄った。
小さな畑を跨いで庭から入る。よく手入れされた綺麗な庭だったのに、今は何も植えておらずそれが少し寂しい。
「あら、おかえり。唯織ちゃん」
「何してるの? 危ないよ」
「ふふ。雨が降らないようにてるてる坊主をね」
「てるてる坊主?」
「だって天気予報がおかしかったでしょ。土曜日の陸くんの試合が心配でねえ」
海士野のテニスの試合なんて知らなかった。一年生なのに試合に出られるなんてすごいのかもしれない。
「貸して。私がつけるよ」
おばあちゃんが白いハンカチに目と口を縫って作ったてるてる坊主。
私が代わりに手を伸ばすが、庭からからでは届かなかった。何かはしごか、おばあちゃんのベットから顔を出さないと無理な様子だった。
あたりを探して、何か手ごろなものを見繕っていたら風呂敷が目の前に現れた。
「これ、持ってて」
「あ!」
忘れていた。一瞬だけど、この人が家までついてきているのをすっかり忘れてしまっていた。墳神くんは、私からてるてる坊主を奪うと、長い手を伸ばして窓の外枠に結び付けてくれた。
「あらまあ、ありがとう。えっと貴方は……」
そうだ。おばあちゃんもこの人を知らないんだ。おばあちゃんが不思議そうに墳神君を見つめると、彼はマスクを外して微笑んだ。
「おばあちゃん、お久しぶりだね。神社に来なくなったから心配してたんだよ」
「は?」
なんで知り合いみたいに普通に話しかけてるの。
不思議に思って彼を見るが、彼はおばあちゃんになれなれしい態度を崩さない。
「あら、墳神くんのとこの唯一くんじゃないの」
「え、……ええ?」
「あらまあ、ちょうど唯織ちゃんにお供え物のおはぎをお願いしていたのよ」
「今日はそのお礼だよ。足が悪いのに、お供え物だけでも作ってくれるなんて嬉しいよ」
どうなっているのか分からず、開いた口がふさがらなかった。
おばあちゃんがぼけてるの?
昨日は墳神神社の息子なんて知らないって言ってたのに。
今は、まずでずっと前から知っているかのように楽し気に会話している。
「おばあちゃん、あの、墳神くん知ってるの?」
「あらいやだ。陸くんとよく一緒に遊んでたじゃない。夏休みも三人で夏祭り行ったり、うちの縁側でスイカ食べたりしたでしょう?」
「はあ!?」
私の様子に、墳神くんがクスクスと笑っていた。
「おばあちゃん、おはぎ大切に食べるね」
「ええ。皆で食べて頂戴ね」
「あと、雨、ごめんね。僕が言霊で降らせちゃったんだ。どうしても彼女に僕の力を信じてほしくて」
にこにこと笑っていたおばあちゃんの顔が、すうっと真顔になった。
「唯一くん、あなたの言霊は貴方に返ってくるのでしょう。むやみやたらに使ってはいけないわ」
「うん。でも、ごめんね」
「ちょ、ちょっとこっちに来て。話がある!」
おばあちゃんはきょとんとしていたけれど、私は墳神くんを引きずると、居間の方へ連れて行って縁側に座らせた。
「……一体全体、どういうこと? なんなの?」
「しばらく会ってなかったおばあちゃんに僕が見えなくなっていたから言霊を使っただけ」
「私たち、小さなころ一緒にスイカ食べたりって」
「あれは言霊使ったねつ造の記憶。すんなりと僕はこの町の中にねつ造の記憶を言霊で皆に植え付けてるの。仕方ないだろ」
「……なんでそんなことするの?」
私の問いに、彼はまたマスクを口元まで戻して上を向く。
「力が強すぎて、コントロールできないんだ。先祖返りってやつ。昔、墳神家は旱魃を止める為に神様に嫁いでる。俺は神様の血が色濃く出ててコントロールできない今、人間に見えにくくなってるらしいんだ」
「ふぁ」
ファンタジーだ。この墳神くんの頭の中は、自分で考えたファンタジーが入っているに違いない。じゃないと、神様と結婚した先祖だとか、言霊とか、そんな非現実な言葉がどんどん出てくるわけない。
「本当だよ。現に君には僕が見えていなかったでしょ。話しかけるまで」
「待って。……信じられない」
「信じなくてもいいけど、この家、いるよ。沢山」
「なにが!?」
「天邪鬼。いるよ、沢山」
「う、うそお。もう驚いたじゃん」
変な力があるっぽいっていうのは認めるけど、今度は視えるとか言われたら頭は大丈夫かなって思ってしまう。
「……まあ、色々言ったら怪しまれるならもう言わないけど」
納得いかなさそうな顔で彼はそう言っていたが、ちらちらと庭を見ていた。
そっちにいるとか言わないよね。
「で、僕が今は力が弱まってて、君たちに見えるから学生らしくしてるって信じてもらえた?」
「うーん。まあ、うん。そうかなって思う」
急に現れた墳神くんが、おばあちゃんや海士野や学校に溶け込んでいるのを見るとそうなのかもしれない。雨だって、本当に彼が降らせたと言われたらそうな気もする。
不思議なんだけど段々と墳神くんの言葉が本当な気がしてきた。
「でもつまり、私にも普通通り接してくれってことでしょ。いいよ。別に特に誰とも関わるつもりないし、あなたのこと無視するつもりも仲良くするつもりもないから。だからもう関わらなくていいよ」
「……え」
「どうせ、大学は県外受けるし。それを条件に高校はこっちで我慢するって決めただけ。だからあなたが不思議なことをしようと私には関係ない」
確かに最初は驚いたし、少し不気味だったけど、それだけだ。海士野にも同じことを言おう。そうすればだれももう私に構おうとしない。
言いたいことを言えてすっきりしたので、背伸びをして立ち上がった。が、墳神くんは縁側で座ってぼーっとしていた。
「どうしたの? もう帰っていいよ。あ、おはぎの保冷剤あげようっか」
台所へ向かおうとしたら、スカートを掴まれた。女の子のスカートを触るなんて、セクハラだと言いたかったけど、彼の無表情な顔に驚いて声が出なかった。
「僕は、本当なら消えたくない。君たちと同じ日常を送りたい。けど力が強くなると見えなくなってしまう。コントロールができない僕が悪いのか。たまに……普通に生まれなかった自分が寂しい生き物だなって思うこともあったよ」
スカートの裾を掴んでいた彼は、手を離すと項垂れるように下を向いた。
「なのに、君は消えないのに自分から消えたいなんて、なんて酷く辛いことを言うんだ」
「いや、私は別に消えたいってわけじゃなくて、誰にも構わないでほしくて」
「見えてるのに見えないふりをしろ。ってことは、ひどく辛い選択だ。でも、見えてほしいのに見えなくて辛かった僕を否定する」
うつむいていた彼は、マスクを外すと震える声で言った。
「君の心を見たい。嘘じゃない心が見たい。明日の空は、君の色に映る」
「ちょっと、何を言って――」
「僕は今、消えたい。君の目の前から見えなくなる」
すうっと彼が庭の背景に溶けて消えていった。消えて、まるで最初から何もいないような、そこに誰もいなかったような寂しさが残った。
「おばあちゃんっ」
急いでおばあちゃんの部屋に駆け込むと、てるてる坊主に手を伸ばして微笑んでいる。
「あら、唯一くんのお見送りはいいの?」
覚えている。ということは、消えたわけではないのかな。少し安堵してへたりと座り込んでしまった。
「唯一くんって、体が弱いでしょう。ほぼ病院で入院してるって聞いていたけど、大きくなったわよねえ」
「入院?」
「そうよ。めったに学校に通えないんだから、優しくしてあげてね」
おばあちゃんはそういったけれど、それは違うと口に出しそうだった。
彼は、いるんだ。私たちと同じで、そこにいる。
けど、力が強まると人間である輪郭が薄くなって見えなくなってしまう。
私たちの目の前から消えてしまうんだ。消えて、見えなくなってしまうんだ。
「……」
「明日は雨かしらねえ。土曜は晴れみたいだけど、なんだか突然外の天気が」
「え」
さっきまで晴れていたのに空を見上げると、ゴロゴロと雷が鳴っている。だんだんと太陽を雲が隠しだしていた。
「……私の、色」
しばらくして空は曇りつつも真っ赤な夕焼けを映し出した。
曇り空を割るような夕焼けは、太陽が泣いているような、そんな少し悲しい色に見えた。
『ねえ、あのカフェ、お洒落だよねえ』
『えー? どこどこ』
中学三年の四月だった。同じクラスになった美里と寄り道しながら帰った駅前の商店街。大人の雰囲気で、視界にいれないようにしていた薄暗いカフェ。
中を覗くと80年代のアイドルのポスターが貼られ、レコードが棚に並べられ、レコードを流している店内の音は、知りもしないのに少しノスタルジックだった。珈琲と、甘い卵の匂いがする。
『ちょっと入ってみようよ』
『えー……寄り道は禁止だし、お店の人見えないし』
怖気づいていた私たちの横で、カランカランと入り口に誰か入っていくのが見えた。
5,6人の高校生が、そのカフェに入っていく。額に入った絵を持っていて、トラックも到着した。
その瞬間、薄暗かったカフェに灯りがともり、まるでクリスマスの飾りつけのように笑い声と一緒に中の模様替えが始まった。私たちはその作業をただ言葉を発することなく見つめていた。
そして翌日、開け放たれたカフェと、中には昨日のノスタルジックな雰囲気とは一変した空色の店内に代わっていた。
入ってすぐのテーブルに、高校生の美術部の新入部員歓迎イベントと説明が書かれていたプリントが置いてあった。店長に聞けば、このカフェをたまにこの高校の美術部に貸しているらしい。今回は空がテーマで、虹だったり夕焼けだったり、夜だったり流星群が降る闇だったり。いろんな空が描かれていて、私と美里は何時間も絵を眺めていたと思う。
『私、この高校に入りたい』
『うん。私も! 私もこの高校で美術部に入りたい!』
二人で、その場で手を取り合ってはしゃいだあの日。あの日の空も、焼けたようにきれいな真っ赤な夕焼けだった。彼は今、私の心の色を見ているだろう。
泣きたいのに雨は降らない、ごろごろ鳴いているのに真っ赤な夕焼けが見える。
まるで火傷したような真っ赤な私の心の色を見ているんだろうね。
でもね、私はお父さんももお母さんにも、何度もお願いしたんだよ。
やっと入れた高校だった。一緒に行きたいって友達と約束した高校だった。
一人暮らしさせてってお願いしたんだよ。毎日毎日、お願いしたんだ。
『子供を一人にさせるわけにはいかない』
なのに私の気持ちは、親とは違う次元の中で騒いでいるだけで、相手にもされなかった。
『おばあちゃんも、一人で生活できないの。子どもも親も一人にできないでしょ』
まるで大人が一番偉いみたいな発言。何を言っても、私は養ってもらってる立場で逆らえない。
『一緒に高校に行くって言ったじゃない!』
おまけに親友にも、私の気持ちは伝わらない。私が何も言っても伝わらないなら、言葉はもういらないんじゃないかなって思ったんだ。ズキズキ痛む心を映すように、火傷した空に亀裂が入り雨が降り出した。心が泣いているような、空だった。
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