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俺と涼子は駅のホームにあるベンチに並んで座っていた。乗客は俺達以外に誰もいない。
「悠太のお父さん、良い人だね」
涼子が言った。彼女の目は、ずっと遠くを見ていた。
「ああ、俺もそう思った。普段はあんまりしゃべらないんだけどな」
「そうなんだ。すごく話すのが上手なのに」
「はは。涼子の前だからかもな」
「もしも本当に結婚していたらこんな感じなのかなって、あの時に思っちゃった」
強い風が、俺達の間を吹き抜ける。俺は、少しだけ微笑む涼子の横顔に見とれてしまう。
「一つ聞いていいかな」
その問いに彼女は何も答えなかったが、かまわず俺は続けた。
「代行サービスを頼んだのは、俺だって分かってたよな」
涼子は何も言わず、じっとしていた。
妻代行サービスを利用する際、涼子の情報は事前にもらっていた。しかし、氏名も住所も職業も全て偽の設定だったため、涼子だと気づかなかった。逆に、俺は名前や住所も含めて、本当の情報を提供していた。つまり、駅で会う前から、涼子は俺が来ることを知っていたはずだ。
「もしそうだとしたら?」
涼子がこちらを向く。その顔はどこか寂しそうだった。
「いや、別に何ってわけじゃないんだけど」
「大学生の頃からね、私、ずっとずっと夢見ていたの」
涼子が目を細めた。
「悠太のお嫁さんになることを」
お嫁さん。その言葉に、俺の胸が締め付けられる。
「だから、例え嘘でも、悠太と夫婦の気分を味わいたいなって思ったの。いや、嘘だからこそ、かな」
「そんな……」
その時、電車が近づいてくることを知らせるベルがホームに鳴り響く。
「私、こっち方面の電車だから」
そう言って彼女はベンチから立ち上がる。
「ちょっと待って」
歩き始めた彼女の後ろ姿に叫ぶ。
「このまま、俺たちの関係を、嘘のままで終わらせたくない」
彼女が足を止める。
「俺は十年前のあの日、涼子のことを忘れようとしたんだ」
俺はベンチから立ち上がり、彼女の右腕を掴む。
「でも、忘れられなかった。どんなに頭から消そうとしても、涼子のことでいっぱいだった。そして、十年振りに涼子に会えて、もう抑えられなくなった」
振り返った涼子の瞳は、潤んでいた。
「俺たち、やり直さないか。これからもずっと、涼子と一緒にいたい。十年間の空白を埋め尽くすくらい、これからたくさん想い出を作りたい。この気持ちは、嘘じゃないから」
その瞬間、涼子の顔がくしゃりと歪む。
「バカ」
彼女の叫び声が耳にキンと響く。
「バカバカバカ」
涼子は勢いよく俺の胸に抱きついてくる。
「おい、ちょっと」
「バカ」
彼女はまた叫んだ。
「もう、私のこと、離さないで」
彼女が消え入りそうな声で言った。その言葉が、俺の胸の奥を熱くさせた。
「ああ、分かった」
俺は彼女を強く強く抱きしめた。
ホームに止まっていた電車は動き始め、駅はまた静けさを取り戻した。葉擦れの音だけが、頭上から響く。雲間からのぞいた太陽が、俺たち二人を暖かく照らしていた。
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