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俺と涼子は喫茶店にいた。店の一番奥の席、他の席の死角になるテーブルだった。
「お父さんから聞いたんだけど」
コーヒーが来るや否や、彼女が口を開く。
「十年前、私があなたを捨てたことになってるじゃない」
彼女はこちらをにらむ。あまりの威圧感に俺はぞっとする。
「ちょっと待て。急に何なんだよ」
「お父さんから言われたの。悠太は十年前に、恋人に捨てられた。辛い過去があるから京子さんはどんな時も悠太を見捨てないでほしい。そう言われたの。なんで私が捨てたことになってるの。あの時、悠太が私を捨てたのに」
涼子が荒々しく呼吸していた。
俺は混乱していた。急にこれだけのことをまくし立てられても、理解が追いつかない。そして、何より、俺が涼子を捨てたとはどういうことだ。
「涼子。落ち着いてくれよ。そんなに興奮してたらまともに話し合うこともできない。まず、俺が涼子を捨てたってどういうことだ」
「何を言ってるの」
彼女の目が一段と鋭くなった。
「私はあの日、何時間も悠太を待っていたのよ。あなたに言われた店で、ずっと一人で待ってた。悠太ときちんと話し合わなきゃいけない、そう思って待っていたのに悠太は来なかった。私を捨てたんでしょ。話しても無駄だって、そう思ったんでしょ」
彼女の言葉に、訳が分からなくなる。あの日、待っていたのは俺だ。彼女が言っていることはアベコベだ。
「何を言ってんだよ。あの日、俺は涼子をずっと待ってたんだ。来なかったのは涼子の方だ。何かがおかしいよ」
「おかしくないわよ。忘れもしないわ。あんな汚い居酒屋で私のことを待たせて」
汚い居酒屋。
そのワードに俺は思わず眉をしかめる。
「汚い居酒屋ってどういうこと。俺はイタリアンのお店の名前を言ったよ」
「違うわ。あなたは駅前にある『タメゾウ』っていう店に来てって言ったもの」
「違うよ。俺はあの時、『ザ・メゾン』って店に来てって言ったんだ」
「ザ・メゾン?」
彼女がキョトンとした顔を見せる。
「そう。駅前にあるイタリアンのお店、ザ・メゾンだよ。そこに来るように言ったよ」
「そんな、だって、私は」
彼女の瞳が左右に揺れる。
ザ・メゾン。タメゾウ。二つの言葉を脳内で繰り返す。似ている。あの電話の時、涼子は興奮していた。この二つの店名を聞き間違えたとしても不思議ではない。
「私、悠太に見捨てられたものだとばかり思っていた」
「俺も、涼子に見捨てられたと思っていた」
「ただの聞き間違いだったなんて」
そこから俺達に言葉はなかった。あの時、彼女が来なかったのは、ただの聞き間違いが理由だったのだ。恐ろしい、そしてあまりに呆気ない真実が、胸に重くのしかかる。
彼女は俺に会いたくなくてレストランに来なかったわけではなかったのだ。本当は、俺と話そうと思っていたのだ。しかし、真実を知ったところで、俺達には何もすることはできなかった。俺達がやり直すには、十年という歳月はあまりにも長かった。
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