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よもすがら
よ-も-すがら 【夜もすがら】
一晩中。夜どおし。終夜。
参考:広辞苑
***
周囲の音が遠くなる。瞼を開けていられなくなって、視界が暗くなる。そして次第に体の力が抜けていき、最後は横たわってしまう。これはオズが幼い頃から経験してきた過眠症の症状である。
そして今まさに、その症状に悩まされている。ああ、またか、とオズは思った。今日は十二歳の誕生日で、日頃仕事で忙しい両親が家で待ってくれているのだ。だから早く帰らなければ、と足を急かしている最中であった。
倒れていくオズの姿を見て、道ゆく人々が駆け寄ってくる。
(ああ、帰るのが遅くなってしまうな・・・)
少し寝れば何事もなく目が覚める。だから大丈夫だと、できれば道の端に寄せてほしいと伝える間もなく、オズの意識は闇に落ちていった。
あまり時間を空けず、オズは目を覚ました。意識を失う前に見た空と変わりがないので、意識を失ったことが気のせいだとさえ思った。学生鞄が開いていたのか、散らばった荷物を拾い集め、周りの人に礼を言い、また駆け足で家へと急ぐ。
去年も一昨年も、オズの親は急な仕事が入り、ろくに祝ってもらえなかった。だからきっと、今日は本当に楽しい日になると、オズは信じて疑わなかった。
しかし妙である。家に近づくにつれ、サイレンの音と人々のざわめきが大きくなった。空には煙が立ちのぼり、黒い灰が降っている。人々の視線を集める我が家に近づこうと、人混みを掻い潜ったオズが見たものは、赤。石造りの窓からはちらちらと炎が揺れている。
「どうして・・・なんでうちが燃えてるの」
オズは自分の目を疑った。今見ているものは幻覚だと思った。急に眠くなってしまう時、幻覚を見ることもあるからだ。これも幻覚なのだと、そう信じたかった。しかし灰は消えることなく、無情にもオズの頬を掠った。
オズは十二歳の誕生日に、両親を失った。残されたのは、財産の入った金庫と、辛い記憶、そしてひどい過眠症の身体。
帰る途中で眠くなってしまわなければ。鞄が開いてなければ。学校がもっと早く終わっていたら。誕生日が今日でなかったら。両親に急な仕事が入っていたら。オズは何度も、様々な"もし"を考えた。もしかしたら両親は死なずに済んだかもしれない。もしくは自分も一緒に死ねたかもしれない。一人残されることはなかったかもしれない。
しかし、これからオズは一人で生きていかねばならなかった。
オズは残された財産を信頼できる大人に預けることにした。両親とも交流のあったパン屋の夫婦である。そして、そこで働かせてもらえるよう頼んだ。
暫くは厨房で洗い物をしていたが、突然眠ってしまい水の入ったボウルに顔を突っ込んだため外された。その次は会計をしていたが、突然眠ってしまいトレーをひっくり返してしまったので外された。最後は家事をしていたが、やはりどこかしらで突然眠ってしまうオズに対応しきれず、夫婦はオズを親戚が遺した郊外の古民家へと送り出した。
夫婦は安全な家の中にただ住まわすだけでもよかったが、オズがそれを頑なに拒んだ。掛人にはなりたくなかったのだ。夫婦は心配していたが、危ないことは一人でしない、誰か近所の人を呼ぶと言って聞かなかったので、たまに様子を見に行けば大丈夫だろうと、送り出したのであった。オズが夫婦のもとで過ごしたのは、三年であった。
それから二年、オズは一人で生きていた。買い物をし、一人で食事をし、たまに街で眠ってしまい人々に心配されつつも、幸か不幸か生き延びてきた。そしてある時ふらりと立ち寄った慈善市で、人生最大の転機が訪れる。
「そこのお坊ちゃん。一杯いかがですか」
オズに声をかけた男は、白髪にシルクハットを目深に被り、グレーのフランネルスーツに青いネクタイを締めていた。正に老紳士という風な出で立ちであった。
「・・・?まだお酒は飲めません」
「いやいや、珈琲ですよ。どうぞこちらへ」
オズは背中に手を添えられ、老紳士の露店へ誘われた。持ち運びが出来る取っ手のついた簡素な折りたたみテーブルの上には、珈琲を淹れるための本格的な器具が揃っている。椅子は無いので淹れている間は立って待たなければならないが、オズは珈琲の抽出を見るのは初めてだったため、あまり気にならなかった。
「君、あまり起きていられないんでしょう」
オズは驚愕した。ひと目見ただけで病状を当てられるとは思わなかった。
「なぜ分かったんですか」
「珈琲には眠気を覚ます効果がある。それにこの、摩訶不思議なサイフォンで淹れた珈琲なら、もう眠くなることはありません」
老紳士は質問には答えず、茶目っ気たっぷりに珈琲を差し出した。オズは信じられなかったが、本当にそうなればいい、と信じたふりをすることにした。
「本当に、ずっと起きていられるんですか」
「ああ、本当だとも」
老紳士は今度の質問には答えた。オズは香りの良い珈琲を一口啜った。口当たりまろやかで、苦味と酸味のバランスが絶妙で、香ばしい香りが鼻を抜け、世にはこんなに素晴らしい飲み物があったのか、と感嘆した。オズはたちまち珈琲を飲み干した。簡素な流し台で器具を洗っていた老紳士は、オズが珈琲を飲み干したのを確認すると、人の良い笑みを浮かべ、味の感想を聞いた。
「とても美味しいです!」
「それは良かった。この子は差し上げよう」
そう言って紳士は洗ったサイフォンをオズへ渡した。オズは代金を払えないと断ったが、紳士はさっさと店をたたみ去ってしまった。「良い夜を」と一言だけ残して。
それからオズは珈琲の淹れ方を調べた。人に聞き、本を調べ、必要な材料や貰ったサイフォン以外の器具も揃えた。そして家に帰り、味に納得がいかず何度も何度も試しているうちに、夜が明けていた。眠気が一切なかったことに驚き喜んだが、寝ようと思っても眠れないことに気がついた。
これが、オズが不老不眠になった経緯である。
***
それから七年後、オズは珈琲店を営んでいた。眠らずによくなったので夜間中も営業し、『終夜珈琲』と名付けた。
オズはパン屋の夫婦に引き取られた際、ただ"お手伝い"だけをしていたわけでは無い。将来どこかで働くのは難しいだろうと考えていたため、自営業をするべく経営の仕方を見て学んでいたのだ。
オズの地頭が良かったこともあり、終夜珈琲の営業は軌道に乗った。
そして珈琲店の片手間に、自分を不老不眠にした原因--オズはサイフォンだろうと踏んでいる--を調べるため、不思議なアーティファクトを集めている。しかしどんなものが不思議な効力を持っているか分からず、現在は珈琲店兼骨董品屋となっていた。
ある朝、オズは日用品の買い出しをするため街に足を運んでいた。レンガ道には街路樹の隙間からやわい朝日が差し込み、涼しい風が吹いている。大通りには毎日露店が並んでおり、オズは慈善市で出会った老紳士がまた居るかもしれないと探すが、今日も見かけることはなかった。しかしかわりに、普段見慣れない露店が目についた。
『あなたの死因、占います』
物騒な煽り文句である。簡素なテントのそばにはA型の置き看板。ポップな文字がミスマッチで異彩を放っていた。テントの中に見える机には水晶玉。奥にいる女性はヴェールをかぶっており、オズはチラリと見えた髪質から若い女性であると推察した。
(占いには興味はないが・・・占いには妙齢の女性か胡散臭い若い男性のイメージがあったな)
実際、占いはごく一部の人間にしか信じられておらず(一部の人間が傾倒しているともいう)、占いを商売にしている者は、小遣い稼ぎか、何かを企んでいる人間であることが多い。要するに詐欺である。
オズは占いなど信じていない大多数の中の一人であったため、珍しいな、とは思いつつも通過し市場への道を急いだ。
***
オズは頻繁に買い出しをするほうではないので、そこそこ荷物が多く坂道で苦労した。こまめに買い物に来るべきだと反省しながら行きと同じ道を辿る。すると、朝方目についた占いの露店に客がいることに気がついた。恰幅の良い男性である。どうやら酔っ払っており、怒鳴り声が響いていた。占いの結果に納得いかなかったようである。道ゆく人は関わりたくないからか、遠巻きに冷ややかな目で眺めている。オズももちろん関わりたくはないので、遠回りをして帰ろうかと悩んでいると、あろうことか目と鼻の先に何かが飛んできて、ガラスの割れる音がした。男が水晶玉を放り投げたのだ。顔の大きさ程あったので、オズの足元には砕け散った大量の破片が散らばった。
オズは一瞬で冷えた肝を落ち着かせ、男の方をつい睨むと、男は占い師と思しき少女に掴みかかっていた。若い女性どころか、年端も行かぬ少女であった。かわいそうなほど顔が真っ白な少女に今にも殴りかねない男を見て、オズは助けに入ることを決めた。
「ちょっとお客さん、困ります」
「あァ?なんだてめェ。関係ねえやつはすっこんでろ!」
「わたしはこの占いの事務を担当しております。備品の損傷、店主への暴言、暴力。犯罪行為です」
男の怒りの矛先が、これ以上少女に向かわないよう、オズは少女を背中に隠した。
「関係者ならこのガキに良ォく言い聞かせておけ。階段で足を滑らせて頭から転がり落ちるなんざ間抜けな死に方、この俺がするはずねぇってな!」
オズは胸ぐらを掴まれたが、依然として動じなかった。こういった輩は狼狽えるとつけあがるからである。
「当たるも八卦、当たらぬも八卦。当たりだと思いたくないのであれば是非!足元にはお気をつけください。それと先ほども申し上げました通り、あなたの行ったことは犯罪行為です。警察を呼びますよ」
警察という単語を聞いた男は一瞬顔を顰めた。どうやら世話になったことがあるようだとあたりをつけたオズは、机に置いてあったメモ用紙に適当な数列を書いて渡す。
「当店へ苦情がございましたらこちらの番号に。本日は不問といたします。どうぞお引き取りください」
しばらくブツブツ何事かを呟いていた男は大きな舌打ちを立て去っていった。
オズは背中に隠していた少女に目線を合わせ背中をさすった。顔の色を失くし、焦点も合わず、息はしているのかどうか分からない程浅い。指先は小刻みに震え、体温も低下していた。
「君、もう大丈夫ですよ。落ち着いて、ゆっくり息を吐いてください」
少女を椅子に座らせ、過呼吸にならないよう深呼吸を促したオズは彼女を観察した。
(歳は十くらいだろうか。布量の多い服を着ているからわかりづらいが、かなり痩せているかもしれない)
すぐに寝てしまいバランス良く食事を摂ることもままならなかった過去の自身に重ねてしまった。オズはパン屋の夫婦に敬意と感謝の念を抱いている。次は自分の番だと思った。
「ゆっくり息を吸って、吐いて。そう、上手ですよ。ゆっくり・・・ゆっくり・・・。さあ、もう大丈夫。君を傷つける輩はいませんよ。お名前は言えますか?」
「ルシル・・・」
ルシルは危機は去ったと安堵し小さく息を吐き、名を答えた。
「良いお名前ですね。ルシル、良かったら僕の店に来ませんか?温かいミルクと美味しいフワフワなパンをご馳走します」
ルシルはフワフワなパンと聞いて目を輝かせた。しばらく粗悪で硬く粉っぽいパンしか食べていなかったのだ。信用して良いものか一瞬悩んだが、殴られるかもしれないのに自分を庇ってくれたことを思い出し、ついていくことに決めた。
こくりと頷いた少女は荷物をまとめ、オズに手を引かれ人生の転機の一歩を踏み出した。
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