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夕方。空は鮮やかな橙色に染まっていた。横断歩道の信号機が赤から青に変わり『とおりゃんせ』のメロディが町に響く。母親に手を引かれて帰宅する子供達がちらほら見えた。そんな中、いまだ帰ろうとせず公園のブランコに座っているメガネをかけた少年がいた。彼の名は『太田雅治』。家に帰ろうとする親子を見つめ、姿が見えなくなると俯きつまらなさそうに地面を蹴った。誰もいない公園でブランコのきしむ音のみが鳴り響く。
「キミ、帰らないの?」
静かな公園に突然子供の声が響いた。公園には誰もいなかったはずなのに。雅治は顔をあげ声の主を見た。それは雅治と同じくらいの背格好をした少年で、ブランコの柵の前に立っていた。彼は糸のように細い目でニコニコと笑いつつもう一度問う。
「キミ、帰らないの?」
雅治は返答しなかった。彼は目の前にいる人とは思えない少年に好奇心を抱いていた。彼の髪は、銀色と水色と白色の絵の具を混ぜたような色でとてもきれいだった。彼は少し間を置いて質問をまた繰り返す。
「ねえ、聞こえないの?キミ、帰らないの?」
先ほどよりも強くて大きい声で言った。少年はひたすらニコニコと笑っていた。雅治は我に返ると困惑した表情を浮かべ俯いた。家に帰ったところで誰もいない。帰りたいかと言われれば帰りたくはない。どうせ帰ったって誰もいない。だがこの場で『帰りたくない』とは答えてはいけない気がして雅治は黙っていた。
「キミは、独りなの?」
声は先ほどよりも近くなっていた。音もなく、近づいてくる。
「毎日が…楽しくないの?」
雅治は黙ったままだった。彼の問いかけはすべて図星で少しむっとしつつ、同時に悲しくなった。
「キミは…キミは人が嫌いなの?」
声は目の前まで来ていた。雅治は顔を上げようとしたが動くことができなかった。彼と目を合わせ口をきいてしまったら、取り返しのつかないことになりそうな気がしたから。雅治はブランコの鎖を強く握り、目をつむり、ぎゅっと口を噤む。
「じゃあさ、ボクと一緒に遊ぼうよ」
一瞬、時が止まったようだった。雅治にはこの一言がとても鮮明に聞こえた。波が立っていない金魚鉢にビー玉をひとつ落としたような感覚だ。彼の顔を見ようと顔を上げると、目の前に手が差し出されていた。彼は相変わらずニコニコと笑っている。雅治は頬を少し赤らめながら嬉しそうに彼の手をとり、言った。
「うん、遊ぼう」
雅治は満面の笑みを浮かべていた。夕日は二人の横顔を赤く照らしていた。どこか遠くで『とおりゃんせ』のメロディが流れている。時刻は五時三十分。公園のアナウンスが流れ始める。それと同時に強風が公園を駆け巡った。もうそこに二人の姿はなく、黒いランドセルと大きな鳥の羽のみがそこにあった。誰も乗っていないブランコの金属音が鳴り響き、じきに小さくなり消えていった。
そして数日後、『離婚間近の夫婦の子供が行方不明』というニュースが全国で流れだした。
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