異界

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異界

 悠輝は子犬が唸る方へと駆け続けた。稲本団地周辺は街灯も少なく夜の闇が濃い。己の眼だけではなく験力も使いながら朱理を探して進む。気付くと新川の遊歩道へと戻っていた。 「クソ、もう少しゆっくり歩いていれば良かった……」 「ガウッ、ガウッ、ガウガウ!」  子犬が激しく吠えだす。同時に悠輝も異様な力場(りきば)を感じた。力の源に目を向ける。 「何だ、あれは……」  河原の数十メートル先に、ドーム状の巨大な闇の塊が在る。それは夜の闇よりも更に濃い。悠輝は子犬を抱いたまま闇の塊に近づいた。験力で探ると闇の奥から(かす)かだが、朱理の気配を感じる。 「この中か」  改めて見つめると、闇はまるで生き物の様に(うごめ)いている。 「ガウガウ」  子犬は腕の中でモゾモゾと動き、闇の中へ行きたそうにしている。 「迷わず行けってことか」  この中に朱理がいるなら、どちらにしろ入らなければ助ける事は出来ない。悠輝は(はら)を決めて闇に飛び込む。 「うッ」  激しい獣臭に息が詰まりそうになりながら奥へ進むと、朱理の気配が強くなる。 「朱理ッ、どこだ! 返事をしてくれッ!」  返事はないが、彼女が奥に居るのは間違いない。悠輝はそのままズンズンと闇の中心部へと進んで行く。 「ネコちゃん……」  悠輝の耳が聞き覚えのある声を捕らえた。 「朱理!」  闇の中を駆け出す。足下が見えないが、そんなことは気にしていられない。唐突に闇が終わった。いや、終わったのではない。闇の中にボンヤリと明るい空間があるのだ。そこに猫に取り囲まれた朱理が居る。 「あの……わたし、帰るよ……」  悠輝は明るい空間に踏込もうとしたが、験力の壁が行く手を阻んだ。 「クソッ」 「イタい!」  悲鳴が悠輝の鼓膜を震わせる。視線を向けると朱理が右手の甲を押さえていた。猫達に襲われたのだ。 「朱理!」  もう一度叫んだが、姪に悠輝の声は届いていない。想像以上に白猫の験力は強く、しかも使いこなしている。 「やってくれるな……」 「ガウガウ!」  子犬が緊迫した声で吠えた。  朱理は猫達に追いつめられている。 「あ、あの……」  猫達の先頭にはあの白猫が居た。  悠輝は足下に子犬を降ろす。 「そこにいてくれ」  両手で天狗印を結ぶ。  白猫が「シャー!」と一声鳴くと、他の猫が一斉に朱理に襲いかかる。 「オン・アロマヤ・テング・スマンキ・ソワカ!」  天狗真言を唱えると朱理の周りに光の壁が現われ、襲いかかる猫を弾き飛ばした。 「アォオォオォオォオォオォオォオォオォンッ!」  子犬が不可思議な声で吠えると、悠輝を阻んでいた験力の壁が消滅した。   こいつ、何を……?  今は驚いている場合ではない、悠輝は己が作り出した光の壁に腕を伸ばす。 「朱理ッ、こっちだ!」  姪の手を取り、子犬を抱き上げると闇の外へ向けて駆け出した。  猫達が追ってくる。この闇の中では悠輝達が不利だ。 「オン・アニチヤ・マリシエイ・ソワカ」  悠輝は摩利支天(まりしてん)真言を唱え、『摩利支天隠形法(まりしてんおんぎょうほう)』を発動する。子犬を抱えて朱理の手を引いているので印は結べないが、太陽の光で姿を隠す摩利支天を詳細にイメージすれば(しゅ)は完成するのだ。  悠輝は猫達を出し抜くことに成功し、余裕を持って闇から抜け出せた。   このまま、あの化け猫を野放しにはしておけない。  だが、今は子犬と朱理を連れている。 「朱理、だいじょうぶか?」 「………………………………………」  やはり様子がおかしい。眼を開いているが焦点が定まらず、悠輝の声もちゃんと聞こえていないようだ。恐らく白猫の験力が影響を与えているのだろう。 「ク~」  子犬が心配そうに鳴く。悠輝は白猫と決着をつける覚悟を決めて、遊歩道に姪を連れて上がった。 「朱理を頼んだ」  子犬を道に降ろして、追ってくる猫達と対峙する。闇のドームから飛び出してくる数は五〇匹は下らない。 「()()()()()()()()()()というて、布留部(ふるべ)由良由良(ゆらゆら)布留部(ふるべ)」  相手を眠らせる『ひふみの祓詞』を唱える。あの白猫以外はただの猫だ、フン被害で迷惑はしているが傷付けたくはない。案の定、猫達はあっさりと眠ってくれた。 「う……」  目眩(めまい)がした。普通の猫とは言え、五〇匹以上を眠らせるにはかなりの験力が必要なのだ。   クソッ、完全になまっているな。  高校生の頃なら、目眩など起こさなかったはずだ。  眠っている猫の間を、亡霊のようにあの白猫が歩いて来る。 「逃げないでくれて、助かる」  白猫が、寝ている猫達から充分に距離を取るのを悠輝は待つつもりだった。ところが黒い弾丸の如く、子犬が白猫に向かって突進する。 「待て!」  悠輝の静止を聞かず、子犬と白猫は絡み合うようにして闘い始めた。見た目だと白猫の方が子犬よりも一回り大きい。だが、大きさはそれほど問題ではない。二匹は肉体だけではなく、験力でも激しくぶつかいあい、(から)み合って戦っている。  加勢したいが、動きが激しく下手に攻撃すると子犬を傷付けてしまう。悠輝はジリジリとしながら成行きを見守った。  長く感じたが、実際は三分も経っていなかっただろう。(つい)に子犬が白猫の験力を抑え、動きが鈍った瞬間に首筋に喰らい付く。白猫は必死に藻掻(もが)き、何とか逃れて子犬と距離を取った。  二匹は睨み合う。  この間、白猫に止めを刺そうという考えが悠輝の頭を過った。しかし、余りに卑怯な気がして、結局実行できなかった。  白猫は不意に子犬から目を()らすと、そのまま逃げ出した。子犬は白猫の姿が見えなくなると、悠輝達の方へ戻って来る。 「ありがとう」  子犬を抱き上げると身体中傷だらけだ。 「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」  薬師如来真言を唱えて応急手当をする。験力の相性が良いのか、それとも元々治癒力が高いのか、子犬の傷は(ほとん)ど治ってしまった。 「ヘッヘッヘッヘッヘッ」  子犬は嬉しそうに微笑むような顔をした。 「さて……」  姪に視線を向けると遊歩道に倒れていた。 「朱理!」  意識は無いが呼吸はしている、眠っているようだ。白猫の(しゅ)が解かれ、意識を一時的に失っただけだろう。ただ、手の甲に引っ掻き傷がある。悠輝は再び薬師如来真言を唱えて傷を癒やした。 「それじゃあ帰るか」  この状況を誤魔化すのも大変なので、朱理の眼が覚めないように抱いて連れ帰ることにした。
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