レタス懐妊

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 つわりはほとんどなかった。野菜を身ごもるとつわりが軽いというのは本当なのだなと思いつつ、これまでのように会社で働き続けた。ただしストッキングを履くのはやめた。靴下も履かない。生足に膝上のスカート、上半身は薄手のシャツ一枚で過ごした。春とはいえこれでは寒い。だがレタスは冷えた環境を好むので仕方ない。これは医者の指示だ。まだ母性はわかないが、そうしなければレタスは育たないのだと脅されたら従うほかない。  お腹は一か月もすると丸みを帯びてきた。 「だいぶ大きくなってきたけどご懐妊かしら」  外見上の変化に、同じフロアの佐々木さんから何気ない素振りで質問された。 「はい。出産、というか収穫ですけど」 「収穫ってことは」 「レタスです。玉レタスです」 「あら。おめでとう」  たとえ本心ではないとしても、実の妹と違ってまず祝福をしてくれた佐々木さんはいい人だなと思った。 「だからそんなに薄着なのね」 「そうなんです」 「そっかあ。私はキウイフルーツだったから、いつも体を温めていなくちゃいけなくて汗ばっかりかいていたわ。しかも妊娠中、子宮の中がちくちくして困ったのなんの。レタスなら痛くないし軽いし、いいことづくめよね」  こんなに羨ましがられた経験はそうそうなく、私は嬉しくなった。 「急に動くとお腹の中で葉っぱがさわさわと揺れる感じがして、それがくすぐったいんですけどね」つい饒舌になる。「それにお腹の中にいつも保冷剤があるみたいな感じがしてなかなか眠れなくて」 「そういうものらしいわよね。いいなあ。私もまた妊娠したくなってきちゃった。こういう特別な経験って、不便なことも多いのに終わってみれば充実してたなって思えるものじゃない?」  そう言って笑った佐々木さんの頬はキウイのような硬い皮膚をしている。表面にはちくちくとしたものがびっしりと生えている。  今の佐々木さんの頬に手を添える人はいるのだろうか。そしてキスをする人はいるのだろうか。そんなことをふと思った。しかし、そんなものがなくても佐々木さんは幸せそうだった。今も昔も。いつだって。また妊娠する必要などないくらいに。
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