むっちゃん

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むっちゃん

 多田(ただ)(むつみ)を「むっちゃん」と呼ぶのは、私か彼の母親ぐらいだろう。    三年前デパートの催事場で、むっちゃんは汚れた作業着に鋭い目つきで仁王立ちしていた。「香木販売」と書かれた看板に惹かれた私の足は、むっちゃんの存在に気付かず、私の手は香木の木片が入ったガラス瓶を取った。恐らく、むっちゃんの存在に気付いていたなら、私はここで立ち止まらずに通り過ぎていただろう。それぐらいの佇まいだったのだ。 「興味あるの」 小さくかすれ声で話しかけてきたおじいさんの存在に驚いた私は「わあ」と声を出し、後ろに三歩引いた。マスクをしているが目元のしわから六十から七十代の男性であると推察された。 「あ、はい。香道に興味があって」 心臓の高鳴りを落ち着かせるように、ゆっくりと話す。 「こっちの方がよく匂うよ」 むっちゃんは拳ほどの大きさの香木が入ったガラス瓶を手渡してきた。渡されるがままにケースの中を嗅ぐ。途端にマスクを越えて鼻の粘膜に香りが張り付いた。 「すごくいい香りですね」 「樹齢千年」 「千年?」 「そう。その木は樹齢千年のサワラの木を切り落としたの」 ふらっと寄ったデパートで、千年の時をここで想像できるとは。とてもありがたい気分になる。値札を見ると手書きで三千円と表記されている。 「安いでしょ。これはね、枝の方だから安いの」 むっちゃんは言いながらタブレット端末の画面を見せる。 「ここの木の中心部分は、買えなかったんだ。お客さんが持ってるのは、ここの部分」 「売れているんですか」 むっちゃんの目つきが怖いことを思い出し、質問したことを後悔したが、 「全然売れないね。やっぱり木片に何千円も払う若い人はいないのよ。まあ、その気になったら買ってくださいよ。明日までここで売ってるんで」 どうやら笑ったような声色で返してきた。そのまま、また私と少し距離をとって遠くを見つめて仁王立ちする。 「これ買います」 むっちゃんのしわに寄って押された目が少し大きく見開かれ 「いろいろあるけど、今持ってるのでいいの?他にも嗅いでみてもいいよ」 高揚した声で言う。それから様々な大きさや見た目の香りを嗅ぎ、やっぱりこれにすると決めたのは、はじめにむっちゃんが手渡してきた物だった。 「ありがとうございました」 むっちゃんは鋭い目つきで、深々とお辞儀をした。紙袋には香木と一緒にチラシが入っていた。  その夜、チラシに書かれた店の名前をネット検索した。「多田睦」と書かれたページをクリックすると、昼間の強面の「多田睦」が、マスクを外し、グレーのワイシャツのスーツ姿で映し出された。モデルのように薄暗いスタジオで小綺麗な姿で撮影されているおじいさんに驚く。写真の脇には「彫刻家、多田睦」とある。それをぼそぼそと読み上げ、私の中で昼間の彼とのギャップを更に広げる呼び名を考える。「むっちゃん」ぴったりだと感じた。以来私はむっちゃんのホームページを頻繁に覗くようになった。
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