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三角錐型のその植物が庭に生え始めたのは、四月の始まりのことだった。
始まりはそれとは気づかなかった。芽生えとは言っても、春には大量の植物が芽吹くわけで、そのうえ、当時の私は庭の整理を怠けていたから、庭は大量の雑草で覆われていたのだ。そのなかか特異なその存在に気付くことなど、ほぼ不可能なことだ。
けれどそれは、そのとき、すでにそこにいた。
私がその存在に気付いたのは、四月の下旬のこと。ゴールデンウイーク間近の昭和の日という祝日のことだった。
私はそのとき、部屋の掃除を始めていた。ごみの分別、三角コーナーのネットの入れ替え、トイレ、お風呂の掃除。そういった基本的な整理から、例えば本棚のバックナンバーを揃えたり、著者順、出版社順に並べ替えるなど、かなり細々としたところまでを整えた。
ようやく部屋のなかが綺麗になって、部屋のなかをぐるりと見渡していると、不意に、それが目に入った。……それは、雑草の『頭』だった。私は重たい身体を持ち上げて、仕方なく、靴箱に入れてある草刈りグッズを取り出した。
軍手をはめて、虫への対策として履いた長靴で庭へと踏みこむ。
長靴は固いものを踏む。どうやら、庭の土は、長いあいだ放っておいたせいで、ひどく硬くなっているようだった。
私は何度か足踏みをして、地面の感触を確かめると、それからすぐに、あたりの雑草を刈り始めた。植物の繊維が、鎌の鋭い刃で断ち切られていく感覚が、異様にむずがゆく、心地いいものに感じられた。切れば切るほど、青草の香りは全体に広がる。汗でシャツが身体に張り付くので、いっそ脱いでしまおうか、と考えて、昨晩、自分が面倒くさくなって下着をつけなかったことを思い出し、やめる。
そういったことを繰り返しながら、私は雑草を切っては積み、切っては積みを繰り返していた。短い時間のうちに、生命の安易な切断が続くうえ、この憎たらしいほどに照り付ける太陽の暖かさも相まって、私の意識は、より狂ったものに形を変えつつあった。
そして、それは突然、そこに現れた。
少なくとも、『突然』という言葉に恥じないほどの唐突さを兼ね備えて。
はじめ、私はそれを、近所の子供の玩具であると思った。
私の家の近くには公園があって、夕方になると、その子供たちが、サッカーや野球なんかを始めるのだ。実際、何度かボールが庭に入ってしまったこともあった。
子供たちの遊びの場を奪いたくはなかったので、別段、何か手を打ったわけではなかったから、そういったことは何度も続いた――そのせいで、その三角錐型の物体を、私は子供の玩具だと思っていた。
しかしながら、その認識は間違っていた。
私は何の気なしにその三角錐を持ち上げた。
しかし――持ち上げることができたのは、数センチだけだった。私は、「なにか引っかかっているのだろうか?」と、その三角に顔を近づける。そして私は、その三角錐の、角の部分に、何かつるのようなものがつながっていることが分かった。
つる。
その先をたどる。
つるの先には、別のつるも集合している、大きな一本の、茎のようなものがある。
私は、その茎を追って、上方を探す。
……なぜ私は、今の今まで、この存在に気付かなかったのだろう。
視線の先。
茎の上。
そこには、大きな大きな、花が咲いていた。
花。
しかしそれは、花としか形容できないものではあるものの。
とても、美しいと呼べるものではなかった。
適切な比喩を表現しようとするならば、それは貝の肉、だった。
花弁に丸く縁どられた内部は小麦色に日焼けしたようであり、うっすらと濡れている。そのてらてらとした表面の中央には、まるで何かを見つめる瞳のような、黒色の球体がある。
それは、見たことのない植物だった。
私はその、中央にある黒い球体に顔を寄せる。
特にこれといった意図はない。
意図はないけれど――――吸い込まれるような、感覚があった。
そこには、何かが動いているような影が映りこんでいた。
影。
見覚えがある――それは、公園で遊ぶ子供たちだった。
子供たちが、野球をしている。背の高い子供がボールを投げる。一番背の小さい子供がそれを打つ――そのボールが、見当違いの方向に飛び、ガラスが割れる。そして、そのガラスのある家から、くたびれた様子の私が出てくる。
途端、きぃん、と音が鳴った。
私は反射的に立ち上がって、飛んでくるそれをキャッチした。硬質な感触と、滑らかな刺繍の筋。野球ボールだった。
「すいませーん」
と、少年の声が響いた。私は呆気にとられながら、キャッチしたそれを、少年の方向に投げ返した。それから私は、もう一度、その花の球体を覗き込む。球体には、また、別の何かの影が映りこんでいる。
そこには誰だろう、女性のような人物が映りこんでいる。少なくとも、私ではない。私と違って髪の毛の茶色いその女性は、ゆっくりと、緩慢とした動きで、まっすぐに並木道を歩いている。
すぐに分かった。これは、私の家の前の道だ。
少女はまっすぐに歩いていく。
すると、前方に車が見えた。車――より正確な表現を用いるならば、トラックは、スピードも緩めずに、少女のほうへとまっすぐに進む。トラックはどうやらエンジン音のしない最新式のようで、少女はトラックの存在に気付かない。
それでいて、トラックのほうも、少女には気付かない。
私はそこで、その花を見るのをやめた。
並木道に飛び出すと、少女が歩いているのが見える。
私は少女の近くまで歩いて、質問をすることにする。
「あのう、このへんで、井上さんの家を知りませんか?」
「井上さん?」
少女は首を傾げる。当然だ。このあたりに井上という苗字の人は存在しない。これは単に、少女をそこに留めておくための詭弁だ。私は、「知らない」と続ける少女にしつこく質問を続ける。……そのとき、背後を、猛スピードでトラックが走り去っていった。
少女と別れて、私は再度、庭に戻る。
間違いない。
この花は、未来を見通すことのできる花なのだ。
それでいて、改変することが可能な未来しか映せない。
私は、その不思議な花をすっかり気に入ってしまって、その花を育てることにした。私は事あるたびにその花を覗き込むと、改変可能な未来を覗き見た。そこにはあらゆる未来が映る。
ボールを追いかけて道路に飛び出す少年。
痴漢されている少女。
沈没しかけている舟。
運転中に気絶する男性。
そういった未来を垣間見て、私はその度ごとに、そのすべての未来を改変した。助けたのは人間だけではなかった。犬、猫、鳥……助けた回数は数えきれない。
しかし。
そんなある日――私はいつものように、花を覗き込んでいた。花の中には女性が映った。見たことのある女性だった。その顔を思い出そうと頭を悩ませているうちに、不意に、花の中心の瞳に私の顔が反射した。そして、そのとき気付いた――それは、私の顔だった。
私の顔をした女性は、机についてコーヒーを飲んでいる。すると、いきなりドアがこじ開けられて、中から警察の制服を着た男たちが入ってくる。女性は激しく抵抗するけれど、しかし結局は、男たちに手錠をかけられてしまう。男たちは女性を連れて外に出る。けれどひとりの男性が、庭にある気味の悪い花を見つける。男はその花を乱雑にむしると、そのあたりに捨ててしまう。
私は驚愕して、その場から逃げ出そうと玄関へ駆け寄る。けれどもその瞬間、扉は開かれてしまう。私は抵抗するけれど、結局、手錠をかけられてしまう。私は視界の端で、その花が男に千切られてしまうのを目撃する――――――――――――さて、もう、このへんでいいんじゃないかしら?
これが私の話せる、あの花と私のすべて。
ご存じの通り、あの花は失われてしまった。あなたたちのせいでね。
今の状況――眼球のある花、≪芽栄え≫の繁栄のこと。
まさか、あなたたち自慢の、人類最強の軍隊が植物如きにやられるだなんて。まあ、なんというか…………ざまあないわね。
人類最強とは言えど。
それは人類という狭いカテゴリの中での話であって、地球最強というわkではまったくないもの。
人類最強が植物最強に敗北したって、その程度の話なのよ。
思えば、最初からおかしかった。
あんな不気味な花が、どうしてあんなところに咲いて、次々と人や動物を助けるように私に指示したのか? そのくせ、大きな殺人事件や火災、水害などについては放っておいたのか? 今にしてみれば分かる。私が助けていたのは人や動物ではなくて、≪芽栄え≫という植物そのものだったんだ。私は≪芽栄え≫の繁殖を手助けした。それだけだったんだ。
動物を助けるよう指示したのは、種子を運ばせるため。
人を助けるように指示したのは、将来的にその種子を、芽生えた場所で育てさせるため。私みたいな人間を増やすため。
それで結局、町中にあの花が開花して……私が呼び出された。
まあ、確かに……あの花の言う通り、動物を虐待している人を殺したり、不法侵入や窃盗なんかを繰り返しはしたけれど、それだって、植物のためであって、それは誰かを助けるためのものだったんだ。
だから許してくれってわけじゃない。
けれど、もう侵食されてしまったものはしょうがない。
もう繁殖してしまったものは、しょうがない。
私たちにはもう、対抗の手段は残されていないんだよ。
…………そうだな。
いや、ひとつだけ、対抗できる可能性はあるかな。
これもご存じの通り、あの花には改変可能な、未来が映る。
もしも仮に、あいつらに気付かれずに花の瞳を覗き込むことができれば、少なくとも、そこには改変可能な未来が映りこむわけで、そこにもしも、植物たちの統べる世界が映りこんでいたなら、それはすなわち、なんとかすれば、未来を書き換えられるというわけだから。
そこにはなにか、方法があるのかもしれない。
けれど私にできるのはそこまで。
そのことを教えることだけ。
あとは君たちがやるしかない。
不安の種を芽吹かせるか、芽ごと摘むかは、君たちにかかっている。
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