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17 藍鼠 あいねず
「アザは出来てないね。あとは、どこか痛いとか痺れてるとか、いつもと違うところない?」
「ないです。何も」
部室の更衣スペースで、下着姿になって楓さんのチェックを受ける。
「ちょっと体動かしてみて。腕上げたり。変なところ、ない?」
言われた通りに腕を上げ下げしても、特におかしなところはない。
「大丈夫です」
「そっか。良かった」
拾い上げた肌襦袢を羽織って、畳に座る。やっぱり疲れたな。寝不足だし。
「一応、今夜一晩くらいは色々気にしてみてね。お風呂入るときとか、また自分でチェックしてみて。心配な縛り方は全然してないから大丈夫だとは思うけど。でもそういうところまで確認しないとダメなのよ、プロは。ごめんね」
「いえ、ちゃんとチェックしてもらえて安心しました」
スペースの端にある収納ベンチにドサっと腰掛けて、楓さんがため息をついた。
「縛りには問題なかったし、心拍数もだいぶ落ちてたってことは、やっぱり縄酔いだったのかなぁ」
あまり納得がいかないような口調なので、自分の責任をまた問いたくなる。
「縄酔いってね、起こそうと思って起こせるものでもなくてね」
楓さんがじっとわたしの方を見ている。
「縄酔いが起きる条件って結構難しくて、一番の要素は、縛られる人の精神状態なんだけど……何か思い当たること、ある?」
「わかんない、です」
本当にあの時のことはよく覚えていない。でも本当は、少しだけ覚えている。
「何か……誰か、大切な人のこととか、考えてたりしてた?」
「……そう、かも」
伊織さんのことを見ていたし、考えていた。
縛られている感覚が、伊織さんに抱きしめられた時の感覚と似ているからと、そのことをずっと考えていた。そうだ。そのあたりからおかしくなったのだ。
「そっか。うん。それならなんか納得できるかも」
楓さんはさっき、縄酔いの事、なんて説明してくれたのだっけ。確か、身も心も信頼しきっているパートナーとの間で、縛られる方が状況に酩酊してしまう状態、って。
でもわたしは伊織さんとはそんな関係ではなくて。
「あの、でも……わたし、そういうパートナーとかじゃなくて……」
「付き合ってるわけじゃない、ってこと?」
「……はい」
「セフレとか?」
「そういうのでもないです」
そうなると、そんなわたしが縄酔いなんてますます有り得ないということになってしまうのかな。
「でもその人のこと、信頼してる、もしくは信頼したい、信頼していい関係になりたいと思ってる?」
「それは……まだ、わかんないです」
楓さんが少し考えてから、ゆっくり口を開く。
「サラちゃんは、SMってどういうイメージ持ってる?」
突然のネタ振りにびっくりした。
SM。そんなの、よくテレビや雑誌でやっているそのままのイメージなのだけど。
「え、それは……縛ったり、ムチで叩いたりして、痛いことして相手を支配する、みたいな」
つい、思ったままを口にしてしまった。楓さんは苦笑いを浮かべている。間違えたかな。
「まぁ、そうよね。世間一般の感覚だとそんなよね。でもね、実際はSMプレイって、痛みや恐怖を与えることが目的ではないのよ。で、SがMを支配するためのものでもないの」
聞き慣れないワードを次々と言われて、わけがわからない。
「むしろ逆かな。実はその流れを支配してるのはMだったりすることも多いの」
縛られたり叩かれたりする方が支配? どういうこと?
「Sの方はね、自分の好き勝手にMになんでもしていいわけじゃない。そんなことはただの暴力だからね。Sは、Mが何を求めてるのか、何を欲してるのかを正確に読み取って、Mに求められてることをしてあげてるの。逆に言えば、Mが求めてないことはやっちゃダメなの。そこには揺るぎない絶対的な信頼関係が存在してるの。そういう関係なの」
言葉だけでは難しくてよくわからない。そもそも、SとかMとかの概念がすんなりと思い浮かばないので、いちいち、Sってどっちだっけ、Mはどっち、と思い出さないとイメージが湧かない。
「だから、主導権を握ってるのは実はMの方で、そこをはき違えてたらSとMの関係は上手くいかないの」
仕方なく、目の前の楓さんを即席でSに設定してイメージを構築する。
Sがしてあげる方で、ということは楓さんがMさんの言うことを聞いてあげて、あれ、そういうこと?
「私はプロの緊縛師だから仕事で設定上の相手も色々縛るけど、プライベートではちゃんとパートナーがいて、その子はM気質だけど私はその子を支配したいと思ったことは一度もないよ。っていうか、そんなのは無理かな。Mの子の要望を無視したら二度と縛らせてもらえないからね。本当のSの人は、尽くすタイプが多いのよ」
意外すぎる。思っていたのと全然違う。
「ごめんね、ちょっと話が逸れたね。で、何が言いたいかっていうと、さっきの縄酔いの話なんだけど」
楓さんは一度小さく息を吐いて、仕切り直してから言った。
「サラちゃんは、たぶん、解放されたかったんじゃないかな」
「解放?」
「そう。拘束されてギュウギュウに圧縮されてゴリゴリに固められたところから完全に解き放たれて、その姿を自分で目視したかった。だから今回の役を引き受けたんじゃないかな」
言い方が少し抽象的で、すぐには意味を拾えない。でも、なんとなくこれはわたしはちゃんと知っておいた方がいいことのような気がして、必死に楓さんの言葉を追う。
「縛られて身動き取れない状態で、その先にかすかにでも確実に解き放たれる期待を持てた時、その希望に縋りながら、現時点での自分の現状をマックスまで味わわされる。先へ進むためにね」
楓さんの言葉は催眠術か何かみたいで、そのズッシリとした落ち着いた声や話し方が、言葉の意味がわからなくてもジワジワと脳内に染み込んできて、楓さんにそう言われたのならそうなのかもな、と無条件に思わされそうになる。
「抜け出したい、解放されたい……そういう精神の動きが、たまたま、ショーが最後の1回だったとか、気になる人のこと考えてたとか、自分の卒制が終わって気が緩んでたとか、いろんな条件が揃ったことであの縄酔いっていうトランス状態を作り出しちゃったのかな、って思ったんだけど」
もし本当にそうだとして、わたしは何から抜け出したいと思っているのだろう。何から解放されたい? 親? 家? 学校?
「イオくんはきっと知らないで動いてたと思うけど、もしあのまま舞台上で縄酔いに晒され続けてたら、例えば、本当にそこで達してしまったり、場合によっては失禁しちゃったり、ひどいと失神しちゃうことも、ってことが絶対ないとは言えない状況だったと思う」
知らなかった。そんなに大変な状態だったなんて。大丈夫だったから今こうしていられるけど、もし本当にそこまでなってしまっていたらと思うと心底ゾッとする。
「だから本当にイオくんはグッジョブ、だったわけ」
伊織さん。
あの時、何を考えていたのだろう。わたしを助けようとして、段取りになかった行動に出た。
縛った楓さんでも気づかなかったわたしの変化に真っ先に気づいて、しかもその危機から救ってくれた。
わたしを連れて引っ込んだセット裏で伊織さんが手にしていたのは、布切り用の裁ち鋏だった。たぶんあれは、伊織さんの仕事用の私物。楓さんが緊急時に縄を切るために用意していたワイヤーロープカッターは、ちゃんとセットの中の柱の陰の定位置に置かれたままだった。
伊織さんはどうして、何を思って、わたしを助けに来てくれたのだろう。ショーの流れをぶった切らないように、着物を使って演出を装って、ワイヤーロープカッターは間に合わなかったのかあんな切りにくいだろう裁ち鋏なんかで縄を切って助けてくれた。布しか切ってはいけないハサミで固い縄なんて切ったら大事な商売道具をダメにてしまうかもしれないのに、それでもああして助けてくれた。
伊織さん。どうして。
「今まで色んな人縛ってきたけど、SMプレイを本当に楽しめたり、まして縄酔いとかまで行けちゃう人って、すごく繊細で感性が豊かで、元々お賢い人が多い印象。でもそういう人って大概、責任感強かったり真面目だったりで、最初のうちは全然自分を解放できなかったりして、楽しめるようになるまで時間かかる人が多いの」
わたしは今まで生きてきて、SMとか考えたこともないし、当然、縛られたいなんて思ったこともない。だから今回のインスタ、普通に楽しかったのだけど。
「ごめん、話がややこしくなったけど、私、別にサラちゃんにSMプレイを勧めてるわけじゃないのよ。もちろん、サラちゃんがMだって決め付けてるつもりもない。でも、SとかMとかの気質なんて大抵誰でも多かれ少なかれ何かしら持ってて、今回みたいなほんのちょっとのきっかけでそういうところが露呈しちゃうのはよくあること。だからさっきのことはあんまり気にしなくていいとは思うんだけど」
楓さんがこちらをじっと見て、わたしがどんな顔で話を聞いているのか確認しているみたいだった。きっと話の内容は核心に迫ってきていて、怖いけどわたしはそれをちゃんと聞きたい。
「もし、もしね、サラちゃんが現状の何かにすごく縛られてる自覚があって、そこから抜け出したい気持ちも持ってて、ほんの少し頑張ればその願いが叶うかもしれない、っていう状況なら、私は頑張ってみることを勧めます。サラちゃんはそこは頑張れる人かな、と思ったから」
頑張れる人。わたしが?
何を頑張ればいいのだろう。どうやって頑張れば。
「ちなみにその、頑張れる人、って言ってる根拠は、サラちゃん自身の努力とか能力だけの話じゃないよ。サラちゃんが見てる人とか、サラちゃんを見てる人とかも含めた、環境的、人間関係的な要素も含めて、ってこと」
わたしひとりだけの問題ではない、ってこと?
こんなこと、誰にも言えないし、そういう意味でわたしなんかと関わってくれる人なんているわけないのに。わからないことだらけ。楓さんの言うことはわたしには高度すぎる。
その時、コンコン、とパーテーションがノックされた。
「入って大丈夫?」
伊織さんだ。片付け、終わったのか。というか、本当に来たのか。
「あ、ごめんね、なんかすごく色々喋っちゃった」
腕時計を確認した楓さんが手を伸ばしてカーテンを少し開けると、そこから伊織さんが顔を出した。
「大丈夫?」
「はい」
「サラちゃん問題なかったからね。大丈夫だったから」
楓さんの報告を聞いた伊織さんが、ホッとしたように表情を緩めた。
「じゃあサラちゃん、さっき言ったチェック、ちゃんとしてね。あと、最後に話したこと、もし私が協力できそうなことあればいつでも声かけてね。ご要望にはきっちり応えますよ」
なんとなく意味深な言い方。
伊織さんが妙な顔をしてわたしたちを見ている。
「サラちゃん、服着ちゃいな。イオくん、一緒に外で待ちませんか」
「はい。じゃあ」
バッグを持って更衣スペースから出て行く楓さんを見送ってから、ひとり残された私は、何をしたらいいんだっけ、と現状把握。
肌襦袢を引っ掛けただけの状態で畳に座り込んでいる。姿見に映る姿があまりにも情けなくて、思わず目を逸らした。
早く着替えないと。
立ち上がって、自分の荷物から普段用の下着を取り出して支度をする。体の調子はもうほぼ元通りでホッとした。良かった。これであとは余計なことさえ考えなければ、もう大丈夫なはず。
そうだ、大事なことを忘れていた。ちゃんとするのだった。
リカの着物を3着とも専用ハンガーにかけて、ハンガーラックに下げる。下着類を畳んで風呂敷に包んでバッグにしまいながら、パーテーションの向こう側の気配に気を向けた。
何か話し声は聞こえるけど、小声なのか内容まではわからない。
そう思ってから、何を気にしてるんだろう、と呆れる。関係ないのに。伊織さんと楓さんが何を話していようが、わたしには関係ない。どうでもいい。
「じゃあ今度、ゆっくり飲みにでも行きましょう」
「あ、はい、そうですね。是非」
片付けを済ませて更衣スペースから出ると、ちょうど他愛ない会話が聞こえてきた。なぜかそれを聞いてホッとして、また呆れる。どうでもいいと思っているのに。
「あ、着替えたね。うん、大丈夫だね」
楓さん、わたしの様子を気にして待っていてくれたのか。なんだか色々と大人で、自分とのあまりの違いに比較する気も起こらない。
「はい。ありがとうございます」
安心したように笑って、楓さんが立ち上がった。
「じゃあね、サラちゃん。イオくんも。またね」
「はい。さようなら」
「さようなら」
すごい人だった。かっこいい大人。
職業の内容としては、万人に受け入れられるものではないのかもしれない。批判する人もいるし、バカにしたり嫌悪したりする人もいるかもしれない。でも楓さんは堂々としていて、自分が魅了された世界にちゃんと踏み込んで行って、ちゃんと立っている。信じて、向き合って、前に進んでいる。それをかっこいいと言わなくて何をかっこいいと言うの。
わたしはこれから、何をして行きていくのだろう。
食べていくために予備校の講師を続ける。ちゃんとした仕事でちゃんと稼げる。生活していくにはそれで十分なのでは。自分が担当した若者たちがどんどん腕を上げて希望の大学に合格していけば、仕事のやりがいも感じるだろうし、自分への自信にもなるはず。十分だ。それで十分ではないか。
でも、それでは、生きがいは?
自分から手を伸ばして、自分から求めて、探求して、学んで習得して高めていける、何か。消去法ではなく、やりたいからやる、好きだからやること。
そんなもの、わたしにあるのかな。
できることなら、そのことについて考える時間を持たないで生きていきたい。ただ日々を過ごすだけの、無難で安全な生活。それで知らない間に歳をとって、気づいたら人生が終わっている、というのがいい。きっとそれが一番楽だ。
「サラちゃん」
リカとか伊織さんみたいに貪欲に好きなことを追い求める人生もいいけど、かっこいいけど、憧れるけど、わたしにはきっと無理だ。自分のアイデンティティにすらちゃんと向き合えないのに、そんな人生をかけて何かを突き詰めるなんて無理すぎる。
「サラちゃん」
ちゃんとして、と言われているけど、ちゃんとしなきゃと思っているけど、どうしたらちゃんとできるのかなんていまだにわからない。楓さんが、わたしは頑張れる人だと言ってくれたけど、それだって何を頑張ればいいのかわからない。
リカの卒制を手伝うことが何か自分の道を開くきっかけになったらいいなと、心のどこかで期待をしていた。でも結局、よくわからないうちに終わってしまった。
願いが叶う?
抜け出せる?
やっぱりそんなの無理だ。
突然、手に触れられて、びっくりして思わず手を引っ込めようとした。
でも出来なかった。そっと手を掴まれてしまったから。
「サラちゃん。大丈夫?」
伊織さんは優しい。大人だからか、余裕があるからか、いつもいっぱいいっぱいなわたしに優しく接してくれる。学生思いの良い先生、なのだろうな。
伊織さん、工房持てたら先生辞めてしまうのかな。もしそうなら、悲しむ学生いっぱいいるだろうな。人気あるし。でも伊織さんなら作品のファンもすぐ増えそう。
「体調、良くない?」
伊織さんと一緒に居られる人は幸せだろうな。優しいし、かっこいいし、料理上手だし。
そういえば、10号館下のカフェの焼きプリン、食べようねと言っていたけど食べないうちに卒業してしまいそう。
あーあ。食べたかったな。
伊織さんも食べたいと言っていた。わたしが卒業しても、伊織さんはまだ食べるチャンスはある。
いいなぁ。誰と食べるのかな。いいなぁ、一緒に食べたかったなぁ。伊織さんと一緒にプリン食べれる人、いいなぁ。
いいなぁ。
「サラちゃん?」
視界がぼやける。
しまった。
ダメだ。一番やってはダメなこと。
こんなところで。この人の前で。
でも、止められない。
涙を見られたくなくて、顔を伏せて隠して、気持ちが落ち着くのをただ待つしかないのか。かっこ悪すぎる。
「おいで」
伊織さんがわたしの手を引いて、更衣スペースに上がり込んだ。
長い腕でゆっくりと閉められた藍鼠のカーテン1枚が、まるで世界中の不穏や不安からこのスペースを隔離してくれているようで、その頼りない布地で隔たれた空間がシェルターみたいな存在に思えた。
それから、わたしに与えられたのは、緩やかで優しい抱擁と、全部を覆い隠してくれるような温かさ。
「ちょっと疲れちゃったね。忙しかったもんね」
そうではない。そうではないけど、否定するにはこの腕は優し過ぎて、逃げられない。
「うん。疲れた……」
一度口に出したら、カタ、と何かのリミッターみたいなものが外れた音が聞こえた気がした。
「うん」
この人の「うん」はずるい。抵抗できなくなる。天然ひとタラシめ。
「頑張ったのに」
「うん、そうだね」
身体をそっと抱かれて、頭をふんわりと撫でられて、あまりの心地良さに理性とか自制心みたいなものがボロボロと崩れていくのがわかる。
マズい。このままでは、本当にちゃんとできなくなる。でも、どうしても逃げられない。
「座ろうか」
伊織さんに誘導されて、収納ベンチに座る。それでも伊織さんはそのままわたしの隣に座って肩を抱いてくれている。木製の収納にほんの薄っぺらいウレタンが乗っかっただけの固いベンチなのに、疲れのせいか、体が深く深く沈み込んでいくような気がした。
こんなこと、きっと誰にでもしている。だって王子だし。チャラくて軽い王子。でも今は、王子に群がる小娘のうちのひとりとしてでもいいから、こうして優しくしていて欲しい。
「いっぱい頑張ったもんね」
「でも失敗した」
肩に回された腕にキュッと力が入る。
「あれは……失敗なんかじゃないって、楓さんが……」
「え……?」
どういう意味だろう。失敗じゃない、って。
「あー、うん、まぁ……いいや。サラちゃんは気にしなくて大丈夫だよ。とにかくあれは失敗じゃないから」
誤魔化された?
ちゃんと教えてくれなかった。やっぱり、楓さんや伊織さんから見たらわたしはコドモで、対等になんてやりとりさせてもらえる相手ではないのかな。
「無事に終わったって思って大丈夫だよ」
伊織さんの言い分を鵜呑みにして納得してしまっていいのか、判断に迷う。
「サラー! あれ、サラちゃーん!」
突然、カーテンの外からリカがわたしを呼んだ。
「中にいるよー」
伊織さんが答える。
え、この状態で中に呼んでしまうの?
「あー、いたいた」
すぐにカーテンが開けられて、相変わらず元気いっぱいなリカが顔を出した。
並んでくっついて座っているわたしたちを見てもリカは全く普段通りで、逆に不思議。一瞬、離れなきゃ、と思ったけど、このリカの様子を見てその考えは無意味でバカバカしいと思い直した。
「お疲れ様ー! 終わったねー、ありがとー!」
本当に、疲れたり眠くなったりしないのかな、この子は。
「これから打ち上げ行くけど、イオくんとサラも行くよね?」
打ち上げ? 今から?
時計を見ると、まだ夕方5時半過ぎ。
そういえば、リカはお酒なんて飲みに行って大丈夫なのだろうか。年末の事件のこと、思い出したりとかしないのかな。
でもどちらにしろ、わたしは今日はあまり人といたくない。
「……わたしは、やめとこうかな」
「え、でも楓さんが、サラ何ともなかったって」
「うん。大丈夫だった。でもなんか、ちょっと疲れたし」
体ももちろんだけど、頭の中が色々と疲れた。疲れ過ぎた。
「……そっかぁ。残念だけど仕方ないね。更紗、長いこと付き合ってくれてありがとね。すっごい満足。いっぱい取材受けたし、いろんなのに載るの超楽しみ!」
ありがとうなんて言ってもらっていいのかな、わたし。
「最後の最後にミスしてごめんね」
「え、ミスじゃないじゃん。あれは……不可抗力だったって、楓さん言ってた」
みんなでそうやってフォローしてくれるけど、筋書き通りにできなかったことは事実だし、それで伊織さんにも大変な役をさせてしまったこともわたしにとっては大失態だった。
「うん、でも、わたしがやらかしたから」
卑屈なわたしの言い分を聞いても全然気分が落ちないリカは、本当に性格が良いと思う。
「でも結果的にはサプライズの演出ってことで超ウケてたし、上手くいったじゃん」
「……そうだね、うん、助かった」
色々あったけど、対外的には上手く行ったと思ってもらえていることも、それはそれで事実。リカがこれだけ満足気なのを最優先していいのかな。本当に無事に終わったのだと思って良いのかな。
ごめんね、リカ。ありがとう。
「イオくんのおかげだよー、ありがとうございました! 打ち上げ行くよね?」
当然行くよね、的なニュアンスで投げかけられたリカの言葉に、伊織さんは返事を濁す。
「あー……サラちゃんのこと、家まで送って行こうかと思ってるけど」
そんな、わたしなんかのためにみんなとの打ち上げ蹴るなんて。
「え、いいですいいです、ひとりで帰れます」
慌てて辞退したのだけど、伊織さんは返事をしてくれない。
「あっ、そうだね。サラ、送ってもらいなよ」
「いや、いいよー、平気だよー」
そうだった。この人たち、人の言うことあんまり聞かない人たちだった。
「私も結構疲れたし、どっちにしろ今日は行かないでおくわ」
伊織さんが突然方向を変えて、打ち上げ欠席だけを申告した。
「わかった。じゃあまた今度、色々落ち着いたら第二弾企画するね! その時はふたりとも参加ね! 強制参加!」
「あはは。打ち上げ第二弾とか。飲みたいだけやん」
「あははー! いいじゃんそれでも!」
そのままのノリでバイバイと元気に手を振って部室を出て行ったリカを、ある意味羨望の眼差しで見送る。重たい運命を背負っているとは思えないハッピー気質は本当に尊敬する。そしてやっぱり、羨ましい。
リカが出て行った後の、それまでとは全く違うこの静寂を、わたしはどうやってやり過ごせば良いのだろう。早く帰り支度をして帰れば良いのかな。伊織さんも、疲れたと言っていたし。
「じゃあ、わたしも帰ります」
「あれ、サラちゃん家どこなの?」
わたしの家は、大学の最寄駅から電車を数駅ずつ2本乗り継いで30分くらい移動したベッドタウンの割と大きな駅。
わたしの説明を、伊織さんは真剣に聞いている。そんなこと聞いてどうするのだろう。
「あ、ちょうど良かった! ちょうどその近くにあるお店に用事あったんだわ」
わざとらしい!
なんて軽薄な……チャラすぎる。今に始まったことではないけど。
「ちょうど良いから一緒に帰ろう」
結局、それが言いたかったのか。
伊織さんが怪しい人でないのは確実だし、人が嫌がることはしないのも知っている。そこは空気を読むのも上手くて、しっかりオトナな人だ。
もしこれがよく知らない人なら、問答無用で断固お断り。でも、伊織さんならまぁいいか、と思ってしまったわたしは、やっぱりそれなりに疲れていたのだと思う。
「はぁ……もう、わかりました。じゃあ、帰りましょう」
意見をぶつける気力がもうない、ということにして、伊織さんの謎の勢いに流されることにした。
希望が通った伊織さんはとにかく嬉しそうで、ひたすらニコニコしていた。なんだかそれがやたらと可愛くてムカつく。めちゃくちゃな出任せでエゴを通したくせに。
イケメンチャラ王子はどこ行った?
こんな、ただのワガママ強引姫、わたしの知っている伊織さんではない。
でももういいや。疲れたし。
今日はもう、姫の言う通りにするのでいい。色々助けてもらったから。
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