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10 裏色 うらいろ
唐突に、目覚めた。
暗い部屋。
ベッドの中?
ここはどこで、今何時で、わたしはどんな状況にいる?
目を凝らして、本当に全く知らない場所だと認識した。マズい。本当にここはどこ?
起き上がろうとして、身体が動かないことに気づく。
え、何? 金縛り!?
モゾモゾと身体を動かしてみると、どうやら一部だけが重たくて動かない。そして、その場所を確認してびっくりした。
わたしの身体に巻きついて動きを制しているのは、人の腕。
誰!?
怖すぎて、すぐには動けない。背後から抱きかかえられるようにして、わたしたちはひとつのベッドで眠っていたらしい。
恐る恐る、布団を持ち上げて、腕全体を見てみる。そして、長い腕の先にある指を見て、ようやくその腕の主がわかった。
これ、伊織さんだ。
なんで?
どうして?
完全に酔いが覚めた頭で必死に記憶を辿る。
そうだ。
わたし夕べ、大変なことがあって、助けに来てくれた伊織さんに……、あれ、伊織さんに……伊織さんと、えっと、どうしたのだっけ……?
お店に来てもらってリカを助けてもらったところまでは覚えている。その後、リカと早坂先生をお店に残して、わたしたちはお店を出て、出てから、それから……。
それからの記憶がない。
で、この状況。
どうしよう、どうしてこんなことになったのだろう。
今、何時かな。もしかして、もしかしなくても、わたし無断外泊している?
本格的にマズい。父に知られたら面倒なことになるかもしれない。
今からでも連絡を、とスマホを探したくて、身体を起こそうとした。でも、腕ががっちり巻きついていてなかなか動けない。
「……ん? あれ、起きた?」
しまった。起こした、かな。
「……あ、あの、えっと、すみません、あの、こんな……、ほんとすみません、ちゃんと、します。ちゃんと……」
一瞬緩んだ腕から抜け出せそうかと思ったのに、すぐにまた引き寄せられて、再び伊織さんの腕の中に収まってしまった。
何、これ……なんで、こんな……すごく、すごく気持ちいい。温かくて、柔らかくて、背後からのハグがぴったりハマっていて、信じられないくらい気持ちいい。
違う。ダメ。そんなこと言っている場合ではないのに。
「まだ夜中じゃん……」
寝ぼけているみたいな声がいつもに増して低くて緩くて、そのザラッとした響きも心地いい。やだ、なんだか……抜け出せない。
「あ、あの、わたし、家に……連絡したくて……」
「……したよ、寝る前に。大丈夫」
「え? した?」
「うん。した。自分で電話してたよ。お母さんと話した。ついでに私も電話に出たし」
「え、は? 伊織さんも話したの?」
なんだかすごい展開になっていて、素直に信じることができない。
「うん。いろいろ問い詰められてたみたいだから、私が出て、ちゃんと助教だって名乗って、卒制の作業で夜中までかかるからウチに泊めますって説明してウチの電話番号も伝えた」
びっくりしすぎて、でももし本当にそうなら心配することはないということで、助かった、のかな。
「……あの、母はなんか言ってました?」
「んー? いや、別に……特には」
「そう、ですか」
「だから安心してもっかい寝よぉ……」
そのままグイッとさらに抱きかかえられて、気づいた。
わたし、服も変わっている。自分のではないTシャツを着ている。多分、化粧も落としてあるっぽい。覚えていないのに。
「あの、もしかして着替えとか、借りちゃってます?」
「ん? うん。ちゃんとお風呂入ったし。タバコ臭かったから」
タバコ……わたしたちは誰も吸っていなかったし、あの飲み屋での他の客のか。
本当に覚えていない。
「もしかして覚えてない?」
「……はい」
嘘だ。ほんの少し覚えている。今、思い出した。
わたし、お風呂で泣いた。ひとりで、身体洗いながら泣いたのを覚えている。大嫌いな自分の身体を洗いながら、リカの細くて綺麗な身体を思い出して、泣いた。
本当に守れたのかな、ちゃんと助けてあげられたのかな、と考え出したらたまらなくなって、シャワーを出しっ放しにしながら泣いたのだった。
ひとつ思い出したら、そこから連鎖するようにポロポロと記憶がよみがえり始めた。母と話したこともなんとなく思い出した。
「そっかー……大丈夫だよ。普通に、何も問題なく、ちゃんと全部こなしてたから」
「そう、ですか」
「ま、秘密は聞いちゃったけどね」
「え!?」
言い方が軽いから冗談なのかといつも思ってしまう。でも、この人はそういう冗談は言わない人だって本当は知っている。
だから余計に問題なのだけど。
「だいじょーぶだよ……全然、大丈夫」
「な、何、言った!? わたし、何言った!?」
「こら。暴れないで。大丈夫だから」
「え、嘘、わたし、何て」
これは本当に覚えていない。全然思い出せない。
「大丈夫。何も変わんないから。何も問題ないよ」
「でも」
何を言ってしまったのだろう。秘密を暴露しておいて覚えていないなんて、本当に最悪だ。
「いいから。大丈夫だから」
「……」
どんなに大丈夫だと言われても、覚えていない限り、やらかした感は拭えない。
でも抵抗も無駄だと何となくわかったので、あとはもうこれから挽回というか、少しずつ何があったのか確認しながらフォローを入れていくしかない。
背後でもう小さく寝息を立てている伊織さんを起こさないようにしながら、すっかり覚醒してしまった脳みそで、できる限り記憶を辿る。
そうだ。わたし、お店を出たところで、なんだか思い詰めていろいろ話した気がする。それで、泣いたのだ。思い出した。何言ったのだっけ。心の中で思ったことと口に出して喋ったことが混ざってしまって、どちらだか思い出せない。
泣いた、ということは、何か弱音を吐いたのか、愚痴ったか。何を言った? 何を話した?
伊織さんは、秘密を聞いた、と言った。
わたしの秘密?
何を、言った?
だめだ。考えても何も覚えていない。でも、伊織さんが大丈夫だと言ってくれたことは確かで、何も変わらないとも言ってくれていて、それをもう信じるしかない。
その他に何かやらかしてないだろうか、とか、考えれば考えるほど恐ろしい。
気持ち悪かったりはしないので、吐いたりはしていないと思う。
自分が纏っている匂いがいつもの自分の匂いと違うから、やっぱり本当にお風呂も借りたのだ。シャンプーとかも全部、伊織さんのを使わせてもらっている。
あれ、まさか、一緒に入ったりとか、していないよな? いや、ひとりでこっそり泣いたのをなんとなく覚えているから、たぶん大丈夫。
なんで記憶なくなるかな。そんなに飲んでいないと思うのだけど。
でもたぶん、お酒だけのせいではない。
卒制の疲れと、インスタレーションの準備の疲れやプレッシャー、リカのトラブル、そういうのが重なったところにさらにお酒も入って、色々と限界が来たのだろうな。
フゥ、と小さくため息をついたら、わたしに巻きついている腕に一瞬ぎゅっと力が入った。
起きているのかと思ったけど、寝息は続いていて、何だかもう色々と諦めた方が楽かなとか思ってしまった。
疲れた。本当に、色々と。
明日、目が覚めたらまたちゃんとするから、今はもう何も考えずに眠りたい。
「起きたら、ちゃんとします」
小さく呟いたら、また、伊織さんがぎゅっとわたしを抱きしめた。
そんなふうに抱きしめるのなら、あとはもう知らない。もうどうにでもなればいい。わたしはいつも通り、決めた通りに起きたらちゃんとするだけだ。
窓にカーテンは引かれていなくて、外からの僅かな光だけが部屋の中をぼんやりと映し出している。閑かな裏色に染まった部屋で、わたしは自分の意思や思考を一つずつゆっくり手放して、与えられた状況に身を委ねる努力をした。
心の何処かに、このまま朝が来なければいいのに、という気持ちがあることには気づかないふりをして。
明日になったら、絶対に、ちゃんとしなければいけないから。
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