12 香色 こういろ

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12 香色 こういろ

「これはねぇ、学校の仕事とは別ので、自分で染めた布地で小物とか作ってて」  丁寧に説明しながら、さっきも触っていた紙類や布類をパラパラと広げて見せてくれる。 「今は、型染めっていって、デザインパターンを型紙に起こしてステンシルみたいにしてひとつひとつ刷毛で絵柄を刷り込んでいく作業の準備中」  色見本みたいな布切れをいくつも並べて、隣り合わせになっている組み合わせをどんどん変えていく。それを、パターンが印刷された紙の上に並べて、イメージを確認しているのだろう。 「まぁ言ってしまえば趣味なんだけど、ちゃんと商品としてネットで販売してるんだよ」  小さな布切れを指先でそっと合わせたりずらしたりしていて、そのしなやかな動きに思わず見惚れて、焦る。しまった……作業を、作業内容を、見たいのだった。  紙や布が擦れたりするカサカサという音が、妙に心地いい。 「今は設備が整ってないから染める方に寄ってるけど、いずれはもうちょっとちゃんとした織機(しょっき)を手に入れて、織る方も色々やりたいんだけどね」  部屋の中には、机に乗る程度の小さい織機のようなものはあって、でも確かに小物しかできなさそうなサイズだ。 「そのためには自宅では限界あるし、やっぱり工房持てたらいいなぁ、って思ってるんだけど」  そういえば前にも、工房持ちたいと言っていたっけ。  すごい。実現できそうなレベルの大きな目標があるのは、やっぱりすごい。 「サラちゃんはさぁ、デザインには興味ないの?」  興味? そんな分野は未踏の地で、そもそもデザインという作業の意味がわからなくてファイン系を専攻したのに。 「デザインは……やったことないし、どうやったらできるかもわかんないし」  なんとなく答えると、伊織さんが呆れたような顔をしてわたしを見た。 「え。今、リカちゃんのインスタで背景の生地にパターン作ってるの、あれデザインしたのサラちゃんでしょ。デザイン、してるじゃん」 「あ……」  言われて、初めて気づく。そうか、あれってデザイン作業なのか。  あまり意識したことなかった。あの作業の元になった授業でやった風呂敷製作も、自分の中ではデザインという意識はなくて、布に絵画を描いているイメージだった。 「デザインなんて資格制じゃないんだし、ファイン系卒業してデザイナーになってる子なんて山ほどいるよ」  そういえば、予備校の入塾説明会でもそんな話をしていた。 「今は業界でも新しいカラー欲しがってるからねぇ。油画卒とか日本画卒とかの人をあえてデザイナーとして迎えたがる企業も多いよ。デザイン科卒にはない色持ってる人多いからね」  そんな話も出ていたな。だから受験する学科を選ぶ時は卒業後のこともよく考えて選べ、と言っていた。 「例えばさ、サラちゃん着物好きだし、和服のデザインやってみたりとかは?」  伊織さんの口から出たワードが、わたしの頭の中ではバラバラに散らばって全然リンクしないのだけど。  デザイン? 着物? 和服? 「きものデザイナーってのもあるし、あとは和小物もあるし、もっと広げれば和柄生地自体のデザインとかさ。色々あるよ。日本画の技術、十分活かせると思うけど」 「考えたことなかった……」 「あれだけの絵の技術あって、着物好きで、ちょっとしたデザインパターンならすぐ描けて、やれそうなこといっぱいあると思うけどね」  本当に一度も考えたことなかった。  自分にしかできないものを何も持っていない、特別なことは何もできない自分は、予備校の講師が妥当だと思っていた。幸い、基礎的な画力だけは身についていたから、それを次の世代に伝授することならできるかな、と思っていた。 「やりたいこと、決まってないの? 作家にはならないんだっけ」  まさかの話の展開。こんなこと話すことになるとは全く思っていなかった。 「……あの、わたしは、ずっと……担当の教授に言われてて、その……絵に説得力がないとか、何を伝えたいんだかわからないとか、予備校からやり直せとか、だから絵を描いて売るという仕事はやりたくな……出来ない、んです」  バカ正直に全部答えてしまうわたし。ほんとアホ。適当にスルーすればいいのに。 「就職活動は……してなかったよね?」 「今バイトしてる予備校でそのまま雇ってもらう流れで……入試の成績良かったから……」 「なるほどね」  手元の素材を触っていた手を止めて、伊織さんはわたしを正面から見た。 「私は日本画の勉強はしたことないけど、助教として勝手なこと言わせてもらえば、たった1人の教授の言い分をそのまま鵜呑みにしない方がいいかな、って思うよ」  今度はまた何モードなの。ものすごいまっすぐに見てくるから、つい及び腰になってしまいそう。 「絵なんてさ、受験の時だけはまぁ相対的にだけど点数付けられるけど、本来は絵に点数付けるなんてあり得ないし不可能でしょ。教授が100人いたら、絵の評価なんて100通りあって当然。そのサラちゃんの担任が20点付けた絵を99点付けてくれる教授だってどこかにいるかもしれないし。絵の、っていうか美術の世界なんてそんなもんよ」  一瞬身構えてしまったけど、放たれた言葉はすごく穏やかで優しくて、なんだか、沁みる。 「昔の偉人的大作家だって、生きてる時は誰ひとり見向きもしなかったゴミ同然の絵が死んだ途端に評価跳ね上がって価格爆上がりの人とか多いじゃない。画伯あるある、でしょ。そういう曖昧な世界なんだよ」  相槌をうつ余裕もなく聞き入ってしまっているわたしを余所(よそ)に、伊織さんは続ける。 「その教授もさぁ、誰だか知らないけど、よくそうやって偉そうに学生の絵をジャッジできるよねぇ。まぁなんとなくあいつかなーとか見当つくけど。自分の一言で学生の人生が左右されちゃうとか、考えたことないんだろうなぁ。学生に大口叩ける俺カッケェ、とか勘違いしてるだけかもしれないよ」  勢いついてきた伊織さんの話し方がいつもの軽くてチャラい感じとは程遠くて、もしかしたら普段の軽薄系とこういうしっかり系は意図的に使い分けているのかな、と思う。それから、やっぱり先生なんだな、と思い知らされて、尊敬の念と同時に、なんていうか、少し寂しいような、やっぱり立場が違いすぎるな、という距離感みたいなものを感じてしまった。  でも、こうやって話したり話されたり、という空間は居心地が良くて、もっと話していたい気持ちに変わりはない。 「だからさ、まぁ、日本画の専門じゃないから私も偉そうなことは言えないけど、あんまりカテゴリーとかジャンルに囚われすぎなくていいんじゃない、ってことと、教授の評価もそんなに気にしすぎないで大丈夫だよ、ってことは言っとく」  頭の中に散らばっていたバラバラだった言葉が少しずつ繋がっていって、何か大きなイメージに、まだ漠然とはしているけど、近づいていくような気がして。 「絵を……」 「うん?」 「その教授、わたしが描いた絵を叩くの。講評しながら、手のひらで、バシバシと」  気づいたら、話し始めていた。 「……うん」 「言葉で批評されるのはいいです、教授なので。わたしは学生で、教授から何か厳しいこと言われるのはまぁ仕方ない。でも、絵を叩かれるのはやっぱりキツくて」 「うん。そうだね、それは嫌だね」  ただ同調してくれているだけなのが、こんなに心地いいなんて。 「自分が望んでこの立場にいるんだけど、自分のせいなんだけど、でもやっぱり作品を実際に物理的に叩かれるのは嫌で」 「うん」  伊織さんの『うん』が、優しい。もっと話したくなる。もっと聞いて欲しい。 「だから、作品を誰かに手渡す仕事はしたくないな、とか思っちゃって」 「欲しい作品をお金出して手に入れた人は、それを叩いたりはしないと思うよ」  ああ、そうか。そうだよな。当たり前だよな。そんな考えにも辿り着けなかったなんて。視野がすごく狭まっていた。全然見えなくなっていたのだな。 「予備校の講師だって誰でもできる仕事じゃないから素晴らしいと思うけど、消去法じゃなく、何かもっとやってみたいと思うこと見つけられればいいなーと思うよ」 「そう、ですね」 「卒業してすぐ、っていうんじゃなくて全然いいと思うし、予備校で働きながら探して行ったらいいんじゃない? 学校通ったりしてもいいと思うし」  学校。今の大学の学費も親に返そうと思っているのに、そこから更にまたどこかに通うなんて、無理だ。 「院でも専門でも通信でも、方法は色々あるよ」  やりたいこと。学びたいこと。そんなこと、考えたことなかった。  ただ、絵が描ければ良かった。それだけで美大に来た。  このままなんとなく卒業して、なんとなく惰性で働いて、そのあとは?  予備校でおばあちゃんになるまで働くの?  無難であること、余計なことをしないこと、目立たないこと。  ずっとそんなふうに生きてきてしまったわたしは、夢とか野望みたいなことを考える(すべ)を知らない。  リカや伊織さんやのぞみちゃん、それから、レオくん、蘇我くん……みんなと関わる上でずっと感じていたコンプレックスは、今回のインスタレーションでわたしの役割が受け身でしかなかったことなんかではなかった。背景に使う布地のデザインパターンを任されたことで少しだけ浮上できた気はしたけど、それはたまたまできそうなわたしに役が回ってきただけで、テキの学生で手が空いている人がいればその役は簡単に奪われてしまうだろう。  もっと学びたい。何か、自分だからできること、自分にしかできないこと……あなただからお願いしたい、あなたにお願いして良かった、と思ってもらえることを見つけたい。 「卒制の絵って、写真とかある?」  伊織さんの問いかけで我に返る。あれ、なんだか、色々考えてぼーっとしていた。 「ある、けど」 「観せてもらってもいい?」 「途中でよければ、はい」  昨日、最新の状態で撮ってきた写真がある。  まだ全然最終段階が見えてきていないし、こんなの観てもわからないだろうけど。 「へぇ。すごい。綺麗だねぇ」  本音か建前か。そこはあまり追求したくない。 「うん。好き。私は好きだな」  良いか悪いかで言われるより、好きかそうでないかで言われる方が響く。先生だし、てっきり色々と良いところや悪いところを指摘してくるのかと思ったけど、意外。  好き、と言われて、悪い気はしない。 「すごいな、トーンの幅、多いね……写真だから正確にはわかんないけど……うーん……」  伊織さんがスマホの画面を色々と拡大してじっと見入っている。 「サラちゃん、もしかして4色型色覚だったりする? よね?」 「よん、しょく?」 「……わかんないか。こないだのシルクの色決めしてる時から、もしかしたらって思ってたんだけど」  色覚……色の、見え方的なこと?  色盲とかの視力検査では引っかかったことなかったけど。 「私さ、小学校1年の時に、不登校になったことあって」  スマホをわたしに返してくれてから、軽く頬杖をつくようにして言った。 「図工の授業でね、色の授業をした時に、なんか他のみんなと色の認識がズレてて」  受け取ったスマホをしまうのを忘れて、伊織さんの話に聞き入る。 「先生が、この色用意してね、って色名で言った色を、みんなと同じように用意したつもりだったんだけど、私だけ他の子たちとちょっと違ってて。逆に、この色は何色ですか、って聞かれて、思った名前を言うんだけどそれもちょっとみんなと違ってて。図工の先生から担任にその事が伝わって、担任が親に連絡して、もしかしたら色盲とかかもしれないから眼科で検査してきてください、って言われて病院連れてかれて」 「病院……?」 「そう。でもね、結局、色んな検査して調べたら病気じゃなくて、人より多くの色が見えてる4色型色覚っていう特性だった。普通はだいたいみんな3色型で、諸説あるけど、世の中の女性の2〜3%が4色型らしいよ。ちなみに男性には4色型はいない、って言う説が有力なんだって」  朝でも昼でもない、曖昧な時間。  冬晴れの日差しがまったりと差し込む部屋に、照明は不要。  どちらかというと木目が見えるような薄い塗装の木製家具が多くて全体的にナチュラルな印象の室内に、低い角度の日差しが差し込んで、部屋全体が香色(こういろ)に染まって見える。  ここは、他にどんな色になるのだろう。  夕陽になったら?  季節が変わったら?  雨の日や、雪の日は。  それから、良いことがあった日や、しんどい事があった時。  伊織さんはどんな色の中で毎日を過ごすのだろう。 「………………」  あれ。  しまった。また、ボーッとしていた。  会話の途中。上の空になってしまった。怒ったかな。  恐る恐る様子を伺うと、伊織さんはいつも通りの穏やかな表情でわたしをじっと見ていた。 「あの、すみません。聞いてます」  思わず謝ってしまったけど、伊織さんは表情を変えない。もしかして、待っていてくれたのかな。 「……大丈夫? 少し休む?」 「いえ。大丈夫です」 「じゃあ、続き、話しても良い?」  どうしてこんなに穏やかな空気を(まと)っていられるのだろう。本当に、ただひたすらに気持ちいい。 「はい」  時間にも用事にも追い立てられずにこうして暇を潰せる贅沢を、噛み締めるみたいに味わう。すごく、心地いい。  伊織さんが、頬杖の姿勢から、また背もたれに寄りかかった脱力した体勢になる。  この人のこの力の抜けたような立ち振る舞い、ユルユルなのになぜかだらしない感じはしなくて、妙に癒される。和むというか、落ち着く。なんだか、猫みたい。  いつも軽いとかユルいとかチャラいとか思っていたのだけど、こういうのは違う感じ。 「小さい頃はいいことなんて一つもなかったよ。みんなと同じ塗り絵やっても自分だけ間違った色使ったとか言われて笑われるし、図工の時間も混乱しすぎて地獄だったし。でも中学の頃からはやっぱり作品が色んなコンクールとかで入賞するようになって、まぁ今に至るんだけど」  不登校になるほど嫌な思いをしたのに、それほど悲痛な印象を受けないのはどうしてだろう。強さなのか、諦めなのか。伊織さんのことをまだ知らなさすぎて、そういう言葉の裏に隠れた感情や思考を読み切ることができない。  知りたいな、と思う。純粋に、もっとこの人のことを知りたい。 「色覚なんてさ、自分の見え方と他の人の見え方を比較することなんてできないし、自分の見え方が全てじゃん。それをすり合わせる必要も矯正する必要もないし、美術の仕事していく上ではむしろ武器になることだってある」  ゆったり座っていた伊織さんが、突然、体をグイッと起こして、身を乗り出すようにしてわたしに近づいた。 「サラちゃんもきっと、見えてると思うよ」  目線が、近い。近距離で目が合って、視線を逸らせない。 「もっと自信持ったらいいよ、自分が見えてる世界に」  自信。わたしに一番ないもの。どうやって持てばいいのか、持ちたいと思って持てるものなのかもわからない。 「HSP上等! 4色型色覚上等! マイノリティ上等! ね、この業界、人と違ってなんぼ、大多数から外れてなんぼ、の世界だよ。だからサラちゃんも」  突然、オーブンの焼き上がりを知らせる軽快な電子音が流れた。 「あ、できたね」  今、話の途中で。 「あーごめん、作業見せるって言って全然見せられなかったね」  いや、そっちではなくて。なんて言おうとしたの?  続きが聞きたい。  だからサラちゃんも……その後は?  大多数から外れてなんぼ、なんて、そんな恐ろしいこと。そんなことをして自分を保っていられる自信、ない。  伊織さん、何て言おうとしたのだろう。  プリンをオーブンから出して、粗熱が取れるまで10分から15分くらい。それから小さなバットに水を入れてカップを浸けて10分くらい。冷めたら冷蔵庫で冷たくなるまで冷やす。 「ごめん、今度こそ作業見せるね」  冷やしている間、伊織さんはまた作業を少し見せてくれた。  わたしはさっき途中で途切れた言葉を、改めて聞き出すことはできなかった。  怖かった。あの後の、結論みたいなことを聞くのが。何か言われて、それをちゃんと受け止められる自信がなかった。  だから、伊織さんのペースに合わせて、深くは追求しないことにした。  プリンが冷えて、3つの味のプリンをそれぞれ全種類食べた。  一つひとつが小さめだったし、甘さがかなり控えめだったけど、さすがに3つは多くてお腹いっぱいになった。  美味しかった。手作りらしい素朴で優しい味。どのフレーバーが好きか話をしながら、プリン以外にどんなお菓子が好きか、どんな味が好きか、色々話しながら食べた。  楽しかった。単純に。  でも、わたしの頭の中には、さっき伊織さんが言いかけてやめたその続きのことがずっと引っかかっていて、それを訊いてしまいたいという気持ちがずっとウズウズしていた。  その気持ちはプリンを食べ終わってカップをまた一緒に洗っている間もずっと健在で、気を抜いたら口から漏れてしまいそうだった。 「食材買い出しに行くから、駅まで送るよ。一緒に行こう」  プリンを食べすぎて昼食な雰囲気ではなくなったので、それから帰り支度をしながらのんびりと過ごした。本当なら今頃、家で年末の片付けをしているはずだった。   予定はだいぶ変わってしまったけど、これはこれで良かったのだと思う。たくさん話を聞けたし、色々と考えるきっかけができた。今まで考えたことなかったことも、選択肢の一つとして加わった。  ためになった。若輩者が、人生の先輩に色々と話を聞けた。自分の大学の教員から、将来に役立つ話を聞けた。それだけだ。 「あの、服……」  洗って返します、と言おうとして、この家で借りたものを自分の家に持って帰って洗ってくるのも変かな、と思って迷っているうちに、伊織さんがわたしの手から奪い取って洗濯物カゴまで持って行ってしまった。 「ありがとうございました」  慌てて口にしたけど、違う部屋にいる伊織さんには届かなかったかもしれない。  いい出会いだった。きっと。  リカのおかげで、有意義な人間関係が増えた。卒業間際に、これからの生き方についてためになる話が出来た。有り難かった。  でも本当は、そんなことより、なんだかすごく楽しかった。  ただ、楽しかったのだ。 「準備できた?」 「はい」  身支度を整えて、荷物も全部持って、来た事をよく覚えていないこの部屋から出て行く。  もう二度と来ない部屋。 「じゃ、行こうか」  玄関を出て景色を見ても、やっぱり何も覚えていない。何階なのかも知らなかったし、マンションの外観も全く覚えていない。 「駅までちょっとだけ歩くよ」 「はい」 「体調は? 平気?」 「……全然大丈夫です」  教員だし、勤め先の学生に何かあったら困るだろうな。色々世話焼くに決まっている。でも、自分の科の学生でもないのにこんなに色々してくれて。本当に迷惑かけてしまった。 「色々、すみませんでした」  並んで歩いているわたしを、じっと真横から伊織さんが見ている。  なんだろう、少し、怖いのだけど。 「…………ん。まぁいいや」  今、何か言葉を飲み込んだ? 「私は楽しかったよ。昨日の出来事考えたら手放しでは喜べないけど、リカちゃんも大丈夫だったみたいだし、今日は私は楽しかった」  気持ちのどこかがざわつく。  落ち着かない。  迷惑かけた事を謝って、許してもらって、一件落着でまた今まで通りに変わらずやって行く予定なのに。また来週からリカのインスタのことで色々一緒に活動するのに。  ざわざわする。  そうか。謝罪ではなくて、お礼を言った方がいいのかな、こういう時は。 「ありがとうございました。泊めていただいて、服とか、食事とかも」  ちゃんと謝った。お礼もちゃんと言えた、つもり。  でも伊織さんは足を止めた。 「……はぁ。もう。サラちゃん!」 「はい」  合わせて立ち止まったわたしを、黙ってじっと見ている伊織さん。やっぱり背が高いから、どうしても見上げる形になって、その位置関係は個人的には割と萌えポイントというか。  いや、ダメだ何それ、今のはナシだ。 「サラちゃん、楽しかった?」 「……はい」  何を言えばいいの? なに、この質問。そのまま答えていいの? というか、反射的に返事してしまったけど。 「ちゃんと聞きたい。サラちゃんの言葉で」  どういう意味?  わたしの言葉、って。 「あの、わたしも……楽しかったです。すごく」  え。待って。  これで、こんなのでいいの?  こういう答え方で良かったの?  というかわたし、なに素直にそんなド直球で答えてしまったのだろう。  伊織さんの表情がどう変化するのか、怖くて仕方ない。たぶんほんの数秒の時間が、ものすごく長時間に思える。  ふいに、目の前の仏頂面がフニャッと緩んで、よく知るいつものチャラい笑顔になった。 「そっかぁ、良かった」  ホッとした。怒っていなかった、というのと、いつも通りの伊織さんだ、というのと、両方の意味ですごく安心した。  そうだ。これで元通り。ちゃんとリセットされた。これで、これからも今まで通りにやっていける。  思い出した。わたし、今日からちゃんとするつもりだった。  できたよな? 大丈夫だったよな?  きっと問題ない。 「リカちゃんがシルク用の生地買いに行きたいらしくて、できれば今年中に用意したいって前に言ってたけど、サラちゃんも一緒に行く?」  駅に着いたら、大学の最寄りから2駅隣のよく知っている駅だったので、なんとなく笑ってしまった。こんなところにいたのか、わたし。 「サラちゃんのデザインを刷る生地だし、一緒に見に行った方が良くない?」 「……はい、あの、予定が合えば」  リカからはまだその買い物の話は聞いていないけど、もしかしたら昨夜とかにするつもりだったのかな。 「リカちゃんとのぞみちゃんと私と、あとじゃあサラちゃんね。日暮里繊維街だよ」 「はい」  ここまで来たら、頼まれたから、とか、他にいなかったから、と逃げるのは悔しい。せっかく役割を与えてもらったのだから、わたしに出来ることは可能な限り頑張りたい。 「あ、そうだ。LINE交換しようよ」 「え」 「リカちゃん間に挟んでやり取りするのも限界あるし」 「……はい、じゃあ」  別に嫌ではないけど、でも、なんだか困る。色々と、ちゃんとできるかな。  慣れた様子で友達登録している伊織さんを見て、胸の奥がキシッと軋んだ。  きっと、登録している友達いっぱいいるのだろうな。学生たちとも、手当たり次第登録していそう。やっぱりそういうところチャラい、よな。 「あれ、今更だけどグループ作っちゃえばいいのにね、なんで作ってないんだろう」 「リカとのぞみちゃんとわたしのグループはあります」 「え、そうなの? なんだぁ、入れてくれればいいのに」  確かに、1ヶ所で集まってしまえば連絡しやすいのに。でもリカの企画だし、わたしがとやかく言う立場ではないから。 「リカちゃんに提案してみよー」  そう話しているうちに、伊織さんとのトークにスタンプが一つ届いた。  イケメン男子のキラキラ笑顔のイラストに「よろしくね」というコメントが付いている。こんなところまで王子仕様なのか。  よし、やっぱりチャラい。大丈夫だ。 「じゃあ、気をつけて帰ってね。またね」 「はい。失礼します」 「……ばいばい、サラちゃん」 「……さようなら」 「ばいばい!」  さようならでもダメなのか。 「ばいばーい!」  しつこい。子どもみたい。 「……ばいばい」  仕方なく、しつこいから仕方なく、言わないと諦めてくれなさそうだから仕方なく、ばいばいと手を振って挨拶をした。  もう。伊織さんといると、何か正解なのかわからなくなる。ちゃんとできているのか、大丈夫なのか、よくわからない。  でも、改札を通ってから振り返って見た伊織さんの顔はなんだか嬉しそうで、これで良かったのだろうな、と無理やり納得する。  目が合って、また小さく手を振ってきたので、振り返した。  疲れた。なんだか、いつも使わない神経を使った気がする。  同じ通学路を4年近く通って、いつもは降りずに通り過ぎていた駅に、最後の最後に初めて降りた。家の場所や勤務予定の予備校の所在地からしても、もうこの駅は使うことはないかな、と思う。  まあ、関係ないけど。    乗りたい電車を待つホームに着いて、改札の方をチラリと確認したら、伊織さんの姿はもうなかった。  期待なんてしていない。全然。そんな、恋人みたいにいつまでも見ているとか、ないから。  でも、何かほんの少し、ほんのわずかに、それまでずっと点いていた電球が1個だけ切れてしまったみたいな、何かが欠けたような寂しいみたいな感覚が確かにあって、わたしはあえてそれを無視した。  これは必要ないやつ。わたしには、いらないやつ。  だってちゃんとしなければいけないから。  モヤモヤし始める前に電車が到着して、余計なことを考えずに済みそう。良かった。  さ、帰って部屋を片付けよう。  ちゃんとしなきゃ。
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