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13 濃朽葉 こいくちば
日暮里の繊維街はまるでテーマパークみたいで、年末の混雑も相まってどこかのナントカランドにでも来たような気分になる。似たようなお店がずらりと並んでいるから、マップを見ながら歩かないと自分の現在地がわからなくなりそうだ。
「いつも行ってるお店が3つくらいあるんだけど、他にも歩いてて気になったとこは入っちゃうかも!」
元々人混みがあまり得意ではないわたしは、はっきりとした目的があるからなんとかついて行けているけど、色々と迷子になりそうで怖い。リカと伊織さんの背が高くて助かった。
先週、伊織さんの家から帰った日の夜、リカから電話があった。
「昨日ごめんね、あんなことになっちゃって」
ごめんねなんて、リカが謝ることではないのに。
「わたしの方こそ、やっぱりあの場を離れるんじゃなかった……本当に本当にごめんね」
「でも帰らないでいてくれたじゃん。あの時最初に来てくれたのが更紗でホントに良かった。ありがとね」
それから、やっぱりあの酔っ払い集団を訴えたりはしないこととか、パートナーの早坂先生がたくさん慰めてくれたこととかを、色々話してくれた。
「あとね、あとね、昨日ね、初めて電気消さないでエッチしたの!」
リカがパートナーとの秘め事を話すのはすごく珍しい。相手が助教授だということもあるけど、そもそも、興味本位でトランス女性のセックスを聞き出したがる人が結構いるから、そういうののターゲットにならないために極力話さないようにしているのだと前に言っていた。
「なんかさ、最初の頃はさ、やっぱりこんなあたしに言い寄ってくるってことは、女装男子とか男の娘とかを好きなゲイなのかと思うじゃん。だからあんまり身体見せるのとか嫌だったんだけど、なんか最近はちょっとだけ、そういうんじゃないのかも、って思えるようになってきてたの」
好きな人の話をするリカは本当に可愛くて、その100分の1でもそういう要素がわたしにあれば、もう少し生きやすかったのかな、とか思ったりもする。
「それで、昨日あんな姿見られちゃって、もういよいよダメかなーって思って覚悟してたら、もうそういうこと気にしなくていいよって言ってくれてぇ!」
リカの言動からボロボロこぼれ落ちる幸せの残りカスみたいなのでもいいから、わたしに移ってくれないかな。
「なんかあたしももうどうでも良くなっちゃったってゆーか、もしマーくんがゲイでももういいかなーとか思っちゃったの」
ここまで大変な思いをしてきて、ここまで頑張ってきて、それでもまだゴールには辿り着けなくて日々こうやって悩んで迷って、リカの安住の地は一体どこにあるのだろう、と思うけど、今のリカはその迷走すら楽しんでいそうなくらいキラキラして見える。
「女の身体じゃないこととかに一番こだわってたの、あたしなんだなーって。あたしのことをまるごと好きだって言ってくれるなら、セクシュアリティなんてもうどうでもいいや、って」
理想ってなんだろう。正解って、どれだろう。マジョリティとマイノリティも、数の問題だけで、正誤ではない。それなら、わたしたちは何を目指して生きて行けばいいのだろう。
きっと答えなんか出ない。それなら、リカみたいに目の前のあらゆることを楽しみながら生きた方が得なのかもしれない。わたしにそんな生き方ができるかな。
「あ、ごめん……エッチの話とかされても困るよね……」
急にトーンダウンしたリカが、申し訳なさそうに言った。
「困んないよ。全然。なんかそういうところまで話してくれるの、嬉しい」
「ほんと!? 良かったぁ」
親友のセックス事情を知らされる気恥ずかしさは、正直、ある。でもそれは、リカがそれだけわたしを信頼してくれているのだということと相殺されて、嬉しいという気持ちに変わりはない。
「最悪なことがあったけど、でもそのおかげでマーくんともっと近づけたのかと思ったら、まぁ悪いことばっかりじゃなかったかな、って思えたよ」
リカと話せて良かった。リカが辛い思いだけを引きずっているのではないとわかって本当に良かった。
「だから、またこれからも普通に付き合ってくれると嬉しい」
「当たり前じゃん、そんなの」
「ありがとう」
リカが幸せならわたしも嬉しい。リカが悲しいとわたしも辛い。こんなに大事な友達、他にいない。
「もし早坂先生がリカのこと泣かせたら、わたし速攻でぶっ飛ばしに行くから」
「あはは、そう伝えておくね!」
大変なことがあったけど、これからも変わらず仲良くしていきたい。その願いが叶うことがわかって、わたしはだいぶ救われた気持ちになった。
「覚悟はしてたけど、すんごい人出だねぇ」
「とりあえず欲しいものは買えた!」
目的の買い物が一通りできたし、昼時を過ぎたので昼休憩にしよう、ということになって、駅のそばにある商業施設へ移動した。
ピークは過ぎていたので、少し待てば入れるお店が見つかった。入り口で名前と人数を書いて、呼ばれるまで待機。そこで、トイレに行きたくなったわたしはみんなに声をかけた。
「あー、私も行くわ」
伊織さんも名乗り出て、ふたりでトイレに行くことに。
「歩いたねー、お腹空いたわ」
「足、痛い」
少し奥まったところにあるトイレ。男女の入り口がすぐ隣り合っていて、その横にバリアフリーの入り口がある、取り立てて特別なこともない普通のトイレ。その女性用にふたりで並んで入ろうとしたら、ちょうど出てきた年配の女性とすれ違った。
一瞬の違和感。
あからさまに驚いて、でも特に何か言うわけでもなく、トイレに入っていくわたしたちをじっと見ていた。
もしかしてこれは、アレかな、と思ったけど、まあ何も言われなかったし、こちらも別に悪いことは何もしていないから、と思ってそのままトイレに入る。
中は誰もいなくて、3つある個室も全部空いていた。
「うわぁ、コート脱いでくれば良かった」
「確かに。マフラーとかも邪魔ですね」
鏡に映る着膨れた姿をふたりで見て笑っていたら、トイレの外からバタバタと騒がしい足音が聞こえた。
やっぱり、何か嫌な予感がする。
「お客様!」
飛び込んで来たのは、警備員。そしてその後ろから、さっき入り口ですれ違った女性。
「ほら、この人よ、この人!」
ああ、なるほどね。リカが言っていたの、こういうことか。
「お客様、こちらは女性専用になっておりますので」
わたしも伊織さんも、一瞬フリーズした。
これはどうしたらいいかな。
「はい、あの、わたしたちふたりとも女性ですけど」
「はぁ? そんなことないでしょ、そっちのお兄さん……男でしょ!?」
確かに伊織さんは大きい。175センチあるリカとほとんど変わらないくらい背が高い。で、今日の服装も完全にジェンダーレス。というより、むしろ男っぽい。メイクもほとんどしていなくて、おまけに、話してみれば声も低め。
これは疑われても仕方ない、のかな。
「そう言われても、本当に女性なんですけど」
戦意皆無という感じの伊織さんの代わりにわたしがいくら説明しても、年配の女性は聞き入れる気はなさそうだった。
ウソだと騒ぎ立てる女性と、困り果てて無言の警備員。身分証を見せたところで、免許証にも教員IDにも性別は記載されていないし、名前も伊織とどっちだかわからない系。
まさか服を捲って見せるわけにもいかないし、これは困ったぞ、と思っていたら、伊織さんがあっけなく引き下がった。
「あー、いいですいいです、違うところ使うから」
「……申し訳ありません」
なぜ警備員が謝るのかもよく分からないけど、この場はとにかくこの騒いでいる女性を納得させるしかない。
「サラちゃん、私こっちのバリアフリーの方行くから、後でまたお店でね」
「……はい」
わたしと伊織さんのやりとりを見ていた女性が、まだウソだの紛らわしいだのごちゃごちゃと言い続けていたけど、警備員がなだめながら連れて行ったのでとりあえずその場は収まった。
一人残された女性用トイレで、わたしは鏡を見ながらなんとも言えない気持ちになった。
この前のリカの事件といい、今の伊織さんのことといい、なんていうか、色々とややこしい世の中だな、と思う。
きっと、これも正誤の問題ではないのだろうな。それぞれの認識とか価値観の問題。リカも伊織さんも悪いことは何もしていないけど、相手にとっては納得がいかないことなのかもしれない。ただそれだけなのに、マイノリティ側だけこうして嫌な目に遭う。
それなら、リカが身体の性別に合った格好をすれば解決する? 伊織さんが女性らしい服を着れば誰も文句を言わない? そこは、本人たちの意思や希望は通してもらえないの?
そして、考えても答えが出ないことだとわかってはいる。それでも、やっぱり身近でトラブルとしてこういうことが起きれば、考えないわけにはいかない。
リカと伊織さんは見た目でそういうのが周囲に伝わるから問題が表面化しやすい。
では、わたしは?
わたしも彼女たちと同じく、セクシュアルマイノリティというカテゴリー。でも、わたしの場合は性自認と外見が一致しているレズビアンだから、黙っていれば何も問題が起きない。そう。黙ってさえいれば。
やっぱり不公平だよな、と思う。でも、どうしようもない。
悶々とした気持ちを抱えたまま、用を済ませてお店へ戻った。
お店の前に戻ると、もう順番が回ってきて席に案内されていた。
伊織さんももう戻っていて、空いている席に着くわたしを見てなんとも言えない気まずいような情けないような顔で笑った。
「大変だったんだってぇ?」
リカが茶化し気味に言う。もう話したのか。
「うん、びっくりした」
もう3人とも注文を終えたというので、わたしもメニューを見てオーダーした。
「トイレ問題、面倒だよねぇ。あたしは逆に、入っちゃダメな方の女子トイレ入っても何にも言われないけど、この格好で本来入るべき男子トイレ入ったら通報されるし」
その言い方も、実は正解ではないよな、と思う。
性自認で言えばリカは女子トイレが正解で、男子トイレはアウト。でも、法律上は逆。
「まぁ、最初からわかってるから素直にバリアフリートイレ使えばいいんだけどさ」
「うん、うっかりしてた。失敗したわぁ」
笑い話、なのかな。なんとなくやっぱりモヤモヤする。
「なんかさ、あたしとイオくんって、実は結婚できるんだよね!」
突然、何の話が始まったの。
「法的に、婚姻届出せるよ!」
「まぁ、そうだねぇ。出せるねぇ」
それも、笑い話?
「ついでに子どもも作れるよね、本気出せば」
「あー、それは私は無理かなぁ、本気出しても」
楽しそうに、隣同士でくっついて、仲良く笑って、一体何の話をしているの?
今までジェンダーのことで色々嫌な思いをしてきたのに、当事者同士だとそんなふうに笑って話せるの?
確かに現時点でのリカは、早坂先生とは国内では結婚できない。伊織さんも同性婚はできない。わたしも同じ。でも、戸籍上男性のリカと女性の伊織さんなら結婚できる。それは間違っていない。
伊織さんはレズビアンだし、性自認が女性のリカはもしかしたら恋愛対象になるのかな。でもそれだとリカ的には伊織さんは性自認が男性ではないから対象外? でも結婚の話を出すくらいだし、見た目が王子なら伊織さんもアリ、なの?
それに、子どもって、子ども作れるって、生物学的に考えたら伊織さんがリカの子を産む、ということ?
ややこしくて、でもちゃんと冷静に考えても、冗談だとしてもこれは嫌だ。
……嫌?
どうして?
リカと伊織さんがふざけてセクシュアリティの関係上で婚姻可能かどうかを話しているだけ。深い意味はないと思う。だってリカにはちゃんと早坂先生という大好きな彼氏がいる。だからどう考えてもふざけて冗談で言っているだけ。
でも、やっぱり嫌だ。
聞きたくない。
「あ、の……わたし……トイレに、忘れ物したかも」
気づいたらそんなことを口にしていて、言いながら立ち上がった勢いでそのまま席を離れた。
心臓がバクバクしている。耳の周りがギューっと痛くなって、周囲の騒音が遠ざかる気がした。さっき行ったばかりのトイレに向かって、早足で歩く。
どうしよう。なんだか、涙が出そう。
別に伊織さんとリカが何しようが、わたしには関係ない。
でも、それならわたし、なんでこんなに動揺しているの?
リカが彼氏いるのに伊織さんに絡んでいるのが嫌なのかな。そうだ、この前話したばっかりなのに。早坂先生との仲が深まったって。早坂先生ともっと近づけたって。それが嬉しいって。それなのに、その早坂先生がいないところで伊織さんとイチャイチャするなんて。
それに、伊織さんだって、なんだかヘラヘラして相変わらずチャラくて、伊織さんの家で色々話してくれた時と全然違う感じ。
すごく楽しそうだった。なんていうか、特別な感じ。のぞみちゃんも黙って見ているだけだった。
そう、入っていけない感じ。
なんでこんなにモヤモヤするのだろう。
トイレに着いて、中を伺うと誰もいない。良かった。助かった。
とりあえず、入ってすぐ、洗面台の前は壁一面鏡張り。今自分の顔を見たくない私は、鏡に背を向けて、壁に向かって張り付くように立つ。おでこを冷たい壁にくっつけて、誰も来ませんように、と祈った。
でも、来てしまうのだ。
「サラ」
なんで来るの。楽しく伊織さんと話していればいいのに。
「サラ。なんで怒ってんの?」
「……別に怒ってないよ」
「そう? 機嫌悪いように見えるけど」
「……悪くない」
「忘れ物、見つかった?」
そんなもの最初からないの、とっくにわかっているくせに。
「サラ。顔見せて」
「……やだ」
「いいから。こっち見て」
肩をそっと引かれて、体の向きを変えられた。
「やだよ」
「サラ」
どうしても見られたくなくて顔を背けようとしたら、濃朽葉の鮮やかな色味が視界を埋め尽くした。リカがわたしを抱きしめたのだ。
ただでさえ背の高いリカが今日はヒールの高いブーツを履いているので、下手したら180センチ近いのでは、というほどで、その彼女に抱きしめられたわたしの視界はリカのワンピースの胸元の色で覆われてしまった。
紅葉のような美しいオレンジが華やかなリカにすごくよく似合う。わたしには着れない色だな、と思う。
「ここ、女子トイレだよ」
「あたし女子だもん」
ギュウギュウとわたしの身体を抱きしめるリカの力は強くて、パワフル女子だな、と思う。
「ごめんね。ちょっと調子に乗った」
リカの懺悔を、不思議な気分で聞く。謝られている、ということは、リカはわたしに対して悪いことをした自覚があるということ?
「ちょっとだけサラを挑発してみようと思ったら、やり過ぎた。ごめん」
やっぱり、何かの意図があってわざとわたしを煽るような言動をしたのか。でもその意図はわたし的には見当が付かなくて、説明を求めるしかない。
「なんで挑発……?」
「確かめてみようかと思ったの」
「何を?」
リカの腕の力が緩んだので、そっと身体を離してリカの表情を伺った。
困ったような、申し訳なさそうな、何かに怒っているような、複雑な顔でじっとこちらを見ている。それから、何かを決意したみたいなキリッとした顔つきになって、ほんの少し身を屈めてわたしに近づいた。
「サラは、イオくんのこと好きでしょ」
どういう意味かわからない。何を言っているのかピンと来ない。だから、反応が遅れた。
サラハ、イオクンノコト、スキ。
その単純な日本語が、翻訳を必要とする異国の文章のように、ただ文字列として頭の中をぐるぐると回る。
わたしが、伊織さんのことを好き。
好き?
図星だと思ったわけでも、間違いだと思ったわけでもない。よくわからなかったので、驚いたり怒りが湧いたりすることもなかった。だから、そのまま、不思議に思ったままを口にする。
「なんでそう思ったの?」
リカの手がわたしの頭にフワッと触れて、そのまま髪を梳くように撫でた。抱きしめられた時に乱れた髪を直してくれているのかな。
今日のリカもラメの入ったメイクが相変わらず可愛くて、やっぱりモデルみたいだな、と見惚れてしまう。
「中学の時によく話した推しの数々……漫画のキャラ、アニメ、ゲーム、それから芸能人、ミュージシャン、モデル……サラが好きだって言ってた人たちって全部系統が同じなんだけど、わかる?」
思い出して、思い出せた人だけ頭の中で並べてみたけど、あまりピンとこない。
「……そう、かな」
「そうなの。全部同じ系」
「ふーん」
リカが少し呆れたような顔をして、小さくため息をついた。
「で、ね。イオくんも同じ系なの」
「…………」
「サラはさ、イオくんの前だと、色んな感情とか表情とかが一旦止まるんだよ。一瞬、無になる。自覚、ない?」
そんなこと、全く、これっぽっちも自覚ない。全然ない。
「それって、本当に自分で気づいてないのか、気づいてるけど気づいてないふりしてんのか、どっちなんだろね。っていうか、それすらわかってないんだろうね、きっと」
何も言葉を発することができなくてボケッとしているわたしを見て、リカが今度こそはっきり呆れたように言った。
「だから、あたしがイオくんと仲良くしてたら、サラが嫉妬して自分の気持ちに気づくかなーって思って」
ようやく、リカの意図と言動が繋がった。
「でもちょっとやり過ぎたね。ごめん」
髪を整えて、それから縒れた服も直して、最後に両手をキュッと握ってくれてから手を離した。
「そんなふうに思ってたんなら、なんで今まで紹介とかしなかったの?」
「あー、あたし、紹介は絶対しない主義。だって、もしうまく行かなかったりしても責任取れないし、下手したら自分が友達2人失うじゃん。そんなの絶対やだし」
入学して3年以上もわたしと伊織さんの両方を知っていて、わたしの好みを把握しつつ、でも何もアクション起こさなかったリカの信念と、卒制の時期にいよいよわたしたちを引き合わせようとした心算を、なかなか男前だな、と思う。
「出会う人は、縁があればいずれ必ず出会うし繋がるからさ。紹介なんてしなくても」
ほら、やっぱりかっこいい。リカはそういう人だ。魂からしてかっこいいのだ。
「現に、サラとイオくんも出会ったでしょ」
急に喉の奥がギュッと締まって、涙が込み上げて来た。
「あっ、こら! 泣かない! メイク落ちる!」
そう言ってわたしの顔の前で手のひらをひらひらさせてわたしを扇ぐ。
「落ちて困るほどメイクしてないよ」
わざと大げさにリカの手を払いのけて、せっかく深刻になりそうな流れを断ち切ってくれたリカの誘導に乗ってみる。それから、ふたりで笑い合って、無事に涙は零れずに済んだ。
「大丈夫だよ。サラは大丈夫」
リカにそう言われたら本当に大丈夫な気がしてくるから不思議。
「イオくん、良い人だよ。人当たりめっちゃチャラいけど、あれはまぁ……防御本能でああなってるだけだからね。本当は優しいし誠実だし、すごく真面目だよ」
「うん。知ってる」
「あ、そっか。そういえばこないだ、イオくんの家に泊まったんだっけ」
「うん」
真面目なところも、優しいところも、ちゃんと知っている。キャラを作っていることも、素のところも、知っている。わかっている。
「何にもされなかった!?」
「されないよ!! そんなの、まだ何も……」
リカがくすっと笑った。あれ、何か言い方おかしかったかな。
「イオくん、オススメだけどなぁ」
オススメの意味を、どう受け取ればいいか迷う。
「……先生だし」
「えー、それをあたしに言うかなぁ……大学なんて教員と学生で付き合ってる人なんて普通にいるよー。未成年とか既婚者とかじゃなきゃ別に違反じゃないし。でもどっちにしろ、あとほんの少しで卒業じゃん」
「……伊織さん、恋人いるかもしれないし」
伊織さんに恋人がいるかいないかを気にしている自分に驚いた。今までなら、そんなことどうでもいい、と思ったはずなのに。
「あーそれはない。いないって言ってた」
そして、リカからの報告でホッとしていることにもびっくりした。
何、これ。顔、熱い……。
「好みとか……好きな、タイプとか……わかんないし……」
「それは自分で確かめなよぉー」
もう色々と誤魔化す言葉が出てこなくなった。
こんなの、こんな言い方、もう認めているようなものだ。
わたしが、伊織さんを好き?
本当に?
本音と、体裁と、建前と、言い訳と……どれが一番正しいことなのか、わからなくて混乱する。全然わからない。
「ほら。もうご飯来てるかも。戻ろう」
「ん……」
言葉に詰まったわたしを見兼ねたのか、話を切り上げようとしてくれている。なんだかいつも気を遣わせてばっかりだ。カッコ悪い。
「イオくん、心配してたよ。でも女子トイレ入れないからってあたし代わりに来たけど。あははー、ガチの女子なのにねーおっかしー」
リカのこういう軽やかな感じは、いつも重た目のわたしにとっては本当に救いになる。
「……ごめん」
「いつか、ちゃんと話してみなよ」
「そんなの、自分でもまだ全然……何にもわかってないし」
もう一度、しっかり手を取ってギュッと握って、こんなわたしにちゃんと向き合ってくれている。それが嬉しくて、応援してくれているリカのためにもしっかりやらなきゃ、と覚悟を決めた。
「もっとちゃんと向き合って、もっとお互いを知って、それで気持ちが固まったらちゃんと伝えたら良いんじゃない?」
「……ん」
今まで色々なことから目を逸らしてきたことを悔やむ気持ちはあるけど、自分にどこまでできるか、どんなふうに頑張れるか、やれるだけのことをやってみてもいいのかもしれない、と思う。
少しずつ、ほんの少しずつでいいから。
「遅ぉーい、もう料理来てるよー。遅いから先食べ始めちゃった」
だいぶ遅くなってしまって、伊織さんとのぞみちゃんが怒っていないか心配だった。でも大丈夫だったようで、のぞみちゃんの無邪気な声にだいぶ救われる。
「ごめんごめん、お待たせぇ」
もう全員分の食事は揃っていて、急いで席に着く。
「忘れ物、見つかった?」
「あ、の……はい……」
「探したい個室にさー、人いたから、空くの待ってたら遅くなっちゃったぁ」
咄嗟のリカのフォローに感謝。こういうところ、わたし反応悪くてすごく嫌だ。
それからリカは、さっきの悪ふざけの続きはしなかった。伊織さんもその話を蒸し返すことはなくて、4人で他愛のない話をしながら食事をした。
「この後、世界堂行かない?」
「どこの?」
リカの提案に、伊織さんが反応する。
「本店」
本店ということは、電車移動か。
「あー、じゃあハンズも行きたい」
のぞみちゃんも乗っかって、みんなで行く流れになる。
「じゃあ両方回ろう。あ、サラちゃんは? 何か買いたいものない?」
伊織さんがわたしにも声をかけてくれて、有難いけど、一瞬悩む。
でも、今までならきっと、ここで断っていた。特に欲しいものないからと、みんなと別れて帰っていた。
「わたしは……世界堂で大丈夫です」
本当は、わたしが欲しい画材は別の専門店でないと売っていない。でも、デザ系3人の中に日本画1人で、買うものがないからわたしだけ帰るなんて寂しい。もっとみんなと一緒にいたいと思ってしまった。これくらいの嘘は許して欲しい。
「もしかしたらこの年末年始で展示の作業だいたいできちゃいそうかも」
「いや、家の手伝いとかしようよ」
やる気満々のリカに、伊織さんが相変わらずの緩モードで突っ込む。
「えーでも、やれるときにやっとかないと、もし何かミスったらやり直しの時間なくなるもん」
「せめて正月くらいはさ、休もうよ」
「気になって休んでられないよー」
確かに、わたしもいつもみたいに年末年始をのんびり過ごしたいような気持ちはない。やりたいこと、やらなければいけないことだらけで、1日も休んでいられない、と思う。
「あと……3週間くらい?」
「だね」
「いよいよだねぇ」
インスタレーションは、1月17日から19日までの3日間の予定。
わたしはその最終日の午前10時に自分の卒制の提出があるので、年が明けたら結構スケジュールがきつくなるのは目に見えている。わたしも自分の作業をできるだけ進めておかなければ。できれば16日までに終わらせておくくらいのつもりでいた方がいいかもしれない。
一連の流れで自分の気持ちに向き合わざるを得なくなったわたしは、どうしても顔を上げられない。顔を上げれば、きっと伊織さんの姿が目に入ってしまう。今は、気になるけど、目が合うのは怖い。
俯いたままこっそり盗み見た伊織さんは、今日も綺麗にお箸を持って、一つ一つの料理を美味しそうに食べている。所作がいちいち美しくて、こういう丁寧なところがなんというかもう、たまらない感じ。
そうか。
わたし、伊織さんのことが好きなのか。
今までずっと感じてきた違和感。
リカと伊織さんの親密さを目にすると決まって感じたモヤモヤ感。あれは、親友のリカに自分より仲良しな人がいたら嫌だな、と感じたのだと思っていた。
でも、違う。それもあるけど、それだけではなかった。これ、伊織さんにリカがすごく特別視されていることに嫉妬したのだ。
それくらい、伊織さんのことが気になっている。
まずは、わたしが向き合わなければいけないのは自分自身。伊織さんと向き合う前に、まず自分の気持ちをちゃんと確かめて認めてあげなければ始まらない。
それがそもそも難しいのだけど。
食事を終えて、みんなで電車に乗って移動して、目的のお店を回る。
だたそれだけのことが楽しかった。どうってことない日常の出来事が、すごく楽しい。
些細なことなのかもしれない。好きなことを好きだと、楽しいことを楽しいと認めることは、そんなに難しいことではないのかもしれない。
これからしばらくバタバタしそうな中で、何か変われるかもしれないことに、ほんの少しだけ期待をした。
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