14 銀灰色 ぎんかいしょく

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14 銀灰色 ぎんかいしょく

 見られたくない人との見られたくない場面というのは、たいてい見られたくない人に見られてしまうもので、そういうのをなんとかの法則……あれ、なんて言うのだっけ。  まんまと法則にのっとっているなんて、わたしの人生も高が知れてるな、と笑えてしまう。  別に期待はしていない。最初から。  ただ、少しだけ自分に正直になってみてもいいかな、と思っただけ。だから実行に移した。その途端にこれだ。  法則だから仕方ない。  伊織さんに対する気持ちをはっきりさせる前に、どうしてもやらなければいけないことがあった。  わたしが『ちゃんと』し続けるために頼っていた彼との関係を、清算しなければ。  わたしから切り出せば、きっと簡単に終わる。彼には他にも相手が何人もいて、わたしがいなくなったところで何の影響もないはず。 「更紗だけど、あの……ちょっと会えないかな」  年が明けて三ヶ日も過ぎたところで、やっぱり気になって学校が始まるまでにどうにかかたをつけておきたくて、彼に連絡をした。  希薄で、(もろ)くて、本当に身体だけで繋がっていた関係。そこに愛だの恋だのは存在していなくて、もっと言ってしまえば肉欲すらない。なんなのだろう、と思う。  本当に不思議な関係だった。 「ごめんね、急に呼び出して」  あまり混まないことがわかっている駅裏のカフェ。  わたしたちの待ち合わせはいつもここだ。 「急なのはいつものことだろ」  そう言って笑うシノブは、世間的に見ればいわゆるイケメンというやつなのだと思う。 「連絡ないからどうしてるかなーと思ってたよ」  最後にシノブと寝たのは、いつだったっけ。  リカのインスタレーションを手伝うことになって、伊織さんに出会って、最初、とにかくちゃんとしなきゃと焦って慌ててシノブを呼び出した。そこでホテルに行って、それっきり。もう半年くらい会っていなかったことになる。 「ごめん、ちょっと色々あって」  頼んだドリンクが運ばれてきて、一瞬会話が途切れた。  なんて言いだそう。どういうふうに説明したら。 「潮時、的な?」  シノブのこういうところが気に入っていた。  ごちゃごちゃと面倒なことは言わないし、しない。いつも判断が的確でスマート。だからめんどくさくないし、後腐れない。 「うん。そんな感じ」  手元のカフェラテにハートのラテアートが施してあって、これってやっぱり恋人同士のデートに見られているのかな、と思う。 「理由、は……訊かない方がいいのかな」  7つ年上のシノブは当然だけどわたしなんかよりだいぶ大人で、たぶん、わたしが理解できている事以上に色々わかっているのだろうな。 「面白くもなんともないから、別に知らなくていいんじゃない?」  つい、こっちも背伸びして大人びたことを言ってしまうけど、実際は全然追いついていなくて、きっとすごくガキっぽく見えるのだと思う。 「更紗さ、男、ダメだろ?」  突然、少し声を潜めるようにしてシノブが言った。 「え……なんで?」  心臓が、ビクッと跳ねる。どうしよう。誤魔化すべき? 「……まぁさ、俺も、自慢にはならないけどいろんな女の子見てきて、更紗はだいぶ変わってんなーってずっと思ってて」  怖い。何を言われるのだろう。 「俺に欲情してねーな、っていうのはずっと気になってた」  やっぱり、色々バレていた。 「俺の身体には極力触れないようにしてるし、キスも拒否るし、最中も服脱ぐなとか」  え、わたしそんなだったかな。それ、結構最悪なのでは。 「俺のこと好きじゃないのかな、とか思ったけど、しっかり定期的に連絡してきてセックスはしたがるし、でもそのくせいつも全然身体がほぐれてくれないし」  こんな、公共の場で、セックスの話。シノブも気をつけて声量を抑えてくれているけど、さすがにハラハラする。 「なんでかなーってずっと思ってたけど、だんだん、もしかしたらセックスそのものをしたいんじゃなくて、セックスしてるっていう事実が欲しいだけなのかな、って気づいて」  やっぱりシノブは大人だ。だから頼らせてもらっていたし、信頼していた。 「それなりに女の子の抱き方は心得てるつもりだったけど、更紗だけは本当に手強かった。難しかったよ」  散々利用した末にわたしから終わりを突き付けるお詫びとして、ちゃんと正直に言わなければ。本当のことを。 「ごめん……本当にごめんなさい。シノブの言う通りだよ。わたし、男の人ダメで、でも、男の人と物理的に関係持ってればいつかちゃんと、ちゃんと……生きていけるのかな、とか……思って」  喉が、声が、詰まる。もう少しだから、頑張れ。深呼吸。 「シノブのこと、利用してました。ごめんなさい」  言えた。ちゃんと。 「好きな人でもできた?」 「そう、かも」 「女の人?」  やっぱり勘がいい。さすがシノブ。 「……うん、そう」 「そっか」 「うん……ごめんなさい」  今、わたしにできること。本当のことを伝えることと、謝ること。 「いいよ。別に。そんなしんどい思いしながら、たった1人選んでくれた男が俺だったんでしょ。それはそれで光栄です」  ふわりと、そっと包み込むように優しく笑う。許してくれたと受け取ってもいいのかな。 「最後の最後までちゃんと気持ちよくさせてあげられなかったのは俺的には悔しいけど、理由聞いて納得した。更紗がちゃんと自分のことを知るのに役立てたんなら、俺はそれでいいよ」  優しい。大人で、かっこよくて、優しくて。  もしわたしが異性愛者だったなら、シノブみたいな人と1対1の恋愛ができたらきっと幸せになれたのかな。 「本当はさ、もし更紗がちゃんと俺を受け入れてくれるんなら、他の子全部切って正式に付き合ってもいいかな、って思ったことはあった」  珍しく照れたような恥ずかしそうな顔をして、シノブが笑う。年齢よりだいぶ若く見えて、今までそんなふうに見えたことなかったから、少しびっくりした。 「でもそういう雰囲気ゼロだったし、まぁ俺はセフレが妥当なのかなって諦めてたよ」  向こうもどうせ遊びだから、と軽く考えていた。初めから、お互い束縛しない、他の相手とのことも関与しない、会っている場でだけのセフレ関係、と約束してあった。身体だけ貸してもらえればいいと思っていた。  でもいつの間にか、甘えて、頼って、縋ってしまっていたのかもしれない。 「ちゃんと話してくれてありがとな」 「ごめんなさい」  怒られたり反対されたり、上手く終わりにできないパターンも考えていなかったわけではない。でも、こんなにすんなり受け入れてもらえると、却って申し訳なくて仕方ない。 「うまくいくといいな、その人と」  これだけひどいことをしたのに、わたしのこれからのことも心配してくれるなんて。  シノブも幸せになってくれたらいいな、と思う。言える立場ではないから言わないけど。 「……うん、ありがとう。でもね、まだその人とは全然、付き合うとかそういうんじゃなくて」 「そうか。じゃあ、これからだな。曝け出せよ、その人には。全部、全てだぞ」 「全て?」 「そう。セックスなんて手の内とか心の内とかもう何もかもを曝け出してナンボの行為だからな。色々隠したまんまなんて、絶対気持ちよくなれないぞ」  シノブとのセックスでちゃんと身も心も気持ちよくなったことがないことも、きっとバレている。色んな女の子と付き合って来ている人だし、そんなこと分かるに決まっている。でもそれを許してくれた上でのアドバイスなのだと思うと、恥ずかしいけどやっぱり嬉しい。 「恥ずかしくてみっともなくて汚くて情けないとこ、全部見せていいんだよ、セックスの時だけは」  何一つ、シノブには見せられていなかった自覚がある。でも逆に言えば、これを全部見せられる人がいつか現れるかもしれない、というか、本当に好きな人にはこれを全部見せることになる、ということで、そう考えると楽しみなような、恐ろしいような。  恋愛って、そんなものなの? そんなことわたしにできるのかな。 「俺はそういうとこ見せてもらえなかったからな」 「ごめん」 「いや、いいよ、責めてるわけじゃない」  なんだか、泣きそう。でも、自分から言い出したのだし、ここで泣くのはナシだ。  倫理的に見たらそもそもが世間一般からは推奨され難いセフレという関係。人には簡単には紹介できない間柄。それを解消できるのだから、喜ばしいことなはず。それなのに、こんなに重たくて痛いなんて。  2年以上も続いたせいで、恋愛感情はなくても、やっぱり多少は情が湧いていたのかもしれない。 「本当に向き合える人と出会えたんなら、良かったよ。本当に。良かった」 「ごめんなさい。ありがとう」  他に言葉が見つからない。  バカみたいに同じ言葉を繰り返すことしかできないわたしを、シノブは最後まで優しく見守ってくれていた。  別れ際、駅前で、電車に乗るわたしは車で帰るシノブと最後のあいさつを交わした。 「じゃあな、元気で」 「うん、ありがとう。シノブもね」  たぶん、もう二度と会わない。それでいいと思う。だからここでしっかり別れたい。 「できれば、セフレは解消してもこれからも普通に友達として繋がってたいと思うけど、それだとその新しい人が不安になるだろうからなぁ」 「そう、かな。そうだね」 「まぁ、やめときますか」 「……ごめん」  相変わらず謝ることしかできないわたしを見て、シノブが仕方なさそうに笑った。 「いいよ。元々そういう関係だったんだから」 「ありがとう」  優しいままで終わりにしてくれてありがとう。ズルいことをしたわたしの罪悪感をできるだけ減らしてくれようとしているの、わかっている。  ありがとう。 「じゃあ、最後に1回だけ、サヨナラのハグしよう。ただの挨拶のハグ、な」 「……うん」  ハグ、と聞いてほんの一瞬だけ躊躇したけど、もうさっきセフレ解消の話はついたし、シノブの顔にも嘘はないとはっきりわかったので、受け入れることにした。 「はい」  差し出された腕を、そっと受け入れる。  セックスする時はできるだけ触れないようにしていた身体。でも今は、そういう目的ではないからか、触れるのにあまり抵抗はない。 「うん」  お世話になりました、くらいな感覚で、そっと身体を寄せる。  欧米風の挨拶的なハグってこんな感じかな、とか、そんなノリ。伊織さんの方が柔らかかったな、なんて考える余裕すらある。  シノブが言った通り、セクシュアルな匂いの全くしない、単なる挨拶のハグ。その通りだった。 「ありがとな。楽しかったよ」 「うん……わたしも、ありがとう」  背の高いシノブの肩越しに見上げた空は、銀灰色(ぎんかいしょく)の冬仕様。今にも雪が降り出しそうな危うい寒空が、わたしたちの関係の終焉を黙って受け止めてくれているみたいだった。冬晴れでなくて却って良かった。  父や弟とあまりいい関係を築けていないわたしにとって、シノブは甘えさせてくれる家族みたいな存在だったのかもしれない。 「幸せになりな」 「うん。ありがと……」  そっと体を離して、シノブと向き合って、別れの言葉を口にしようとして。  視界の片隅に、何か、よく知る形姿(なりかたち)が飛び込んできたような気がした。でも、今ずっとその人のことを考えていたから、そのせいで見えた幻影かも。  確認、しないとダメかな。  お願い、ただの幻影であって。  こんな利用客の少ない駅の、人通りの少ない裏路地で、どうして。  いや、違う。こんな人の少ない場所だから余計に目立ったのだ。  失敗した。こんなところで男の人と抱き合うなんて、愚か過ぎた。 「あ、の……こんにちは、どうも……」  最悪。なんて挨拶してるの、わたし。  ハグを解いたままの体勢でたたずむわたしたちの方を見て同じように立ち尽くしている伊織さんを、わたしは現実の存在として認めるしかなかった。 「あ、じゃあ俺行くから。元気でな」 「はい、あ、うん……」  何かを察したようなシノブが、すぐに動いた。  完全に動揺に飲み込まれたわたしは、ろくな言葉も言えないまま、去っていくシノブの後ろ姿を見送ることしかできない。  何してるのだろう。本当に、こんな。 「偶然だねぇ」  横から声をかけられて、でも振り向けない。怖い。 「……そう、ですね」  薄っぺらい会話。だって、気まずい。気まず過ぎる。 「彼氏?」  一番訊かれたくなかったこと。どうしよう。なんて答えよう。 「……違う、けど」 「あれぇ、そうなの? すごく親密そうだったけど」 「ただの、友達……です」 「……ふーん、そうなんだ」  信じて欲しい。でも信じないでも欲しい。どっちなの。どうしたいの、わたし。 「伊織さんは、何してるんですか」  大学と伊織さんの家の間の通勤圏内ではないこの街に、何の用があって今いるのか、知りたいとは思うけど、わたしに関係ないからどうでもいい、とも思う。本当にわたし、どうしたいのだろう。 「ちょっと買い物。この近くに染料のお店あるから、そこに」  この広い日本で。広い東京で。これだけ街があって、駅があって、店があって。1年365日、1日24時間もあって、使える時間はいくらでもあって。  それなのにこんな所でピンポイントに一番会いたくない人と会ってしまう確率ってどのくらいなんだろう、と思うと、なんだかもう笑えてくる。日頃の行いが悪いとか、前世で何かやらかしたとか、そんな非現実的なことまで考えてしまうほど、この状況はキツい。 「ごめん、なんか私のせいで彼に気を遣わせちゃったかな」 「……いえ。全然。関係ないです」  とてもではないけど、このまま会話とか、無理。何も浮かばない。話したいことなんて何も出てこない。  嫌な沈黙。どうにもならない気まずさ。伊織さんも同じように気まずく感じているのかな、とか考えたら、今すぐにでも走って逃げ出したくなった。消えたい。逃げたい。 「あの……じゃあ、また……」  別に話さないといけない理由はない。ただ、偶然、たまたま会っただけ。用事も違うし、予定も違う。  せっかく変わろうと思って、頑張ろうと思って、自分から前に進もうと思って踏み出した先でこんな偶然が起きるなんて、もしかしたらこれは何かの警告かな、とか弱気に考えてしまう。これは、ここらでやめとけよ、という啓示だったりするのかな、とか。  すごく恐ろしくなったわたしは、伊織さんの返事も聞かないうちにその場から離れた。  しまった。失礼だったかな。一方的に言い捨てて去るなんて。  でも今日は本当に限界。シノブと話すのだけでもういっぱいいっぱいだったのに。  やっぱり無理だ。わたしには。誰かと深く関わるなんて無理。しんどい。本当の自分を晒すのも、思ってることを伝えるのも、わたしには難しすぎる。  リカがいればいい。リカだけで十分。何でも話せる親友がひとりいれば、もう十分だ。  振り向けない。ひとり残された伊織さんがどうしたかなんて、確認できない。したくない。きっと、目的のお店に向かってもう歩いて行ったはず。わたしと会ったことなんて伊織さんにとってはどうでもいいこと。だから、見ない。  わたしが駅の階段を降りたのと同時に、ちょうど乗りたい電車がホームに到着した。そのままの勢いで開いたドアに乗り込む。ラッキー。振り返る隙もないほどスムーズな流れ。  これで良かった、んだよな。  何も起こらないうちに思い直せて良かった。余計なことしないで済んで良かった。  卒制、進めなきゃ。  インスタレーションの準備もあるし。あ、そうか。そっちの方ではまた伊織さんに会わないといけないな。めんどくさい。でも仕方ない。  シルク、完成したかな。それを確認しに行くのはいつだったっけ。  忙しいな。やることいっぱいある。でもとりあえずは自分の卒制進めないと。明日から取り掛かろう。そういえば、定期買わないと。お金、親に頼むのやだな。  めんどくさい。全部、めんどくさい。  何もかも、全て、終わってしまえばいいのに。
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