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15 京緋色 きょうひいろ
「見てよー! 超かっこよくない!?」
自分の教室で卒制を進めていたらリカからLINEが入って、テキ棟に呼び出された。
シルクスクリーンの印刷が終わったから見に来いと言われて出向くと、実際に印刷作業を担当したのぞみちゃんもいて、セット担当の空間演出デザイン科のレオくんも来ていた。
テキ棟の中庭に張られた何本ものロープに、わたしがデザインした布がびっしりと大量に干してある。コンクリート打ちっ放しのグレーの壁に囲まれた中庭が、吊るしてある真っ赤な布のせいで異様な色味に包まれていた。
朱色に近い鮮やかな赤を地として、そこに、赤いアネモネの花をモチーフにしたパターンを少し彩度を落とした数種類の緋で散りばめた。一見すると赤一色だけど、照明の当たり具合によってぼんやりと花の形が浮かび上がるようになっている。
わたしが演じる武家の娘は、無実の罪を着せられ冤罪で捕まった、という設定。捕まって閉じ込められる座敷牢の壁を、その赤い布で全て覆う。
アネモネ全般の花言葉は、嫉妬のための無実の犠牲、見捨てられた、薄れゆく希望、など。でも、色別の一つ一つのアネモネにはそれぞれ、君を愛す、真実、あなたを信じて待つ、などの花言葉が付いている。その二重の意味の花言葉が冤罪で閉じ込められている設定にぴったりだと思って、モチーフにアネモネを選んだ。
彼女はきっと、真実を知っている人が救ってくれることを願っている。その人がいつか迎えに来てくれるという希望を持って、信じて待っている。そういう存在がいるからこそ、囚われの状況を耐え忍ぶことができている。そんな空間を表現できたらいいと思ってこのデザインにした。
「すごいね、サラ! めっちゃ綺麗!」
陽の下に晒されているせいで、アネモネのシルエットがはっきりと見える。実際にはかなり暗い部屋になるので、花の形状はもっと見えにくくなるはず。だから、その室内に大量に張り巡らせるのぞみちゃんの縄も、背景の柄とはぶつからずにはっきりと見えてくるはず。
なんだか、足元が震える。ぶるぶる、ではなく、ガクガク、でもなく。なんていうか、ゾクゾク、というか、ワクワク、みたいな感じ。
なんだろう、この感覚。
グレーの壁に囲まれた無彩色の空間に広げられた、これでもか、というくらい彩度の高い朱。見事な京緋色に染まった視界が鮮烈で、その存在感に圧倒される。
綺麗。美しい。眩しい。
だから、震える。
「今週金曜から展示室使えるから、ガンガン行くよ! 早く設置したいなぁ!」
どんどん進んでいく。動いていく。怖いくらいな勢いで。
「蘇我くんの音楽ももうできてて聴かせてもらったけど、ヤバかったよぉ! 鳥肌立った!」
あとはここでは、わたしのやることは少ない。わたしは自分の卒制をやらなくては。
「お。できてるねぇ」
ドキリとした。
しまった。ここ、テキ棟だった。そうでなくてもリカといれば会ってしまう可能性高いのに。いや、この企画に関わっている限り、会わないでいられるわけないか。
「あー! イオくん!」
中庭に出てきた伊織さんに、リカが駆け寄る。
「見て見て! こんな感じになったの!」
「おー、いいじゃん。すごいな、絶妙な紅さだな」
「赤地に赤、超難しかったぁ。5回くらいやり直したよ」
「……え、これ染み込みでやったの? 赤地に赤を?」
「そう。だって、サラが」
え、わたし? わたしのせい!?
「それは、大変だったねぇ……何版使った?」
「7版」
のぞみちゃんが報告すると、伊織さんが渋い顔をした。
「あー、それはそれは……」
普通がどれくらいなのか分からないし、こういう感じの印刷に必要な版数も知らなかった。何より、リカやのぞみちゃんから、どのくらいの版数でやってくれ、という指示はなかった。だから思ったままやってみたのだけど。
「……すみません」
「え、違うよ、サラ、責めてないよ」
「でもなんか、大変だったみたいなふうに聞こえたし」
「そりゃ大変だったけど、でもこんなかっこいいの出来たからいいじゃん!」
はしゃぐリカのテンションとは逆に落ち着いた雰囲気のままの伊織さんが、じっと中庭全体を見つめている。
「うん、いいね。いいと思うよ」
いや、わたしにではない。リカの企画として、のぞみちゃんのシルク作業として褒めたのだ。でもなんだか、既視感あるような。
この感覚、知っている気がする。
「……なら良かったです」
リカが干してある布地を撮影するため離れて行って、伊織さんとふたりきりになってしまった。一番避けたかった状況。どうしよう。
「どう? シルクも悪くないでしょ」
シルク、も? も、って、どういう意味?
「あの、はい……面白かったです」
あれ、なんか普通に会話できてる?
「まぁ、手描きには手描きの良さあるし、シルクもシルクにしかできないこともあるし、どっちが良いとか悪いとかじゃないけどね」
「……はぁ」
何の話をしているのだろう。手描き?
「なんで前はシルク嫌だったんだろうね」
独り言みたいな、呟くような言い方。
「え?」
「あの時。授業の、あの時さ」
「……あの、時?」
「え、だからあの風呂敷の時の」
急に飛び出した予想外の言葉。一体何の話が始まったの?
「……え? 風呂敷?」
「覚えてないの?」
手描きの風呂敷、と言ったら、2年の時のあの授業の。
「お、ぼえて……」
「なんだ。そっか。なるほどね」
いや、覚えている。授業は覚えている。でも、覚えていない。
伊織さんが? ということは、あれはテキ科の授業を受けていたということ? 必修に組み込まれていたし、全然気づいていなかった。
「まぁあの時は手描き班は担当違ったもんね。覚えてなくても無理ないか」
まさか、授業でお世話になっていたことがあったなんて。信じられない、全然、これっぽっちも覚えていない。
「同じ工房にいたんだけどな」
「あの、すみません、えっと、全然、覚えてなくて」
「いや……良いよ、別に」
相変わらず飄々としていて、捉えどころがない。ロープに吊るされた布地のように、ふわふわと、靡いて、流れて、揺蕩う。
やっぱり心地良い。伊織さんの纏う空気が、優しくて心地良い。
「え、なになに? 何の話?」
写真を撮りまくっていたリカが戻ってきた。
「ん? あー、ちょっとね、昔の話」
「何? いつの話?」
「2年くらい前に日本画に出張授業やった時のこと、サラちゃん全然覚えてないからさ」
別にいいよ、と言いながら少しだけ拗ねたような口調になっていて、申し訳ないけど可愛くて面白い。
「えー、覚えてないの?」
「まぁ私はシルク担当で、サラちゃん手描き選んだから仕方ないよね」
「ええー……サラちゃーん……」
そんな、やっちまったな、みたいな顔して見なくても。
「いいよいいよ、別に問題ないよ」
また、フラッと。本当に、陽炎みたいにふわりといなくなる。
「イオくんと何かあった?」
「え?」
「イオくん、ずっと元気なかったから」
情報の整理に手間取ってボーッとしていたわたしに、リカが探りを入れてきた。
伊織さんが元気なかったとして、それが、わたしと何の関係が?
「ずっと、って、いつの話?」
「んー? ここ数日だけど」
ここ数日。何かあったか。
それは、あの日のあのことがそうなら、あった、ということになるのかな。
「……何か、あったと言えばあったような、何もなかったような」
「はぁ? 何それ」
これはたぶん、言わないと引き下がらない感じかも。でもいいや。リカなら。
「あの、ね。先週、ちょっと街でバッタリ会っちゃって」
出来るだけ大ごとっぽくならないように、大したことない事のように。
「イオくんと?」
「うん。そう。で、その時にわたし、その……定期的に会ってた男の人と一緒にいて」
「え!! マジ!?」
「あ、違うの、あのね、会ってたって言ってもそういう、その、デ、デートとかそういうんじゃなくてね、その……」
もう全部正直に言うしかない。どうせいつかバレるし。
「もう会うのやめたいって、伝えに行った時で」
ほんの少しひやかしというか、突っついてやろう、みたいな雰囲気が見え隠れしてたリカが、話のシリアスさに気づいたのか急に大人しくなった。
「話はすぐに終わって、向こうも納得してくれて、別れ際に駅前でね、なんとなくお互い、今までありがとう、みたいな雰囲気になって、最後にハグして別れよう、みたいになって」
色々と、思い出した。胸の中に重たい泥水がずしりと溜まっていくようで、苦しい。
「そこを、ね……ちょうど、伊織さんに見られちゃって」
「あああー……」
「彼氏?って聞かれたから、友達です、って答えたんだけど、まぁ、ね」
リカが無言でわたしをじっと見ている。呆れられたかな。
「軽蔑されたんだと思う。あんな街中で、人通りのある駅前で、真昼間から男と抱き合ってるなんて。軽薄だと思われたんだろうな。軽い女だって思われたかも」
リカの綺麗な形の眉がギュッと歪んで、ものすごいしかめっ面になった。
「サラちゃん、本気で言ってる?」
「え? 何を?」
「なんかさー、もうそれって天然なの? まさか計算じゃないよね!?」
少し怒っている感じで、わたしは怒られるようなことを言ったつもりはないし、戸惑う。
「え、何のことよ」
リカが大きなため息をついた。
「さっきのさ、2年前の出張授業の話」
「ん?」
「なんでサラが覚えてないか、教えてあげる」
リカが仕方なさそうにスマホを開けて何かを探している。
「あった。これ、見て」
スマホで見せられた写真。集合写真。学生たちが十数人と、年配の教授らしき人もいる。
「この後ろの端っこにいる人、誰かわかる?」
小さくてよく見えなくて、拡大してよく見てみる。
見たことあるような気もするけど、この雰囲気は覚えがない。それなりにイケメン系の若い男の人、に見えるけど。
「これね、2年前のイオくんだよ」
「……え?」
短髪でつなぎ姿のその人は、どこからどう見ても男性に見えて、しかもどちらかというと厳ついイメージが強くて、今のふわふわとした伊織さんの印象とは全然合致しない。
「あの時はこんな見た目だったからさ。今よりかなり王子王子してたの」
「全然違う……」
「これ、あたしがバラしたこと内緒にしてね」
リカが声を潜めて、わたしに顔を寄せた。
「イオくんね、あの出張授業の時にサラのこと気に入って、自分のシルクコースに来てもらえなかったことすっごい残念がってたんだよ」
内緒話をするみたいにヒソヒソと、なぜか楽しそう。
「日本画で可愛い子いたーって言うから、わたしも日本画に友達いるって言ったら超飛びついてきて、しかもその友達がお目当てのサラだって分かったらめっちゃしつこく色々聞いてきて、好きなタイプはどんなのかとか、ジェンダーの垣根についてどう思ってるかとか、超リサーチかけてきてさぁ」
思わぬ話の展開に、心臓が、バクバクと。大丈夫かな、わたし。
「ジェンダーについてはあたしもまだよくわかんなかったから一切何も教えなかったけど、でも好みのタイプは男女問わずニュートラル系みたいだよ、って教えたらいきなりあんな感じになっちゃったんだよね」
ダメ。耳から心臓出そう。
「あたしの知る限り、その頃から特定のパートナー作ってないと思うよ、あの人」
それはつまり、どういうこと?
「カワイイよねーなんか。オトナなのに健気で」
リカの言葉通りに素直に受け取ると、何だかすごい話になる。だからわたしは頭の中で情報を整理して、どうってことない部分だけを繋げて話をまとめた。それでも上手くいかなくて、情報と、イメージと、予想と、願望と、色んな要素がぐしゃぐしゃに混ざり合って膨らんで溢れて、完全に飽和状態。
「まぁ、今現在イオくんがサラに対してどんなふうに思ってるかはあたしは知らないけど、気になるなら自分で確かめてみたらいいんじゃない?」
レオくんとのぞみちゃんが話していたところから、リカにお呼びがかかる。はーい、と向こうに返事をして、じゃあね、と去って行った。
何がどうなって、どういう展開?
混乱しすぎて、逃げたいというか、現実逃避をしたくなる。なんだか急に自分の卒制をやりたくなってきた。戻ろうかな、教室。
確かめてみたら、なんて、何をどうやって?
そもそも、わたしは何を知りたい?
リカにLINEで「教室戻るね」とメッセージを入れて、そっとテキ棟を後にした。
頭がパンパンで、情報を処理しきれていなくて、全然考えがまとまらない。これは本当に逃げないと保たないかも。卒制、やらないと。
教室に戻って、途中だった作業を再開する。
気持ちが一気にリセットされて、現実逃避モード変換大成功。自分でも驚くほど集中が深まる。
シルクの作業が上手くいったのを見届けたから?
伊織さんと特に変わりなく話せたから?
それとも、信じ難い真実を知らされたから?
疑問は浮かぶけど、瞬間的にそれらは霧散して、意識は目の前の和紙に吸い込まれるように傾注していく。
すごい。気持ちいい。
現実逃避ってこんなに気持ち良かったっけ。
色が見える。あらゆる色が。岩絵具特有の乾いた後の変色まで、全部。
今まで何につまづいていたのか不思議に思うほど迷いが晴れて、視覚と手の動きが脳を通らず直結する感覚。最終形態へのみちしるべがはっきりと読める。ただその通りに進めば目的地へ辿り着けると思える根拠のない自信。
楽しい。面白い。気持ちいい。
現実逃避、サイコー!
やっぱりわたし、絵を描くのが好きだ。
完成した絵がどんな評価をもらうかなんて、もうどうでもいい。わたしが描きたい絵をただ描くだけ。それが楽しければそれでいい。
目の前の画面にだけ向き合っていればいい時間。それ以外のことを考えなくていい時間。それに溺れていいと許されたこの無責任で特別な時間が好き。
これが完成してしまえば、また色々と面倒なことに向き合わなければいけないのかもしれない。でも今は、考えない。
ぶちまけた色の海に、わたしは躊躇うことなく身を投げる。そして、いっそもう二度と浮き上がってこれなくても構わないと思える程度には、この世界に魅了され、取り憑かれているのだと改めて思い知る。
美大になんか来なければ良かったなんて、ひどいことを思っていた。こんなに好きなのに。こんなに楽しいのに。
無から有を作り出す楽しさ。自分の持っているものを表に出して形にする面白さ。表現なんていう崇高なものなんかではない、ただの自己満足。
評価のためでなくていいのだ。成績のため、進級や進学のために制作するなんて、そんなことしなくていい。
自分のため。作りたい、描きたいという想いを遂げたい自分のために。
そしていつか、わたしの作品を良いと言ってくれる人が出てきてくれたらいい。その時は自分とその人のために制作をしよう。
わたしの作品を良いと言ってくれる人?
『うん、いいね』
あれ、違う……
誰だっけ、そんなふうに言っていたの。
クラスのほとんどの人がシルクコースに行ってしまって、手描きはほんの数人。教員3人のうち、シルクに2人、手描きの方にはおじいちゃん先生が1人。全員知らない教員。日本画の先生ではなかった。
工程が多くて道具もたくさん使って場所も取る賑やかなシルク班を横目に、教室の端っこの方で数人で小さくなってこじんまりと手描きの作業をしていた。
シルク自体が嫌なわけではなかった。ただ、なんとなく、シルク班の全部が眩しくて、近寄り難い気がした。道具も、やり方も、シルクを選択したメンツも、それから、先生たちも。
理由はわからないけど、手で描いてなんぼのファインを選んだ自分が印刷で制作することに謎の負い目があったような気がする。印刷に頼ってしまったら自分のなけなしの取り柄が消えてしまいそうな気がしたのかもしれない。
そんなふうに消去法的に居場所を確保した授業は、正直、面白くなかった。作業自体はそれなりに楽しかったけど、授業の雰囲気は苦手で、早くその数週間が終わってくれないかな、と思って過ごしていた。
ワイワイガヤガヤと笑い声も聞こえてくる楽しそうなシルク班。手描き班は本当に静かで、いつもパネルに向かって黙々と描いている時と何も変わらない。こんな授業、日本画学ぶのに必要なのかな、とか不毛なことを思ったりして、でもカリキュラムの一部なのだから仕方ないと諦めていた時。
「うん、いいね」
頭上から降ってきた、穏やかな声。おじいちゃん先生のとは違う。
「混色、綺麗だね」
誰に言ってるのだろう。
「全体に対してのモチーフのサイズと数のバランスもいいね、さすが日本画」
手を止められるところまで塗ってから、顔を上げて振り返る。
でもそこにはもうその人はいなくて、結局、誰に向けられた言葉なのかはわからなかった。
そんな授業を数週間続けて、風呂敷の授業は終わった。最後の講評は手描き担当の教授がしてくれて、シルク班の先生の講評は聞けなかった。
わたしの風呂敷はおじいちゃんの心には響かなかったみたいで、可もなく不可もなく、みたいな微妙な評価をもらって終了した。
パッとしない数週間だったな、という印象の授業の中で、あの声だけがやたらと耳に残った。それまであまり誰かに作品を褒められたことがなかったから新鮮に感じたのかもしれない。とは言っても、本当にあの言葉が自分に向けられていたのかはわからないままだった。
気づいたら、完全に手が止まっていた。
しまった。卒制……。
何をしていたのだろう。せっかくすごい良い流れができていたのに。
別に、人に褒められたくて描いてるわけではない。誰かに評価してもらいたくて描いてるわけではない。何度考えても結論は変わらない。
今はただ、ひたすら、学生生活最後の作品を仕上げることだけを考えなければ。
だから、余計なことは考えない。
ただ、描き続けるだけ。
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