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16 虹色 にじいろ
現実逃避という便利な手法を会得したわたしは、それを駆使して卒制を進めた。作業は面白いように進んで、提出期限に充分間に合うタイミングで絵は仕上がった。
ほぼ完成してから気付いたのだけど、シルクスクリーンの作業を体験したことは、日本画を描くことにも良い影響があった。作業のジャンル的なことではなくて、なんというか、本来の絵を描くという行為に関しての制約というか、カテゴリー毎のルールやタブー、具体的に禁止されてるわけではないのになんとなくみんな守っている暗黙の掟などの無意味さを、もしかしたら取っ払ってしまっても大丈夫かもしれないものとして位置づけられたのだと思う。
それに気付けたのが、夏休み明けから描き始めた絵が8割がた出来てきていた正月明けのことで、それまで積み重ねてきていたものをどうしても一度リセットしたかったわたしは、描けている絵の上から全てを岩黒一色で塗り潰した。
クラスメイトからは気味悪がられ、教授からは怒られ呆れられ、美大では時々あることなのだけど、締切直前に頭がおかしくなった人だと思われていたらしい。
でもわたしの中にはちゃんとそこから完成までの道筋が見えていて、巻き返せる自信があった。だからそうした。
そして、その思惑通りにそこから一気に描き上げた。
黒く塗り潰してはいたけどその前に描いてあった絵は完全には消えていなくて、それを下絵みたいにして塗り重ねていった絵は、自分の思い描いていたものとほぼ一致した。
学生生活最後の作品は、それまでの迷いや躓きを一掃したと思えるくらいには納得がいく形になった。
提出日までのラスト2日間は、リカのインスタレーションに参加するので、制作の途中途中で抜け出さなければいけない。そうなればもちろん、集中は切れるし、作業は長時間中断するし、とてもではないけど制作を順調に進める余裕はない。そのことが予想できていたので、インスタが始まる前の日までにほとんどの作業は終わらせてあった。
こういう段取りは昔から得意で、これは母のしつけの賜物かもしれない。
母の口癖の「ちゃんとしてね」を実践できるように叩き込まれた結果だ。
インスタレーションの方も順調で、心配だったセットの背景の布もいざ貼ってみたらかなり理想に近い感じで、リカはすごく満足そうだった。
わたしとしては、想像以上に展示室が暗くて思ったより花の輪郭が浮かび上がらなかったのが残念だったけど、照明がちょうど良く当たっているところは本当に綺麗にアネモネの柄が現れていて、その仄暗くも妖艶な存在感はセットの雰囲気を作るのに大いに貢献できていたと思う。セット担当のレオくんも気に入ってくれて、責任は果たせたかと思うと心底ホッとした。
縛りのリハーサルも上手くいった。リハを録画した動画を見せてもらったけど、セットと照明とBGMで演出された空間でひとり縛られ捕らえられている姿は、涙を誘うというか、その縛られている理由の切なさを伝えるには十分なほどよく練られた演出になっていた。
縛る過程は思ったより長くてずっと立っているのは大変だったけど、楓さんが本当に丁寧に縛ってくれて、いちいち声もかけてくれて、不安は何もなかった。
そしてそのまま本番の2日間も特に問題なく滞りなく終わって、ラスト1日を残したところでわたしは自分の卒制の仕上げに取り掛かった。
ほぼ完成している作品の、気になるところの修正やミスの補正をする。席を離れて視界をリセットさせてから、また戻ってチェック、を何度も繰り返す。肉眼で見て、写真に撮って見て、近くから見て遠くからも見て、何度もチェックする。そして、もう触るところはなくなったな、と思ったところで、1日早く提出を済ませた。
さすがに疲れて、提出後は寄り道しないで帰って早めにベッドに入った。
一番プレッシャーを感じていたことが終わって、気持ちは弛んだはずだった。それなのに、なぜかなかなか寝付けなくて、もしかしたら少し気が立っているのかも、と思う。緊張している時間が長すぎたのかな。
描き終わった絵に思いを馳せることは、ほぼない。自分の中ではもう終わったこととして、過去のフォルダに入ってしまう。
なかなか落ち着かない脳内で、考えてしまうのは明日のインスタレーション最終日のこと。
もう2日間やったのだから、同じことをやるだけ。1日3回、全く同じことを繰り返す。もう6回やったことを、明日、あと3回やるだけだ。
明日が終わったら、学生生活での大きなイベントは終了。講義ももうないし、学生らしいことはほとんどなくなる。塾講師のバイトが受験シーズンを迎えて多少忙しくなるくらいか。それでも学生バイトなので高が知れている。卒業旅行とかの予定もないし、とりあえずバイトに明け暮れる毎日になるのだろう。
のぞみちゃんとかレオくんも、もうあんまり会う機会はなくなるかもしれない。蘇我くんや楓さんなんて、もしかしたらもう二度と会わないかもしれないし。
それから、伊織さん。伊織さんとも、接点はなくなる。
リカとはこれからもこのまま友達として付き合っていけるはずで、そこは自信がある。でも、そこに伊織さんがくっついてくるわけもなくて、たぶん、このまま会わなくなる気がする。
でもいいのだった、それで。ちゃんとしないといけないし。
そうだ、ちゃんとするのだ。ちゃんとしなくては。
伊織さん、わたしの絵を褒めてくれた。
好きだと言ってくれた。あの写真を撮った時の絵は塗り潰してしまったけど。
2年のテキの授業で「いいね」と言っていたの、あれはやっぱり伊織さんだったのだと思う。やっぱりわたしに言ってくれていたのかな。わたしのこと、その時から知っていたのなら、その話もっとちゃんとすれば良かったのかな。
だめだ。全然眠れない。明日も大変だし、ちゃんと寝て体力回復させておかないと3回もショーを乗り切れないかもしれないのに。
ご飯、美味しかったな。プリンも。美味しかったし、楽しかった。
リカの事件があって、もし伊織さんがいてくれなかったら、あんなにすぐに復活できなかったかもしれない。優しくて頼もしくて、すごく、すごく嬉しかった。
なに、これ。なんでこんな、伊織さんのことばっかり。
早く寝ないと。
ちゃんとしなければ。ちゃんと。
まだやることは残っている。ちゃんとしなければいけないのに。
眠ってはいけないのに眠ってしまうことはよくあるけど、眠らなければいけないのに眠れないのはあまり経験がない。これはこれで結構しんどいものだな。
考えたらダメだと思えば思うほど、余計考えてしまう。考えたくないことを。
どうしようもない。
どうしたらいいかわからない。
いつまで続くの。こんな、拷問みたいな。
結局、気づいたらウトウトと寝入っていたみたいだけど、起床時間になった時に熟睡したという実感はなくて、ずっと浅い眠りを繰り返していたような気がする。
重い頭をなんとか持ち上げて、身体を起こす。
完全に寝不足だ。夜まで保つかな。
でも今日はインスタレーションの最終日。行かないといけない。引き受けたことは最後までちゃんとやり遂げたい。
ボーッとしながらも支度を整えて、大学へ向かう。
本当に最後なのだと気を引き締めながら。
大学に着いて、ワソ研の部室で着付けをしていたら、パーテーションをノックする音がした。振り向くと、伊織さんがカーテンの隙間からこちらを覗いていた。
「おはよう。今日で最後だね」
会いたくなかった。なんて、またそればっかりだな。同じチームなのだし、会わないでいられるわけないのに。
「はい。よろしくお願いします」
近づき過ぎないように。適度な距離で。
「卒制終わって気が楽になった?」
「……そう、ですね。まぁ、はい」
気の無い返事。心のこもっていない会話。我ながら、げんなりする。
本当は、気なんて全然楽になっていない。ショーもそうだけど、伊織さんに会うかもしれないという緊張感は、ずっとわたしの中に居座っている。これは今日が終わらないと消えないのだろうな。
でも、それなら、今日が終わったら?
今日のインスタレーションが終わったら、この緊張感は消える? 消えて、そうしたら何が残るの?
「うん、今日も可愛いね」
チャラ発言を、わたしは自分の中で何十倍にも拡張させて脳に刷り込む。
この人はきっと誰にでもこういうタラシ発言をする、はず。わからないけど。誰にでも優しくするし、みんなに馴れ馴れしい、はず。知らないけど。
「リカが作った着物だから」
ちぐはぐな返答だと、自分でも分かっている。でもそんな意味不明なやり取りを無理やりしないといられないほどわたしは身構えてしまっているし、とにかく早くこの状況から抜け出したいと思っている。すぐにでも、一刻も早く。
リカはわたしに、伊織さんとちゃんと話してみるように言った。ちゃんと話して、ちゃんと向き合って、お互いをもっと知るように、と言った。
でも無理だ。やっぱり、それはできない。だってきっと、そんなことしたらちゃんとできなくなる。
わたし、ちゃんとしなければいけないのだ。
では、誰のために? 何のために?
母に言われたから。ちゃんとしろと言う母と、母を支配している父のため。育ててくれた親のため。学費を出してくれている親のため。
それなら、育てられ終わったら? 学費を返せたら? 親元から独立できたら?
今すぐには無理だし、そんなこと考えても仕方ないのも分かっている。でもわたしは、母の呪詛から解放されたい。父の支配下から切り離されたい。
伊織さんは、伝統文化という、個人の力だけでは動かせない大きな世界の巨大なしがらみから抜け出して来た。自由を得る代わりにかけがえのないものをきっといくつも失って、それでもその世界の歯車の一つにはならないのだと決めて自分の足で歩いている。
そうか。わたしはたぶん、伊織さんを羨ましいと思っているのだ。
憧れて、自分もあんなふうに生きられたらいいと思って、目標にしたくて、だから、つい、この人のことを考えてしまう。目で追ってしまう。
どうしようもなく気になってしまう。
「リカちゃんが、着替えの着物も全部展示室に持って来といて、って」
「全部?」
昨日までは、ショーが終わる度にいちいち部室に着替えに戻って来ていたけど。
「昨日は急に取材入って時間結構ギリだったから、一応、って」
そういえばそうだった。
恒例のファッションショーの方に入っていた雑誌の取材班が、たまたまリカのインスタレーションを見て気に入ったらしく、もしかしたら同じファッション科の卒制として小さく載せられるかもしれない、と取材されたのだった。
インタビューはリカとのぞみちゃんが受けたのだけど、写真はわたしと楓さんも参加して欲しいと言われて対応して、次のショーのための着替えの時間が迫って来ていてバタバタしたのだった。
「わかりました。じゃあ……」
昨日のうちに揃えて置いてあった2組のセットをそれぞれ別々に大判の風呂敷に包む。それから、今着付け終わった今日の1回目のショーの装いを姿見でチェックして、問題ないことを確認する。
虹色に染められた正絹の着物は、パッと見は薄桃と薄紫の中間のような色合いだけど、光の種類や当たり方、見る角度によって様々な表情を見せる。青みがかったり、紫だったり。美しい絹糸特有の輝きが成せる技で、リカは確か、紅花染という染め方で自分で染めたと言っていた。
自分の制作よりよっぽど緊張する。
着物を着るだけで気持ちは引き締まるけど、ただそれだけではないプレッシャーを感じる。リカの制作コンセプトをわたしがちゃんと会得して表に出せているのか、ショー全体の大きな流れからはみ出すことなく役目を全うできているのか、そして結局、わたしをモデルに選んだことをリカが後悔していないか。気にし出したらきりがないけど、今は残り3回のインスタレーションを成功させることに全精力を注ぐしかない。
「持つよ」
「あ、大丈夫。わたし持てます」
声が上ずった。というか、震えてるのか。なにこれ。
「そのために来たんだから、持つよ」
「え。そう……じゃあ、お願いします」
手渡す時にほんの少し手が触れて、飛び上がりそうなほど焦る。
だめだ。寝不足で、テンションが少しおかしくなっているのかも。
もうすぐ時間。1回目のショーが始まる。展示室行かなければ。
「大丈夫?」
何のことを聞いてるんだろう。別に、何でもないけど。
「はい」
それから、伊織さんと8号館まで移動した。特に言葉を交わすこともなく、黙ったまま。
別に、話をしたくなくて黙ってるわけではない。ただ、話すことが見つからないだけ。
伊織さんの家で話した時は、もっと普通に、楽しかったのに。どうしてこうなってしまったのだろう。でもそれも、考えても仕方がない。
こんな気まずい空気を我慢するのも今日が最後か、と思うと、清々……する、よな。明日から無駄な気を遣わなくて済むのだから。
……無駄?
「イオくーん! 更紗!」
8号館の前で、わたしたちの姿を見つけたリカが叫んでいる。
「急いでー!」
良かった。なにかおかしなことを考えそうだったから。
「なんかね、校内誌の取材したいって」
リカの背後に、カメラを持った男の人が2人立っている。
「わたし、いいよ。リカとのぞみちゃん受ければいいじゃん」
「なんでよぉ。あたしの着物着てるとこ、写真だけでも撮らせてよ」
そうか、わたし、マネキンなのだった。
「わかった」
仕方なく従う。今日いっぱいは言われた通りにしよう。
それから、展示室に行って、リカとのぞみちゃんとわたしの3人で写真を撮られた。
ウチの大学の校内誌はかなりしっかりした作りで、校内誌と言いながら校外でも色々出回る媒体だ。卒業生はもちろん、これからこの大学に進学を希望している人たちでも簡単に手に入る。そんなものに載ってしまうなんて。
ショーの時にはまた撮るらしくて、そっちはわたしは暗くてあんまり見えないだろうからどうでもいい。でも、普通に顔出すのは嫌だな。目立ちたくない。
昨日までの2日間のショーは好評で、回を追うごとにギャラリーが増えた。2日目の昨日は土曜だったこともあって、一般客も結構来ていて、ショーの後に声をかけられたりもした。だいたいの話題は、素敵な着物ですね、とか、ショーかっこよかったです、みたいな、わたしではなくリカに対する賞賛。でもたまに、写真一緒に撮らせてください、とか、よくわからない依頼もあった。
「じゃあ、準備しようか」
楓さんが声をかけると、場の空気がキュッと引き締まる。
たぶん、この中で楓さんが一番緊張しているのだと思う。作業内容的に、絶対に失敗が許されないのが楓さんだから。
SMショーというわけではないから、命に関わるような失敗はほぼ起こらない。縛り方も縛る強さも全部何度もリハを繰り返したし、そこで怪我や重大な事故に繋がるミスが起こる可能性は限りなくゼロに近い。楓さんの説明ではそういうことだった。
ただ、わたしを縛った後にその縄を部屋に固定する作業がけっこう複雑で、その縄のルートも部屋全体の展示の一部になっているから、そこでミスると全体のバランスが崩れる恐れがある。縄の重なりとか、張った時に出来る線のバランスとか、そういうのを全てビジュアル的に計算し尽くして演出してある。それが一箇所でもミスれば、全体のバランスはバラバラになってしまう可能性がある。
だから、楓さんは頭に叩き込んだ段取りを忠実に再現する必要があるし、舞台袖で待機しているレオくんと一緒に部屋全体を常に見渡して、予定通りの構成になっているかをチェックし続けなければいけない。
そんな中で、わたしは何もやらなくてよくて、そういう意味では気楽だ。
とにかく楓さんの作業を邪魔しないようにおとなしく立っていればいい。縛る時に、意外と力がかかって身体が揺れるので、倒れたりしないようにだけ気をつければ、あとは何もやることも考えることもない。動きもセリフも何もないので、本当にそこに立っているだけ。ミスのしようがないのだ。
ショーが始まる。
セット裏でまず軽く後ろ手に縛られたわたしは楓さんに連れられてセットの真ん中まで出ていく。
そこで立たされたまま、儀式向きで形式的な『本縄』という古典縛りを施されていく。
ちゃんと身分が高い女性に施す種類の縛り方らしく、その辺は民俗学の宮本教授もよく知らなかったようで、勉強になったと感心していた。
縛っている時の楓さんは一切の隙がなくて、本当にピリッとした空気を纏っている。でも、縛る箇所が増えるたびにギャラリーには聞こえないくらい小さな声でどこか不都合はないか確認してくれていて、その丁寧で優しげな声かけは顔つきとかなりギャップがある。大切に扱ってもらえているということを実感できて、安心して身を預けていられる。
しっかりと全身を縛った後は、別の縄で繋がれて、それをセットに設置された留め具に固定されていく。床に2ヶ所、上手と下手の壁の上部に1ヶ所ずつ。それから、背後の壁の真ん中の上部に1ヶ所。それぞれの縄が、元々部屋中に張り巡らされている繩と視覚的に上手く絡み合うように、計画的に繋がれていく。
難しいのは、その縄がそれぞれ干渉し合っていて、張る強さや順番も決まっていて、どこかミスると全部の縄が緩んだり外れたりしてしまうこと。複雑に絡み合った絶妙なバランスで、空間に不思議な結界のようなビジュアルを浮かび上がらせているのだ。
1ヶ所の縄を固定している間、別の縄はわたしの身体を縛っている本縄の一部に仮固定してあって、わたしはできるだけ動かないように踏ん張っていなければならない。それだけは気をつけて、楓さんの作業の邪魔をしないよう気を張っていた。
でももう、本番だけでも既に6回成功させていて、わたしも楓さんもだいぶ慣れた。
だから特に問題もなく、すべて順調に事は進んでいく。
そして予定通りに今日の1回目も2回目も上手くいって、残すはラスト1回。
本当に最後の1回になった。
この話を初めてリカから聞いた時、びっくりして、本当に引くくらいびっくりして、とてもではないけど引き受けられることではないと思った。実際、何度も断った。
でも結局、こうして引き受けた。色々あって、色々迷って、色々考えた末の判断。
結果的には、学生生活の最後にこんなたくさんの人が関わるインスタレーションに参加できて良かったと思っている。
楽しかった。単純に。それに、自分ができるとは思っていなかったことを成り行き的だとはいえやることになって、それなりに好評価ももらえて、可能性という意味ですごく為になった。
参加して良かった。
そして今となっては、あと1回で全てが終わってしまうことが惜しいと思っている。
楽しもう。
せっかくこんな役をやらせてもらってるのだ。どうせなら楽しんで、最後の最後までじっくり向き合って、やり切ろう。
既に張られた縄の下に別の縄を通して引き抜く時に、縄同士が擦れるシュッという音がする。それは縄特有の音で、リハ動画で見た記憶の中の自分が縛られていく姿とリンクして、自分にとっては非日常のこの空間や状況を否応なしに実感させられる。
緩んでいた縄を少しずつ絞めていけば、着物との間に隙間がなくなって、力がかかったことを証明するようにキュ、と音が鳴る。そしてそれを更に絞めると、音が硬くなって、ク、ク、と詰まった摩擦音がする。絹素材の帯などが出す絹鳴りとはまた少し違った響き。もしかしたら実際には聴覚的には聞こえていないのかもしれないけど、着物と縄が強く擦れた時の極小さな衝撃が身体に僅かな振動として伝わってくる。
その音が鳴り始めると、身体のあちこちの自由が利かなくなってきて、自分の自由が本当に奪われていっているのだと思い知る。その奇妙で心地良い絶望感が、自分の中にあるデフォルトの感覚的レンジをほんの少しずつ歪ませていっているのがわかる。
縄の素材によって縛る時の音が違うことも初めて知った。縄の素材でそれだけ違うのなら、着ている服の素材によっても絞めた時の音が変わったりもするのかもしれない。そんな雑学的なこと、こんなことがなければ一生知らずに人生を終えていただろうな、と思うと、なんとなくお得感を感じたりして。
そういえば、捕縄術は武術としてカテゴライズされているのだと初めて知って、なんとも不思議な気持ちになった。縄で縛るなんて、普通に考えたら『お縄』というやつかSMプレイくらいしか思い浮かばない。武術なんてイメージが違いすぎて本当に不思議だった。でも、最初に縄で縛られると聞いて普通にSMをイメージしてしまった俗物のわたしは、実は武術だと聞いて少しホッとして、それならまぁいいか、と思ったことも確かだった。
「平気? 痛いところない?」
楓さんが頻繁に声をかけてくれる。その声が、わたしの意識をかろうじて現実に引き止めてくれている。そうだ、わたし今、リカのインスタレーションにモデルで参加していて、人形代わりに冤罪人として縛られているのだ。
神経が昂ぶっている。
怖いわけでも、痛いわけでも、苦しいわけでもない。楓さんの問いかけには、正直に素直に答えられている。
「大丈夫です」
でも実際には、五感が極度に緊張して過敏になっているのがわかる。
なんだろう。今までと何も変わらないはずなのに。
昨夜、寝不足で、やっぱり疲れているのかな。少しボーッとするだけで、体調が悪いとかそういうことではないと思うのだけど。
ふと、違和感に気づく。
今までの8回のショーと音響が違う気がした。
曲は一緒だし、音源も多分同じ。でも、響き方が違う。今までよりもリヴァーブが深いというか、反響が多い気がする。機器の設定が変わった?
視覚で確認なんてできるわけないのに、わたしはなぜか頭を上げて、展示室の天井に吊るされている常設のスピーカーを見上げてしまった。当然、そんなものを見てもこの反響の変化の原因なんてわかるわけがない。
意味のない動きをしてしまったな、と反省する。楓さんの作業の邪魔になっていなければいいのだけど。
今までずっと下を向いて縛られてきた。どの回も、全部。周囲を見てしまったら緊張するし、単純に恥ずかしいし、それに、冤罪で捕まった罪人だからずっと項垂れてていいよ、とリカから言われていたから。
でも、今、最後の回にして初めて周囲を見てしまった。
お客さんが大勢いて、観覧スペースはほぼ埋まっていて、そして、わたしは見つけてしまう。群衆の中に、あの人を。
観覧スペースの最前列の端の方に、片膝をついて座って、こちらを見ている。
伊織さん。
今まで観覧スペースにいたことなんてないのに。いつもセットの裏で待機していたのに。
なんで今日は、今回は、そんなところで観ているのだろう。
「じゃあ、固定するね」
耳元で楓さんに囁かれて気持ちを引き戻された。一瞬、気が散っていた。危なかった。
わたしの身体は縛り終わったのか。
ウェストより下は一切縛られていないので、自由に動かせる。だから、固定すると言われたら、ギャラリーには気づかれないくらいほんの少しだけ足を開いて、身体がもし引っ張られても揺れないように踏ん張る。それが、この3日間でわたしが会得した安定させるコツ。
だから今回も、同じように踏ん張った。揺れないように、倒れないように。
最初は床の、足元から左右2メートルあたりの場所に設置されたフックに縄を張る。片方ずつ、楓さんが移動して、あっという間に2ヶ所を固定した。
それから、左右の壁の上部にあるカラビナに。セット裏から竹製のハシゴを持ってきて、和装姿の楓さんはスルスルとそれに登って手早く引っ掛ける。そして、ピンと縄を張った状態にして縛って固定。片側だけ張られた状態でバランスを取るのが、意識していないと結構難しい。もう片側が固定されるまでは集中を切らさないようにしなければ。
楓さんが逆側の壁までハシゴを移動させて、一度わたしのところへ戻って背中の結び目に仮固定していた縄を外してからまたハシゴへ登る。カラビナに届いたら、そちらもピンと張るまで引っ張る。
当然、計画通りに行くと思っていた。何せ、もう9回目だ。
でも、今回は何かが少し違った。
明らかに張りが強い。今までの中で、一番。
楓さんが握っている縄が結び付けられているわたしの腕を固定している縄が、ギュッと引っ張られている。痛い程でもないし、身体がよろけるほどでもない。
でも明らかに、どう考えてもいつもより強い。
自分の身体は、今、まっすぐに立っていられている?
片側からだけ強めに引っ張られていたら、もしかしたらそっちに傾いているかもしれない。
どうしよう。その確認ができない。
伊織さんはこの状況に気づいているかな。こちらを見ているかな。こっそり確認しようと伊織さんのいる場所に目をやると、思い切り目が合ってしまった。
楓さんがさらに少し縄を手繰る。わたしの身体がまた少し引っ張られて、グイグイと揺れた。
何か少し手間取っているように見えて、ギャラリーにバレないように慎重に観察してみる。
カラビナが金属製なのでセットの中で時代設定的に浮くので、金属部分が見えないように背景と同じ布を細く裂いてグルグル巻きつけて接着してある。その布が少し剥がれて浮いてしまっていて、カラビナの入り口がどこだかわからなくなっているらしい。もう9回目だし、接着部がギリギリ保たなかったのかもしれない。金具の切れ目から縄を通すのを諦めて、縄の端っこをカラビナの穴に通すやり方を試そうとしていて、そのためいつも以上に縄を張ってしまっているのだ。
あれ。これ、ちょっとだめだな。
揺れないように踏ん張っていたのが無効になっている。
そうか、少しだけ上向きな力がかかっているから、足に全体重がかかっていないのだ。
ゆらゆらと身体が揺れるのがわかる。フラフラまではしていないと思うけど、揺れているのはわかる。その揺れが、楓さんが握っている縄以外に3ヶ所固定されているせいで可動域が限られていて、揺れの周期も必然的に限られてくる。同じところをブランコの動きみたいに行ったり来たり、ゆらゆらと、ふわふわと揺れている。
室内には、強めのリバーブがかかった音がグルグルと回っていて、身体は揺らされて、なんだか余計に頭がボーッとする。寝不足のせいかもしれない。とにかく、頭を紗幕みたいなものでふわっと包まれてるみたいに、フィルターが1枚かけられてるみたいに、現実の感覚と若干隔離させられているような不思議な非現実感。
苦しかったり痛かったりはしないし痺れもないので、縛りにミスがあった時の酸欠とかではない。それは事前に散々説明されていて、そういう状態でないことははっきりわかる。それよりももっと、夢見心地というか、少しお酒に酔った時みたいな、奇妙な幸福的浮遊感がある。
縛られて身体を揺らされているのだから、浮遊感はあってもおかしくない。でも、身体が外的刺激で揺らされているのとは別に、もっと身体の中での、内臓とか脳とかが内側から揺らされているみたいな感覚。体内に温かい水が満たされていて、身体の中身が全てぷかぷか浮いているような、不思議な感覚。
言ってみれば、なんとなく気持ちいいような、くすぐったいような、全身をそっと抱きしめられているみたいな心地良さ。
あ、思い出した。
これ、身体を腕の外側から抱き抱えられている時と似ているのだ。このあいだ伊織さんに抱きかかえられたあの感覚と。腕ごと全部巻き込まれて身動きできなくなっているのと似ている。
ああ、本当に思い出してしまった。
伊織さんがあの時、あんなことするから。
逃げたいのに逃げたくない。
嫌なのに縋りたい。
解放されたいのに縛られたい。
相反する、対極の概念が同居して、精神が軽く誤作動を起こす。心地いい混乱。
伊織さんがこっちを見ている。じっと。目を逸らせない。見ないで欲しい。こんな姿。
わたしは冤罪で捕まったんです。
何も悪いことはしていない。わたしは悪くない。誰かがわたしを陥れて、罪を着せて、わたしを罪人に仕立て上げたの。
でも平気。伊織さんが、大丈夫って言ってくれたから。何度も、何度も。だから大丈夫なの。大丈夫。助けに来てくれる。迎えに来てくれるから。
リアルな感覚がますます遠ざかって、意識の半分くらいが夢の中にいるような感じになって、感情が少し落ちてきているのがわかる。感情の感度が落ちているのか、サイズ自体が小さくなっているのか、はっきりとはわからない。でも、自分が大和更紗としてリアルで感じている感情が強制的にセットバックされているみたいな感覚。
心拍や呼吸数までもが少し落ちてきているような気がする。穏やかで、静かで、深い感覚。今まで感じたことのない不思議な感覚に、わたしは静かにパニックに陥っていた。
だから、気づくのが遅れた。
目から溢れた涙が、項垂れているせいで斜めになっている頰を伝って唇から口腔内へ入り込んで、ようやく、自分が泣いていることを認識した。
なんで。
どうして。こんなに幸福感に包まれているのに。悲しくなんてないのに。
気持ちよくて、ふわっとしていて、ただ抱きしめられているだけなのに。
抱きしめられている……?
誰に?
突然、片方の膝がカクンと折れた。
しまった。
ショーの最中。
なんでわたし、ボーッとしていたのだろう。ちゃんとしなきゃ。しっかり、ちゃんとして、揺れないで立っていなくては。
そう思うのに、身体がふわふわするのは止まらない。
良かった。俯いた顔に髪がかかっているから、涙はギャラリーからは見えていない、はず。
身体がわずかに傾いた時、違和感に気づいた楓さんが咄嗟に縄を引いた。縛られた身体がグッと支えられて、おそらく、落ちたのは数センチ。すぐに楓さんが縄を自分の腕にぐるっと巻いて、それ以上揺れないように支えてくれている。
どうしよう、これ。なんか、どうしたら元に戻るの?
楓さん、何か指示を。
あ、でもそれ、もうカラビナに通ってしまったのか。それを解くには一旦緩めないとダメで、きっと緩めたらわたし、倒れてしまうのかな。
大丈夫、しっかり立ってみよう。両足を、ちゃんと踏ん張って。足元、ちゃんと踏みしめて。
できてるよね? これ、大丈夫、だよね?
伊織さん、見て。
あれ、さっきまで最前列にいたのに。どこ行った?
伊織さんがいない。
いなくなってしまった。どうしよう。
その時、視界の端を、鮮やかな薄紫色の絹地が掠めた。
見覚えのある色と柄。
最初に伊織さんに会った時に試着していた年代物の総絞りの小袖よりも少し淡い色。
リカ?
違う。リカは今日は着物じゃない。
確認しようと虹色の方を振り向いたら、光に縁取られた薄紫色の人型の塊がスローモーションのようにゆっくり近づいてきていた。
きれいだな、と思った途端、視界が全て薄紫色に染まる。
何も見えない。何が起きたの。
頭だけでなく、身体も、全身、丸ごと全部グルグルに包まれて、そのまま身体を少しだけ持ち上げられた。
「じっとしてて」
小さく聞こえた声は、知っている声。
「大丈夫だから」
ほら、やっぱりそう言ってくれた。
会場がざわついているけど、きっと大丈夫。
身体にかけられた縄が一瞬強く引っ張られて、その直後に一気に緩む。それがその後3回繰り返されて、縛られている状態は変わらないのに動かせる範囲が広がった気がした。
「動かないでね」
そう言われた瞬間、身体がふわりと完全に浮き上がった……わけではなくて、持ち上げられたのだ。
抱き上げられてるのかな。そして、場所を移動するような揺れ。
ギャラリーのざわめきが大きくなって、でもわたしはそのまま運ばれていく。
布を被された状態でも周囲の明るさの変化くらいはわかって、もしかしたらセット裏まで連れてこられたのかもしれない。
「レオくん、照明落として」
「あ、はい!」
「蘇我っち、ちょっと音量上げられる?」
「うん」
カチッとスイッチを切る音。そして、ギャラリーから拍手が上がった。
「下ろすね」
そう言われてゆっくり降ろされて、自力で立とうとしたのだけど、無理だった。またガッツリと抱きかかえられて、頭にかかっていた布だけを外された。
暗いセット裏でぼんやりと見えたのは、思っていた通りの人。
やっぱり、伊織さんだった。来てくれた。助けに来てくれた。
「ちょっとこっち……ここでちょっと休もう」
セット裏の壁際に、わたしを抱えたまま伊織さんが座り込んだ。壁に寄りかかるようにして、わたしが苦しくなくいられているかを何度も確認してくれている。
暗闇で、人が歩き回る気配。
「照明、ちょっとだけ戻します」
セット内に誰もいなくなったのを確認したレオくんが、咄嗟にラストの演出を即興で変更した。
セットがほんのりと明るくなるのとBGMの音量が上がるのがマッチして、一つの舞台が幕を閉じた時みたいな雰囲気になっている。
「サラちゃん、どうした? 大丈夫!?」
楓さんが必死な形相で駆け寄ってきた。
どうしたのか。それは自分にもわからない。
「すみません、なんか……立っていられなくなっちゃって」
「どこか苦しいとことか痛いとことかあったりする?」
言われたことを改めて確認する。でも、そんなところはやっぱりない。
「大丈夫です……どこも、痛くない……苦しくもないです」
「そっか……なんだろう、どうしたかな」
バタバタと複数の足音がして、見上げたらリカとのぞみちゃんがいた。
「更紗! 大丈夫!?」
「のぞみちゃん、ごめんね。縄、切っちゃった」
伊織さんがのぞみちゃんに謝っている。やっぱりあの時、縄を切ったのだ。
「いいです、そんなの。全然」
もしかしてわたし、みんなにすごい迷惑かけてしまった?
ちゃんとしようと思ったのに。頑張ったのに。ダメだったのか。
「ちょっと、縄、解いちゃおうか」
楓さんが、わたしに巻きついてる布地を外そうと手を出した。
この布地、やっぱりわたしが今日の1回目に着たリカの虹色の着物だった。そうだと思った。
「ごめん、背中触るね」
伊織さんに抱き抱えられたままのわたしから虹色の着物を外そうと、楓さんがゆっくり布地を引っ張った。そして、見えてきた縄の結び目に指を引っ掛けて、解けそうな箇所を探している。その指が、クイ、と縄を引っ張った時。
一瞬、身体の奥に大きな衝撃があって、背中の芯のあたりから何か不思議な感覚が湧き上がってくるような気がした。
「……!!」
未知の衝撃に、思わず身構えた。びっくりして息を吸ったらそこで吐き出せなくなって、そのまま息が止まる。
何が起きたかわからなくて混乱したわたしは、とりあえず後ろ手に縛られているままの手に触れている絹地を手当たり次第掴んで、すぐ目の前にいる伊織さんに縋るように身を寄せた。そうするしかなかった。わたしが自分を認識し続けて意識を保つには、目の前の何かに縋るしかなかった。
様子を見ていた楓さんがすぐに手を引いて、それから薄紫色の絹地の中に手を入れてわたしの手首を探し当ててそっと指先で触れた。そのままじっと、数秒。
「あー……なるほどね」
楓さんが呟く。それから、ホッとしたようながっかりしたようなため息をひとつついてから、ゆっくりと小さな声で言った。
「これね、たぶん、縄酔い起こしちゃってる」
その場にいる全員が黙ってじっとしている。
ナワヨイ?
知らない言葉。どういう意味?
「ちょっとこれは、時間置くしかないかな。手首だけなんとか外そうね」
それから、体勢を変えることなく手首の部分だけ着物を避けて、力がかからないようにしてそっと縄を外してくれた。
「イオくん、しばらくそのままでいられる?」
「はい、大丈夫ですけど」
「じゃあ、ちょっと落ち着くまでそのままでお願いします。何もしないでね」
「はい」
何がどうなっているの。わたし、何か失敗したのかな。
せっかく、ラスト1回だったのに。うまくいくと思ったのに。最後の最後でダメだった。リカ、怒っていないかな。ごめん。本当にごめん。わたしのせいでショーがガタガタになった。
喉の奥がギュッと締まって、鼻も痛くなって、でも今泣いたら絹地を汚してしまうと思ってなんとか堪える。
やっぱりわたしダメだ。ちゃんとできない。できなかった。ただ立ってるだけのことがちゃんとできないなんて。情けなくて恥ずかしくて、顔を上げられない。伊織さんが黙ってわたしを抱きかかえていてくれて、よく考えたらものすごく恥ずかしい状況だけど、死ぬほど照れ臭い状況だけど、でもみんなに対しての申し訳なさを少しでも沈静化させてから謝罪できるなら、もう少しだけこうやって待たせてもらいたい。
どのくらい経ったのか、だいぶ頭の中がクリアになってきていて、身体を動かしても変な感じにはならなくなってきた。
冷静になってみたら、やっぱり着物に巻かれたまま伊織さんに抱っこされている状況は恥ずかしくて、できることならそろそろ脱出したいな、と思う。でも、本当にもう回復しているのかわからなくて、なんとなく動けないままじっとしていた。
インスタレーションのセットはもう展示状態で落ち着いていて、レオくんが切られたロープも置き去りにされたハシゴもセットの一部として配置し直してしまったらしい。すごい。普段、舞台美術のアシスタントのバイトで商業演劇の現場に出入りしていると言っていた。こういうトラブルの回避方法とか、慣れているのかな。すごいな。
「申し訳ない。今回は私のミスです、ごめんなさい」
楓さんがそう言って、わたしたちに向かって頭を下げた。
「あらゆる事態を想定しておくべきで、自分ではそれができてると思ってたんだけど、本当に想定外のことが起きちゃって。プロとしてあるまじき失態でした。すみません」
話を聞いてるわたしたちの誰もが、その意図を汲み取れない。
「どういうことですか?」
心配そうな顔をしたリカが説明を求めた。楓さんはバツが悪そうな顔をして、でもちゃんと向き合ってくれた。
「あのね、実は、縛りの世界には、縄酔いという状態があって」
さっき言っていた言葉だ。ナワヨイ。どういう状態だろう。
「まぁ、簡単に言ってしまえば、字の通り、繩に、っていうか、縛られた状態に酔ってしまうってことなんだけど」
「酔う?」
「そう。酔うって言っても、乗り物に酔うとかの方じゃなくて、お酒に酔う系の『酔い』かな」
ちゃんと説明されてもよくわからない。縄に、縛りに、酔う?
「でもね、言い訳させてもらっちゃうと、縄酔いってこんな武術的な捕縛術ではまず起こらないものなのよ。うーん、何て言ったらいいのかな、縄酔いは、まぁいわゆるSMプレイ上で起きることで、身も心も信頼しきってるパートナーとの間で縛り縛られる時に、なんていうか、縛られる方がその関係性や状況に酩酊してしまう状態、というか、一種のトランス状態なの」
まだ完全ではないのか、難しい言葉がすんなり頭に入って来ない。
メイテイ、ってなんだっけ。トランス?
「だから、私とサラちゃんの間にはそういう関係は築かれてないし、そもそもがこれはSM系の縛り方も煽り方もしてないつもりだし、うーん、まさかこの状況で縄酔いが起こるなんて、微塵も予想してなかったんだけど」
なんだか少しエッチな雰囲気のワードが出てきたような気がしたけど、それをもう一度確認して正しく認識するところまで頭が回らない。
「でも起きちゃったもんは起きちゃったんで、それは全部私の責任です。サラちゃんのそばから離れるべきではなかったね。固定作業には白崎ちゃんも出てもらうかして、私はずっとサラちゃんのところについてるべきだった。全部終わってから、今更だけど。ごめんなさい」
通常なら起こるはずのないことを、わたしが起こしてしまったということ、だよな。やっぱりそれ、わたしのせいなのではないのかな。でも楓さんは自分が悪いと言っている。本当に、何がどうなっているのかよくわからない。
「なんかでも、さっきあたし聞いちゃったんだけど、今まで何度も見に来てくれてた人が、最後の1回だけエンディング違うのわざとの演出だって思ってたって。分岐ルートのサプライズ演出だって思ったらしいよ」
のぞみちゃんが口を挟んだ。
「あ、なんか言ってたよね。ラッキーとかキャーキャー言ってたの、あたしも聞いた」
のぞみちゃんもリカも怒っている様子はなくて、逆に、最後に盛り上がったのをむしろ喜んでいるような言い方。それでも楓さんは予定通りに行かなかったことに責任を感じているみたいで、落ち込んだ様子で何度も謝っている。
「そうなんだ……そう思ってもらえたんなら良かったけど。とにかく途中で色々止まったりしなくてほんと良かった。サラちゃんにもケガとかなくて本当に本当に良かった。イオくんが機転利かせてくれたおかげです。ありがとうございます」
「役に立てたなら良かったです」
伊織さんの声が、寄り添っている胸から響いてくる。心地いい。
「なんかさぁー、イオくんもう最後全部持ってった感すごいよね。あれじゃあファッション科のインスタレーションじゃないじゃん。もう、囚われた姫を救出する王子様ショーじゃん」
リカがふざけた口調で言う。
王子様?
違う。
あれは、お姫様だった。虹色の着物を纏ったお姫様が大活躍した話だった。
頭から着物を被ってひらりと参上した姫は、照明を背に後光が射したみたいにキラキラしていてすごく美しかった。
きっとあのインスタレーションは、ハッピーエンドだった。
そう。冤罪で捕まった娘は無事にお姫様に助け出されて、ふたりで末長く幸せに暮らしましたとさ。おしまい。
終わってしまった。全部。
シノブが言っていた、潮時、という言葉を思い出す。今のこの状況にやたらとしっくりくるな。
あとは放っておいてもいろんなことが終わる。
時期的に、全てがひとつずつ確実に終わっていく。
「サラちゃん、動けそう?」
楓さんがわたしの様子を見にきた。もうだいぶいい。
「はい」
「じゃあ今から縄外すから、これから一緒に部室戻って、着替える時にちょっとチェックさせてもらっていい?」
「チェック?」
伊織さんがわたしを包んでいた着物をそっと外して、縄が全て見えるようにして身体を支えてくれた。
「そう。さっき自己申告してもらって大丈夫だとは思うんだけど、念の為。どこか怪我してないか、痛めてないか、一応確認させてもらいたいんだけど」
「……はい」
楓さんは話をしながら、わたしに巻きついている縄をシュルシュルと解いていく。だんだん外れてだらりと長く垂れていく縄が床に落ちる音が心地いい。赤い縄が、コトン、パタン、とリズミカルに床を打つ。そんなことを楽しむ余裕も出てきた。良かった。
片付け中の蘇我くんが通りがかったので、気になっていたことを訊いてみる。
「あの、今日の最後の回って、それまでと音響変えました?」
「え? 音響? 変えてないけど」
「でもなんか、今までより響いてたような気がして」
機材のツマミを確認したり周囲を見渡したりしてから、セットの真裏に消えた蘇我くんが、すぐに戻ってきた。
「……あー、それ多分、このせいじゃない?」
わたしたちのセットの裏側を指差す。
「ほら。僕たちと部屋分けてやってた展示が、うちの最後のショーの前に終わって色々撤去したから、多分室内の反響が変わったんだと思うよ」
確か、そのグループは大量の、何百着もありそうな服を乱雑に展示するパンキッシュなインスタレーションをやっていた。その布地が吸収していた音が、それがなくなったことで反響してしまっていた、ということか。たったそれだけのことで。
「そんなこと、よく気づいたね」
軽く笑いながら立ち去る蘇我くんを、少し複雑な気持ちで見送る。
そんなこと。わたしにとっては、そんなこと、ではなかったのだけど。たったそれだけのことだったかもしれないけど、わたしにはその違いは大きかった。いつもと違う精神状態に陥るきっかけになるくらいには。
突然、頭をくしゃっと撫でられた。びっくりして顔を上げたら、伊織さんがわたしを見下ろしていた。
多分、色々と見透かされている。でもそれが嫌ではない。理解してもらえて、受け入れてもらえて、認めてもらえている感じ。わかるよ、と言われているみたいでホッとする。
楓さんが、ヨシ、と声に出して立ち上がった。手には、大量の縄。
「じゃあ行こうか。立てる?」
「はい」
伊織さんの手を借りて、立ち上がってみる。大丈夫だ。良かった。
「こっち片付いたら私も後で行くね」
終わった、はず。全て。だから伊織さんはもう来なくて大丈夫なのに。
あれ、何か、大事なことを忘れているような。
そうだ。わたし、伊織さんとは少し気まずくなっていたのではなかったっけ。こんなふうに、以前と変わらず接してもらっていいような状況ではなかったような気がするのだけど。
「……はい」
来なくていいです、と言う勇気はなくて、ただ口先だけでおざなりな返事をした。
緊急事態だったので、感覚がおかしくなっていただけ。パニックで、伊織さんの存在を受け取り間違えていた。
あの姫が迎えに来たのは、大和更紗なんかではなかった。あれは、物語の中の出来事。現実ではない。
それに、ハッピーエンドの後日談なんて、大抵ろくなものではない。
そんなもの、存在しなくていいのだ。
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