18 留紺 とまりこん

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18 留紺 とまりこん

 日曜の夕方の下り電車はそこそこ混んでいて、わたしたちは通路の奥の方に並んで立って、目的の駅に着くのを待った。  人の乗り降りで立つ場所が変わると、掴まれるところもどんどん変わって、身長の低いわたしにとってはそれなりの試練になる。時には手の届くところが全くなくなって、ひたすら両足で踏ん張って耐えるしかないこともある。  わたしがそうやって必死になっている時も、伊織さんは余裕で高いところにあるポールや吊り革に掴まっていた。  いいなぁ、と思って見上げていたら、伊織さんと目が合ってしまった。  努力しても到底敵わないと思える相手や分野に対して、寝転がって腹を見せてしまう猫のような降参的な感情を持ってしまうのは、昔からの癖だ。  傲慢で不遜なハラスメント気質の父に抑えつけられて育ったわたしは、基本的に人からマウントされることに異様なほど拒否反応が出る。まして、わたしが優秀、有能だと認めていない人からそれをされると、わたしは瞬時に諦観という名のシャッターを下ろす。それくらい、人から見下されたりナメられたりすることが苦痛だ。褒めて欲しいわけでも(あが)めて欲しいわけでもない。マウントされるくらいなら関わりたくないだけ。一切関わらずに放っておいて欲しい。  でも、本当にすごいと思える人、尊敬できる人に対しては、なぜか身を預けてしまいたくなるというか、全てを託してしまいたくなるというか、とにかく何をされても良いと思えるような服従的な気分になってしまう。敬愛というような類の感情か、はたまた、従属欲求か。  自分では、支配されたいとか制圧されたいみたいな欲求はないと思っている。そういう被虐的な欲求はない、はず。でも、圧倒的な優位を目の前にすると、どうしても腹を見せたくなってしまう。  もちろん、そう思える人からでもハラスメント的マウンティングをされた時には、その服従的な感覚は確実に消え去るので、とりたてて特別な感情でもないとは思うのだけど。 「大丈夫? 掴まってていいよ」  電車の揺れに耐えきれずヨロヨロと行ったり来たりするわたしを見兼ねたのか、伊織さんがわたしの手を自分のライダースジャケットのベルトに誘導してくれた。ダブルのライダースをしっかりジッパーまで閉めてあるので、ベルトは全然揺らがないで摑まらせてもらえた。  乗客が大勢入れ替わる駅で、周囲の人の流れに押されて、掴まる場所どころか足を踏ん張る場所もなくなった。増えた乗客に押し込められて、ほとんど身動きが取れない。 「おっ、と……」  そう。わたしが身を預けても良いと思える人は、こういう、余裕があって、主導的で、器用で空気も読めて、優しくて、でも絶対に偉ぶらなくて、守ってくれて、超優しくて、頼り甲斐があって、威張らなくて、超、超優しくて…… 「大丈夫?」  なんなの、もう。  こんなの全部伊織さんのことみたい。 「こっちおいで」  すぐ隣にいる大柄なスーツの男性に押されて変な体勢で固定されてしまったわたしを、伊織さんが引っ張った。そうなるとまあ、当然伊織さんに抱きかかえられるみたいな形になってしまうのだけど。ベルトに摑まらせてもらっている意味が全くなくなった。  どうしよう。近い。ものすごく。くっつきすぎでは?  いや、でもこのあいだは抱っこされたし。酔っていてあまり覚えていないけど。あと、一緒のベッドで寝たし。だからこのくらいはどうってことない。全然。 「あと2駅、我慢ね」  なんでこんなに優しいのだろう。誰にでもこんななのかな。  そうだよな、だって王子だもんな。いつも女の子いっぱい周りにいて、その子たちみんなに優しいんだよな。  リカも言っていた。伊織さんはこう見えて尽くすタイプだと。  相手がわたしでなくてもそうだということだよな。  あれ。わたしなんで気分落ちた?  いや、落ちていない。  ショックなんて受けて、いない。  ここを乗り切れば、もう関わりを持たなくてもいいようになる。今だけ。あともう少し。それが終われば、もうおしまいだから。  通い慣れた通学路の乗り慣れた電車の通過駅を、これほどまでに焦れったく見送ったことはなかったかもしれない。  早く着いて。早く。そう願いながら、わたしは心のどこかで背中に回された伊織さんの腕の力強さを名残惜しいと思っていた。  やっと自宅の最寄りの駅に着いて、人の波に上手く乗って電車から降りた。 「混んでたねぇ」  いつもと変わらない伊織さん。今みたいなのも、慣れているのかな。  なんだか、胸が詰まる。  電車から降りた人が改札に向かう流れがあって、わたしは条件反射的にそれに乗った。でも少し歩いてから、伊織さんはどうするつもりなのだろうと気になった。  振り返ると、伊織さんもすぐ後ろに着いてきていて、立ち止まったわたしを不思議そうに見ている。 「ん? どうした?」 「……あの、どこ、行くんでしたっけ」  変な質問だったかな、と、言い終わってから思った。わたしまでどこに行けばいいかわからないみたいだ。 「サラちゃんの家まで送るよ」  話が違う。どこかこの辺にある店に行きたいと言ったのに。嘘なのはわかっていたけど。  もしかしたら、わたしがさっき体調を崩したことを気にして、念のため送り届けてくれようとしているのかもしれない。 「大丈夫です、もう」 「あー、うん。わかってる、わかってる」  全然人の話聞く気ないな、この人。ということは、これ以上断ってもたぶん無駄。  もういいや、なんでも。伊織さんの好きなようにすればいい。  駅からは、それなりに活気のある商店街を抜けて10分くらい歩く。自宅のある場所はそんなに奥まったところではないし道も複雑ではないので、帰りは伊織さんひとりで駅まで戻れるかな。  誰かに家まで送ってもらったことなんて一度もない。それほど暗い道も通らないし、門限のこともあってすごく遅くなることもなかったから。 「へぇ。賑やかな街だねぇ」 「……伊織さんの実家は? どんなとこですか?」  なんでプライベートなんて訊いてしまったのだろう。しかも実家とか。そんなこと聞いても意味ないし、伊織さん前に、実家では色々あって、と話していたような気がするし。 「ウチはいわゆる織物の町って呼ばれてる西陣ってところにある、絵に描いたようなザ・京町家。雑誌とかテレビの取材とか来ちゃうレベルのコッテコテの町屋だよ。まぁ雰囲気だけは良いけど、東京の暮らし知っちゃうとあっちは色々とね……」 「見てみたいです」  何を言っているの。見たいとか。無理だ、そんなの。見てみたいと思ったのは少し本気だったけど。  やっぱり疲れている。早く帰りたい。 「観光地だからねぇ。じゃあ今度遊びに行ってみようか」  なんて答えたらいいの。遊びに行くなんてあり得ない。友達でもないのだから。  自分から見たいとか言っておいて、わたしは伊織さんからの提案にはちゃんと答えられなかった。適当に笑ってごまかしてしまったけど、気を悪くしていないかな。  歩き始めた時は、何を話しながら過ごせばいいのだろうと気が重かったけど、でも伊織さんは色んな話題を軽く振ってくれて、その和やかなひとときは居心地悪くはなかった。そういうのが困るのだけど。 「この先の信号を左に曲がってすぐの家です」  送っていただいて、玄関先で、じゃあねさようなら、というのでいいのかな。それとも、さすがに上がっていただいてお茶くらいお出しするべき?  どうしたらいいかと迷っているうちに自宅が見えてきてしまった。  会いたくないな、と思う時に限って会いたくないと思った人と会ってしまうこういうの、なんて言うのだっけ。このあいだもあったな、なんとかの法則ってやつ。 「更紗? ……あら、あの……」  休日のこんな時間に両親が揃って帰宅するなんて、普段ほとんどないことだから予想できなかった。  ガレージに停めた車のトランクから荷下ろしをしていた両親は、フォーマルの服装に、手には揃いの紙袋。結婚式か法事か何かの帰りだろう。 「お友達か?」  父が伊織さんを見て言った。  もしかして、お酒飲んでいるのだろうか。父の口調が嫌な感じで少し緩い。  嫌な予感、と思ったけど、会ってしまったのだから仕方ない。出来るだけ早く適当にスルーしたい。だからあまり余計なことは話したくない。 「すみません、わたしの両親です」  小声で伝えると、伊織さんは少し緊張したように背筋を伸ばした。  どうしよう。親には、なんて伝えよう。大学の先生、と言ってしまっていいのかな。 「……あの」  モタモタしているうちに、伊織さんが自己紹介を始めてしまいそうになった。  一瞬の逡巡の(のち)、ごく小さな声で、「僕は」と言ったのを、わたしは聞き逃さなかった。  なんで、今、一人称が「僕」?  わたしと両親に何を伝えようとしてるの。  わたし、何か伊織さんに言ってしまっていたっけ。  だめ。その一人称で通して良い理由なんてひとつもないのに。 「彼女は」  わたしは伊織さんより先に、彼女が女性であることが伝わるようにはっきりと言った。 「サラちゃん」  伊織さんがわたしの言葉を止めるみたいに割り込んで来たけど、わたしは止めるつもりはない。 「彼女は、わたしの……」 「サラちゃん!」  言うだけでは止められないと思ったのか、肩に手をかけて軽く揺すられる。でも、わたしは止めない。 「彼女?」  父が耳ざとくそのワードを拾った。  そうだよ。  伊織さんは女の人だよ。  女の人で、それで、わたしの…… 「なんだ、女か」  なんて失礼な言い方。  こういうのが嫌だったのだ。  この人はこういう人だ。デリカシーもない。品もない。業界では名の知れた大御所だかなんだか知らないけど、この人と血が繋がっていると思うだけでゾッとする。  初対面の人にこの言い様。  わたしの大切な……  わたしの大事な、大切な…… 「彼女は、わたしの、大切な人です」  思ったより普通に声が出た。冷静に、はっきりと話せた。  あーあ。  言ってしまった。  そうだよな。やっぱりそうなんだよな。  なんだか気が抜けた。簡単なことだった。意外と。 「更紗!」  うるさいな。近所迷惑だ。あなたが最も大切にしている世間体はどうしたよ。  伊織さんが言葉を失っているけど、わたしは案外落ち着いている。自分でもびっくりするくらいに。 「なんだ、どういう意味だ、更紗!」  当然、怒るだろうと思った。あの時投げられたリモコン、今でもはっきり覚えている。痛かった。ぶつかったところ。 「お友達……大事なお友達っていう意味よね? 更紗?」  母が慌てた様子でその場を取り繕うように口を挟む。でも父の顔は紅潮して、それは多分お酒のせいだけではない。 「なんだ更紗、お前まだその病気治ってなかったのか!!」  またか。またそれか。もうウンザリ。  あなたこそ、まだそんな考え方でいるの。この時代に。  ジェンダー云々ではないのだ、きっと。もっと根本の、価値観とかそういうのでもない、何をどう頑張っても変えようのない根っこの部分がもう、残念な人なのだ。  無視したい。そうだ、無視しよう。見なかったこと、聞かなかったことにする。というかもうここで会わなかったことにしよう。そうしよう。  とりあえず家に入るか、このままどこかへ行くか。  家に入ったところでこの人と一緒に過ごすのは嫌。でも、それならどこかへ行くとしても、遠出したり泊まったりするような準備は何もしていない。  やっぱりどちらにしろ一度家に入るしかないかな、と思って、その場合、伊織さんのことはどうしたらいいんだろうと、彼女の方を見た。  困ったようなどうしようもなさそうな顔でただそこにたたずむ伊織さん。  そうだよな。こんなわけのわからない修羅場、どうしたらいいかなんてわかるわけないよな。このままここに置き去りにするわけにもいかないし、一旦一緒に家に入るしかないか。  そう思って、伊織さんの腕を掴んで引っ張る。 「来て」  伊織さんを連れて家に向かって歩き始めたところで、横っ面に激しい衝撃があった。  一瞬、何が起きたのかわからなかった。  こめかみの辺りがジンジンする。 「サラちゃん! 大丈夫!?」  足元に転がったものを見て、ぶつかったものが車の鍵だとわかった。こんなもの投げつけられたのか。すごいことするな。お客さんがすぐ隣にいるのに。酔っ払っているのだし、もし投げ損なってお客さんに当たったらどうするつもりだったのだ。  しかし、ムカつくと物を投げる癖、どうにかならないのかな。子ども通り越して赤ん坊だろ、と呆れる。物投げれば解決するとでも思っているのかな。  腹が立って、でも顔を見るのも嫌で、そのままスルーしようとした。  でもまた突っかかってくる。元気だな、このじじぃ。 「待て! 更紗!」  今度は本人が向かって来そうな気配があったから、一瞬身構えた。でも、来なかった。代わりに、聞いたことがないような叫び声が響いた。 「いい加減にしてよ!!」  叫んだのは、母だった。  誰に向かって言っているのか一瞬わからなかった。  その後にまたわたしが「ちゃんとしてよ」と言われるのかと思っていた。だから覚悟してそれを待ちつつ母の方を見たら、母は父を背後から羽交い締めにしていた。 「更紗! いいから行きなさい!」  何が起きたの。  どういうこと? どういう意味?  母は、父からわたしを庇ってくれている? 「いいから早く! ヨシタケさん、よね!? 更紗をよろしくお願いします!!」  そうか。母は年末にわたしが伊織さんの家に泊めてもらった時、一度電話で話をしていた。ちゃんと覚えてくれていたのだ。 「うるさい、離せ! 芙美子!!」 「あなたこそうるさい! もういい加減にして!」  初めて見る母の姿に度肝を抜かれて、一瞬、足が動かなかった。  こんなふうに父に歯向かったところなんて一度も見たことがなかった。いつも父の言いなりで、ひどいことを言われてもされても黙って耐えていて、なんてつまらない人生なんだろう、と思っていた。そんな母が、どうしてこんなに怒ってるのだろう。  何のため? 誰のため? 「早く行きなさい。大丈夫だから」  まだグダグダ暴言を吐き続けている父を抑え込んだまま、母がわたしに言った。  突然、伊織さんがわたしの腕を掴んだ。それから、両親に向かって頭を下げる。 「更紗ちゃんは私が責任持ってお預かりします」  そして、そのまま来た道を引き返した。わたしの腕をしっかり掴んだまま。  空が深い。  冬特有の澄んだ空気が仕立て上げた留紺(とまりこん)の夜空を見上げて、今目前で繰り広げられた悪夢のような騒動を全てリセット出来たらいいのに、と思う。  何が起きたの、本当に。  これって、現実?  なんだかちょっと既視感、と思って、気付いた。  わたし今日、伊織さんに助け出されたの2回目だ。
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