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19 琥珀色 こはくいろ
ついさっき歩いた道を、今度は反対に向かって歩いている。わたしの手をしっかり繋いで、伊織さんは歩調を緩めようとはしない。
最悪なところを見られた。よりによって、伊織さんに。
絶対に見られたくなかったのに。知られたくなかったのに。
伊織さんは何も話さない。ずっと黙って振り返りもしないで歩いている。手だけは、力強くギュッと握ったまま。
「あの……なんか、すみません……あの、えと、あの人……あんなんでも一応、ちゃんとした会社の重役とかやってて、よく知らないけど偉い人みたいで、でもなんか、頭固いっていうか、すぐ怒って、ホンッットにクソ親父なんだけど」
何を言ってるの、わたし。言い訳してどうするの。何が言いたいのか自分でもわからない。
「母も、母もね、いつもはあんなふうに大声出したりはしない人で、おっとりしててもっと静かなんだけど、今日は……どう、しちゃったのかな、あはは」
笑ってごまかせるならそうしたい。笑って、笑い終わったらもう忘れられていればいいのに。でも、そんなわけないよな。
「なんでだろう……なんか、うーん……」
手を引かれているから、大丈夫かな。目の前がもうまともに見えていないのだけど。メイク落ちるかな。というか、周りに見られていたりするのかな。それすらも見えないけど。
「こんなんなら、打ち上げ行った方が良かったですねぇ……あはは」
自分の笑い声が見事に上滑りして乾燥した冷たい空気に吸い込まれていく。
バカみたい。親に暴言吐かれて、伊織さんにも嫌な思いさせて、こんなふうに連れ出されて、言い訳して、泣いて。カッコ悪すぎて、情けなさすぎて、もっと泣けてくる。
普通に考えたら間違いなくドン引き案件。泣きながらこんな外見王子みたいな人に腕を引かれて連れて行かれて、我ながら大丈夫かな、とか思ってしまう。商店街だし。これは、これから電車に乗る流れだったりするのかな。
もう嫌だ。全部、嫌。どこか行くのもどこにも行かないのも全部。もう消えたい。いろんなことが全部なかったことにならないかな。
駅に着いて、伊織さんがようやく足を止めた。
わたしの方を様子を伺うように見ていたけど、やっぱり何も言わない。そのまま黙って改札を通って結局、大学の方向に戻る電車に乗った。
電車の中でもずっと黙ったまま。上り電車はそれほど人は多くなくて、わたしたちは並んで座った。それでもやっぱり会話はない。
ただ、手だけはずっと繋いでくれていた。ずっと、ギュッと握ってくれていた。
言葉で確認はしなかったけど、こうなるだろうな、とは思っていた。
前にも来た、伊織さんの家。前は来た時の記憶がなかったけど、今日はちゃんと覚えている。
大学の最寄駅から2つ隣の駅。もう二度と降りないだろうな、と思っていた駅に、また降りた。しかも、伊織さんと一緒に。どんな成り行きかと笑えてしまうけど、今は自力では流れに逆らう余裕がない。だから黙ってついて来るしかなかった。
駅から家までもやっぱり黙ったままで、何か怒っているのかな、と思ったりもしたけど、手はちゃんと繋いでくれているし、怒っている証拠は見当たらなかった。
「お腹空いたね。何か作ろうか」
家に着いて、荷物を置いてコートを脱いで、一緒に洗面所で手を洗って。
促されるままに従いながら、これからどう過ごしたらいいのだろう、と考えていた。でも伊織さんは普段通りで、自分だけがこんな不安定で凹んだ気分でいるのかと思ったら、また情けなさで涙がじわりと浮かぶ。
返事をしないわたしをその場に置いて、伊織さんはキッチンへ向かった。
また、迷惑をかけている。いつもこんなだな、わたし。
伊織さんはどうしてわたしをここに連れてきてくれたのだろう。
同情? 見るに見兼ねて? 仕方なく?
卑屈な考えばかり浮かんで、次から次へと浮かぶその重たい思考がどんどん頭の上に積み上がっていって、その重みで自分がどんどん沈んでいくような気になる。
このままでは窒息してしまう。苦しい。浮上したい。ちゃんと呼吸したい。自分に纏わりついている濁ったドロドロの膜みたいなものを、全部取り去りたい。
「伊織さん」
気づいたら、声をかけていた。
キッチンに向かって呼びかけると、エプロンを手にした伊織さんが顔を出す。
「あの……迷惑、かけて……すみませんでした」
伊織さんは一旦キッチンに戻ってエプロンを置いてからリビングに戻って来て、私が立っているすぐ横のソファーの肘掛の部分に軽く腰掛けた。
「なんか、色々、変なこと口走った、っていうか」
思い出したくないから蒸し返したくないけど、向き合わなければ謝れないから仕方ない。
「さっき……わたし、ちょっと混乱して」
言いたいことも全然まとまらなくて、自分でも何を言いたいのか、何を言えばいいのかよくわからない。でも伊織さんは黙ってじっと待ってくれている。
「伊織さんのこと、友達、って、言えば良かったのかな」
「でも私の見た目じゃ色々ややこしくなるからねぇ」
優しい声。やっぱり落ち着く。
「じゃあ、素直に先生だって言っちゃえば良かった?」
「それでも良かったけど、こないだ泊めたのもそうだし、在学中の学生と教員があんまり親しすぎるのもね……」
「じゃあどうすれば良かったの」
あんな状態の父に何を言ってもどうにもならないことは分かっていたけど、母や伊織さんに伝わる言い方は何かもっとあったのではないかと思ってしまう。
「だからせっかく私が無難に彼氏のふりしようと思ったのに」
「それじゃあ伊織さんが、伊織さんだけが……」
綺麗な長い指がそっと近づいて来て、だらりと下がったままのわたしの手を取った。
「バカだねぇ。わざわざ一番面倒な伝え方しちゃって」
そうだ。わたし、バカだ。いくらでも隠せたのに。これまでもそうだった。ごまかして、隠して、それでやって来れていた。だからこれからもそれでいけたはずなのに。
「でも、ちゃんと言いたかったんだよね」
伊織さんの言葉が、ゆっくりと心の表面を包むみたいに優しく覆いかぶさってくる。
「本当のこと、伝えたかったんだよね」
本当のこと。
自分のこと。
性的指向のこと。
わたしの、大切な人のこと。
今までずっと隠して来たこと。
「……伊織さん、知ってるの?」
何を、かは、もう言わなくてもわかるはず。
「知ってるよ」
そうか。当然か。知っているからこういう展開になったのだ。有難いような、恥ずかしいような。
「……リカから聞いたの?」
「ん? 違うよ。サラちゃんが自分で言ったんだよ」
「え! いつ!?」
まさかの、自分!
なんだかもう、自分のダメっぷりが色々と怖い。
「去年の年末の……リカちゃんのあの騒ぎがあった時」
「え……」
「好きでマイノリティに生まれたわけじゃない、って」
わたしあの時、そんなことを。
伊織さんが言っていた「秘密聞いちゃった」というの、それだったのか。
「あと、くそじじい、って」
そこまでか。そこまで言ったのか。まあ、もういいけど。
伊織さんが面白そうに笑いながら話していて、おかげで悲壮感は少しだけ減ったかもしれない。
「だから、もしかしたらご家族に……お父さんに対して、マイノリティ故の複雑な思いを持ってたりするのかな、って思ってさっき一瞬悩んだんだけど」
それであの時、自分のことを僕と言ってくれようとしたのか。色んな話の筋道がやっとつながって来た。
「結局、私の読み間違いだったね。余計なことしてごめん」
「そんな、伊織さんが謝ることじゃない、です」
一番嫌なのは、わたし個人のマイノリティ関連のゴタゴタに伊織さんを巻き込むこと。同じ当事者だし、伊織さん優しいから、きっと他人事ではなくなる。そうしたら伊織さんも同じように傷付くかもしれない。それだけは嫌だ。
「あとね、サラちゃんには一つ、言ってないことがあって」
「……何?」
「今年のはじめにさ、駅前で会ったことあったでしょ」
年始。駅前。あの時だ。シノブと会っていた、あの時。
「あの時にね、サラちゃんと別れた後、あの……サラちゃんと一緒にいた男の人に声かけられて」
シノブが? シノブはあの時、先に別れて帰ったはずだったけど。
「誤解されたら困るんで、って、更紗とは付き合ってるとかそういうんじゃないから、ただの友達だから、って」
そんなことを言うためにわざわざ戻って来てくれたのか。
「今までもこれからも、更紗とはそういう関係にはならないから、って。それに、更紗には他にも付き合ってる相手いないから、って」
シノブの勘の良さは知っていたけど、あの日の会話と駅前のほんの数秒のやりとりだけでわたしの好きな人が伊織さんだと気づいてしまったのか。
「何で私にそんなこと教えてくれたんだろうね、彼は」
「なん……で、かな……」
あの時鉢合せする直前にわたしが好きな人のことを話したからだ。シノブは優しいから。
「本当はさ、だいぶ前に、サラちゃんがたまにデートしてるってリカちゃんから聞いたことあって、そういう相手いるなら私の出る幕ないかなーって遠慮してたんだけど」
リカはリカで、ああ見えて意外とお節介な策士だから、きっと伊織さんを煽るつもりでそう言ったのだろうな。
「でもあの彼からそう言われて、付き合ってる人いないなら、って思っちゃったんだよね」
付き合ってる人いないなら、何?
いないなら、どうするの?
「私みたいなタイプにとってはさ、相手に好きな人がいるか、ってこと以前に、そもそも同性相手に恋愛できる人なのか、っていうところがネックじゃない? そうやって何段階も壁を乗り越えて、ようやくちゃんと向き合える、っていうね」
壁、を、乗り越えようとしてこなかったわたしは、伊織さんの言葉に頷いていいのだろうか。
「だから私も、時間かけて探りながら色々詰めて来たんだけど」
同じ同性愛者でも、最初から全部無理だと決めつけて何から何まで避けて逃げて目を逸らしてきたわたしとは大違い。すごい。素直に尊敬する。
「まさか、サラちゃんから先に宣言してくれるとはね」
つい、成り行きで、と言いそうになって、それは状況的にはそうだったとしても意味としては違うな、と思い留まる。
「でも、本人より先に親に言っちゃうってどーなのよ」
「それは……」
「しかも本人を目の前にして」
指摘されて改めて、結構なことをしでかしたな、と思い知る。そうか、わたし、親にすごいことを言ってしまったのだ。本人にもまだ伝えてないことを、本人の前で。恥ずかしくて死ねるかも。
言葉に詰まるわたしを見て、伊織さんは芝居じみた表情を作って首を傾げた。
「あれぇ、もしかしてさっきのって、あの場を凌ぐためについ口走った口から出任せとか言っちゃう?」
「違う、違います……そうじゃない」
「あはは。ジョーダンだよ」
思わず振りほどいた手を改めてしっかり握りなおして、ギュッと両手で包んでくれた。
「ちゃんと伝わったよ」
まっすぐな視線。強くて、刺さる。射抜かれそう。
「でもできれば、ちゃんと私に向かって言って欲しいかな」
視線だけでなく、言葉まで、真正面からまっすぐにぶつかってくる。
返事しなきゃ。何か、返さなきゃ。でも、何て答えたら。
「ちゃんとしよう。ね」
突然の言葉。
誰?
誰が言ったの?
必然のフラッシュバック。
母の声に変換されて、頭の中をぐるぐる回る。
ちゃんとしてね。
伊織さんの声だった。はっきりと。
あなたまでそれを言うのか。
動揺と焦りで、心拍が上がったのがわかる。
「ちゃんと。サラちゃんは、サラちゃんらしく、ちゃんと、ね」
「……え?」
一瞬、意味がわからなかった。でも、絶対に取りこぼしてはいけないやつ。必死に言葉を追って、拾って、頭に叩き込む。
「サラちゃんならできると思うから」
わたしらしく?
自分らしくすることが、ちゃんとする、ということなの?
「ちゃんとしよう」
いつからかわからないほど遠い昔からわたしを縛り付けてきた母の呪詛。
ちゃんとして、ちゃんとすれば、ちゃんと生きて行けるから。
でもその言葉がどういうことを指すのかを具体的に聞いたことはなくて、なんとなく、一般的なことを普通にこなして平均的な人生を送ればいいんでしょ、くらいに思っていた。そして、そんなこと簡単にできる、とも思っていた。
でも本当は、苦しかった。みんなが普通にできて当たり前のことが自分にはしんどくて、すごく辛かった。それを表に出せないことも苦しかった。簡単にできると思ったことを、何もできなかった。どれだけ不良品なんだろうと自分を恥じて、自分を責めた。
だから、全部隠して生きていくことにしていたのに。
サラちゃんらしく、と伊織さんは言った。
わたしらしく、って、何?
どうしたらわたしらしく生きられるの?
「サラちゃんの言葉を、サラちゃんの口から、ちゃんと聞かせて」
わたしの言葉。
取り繕った言葉ではだめなことはもう分かっている。本当の、自分の中にある、本音。本当の気持ち。本物の思い。
それを伝えれば、わたしらしくいられる?
「お願いできる?」
伊織さんの言い方も声も表情も全部優しくて、優し過ぎて、自分が今までひとりで闘ってきた意味とか価値とかがボロボロと崩れていくような気がした。
赦してもらえることというのは、こんなに嬉しいことだったのか。
「はい……」
改めて握りなおしてくれた手が、優しくて、温かくて、また泣いてしまいそう。
「伊織さんのことが、好き、なんだと思います……あの、大事、っていうか、すごく、大切だと思う……」
言えた。今言える限りのことを、全部。
「うん。ありがとう。すごく嬉しいです。私もサラちゃんのこと好き。大好きです。もうずーっと前から。ずっと好きでした。今も好きだし、これからもきっと好きだと思う」
ご褒美みたいな返事をもらえて、これは本当に現実のことなのかな、と思う。それくらい思いもよらなかった展開。もしかしたらわたしこの後すぐ死ぬのかも、とか、非現実的なことまで考えてしまう。一生分の幸運、使い果たしていないかな。
「これからいっぱい話そう。いろんなこと。たくさん。あとは、いろんなところ行ったり、いろんなこと一緒にしたり。いっぱい遊ぼう」
夢なんかではない。すごい。現実だ、これ。だって、嬉しいけど、不安なことも死ぬほどいっぱいある。不安で心配なことも山積み。でもきっと、それを一緒に乗り越えていこうね、という話をしてくれているのだと思う。
「はい」
異性愛者同士の恋愛より障壁が多いだろうことは、簡単に予想がつく。でももうそこは避けては通れないとわかってもいる。もしどうしても避けるのなら、恋愛しない、という方法しかない。それでは今までと何も変わらない。
好きになってしまった。惹かれてしまったのだから、仕方ない。伊織さんがすぐ隣でわたしを見ていてくれるなら、頑張れる気がする。
そして、わたしは気づいた。
たったひとりで逃げ隠れしていた時より、今の方が、伊織さんと一緒に立っている今の方が、断然気持ちが楽なのではないか、と。悩みの種類や量は変わっていなくても、ひとりきりではないということがすごく心強い。
答えはすぐには出ないと思う。でも、その答えをこれからじっと探しながら生きていくのも悪くないのかも、と思う。ゆっくりと、伊織さんと一緒に。
「いくつか訊いてもいい? サラちゃんは、ビアン? それともバイ?」
伊織さんがソファの肘掛けからちゃんとシートへ座り直して、わたしもすぐ横に座らされた。それから、手は繋いだまま、ゆったりとトークタイムになった。
伊織さんのこういう空気、すごく好き。相変わらず心地いい。
初めてこの部屋に来た時に、この部屋の他の色も見てみたいと思った。そのひとつが今叶っている。
夜の色。琥珀色の部屋。最小限の照明しかなくて、その色も全て電球色。一般的な家庭よりだいぶ暗いのは、あのHSPの特性のせいかな。眩しいのは苦手だと言っていたから。わたしも同じなので、このくらいの光量は本当に居心地が良い。
「男の人は、無理です」
思いを伝えたことと、伊織さんの気持ちもちゃんと聞かせてもらったことで、わたしたちの間で嘘や建前が意味のないことだという認識が強くなって、会話の濃度は一気に上がった気がする。本当のことを伝えることへの躊躇がかなり減った。
「そっか。じゃあ、こないだの男の人は……本当に、ただの友達?」
それでも、シノブのこととなると、何でもかんでも包み隠さず、というわけにもいかない。
「……あれは、あの人は、わたしが、利用させてもらってたっていうか」
「利用?」
「うん。わたしが、その……もしかしたらマジョリティとして生きていけるんじゃないか、って思って、それを確かめて、確認、して、継続するために」
嘘はつかないで、でも言い方は微調整しながら、できるだけ伊織さんが嫌な気持ちにならないような言葉を選んでいるつもり。
「セクシュアリティの確認、ってことは、そういう行為もあったってこと?」
「まぁ、はい。そうです」
「セフレ、ってこと、だよね」
「……そう、かな。はい、たぶん」
結局、正直に言うしかなかった。自分のやったことだし、事実だし。
伊織さんがどんな顔をしているのか、怖くて確認できない。でももう、ごまかすために嘘をつくのは嫌。
「そっか」
どんなに頑張って慎重に言葉を選んでも内容は変えられなくて、そのことで伊織さんは少なからずショックを受けるかもしれない。そう。こういう顔で、こんなふうに。だからわたしは、今までのことは変えられない代わりに、これからのことをちゃんと話す。正直に、誠意を持って。
「でも、もう会わないから」
こんな口約束を信じてもらえるかわからないけど、わたしの中では嘘偽りない本心で真実で、今はそれをそのまま伝えるしかない。
「彼はそうは思ってないかもよ?」
「あの日、全部話しました。わたしが男の人無理なことも、好きな人ができたことも。だからそれで、全部話して利用してたことも謝って、もう会えないって話しに行った日だったの」
「そうだったんだ」
握っている手にギュッと力が入って、言葉だけでなく、その指からも伊織さんの思いが伝わってくる。
「それで、全部納得して、ちゃんと終わりにしてくれて」
わたしからもしっかりと手を握り返して、わたしの気持ちもちゃんと伝わればいいと願った。
「だからあんな情報わざわざ言いに来てくれたんだね」
「たぶん、はい」
自分の言動のせいで相手が一喜一憂するのは怖い。自分が振り回されるよりしんどい。
「じゃあ、彼とはもう終わった、っていうことでいいのね?」
「はい」
「そっか。うん、分かった」
100パーセント納得できたのかは、今はわからない。それを確かめることすら、怖い。
「……すみません」
「え、何で?」
「付き合ってもないのにそういう……カンケイの、人とか……」
わたしが伊織さんに対して悪いことをしたわけではないのだけど、なぜか謝ってしまって、謝られた伊織さんも複雑な顔をしていた。
わたしは多分、自分に対して謝りたかったのかもしれない。ずっと隠して、嘘をついて、閉じ込めていた自分に。
「まぁ、ね……事情が事情だし、理由も分かったし、もうコドモじゃないから色々あっても仕方ないと思うよ」
「すみません」
「でも」
ジリ、と顔を寄せて、何か言いたげな表情でじっとわたしを見た。
「やっぱりヤダな……」
少し拗ねたような口調でズルズルとわたしの方に倒れてきて、そのままのし掛かるみたいにして体重をかけてくる。
「私がサラちゃんを好きだった間も他の誰かがサラちゃんに触れてたんだと思ったら、もーめっちゃモヤモヤするし、悔しいし、ムカつく」
ハグとは言い難い、押し潰すみたいな体勢のまま、伊織さんはやっぱり不貞腐れたような言葉を連ねた。
「しかも、あんなオトコマエとか」
「……え?」
「なんでもない! もう終わったんならいいよ」
一度ギュッとわたしの体に腕を回してからすぐにパッと離して、伊織さんは立ち上がった。
その顔には不機嫌さはもうなくて、深読みする時間をもらえないまま伊織さんは次の行動に移ってしまった。
「さ、何か作って食べよう。あーもうこんな時間。さすがにお腹空いたね」
「一緒にやります」
自分に自信がないから、今は伊織さんに合わせていくしかない。伊織さんのペースに合わせて、伊織さんに引っ張ってもらって、色々と乗り越えて行くしかない。
はい、と手渡されたエプロンを身につけて、この前とは少し違う気持ちでキッチンに立つ。こういうのがこれから普通のことになるのだと思うと、無性に嬉しかった。
もう遅くなっちゃったし、予定なかったから食材がそんなに揃ってなくて、という理由で、夕食は割と簡単なものをサッと作る程度にね、ということになった。それでも、作り置きのものも含めて並べたらかなりしっかりとした食事になった。わたしが最初に思い浮かべた「適当なご飯」とのギャップに恥ずかしくなって、ひとりでこっそり身悶える。
ダイニングで向かい合って座って、いただきますと手を合わせて。こういう些細なことを楽しいと思える感覚を持ち合わせていることが嬉しい。
「今日はこのまま泊まってっていいけど、明日からどうするかはちゃんと考えよう」
「はい」
こんなふうに逃げてきたけど、このまま黙っていていいわけではないのは分かっている。まだ親に養ってもらっている立場で、学生で、そういう意味ではコドモだ。
ちゃんと考えなければ。
「あと2ヶ月は学生なんだし、ご家族とのことはしっかり向き合ってけじめつけよう」
「そう、ですね」
地味に伊織さんとの立場や経験の差を突きつけられている気がして、少し寂しい。でも事実だし、それは仕方ない。追いつくことは無理でも、近づくことはできるかもしれない。
「一緒に考えるから」
「……はい」
状況はまだ何も変わっていないけど、そう言ってくれる人がいるのといないのとでは気持ちが全然違う。心強いし、嬉しい。
一緒に食事をして、片付けて、順番にお風呂に入る。いつもだったら何の気無しにルーティンとしてこなしていることが、今はこんなにそのひとつひとつの意味が大きくて重い。だから全てのことに感覚マックスで対応していたら身が保たなさそうだけど、少しずつ慣れていかないといけない。
「あんまり色々気にしすぎると疲れちゃうから。適当にね」
思い詰めていたことを一瞬で見抜いたのか、伊織さんが声をかけてくれた。
伊織さんの何にでも余裕ある感じが、すごく頼もしい。大人だな、と思うけど、性格もあるのかな。リカのあっけらかんとした全てを蹴散らしそうなくらい明るくて前向きな感じとはまた違う種類の、どちらかというと動じないどっしり系の余裕。
自分もHSPなのに、わたしのことばかり気遣ってくれて。いや、同じタイプだから余計にわかってもらえているということなのかな。それはそれで嬉しいけど、じゃあ伊織さんは誰に気遣ってもらえばいいんだろう、と思ってから、自分がそうすればいいのだと気づく。そんなの当たり前なのに。バカだな、わたし。浮かれすぎて、自分の立ち位置をまだあまりよく理解できていない。
「どうした?」
「あ、いえ……なんでもないです」
なんだか、緊張する。
迷惑かけたらどうしよう。嫌な思いさせたらどうしよう。鬱陶しいと思われたらどうしよう。どうしよう。そう思うと色々なことが怖くなって、自分はここにいるべきではないのではないかとすら思ってしまう。
だめだ。これは悪い癖。いつもそう。この逃げ方はやめなければ。
「大丈夫だよ。一緒にいるから」
いつもみたいに頭をポンと軽く撫でられて、それだけで、ここにいてもいいのだと許された気がする。
自分のことだけでこんなにいっぱいいっぱいなわたしが、ひとのことを思いやったり気遣ったりできるかどうか、自信は全然ない。でも、こうして向き合わせてもらえているのだから、このチャンスを無駄にはしたくないな、と思う。
髪を乾かして寝る支度をして、エアコンで暖められている寝室に移動すると、伊織さんはわたしをベッドに入らせて、自分はすぐ隣に腰掛けた。
「眠れそう?」
どうしてそんなことを訊くのかな、と思ってから、思い出した。
今日は色んなことがあったのだった。気持ちがざわめいたり昂ったり、一日の中でかなり乱高下したのだった。でも、伊織さんの家に来てからの時間が穏やかすぎて、色々と忘れそうになっていた。
「あの……」
「うん」
話してみたい。思っていることを。聞いてもらえるかな。
「父は、典型的な男尊女卑の考え方で、しかもセクシュアルマイノリティを認められない人で」
思いつくままにいきなり話し出したわたしの言葉を遮ることもなく、伊織さんは黙って耳を傾けてくれている。これは、続けてもいいのかな。
「性的少数者を、異常者で人前に出ちゃいけない病人だ、って平然と口にできる人で」
内容によっては、わたしがそれを目の当たりにして傷ついたのと同じように、伊織さんのことも傷つけてしまうかもしれない。でも、知って欲しいと思った。わたしのことを。わたしの家族のことを。
「わたしは父と分かり合いたいとも思わないし、認めて欲しいわけでもない。母はそんなハラスメント体質の父に逆らうこともなくいつも黙って耐えてて、でもわたしが父から厳しくされてても助けてもくれない人だったから、母に対してもあまり期待はしないようになってて」
いちいち思い出すし、その度にまた傷ついて苦しい。でも、本当のこと。これが現実なのだ。そういうわたしを知って欲しい。
「でもさっき、あんなふうに母が声をあげたの初めて聞いて、なんか……もしかしたら母も色々と思うところがあったのかな、とか、思って」
伊織さんがそっと、布団の中に手を入れて、わたしの手を探し出して握ってくれた。
今夜伊織さんの家に泊まることをちゃんと自分から連絡した方がいいのかな、と思ってさっきスマホを開いたら、母からLINEが来ていた。
『お父さんは酔っ払ってもう寝ました。お父さんがひどいことしてごめんね。怪我してないといいのだけど』
『更紗のことだからお母さんのこと心配してるんだろうなと予想つきます。お母さんがあんなふうにしたから後からお父さんにひどいことされないか心配してるのでしょう。でも大丈夫です。お父さんの方が、私がいないと生きていけない人なのよ。だから平気なの』
『更紗ももう子どもじゃないんだし、お母さんは何も心配していません。更紗は更紗が幸せだと思える生き方で生きて行ってね。お父さんには適当に説明しとくから大丈夫よ』
母からのメッセージは普段あまりもらったことがないような長文で、そんな母の本音じみた言葉を聞くのは初めてだった。
わたしは、今度また改めてちゃんと話します、こちらは大丈夫、とだけ返信した。
色々と意外だった。父の方が母に依存しているなんて初耳だし、わたしに対してもそんなふうに思ってくれていたなんて。もしかしたら母も、本当は色々と生きたい生き方があったのかもしれない。
思うんだけどね、と言って伊織さんがわたしの顔を覗き込む。
「時代とか文化とか風習とかさ、その人が生きてきた背景に、その人がそういう考えになってしまった要因ってあると思うんだよね。家庭環境かもしれないし、恩師の影響かもしれないし。それは私は不可抗力だと思ってて、しかも年配の人なら尚更、長い間信じてきた思考を変えることは難しいと思う」
これはもしかしたら、わたしの家族のことだけでなくて、伊織さんの周囲の人のことも含めての話だったりするのかな。家族とか、親族とか。代々続く職人さんの家系だし、ウチみたいな一般家庭と違った伝統とかしがらみとかがいっぱいあるのだろう。
「まぁ、もちろん、その自分の価値観を人に押し付けたり違う考えの人を攻めたりっていうのはアウトだけどさ」
そうだよな、誰から見たってそれはアウトだよな、と少しホッとする。
「だから、そういう人との衝突を避けるために真実を伝えないっていう選択は、私はアリだと思うよ。例えそれが肉親でもね」
厳しいことを言っているようだけど、伊織さんも当事者で、今まで色々なことを乗り越えてきたからそう言えるのだろう。
「本当のことを言ったことでひどく傷つけたり怒らせたり悲しませたりするくらいなら、黙ってた方がお互い幸せなことだってあっていい」
伊織さんのこういう柔軟さは、場合によっては救いになる。わたしはまだ、頭ではもっと力を抜いたほうがいいと分かっていてもなかなか思うようにできないので、伊織さんがこうして緩めてくれるのはすごく助かる。頭ガチガチでしかもそれを自分でしんどく思うわたしにとっては、救いになる。
「お父さんには、サラちゃんのセクシュアリティをはっきり伝えたことあるの?」
自分からそういうはっきりとした言葉を使って伝えたことは一度もない。
「ないです。父にも母にも」
「でもさっき、まだ治ってなかったのか、って言ってなかった?」
そう言えばそんなこと言っていたっけ。
「ずーっと前に、一度、父がテレビを見て同性愛者をひどい言葉でバカにした時に、わたしがついその人たちを庇ってしまって、それを父が、お前も同類なのか、って怒ったことがあって、その時もいきなりキレられて物投げられたからそのことについては否定も肯定もしなかったことがあって」
「あらら。そうなんだ」
「だからはっきりとレズビアンだってカミングアウトしたことはないけど、疑惑程度にはもしかしたら覚えてたのかも」
もし本当に真実を伝えたとして、あの人がそれをまともに受け入れる可能性はゼロに近いだろうな、と想像はつく。そして、こちらが完全否定されておしまい、という結果が目に見える。そういえば、もしわたしがマイノリティなら、それは母が別の男と作った子どもだろう、と言ったのだっけ。今思い返しても最低すぎる。ゲスすぎて笑えるレベル。
「そっか。じゃあ、これからどうするか、だよね」
「はい」
伊織さんがじっとわたしを黙って見つめている。何かを探るように。何かを見極めようとしているみたいに。
「サラちゃんが自分で決めればいいと思うよ」
「……え?」
てっきり、何かアドバイスをしてくれるのだと思っていた。ちゃんと言った方がいいよ、なのか、言わない方がいいね、なのか。でも、違った。
「カミングアウトしてもしなくても、私は変わらずサラちゃんを好きだから」
伊織さんの手がわたしの頭をそっと撫でる。
これ、気持ちいいんだよな。
「何も変わらないから」
こんなふうに優しく撫でられて、優しく声をかけられて、わたしの中でいろんなところに張り巡らされていたストッパーみたいなものがどんどん外されていくのがわかる。まるで、楓さんがセットに固定していた縄をカラビナから外したときみたいに。
「さ。もう遅いから寝よう。疲れたよね」
突然立ち上がった伊織さんの動きにびっくりして我に返った。今、一瞬、少しおかしなこと考えそうになっていたかも。びっくりした。
「サラちゃん、ここ使っていいからね」
「え? 伊織さんは?」
何を言い出したのかと思って、とりあえず訊いてみた。
「私はソファで寝るよ」
「そんな、だって……伊織さんの家なのに……」
「あー、平気平気。私よくソファで朝まで寝ちゃうことあるし」
別々に、寝るのか。
「……こないだは一緒に寝たのに」
「こないだはね、まぁ、あれは突発的な事故だったし。今日は、親御さんからちゃんと預かってきてるからね。それこそ、ちゃんとしないと、ね」
当然、一緒に寝るものだと思っていて、何も疑っていなかった。でも違った。
ものすごくがっかりしている自分がいて、そのことに驚く。
何、これ。なんでわたし、こんなにショック受けているの。
いや、受けていない。別に。
そうだよな、まだそんな、付き合ってるとかそういうんじゃない人と一緒に一つのベッドで寝るとか、ないよな、と自分に言い聞かせる。このあいだのが本当に例外だったのだ。
「じゃあ、わたしがソファでいいです」
本当にベッドを遠慮しようと思って起き上がる。でも、言ってから、なんだか言い方が卑屈な感じだったな、と後悔した。
「いいって。ゲストをソファでなんてダメでしょ。ここで寝て」
伊織さんの躱し方がやっぱり手慣れていて、オトナだなと思い知らされる。
「……一緒でもいいのに」
「こら。そういう事を簡単に言うんじゃないの」
伊織さんに比べてわたしはいちいちガキくさくて、自覚はあるけどうまくコントロールできない。悔しい。
「なんか、すみません」
「ん?」
「色々、迷惑かけて」
かっこ悪い。本当に、ガキくさい。
「迷惑だなんて思ってないよ。全部私が自分で決めて動いたことだし」
「すみません」
一度立ち上がった伊織さんがまたしゃがんで、目線を同じにして話してくれる。
「謝らなくていいって」
頭をくしゃっと撫でられて、また、何かが緩む。
「ありがとう、ございます」
なんだか、すごく嬉しい。すごく許されている気がして、受け入れてもらえている感じがして。子どもの頃からなんとなく家族との間にもうっすらと壁があるような気がして過ごしてきたから、こうやって触れてもらって「いいよ」と言ってもらえるのは、単純に嬉しい。
「うん、まだそっちの方がマシ」
ふんわりと笑った顔が可愛くて、心臓がキュッと縮こまった気がした。
なんだか、すごくドキドキする。
こんなに近くで、こんなふうに笑いかけてもらったら……
「ほら。ベッド入りな」
伊織さんが布団を持ち上げて、わたしを再び寝かせた。
よかった。また変な感覚が出てきそうだった。本当にわたし、どうなってしまったんだろう。
「ホントにソファで寝るんですか?」
「ダイジョーブだって。ちゃんとあったかくして寝るから」
年上の家主にこれ以上逆らっても無駄だな、と思って諦めるしかない。
布団を整えてくれて、最後にまた頭をポンポンと撫でてくれた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
寝室を出ていく伊織さんを見送って、今日の出来事を思い返す。
本当にいろんなことが山ほどあったすごい一日だった。疲れて、疲れ果てて、身も心もぐったりしていて、でもなぜかどこか満たされている。不思議な一日だった。
これから何か変わるのかな。変わったらいいな。何か、変わればいい。
目を閉じて、次々と浮かんでくる映像や音にゆっくりと引きずり込まれながら落ちていく感覚を、無抵抗で受け入れた。
朝起きて、ベッドにはわたしひとり。でも、夜中にずっと伊織さんが隣に居たことには気づいていた。たぶん、わたしが寝入ってからベッドに来た。それで、わたしが起きる前に抜け出したのだ。ぼんやりとだけど覚えている。
お互いに、相手に好意を持っていることは伝え合った。でも、じゃあ付き合おうとか、付き合ってくださいとか、そういう約束的なことは何も交わしていない。
今、わたしたちってどんな関係なのだろう。呼び名が付くような関係になったのかな。
その答えを確認するのが怖かったから、わたしは夜中に伊織さんが隣に来たのに気づいたけど寝ているふりをした。
ごめんね、伊織さん。わたし、経験値が低すぎて、たったそれだけのことを確認することもできない。でももうしばらくは様子を見させてください。このまま、受け身のまま、流れの方向を見守りたいです。
寝返りを打って、伊織さんがいた場所に手を伸ばしても、もう温もりは残っていない。薄明るい部屋で時計を見ると、7時を少し過ぎたところだった。
もしかしたらもう朝食を準備してるのかな、と思って、一緒に食べるご飯を作ってくれている伊織さんを想像したら、身体の奥の方がギュッと縮こまったような詰まったような感覚に襲われた。それは次第に全身に緩く広がって、切ないような苦しいような嬉しいような不思議な感覚に包まれて怖くなったわたしは、自分の身体を両腕で抱きかかえた。
「伊織さん……」
頭の中がざわざわして、胸の奥がそわそわして、身体全体がゆらゆらする。どうしたんだろう。こんなふうになったことないのに。まさか風邪ひいた?と思っておでこを触ってみたけど、特に異常はない。喉も痛くないし、鼻もいつもと変わらない。
これ以上ひとりで悶々としていても仕方ない、と思って、思い切って起き上がる。
昨日のナワヨイというやつもそうだったけど、自分でもコントロールできない意味不明な感覚が最近多くて困る。伊織さんの言っていたHSPとは別の話かな。今度よく調べてみよう。
また、掛け布団の足元にカーディガンが置いてあった。前回と同じようにそれを借りて羽織って、リビングに向かう。
「あ、おはよう。起きたね」
「おはようございます」
キッチンからお皿を持って出てきた伊織さんが、わたしに気づいて声をかけてくれた。
「すみません、起きれなくて」
「平気。そんな寝坊ってほどの時間じゃないよ」
お皿を置いてから、わたしの方へ歩み寄る。そして、ふわっとわたしを抱き寄せた。
「よく眠れた?」
一度だけキュッと腕に力を入れてすぐに離れて、またわたしの頭をポンと撫でた。
「はい……でも、夜中に誰か来た……」
「……へぇー。誰だろうねぇ」
「……誰だったんだろうな」
白々しい芝居がかった会話を交わして、ジロリとわざとらしく睨んだら、伊織さんがへにゃっと顔を歪めて笑った。
「だってぇ、寒かったんだもーん」
「えっ、ホントに? そんな……ごめんなさい、わたしのせいで」
焦って謝ったわたしを見て、伊織さんも慌てた。
「あ、ウソウソ、ごめん。嘘です。ただ、やっぱり一緒に寝たかっただけ」
「……本当?」
「うん」
冗談で良かった。単純なわたしはこういうのにすぐ引っかかる。
「もー。びっくりした」
「ごめん。でも、一応ね。建前上」
チャラいチャラいとずっと思っていたけど、そう思うようにしていたけど、この人のチャラさは本当はただの気遣いと甘えん坊なのだと、もうだいぶ前から気づいていた。でも今はそれをあまり出さないようにしてくれていて、そういうところはやっぱり真面目なんだな、と感心する。
わたしの存在が、伊織さんに何か負担をかけていないといいな、と思う。重荷になっていないかな、と不安になる。何か我慢させていたり、何か制約を課していたりしないかな、とか。
「ごはん、できてるよ」
「はい。顔洗ってきます」
伊織さんと一緒にいることが普通になったら嬉しい。伊織さんの隣にいることが、わたしのスタンダードになったらいいのに。
洗面所で顔を洗って、また、伊織さんが出しておいてくれた化粧水とオイルを借りる。こういう日常のアイテムも、これから変わっていくのかな。今は伊織さんのを一時的に借りているだけだけど、いつかわたしのものがここに置かせてもらえたりするのかな。
私物がこの家の中に増えてくことを考えたら、なんとなくムズムズとこそばゆい感じがした。わたし今、絶対変な顔してる。ひとりで良かった、と思って顔を上げたら、本当にアホみたいにへにゃへにゃの顔をした自分が鏡の中にいて、あまりの衝撃に声を上げそうになる。ただでさえ苦手な自分の姿がもう正視に耐えないレベルで、わたしはそのまま鏡を見ないようにして身支度を整えた。
これから、こういうことが増えるのかな。照れくさかったり、恥ずかしかったり、逃げ出したくなったりするようなことが色々あるのかな。
やだな、と、当然思うけど、でも心のどこかでそういう色々な場面に遭遇してみたいと期待をしている自分もいることに、もう気づいている。
一緒に色々とやってみたい。伊織さんと、色んな経験を共有して、色んな感情や感覚を伝え合って、一緒に過ごしたい。
楽しみだと、素直に思う。
あぁ、そうか。楽しめばいいのか。緊張も恥ずかしさも、なんでも楽しんでみればいいのか。苦難でも困難でも、なんでも受け入れて楽しめばいいのか。そんな高度なこと、わたしにできるかわからないけど、伊織さんなら笑って待っていてくれる気がする。大丈夫だよー、と手を差し伸べてくれる気がする。
楽しみかもしれない。もう一度その感覚を噛み締めてから、わたしはいい匂いのするリビングへ向かった。
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