2 麹塵 きくじん

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2 麹塵 きくじん

更紗(さらさ)ぁ」  サークル棟の一室の、リノリウムの床上に敷かれた3畳ほどの畳の更衣スペース。そこを取り囲むように置かれたパーテーションの出入り口のカーテンが揺れて、同じサークルのリカが顔を出した。 「あ、リカ」 「ごめーん、今へーき?」  梅雨に入る前に着物の虫干しをしてしまおうと思って、天気が良かったからと部室の桐箱を全部開けて中身をぶちまけていた。畳の上は足の踏み場がない。 「うん、ちょっと待って」  干せるスペースと着物用のハンガーの本数を考えながら、1度に干せるだけの着物を選んでいる途中だった。  あの担当教授の、人の心をじりじりと磨り潰すみたいなザラッとした声が耳の奥に残っている。それを一掃したくて、そのイライラを着物干しにぶつけたかったのだ。  手にした着物を軽く畳んで桐箱の上に置くと、わたしは更衣スペースからリカのいる部屋へ移動した。 「はー、なんかカビくさ……」  そう思ったらなんだか喉が本格的にイガイガする気がしてきて、バッグの中にあったペットボトルのお茶を喉に流し込む。  あ、失敗した。先にうがいした方が良かったかも。 「ごめんね、ちょっと話せる?」  そう言って、こちらの返事を聞く前に、リカはバッグを机に置いて椅子に座った。 「いいよ。なに?」 「あのさぁ。サラ、モデルやってくれない?」  今までの自分の人生で1度も言われたことも考えたこともない用件。  モデル、って、プラモデル作るの手伝うとかじゃないよな?  「え、何? 何の話?」  唐突過ぎるし、しかも意味がよくわからない。思わず笑ってしまったわたしを見て、リカは少し不本意っぽくしかめっ面を見せた。  リカの髪は背中を完全に覆うくらい長くて、さらりと揺らめくたびにふわっと良い匂いが漂う。天然だという少し色素の薄い柔らかそうな髪は、真っ黒で重たく枝垂(しだ)れる重力に従順なわたしの髪とは大違いで、ただそれを持っているだけで無条件に彼女の価値が底上げされているようで羨ましかった。 「とりあえず聞いてよ、説明するから」  リカは、トランスジェンダー女性だ。どこから見ても可愛らしい女子の見た目で、大学に入って同じサークルで出会ってからしばらく、何の疑いも持たず女子同士として向き合っていた。  ある日、トイレに行って来る、とリカが言ったのでわたしも一緒に行こうとしたら、リカがわざわざ離れた校舎のバリアフリートイレに行くと言うので、不思議に思いつつも一緒に行くのは諦めた。そして、それぞれがトイレから戻ってきたときに、実はね、とトランスジェンダーであることをカミングアウトしてくれたのだ。  背がとても高くて、訊いてみたら175センチあるらしく、女性にしては大きいな、とはずっと思っていた。そして、男性の身体で生まれてきたのだと聞いて、なるほど、と思った。言われてから考えてみたら、確かに声も若干低めだったり。  ファッションデザイン科のリカは和洋を絶妙なバランスで折衷させた出で立ちがよく似合っていて、背の高さやスマートさからしてもまるでファッションモデルのような存在感だった。一緒にいると、リカとは真逆で小柄で平凡な自分が引き立て役みたいに思えたけど、それを度外視しても構わないほど気が合って、すぐに仲良くなった。  わたしの中で、リカがどういう風に生まれたのか、どういうセクシュアリティなのかなんて、はじめから取るに足らないどうでもいいことだった。出会いから3年以上、サークルの仲間としてだけでなく親友と呼べるほど存在が大きくなるまで一緒に過ごして、その気持ちは全く変わっていない。  リカはリカ。わたしにとっては、ただのリカだ。 「卒制のファッションショーでさ、メインのランウェイとは別に、テーマ決めてインスタレーションやれるんだけど、あたしもちょっと1コやろうと思ってて」  うちの美大のファッション科の卒制ショーは、大学のちょっとした名物になっている。夏休みが終わったあたりから一斉に取り掛かって、他の学科も巻き込んで、専門誌などのメディアに載るほど大掛かりに開かれる。時にはコネによってプロのモデルが出たり、映像作家が撮影に来たりもする。 「スペース区切って、場合によってはセット組んで、ファッションテーマ決めてインスタレーションをね、考えてて。それに、サラに出て欲しいの」 「モデルなんて無理に決まってるじゃん。やだよ、無理、無理」  プロのモデルが歩くかも知れないメインショーの脇でシロウトの自分ができることなんて何もないとしか思えない。 「えー、でもサラのイメージなんだよぅ」 「なんでよ、わたしこんな小さいし、普通に考えて無理でしょ」  背が高くてきれいなリカにそんな頼みごとをされたのが余計に嫌だった。恥ずかしいし、情けないし。できればやりたくない。 「お願い、もうちょっと話聞いて」 「……いいけど、聞いてもやんないよ」  わたしが乗り気でないことはお構いなしに、リカは説明を続けた。 「あのね、8号館のホールでお馴染みのランウェイショーやるじゃん、でね、ホールのロビーのところと、第1と第2の展示室使って、全部で6組くらいインスタレーションできるのね」  好きなことの話をしているリカはキラキラした目がくるくる動いて、そのコロコロと移り変わる表情を見ているとこちらまで嬉しい気持ちになってしまう。その感覚に何か懐かしいものを覚えた気がしたけど、それが何だったのかを追求する余地がないほどリカのマシンガントークは続いた。 「あたしそこで、自分のデザインした着物使って捕縄術のショーやりたいの」  可愛い顔で、キラッキラな笑顔で、サラッと口にした言葉を、わたしは上手く拾えなかった。アホみたいにリカに見惚れて、ただボーッと話を聞いていた。 「……へぇー…………」 「捕縄だよ、ホジョウ! 縛るの。縄で」 「……うん」 「聞いてる?」  少し強めに言われて、リカの表情が変わっていたことに気づく。  あれ。わたし、ボーッとして。 「サラには、着物着て縛られて欲しいの」 「……縛れ、縛られ……うん。え?」  ようやく言葉の意味が意識に入ってきた。  何のことだろう。ホジョウ、なんていう言葉、聞いたことない。  縛る? 何を? 「あ、別にSMショーじゃないよ。大学の課題だし、エッチなやつじゃなくて、もちろん着衣のまま。肌も一切露出しない。寝転がったり吊り上げたりもしない。江戸時代の純粋な捕縄術、罪人を縛るアレね」  急にリカの顔が知らない人みたいに思えて、これってゲシュタルト崩壊ってやつかも、と思う。ちょっとじっくり見過ぎた。 「つまり、サラに罪人を演じて欲しいってこと」  言葉が全く脳まで届かない。上滑りしていく。さらさらと。 「着物がテーマで、あと、縛る縄もね、テキスタイル科の友達が全部染めてくれるって言ってて、とりあえずその子と共同制作になるんだけど、もしかしたら空デの友達にセットとか照明お願いするかも。部屋中、縄だらけにしたいから。そしたら3人での共作ってことになるかな。今、交渉中」  リカの説明が具体的になってきて、ようやくほんのりと形が見え始めた。  原則として卒制は個人制作だけど、ファッション科のショーに限っては他学科の学生も共作という形をとれば各自の卒制として認められることになっている。空間演出デザイン科の人にまで頼むとなると、かなり大掛かりな展示になる気がする。 「でね、テキの助教の人と民俗学の教授が現場責任者として入ってくれる。っていうか、教授たちがチェックしないとダメって言われたぁ」  少しむくれて見せてから、それでも条件さえ飲めば実行できることが嬉しいのかすぐに笑顔に戻って、リカは話を続ける。 「あとね、緊縛師はプロの女性に依頼してるの。エロ系だけじゃなくて伝統文化の方の研究もしてる人で、本出してたの読んで連絡してみたら受けてくれて」  返事どころか相槌を打つ隙もない。 「縛り終わった姿で出てもらうだけじゃなくて、縛る過程もショーとして見せるよ!」  いつも明るくて華やかな人だけど、今日はいちだんと弾けていて、なんていうか、情熱みたいな圧倒的な熱を感じる。  今、自分の絵の方が全く上手くいっていないわたしにとっては、リカの(まと)う空気は熱すぎて眩しすぎて、なんだか後ろめたい。こんな自分が関わることによって、せっかくのリカの卒業制作が台無しになったらどうしよう、というシンプルな不安が生まれる。  情報量が多すぎてうまく飲み込めない。頭の中で漠然としたイメージだけがぐるぐる渦巻いて、ちゃんとしたコンセプトや段取りが全然定着してくれない。 「とにかく、学校だし、SMの要素は可能な限り出さないようにするから。サラには、人を殺めて捕まった良いとこの……武家とかの娘、っていう設定で縛られて欲しいの」   言われた通りに縛られた自分を想像してみたけど、無理だった。全然イメージ湧かない。 「わたしなんか……小さいし、別に美人でもないし……もっとさ、ここのサークルにでも適役がいそうだけど。っていうかリカがやればいいじゃん、キレイなんだし」 「あたしが純和装似合わないの知ってんでしょ。こんなに好きなのに似合わないとかさ」  確かにリカは長身で細身、目が大きくてどちらかと言えば洋装向きだ。それでも和装が好きで、自分に似合うように洋装の要素も織り交ぜてアレンジして着こなしているけど、古典的な純和装は確かにしっくりこないかも知れない。 「民俗学の教授にはもう企画書は出してて、あたしとテキの子で……あ、その子、のぞみちゃんっていうんだけど、その子と2人で捕縄術の講義受けてきた」  本当にリカは思い立ったら動いてしまう人で、その分、事後報告も多い。全体的にトロいわたしは、ついていくのに必死だ。 「あとはテキの助教の人が色々準備手伝ってくれるって」 「……うん」 「更紗の卒制の邪魔しないようにスケジュール組むから、お願い!」  リカの目が超おねだりモードでわたしを射抜こうと向けられてくる。 「……演技、とか、そういうのやったことないからね」  これはもしかしたら本当に拒否は受け入れてもらえないかもな、と覚悟を決めるしかない。 「大丈夫。芝居とかじゃないし、あくまでファッション科のインスタレーションだから。お人形みたいにそこにいてくれるだけで!」 「はぁ。もぉー……知らないからね、期待と違っても」 「平気! 大丈夫!」  何を根拠に、とは思ったけど、きっとリカの中では決定していてもう動かない。というか、わたしに打診しに来る前に既に決まっていたんだろうな。 「来週さ、縄染める方向性決めるのに、着物の試着をさせて欲しいんだけど、いい?」  いい?とか。ダメって言わせてはくれないくせに。 「インスタレーションは開催期間中、1日に2回か3回、1回の時間は多分10分から20分程度の予定。そのほかの時間はモデルが不在でも成り立つような演出考えてる。だから更紗には着物も着替えてもらうから、一応3着は用意したいの」  何かメモを取りながら話すリカの伏せた目が、視線を動かす度に微かに動いて、アイメイクに入っているラメがキラキラと光る。あんなキラキラが似合う顔だったら、わたしももっとマシな人生だったかな、とか思ったりして。 「その試着の時に色々資料も持ってくるし、詳しい説明するね」  下を向いていたリカが突然顔を上げてわたしを見たので、近距離で目が合ってびっくりした。ずっと見ていたの、バレたかな。 「あ、あとテキの助教の人もその時紹介するわ。もしかしたらもう知ってるかもしれないけど。結構目立つ人だから」  3年過ごしたって、他の学科の教員なんて知らない。関わることなんてないし。特に自分たちみたいなファイン系とリカたちデザイン系とは、決して不仲というわけではないのに、サークルでも一緒じゃない限り本当に別世界というくらい関わらないから、多分知らないだろうな。  キャンパス内でも、ファイン系とデザイン系の校舎は完全にエリアが分かれていて、その間にはまるで国境のように見えない境界線が引かれている。それくらい、お互い未知の、というより不可侵なエリアなのだ。 「あー……うん」  これだけ言われても、やっぱり気は乗らない。モデルをやること自体もそうだけど、誰か知らない人と新たに関わることが億劫で。  元々、あまり人と関わることが得意ではない。リカみたいに誰とでもすぐ仲良くなれるタイプでもないし、愛想振りまいたり作り笑顔で話したりとか、本当に苦手。しかも教授とか助教なんてすごい年上だろうし、どう接したらいいか分からない。  でも別に仲良くなる必要もないか、と思い直した。そうだ、ただ友達のインスタレーションに数日間出るだけなんだし。だからそれ終わったらおしまいで、別にその後も関わらなきゃいけないわけでもない。  深く考えるのはやめよう。言われたことだけやって、ひたすらノルマこなそう。それだけ。それ以上は踏み込まない。  あ、そうだ。自分の卒制の計画も立てなきゃだ。  ああ、思い出してしまった。教授にひどいこと言われたままだ。予備校からやり直せ、だっけ。もう。今更。もう4年だよ。卒制始まるよ。それで一体何をやり直せばいいの。  めんどくさい。もう辞めてしまいたい。 「じゃああたし、今から空デの友達に会う約束あるから、またねー」 「あ、うん。またね」 「来週の予定分かったらLINEするねー」 「うん」  細くて長い指を蝶の羽みたいに大きく開いてぱたぱたと振って、リカは部室のドアからヒラリと出て行った。リカがいるだけで華やかな雰囲気が漂っていたのが、一気に収まって元の暗い部室に戻る。  カビ臭い。これ、まさか自分の臭いじゃないよな、と不安になる。クサい臭いに限って鼻に染み付いていつまでも臭うから嫌だ。嗅覚なはずなのに脳内では麹塵(きくじん)の幕が張り巡らされたような錯視が起きて、本当のカビ臭に加えて幻臭レベルのむせ返りそうなカビ臭さに襲われる。  そうだった、着物干そうと思って選んでいたのだった。時間なくなってしまう。夕方になる前に取り込まないといけないから、急いで干さないと。  バタバタと畳のスペースに戻って、数枚の着物をハンガーにかける作業に取り掛かる。  インスタレーションか。やったことないな。当たり前か。わたしの学科はファインの中でもお堅い日本画だし。  本当に自分に務まるんだろうか、とか、心配は尽きない。というか不安しかない。でも、もし上手くいかなくてもそれはリカの責任で、わたしを選んだリカが悪い。  そうだ。わたしが心配することではない。考えるのはやめよう。  部室の裏のベランダに出ると、上手い具合に日陰になっていて、虫干しにはちょうどいい感じだった。2、3、4……ハンガー5本、イケるかな。  すぐ下の道路の、陽が当たったところと当たってないところがくっきりと線で分かれていて、そのハイコントラストが目に刺さる。明暗が仲良く隣り合っているのがまるでリカとわたしみたいだな、と思って、思わず笑ってしまった。  企画主が良いと言うのだから、わたしがとやかく言うことでもないのかも知れない。  人形のように、とリカは言った。  自分を出す必要はない。そう、身体を貸すだけ。慣れていること。身体を差し出すだけ。ただそれだけ。  せっかく色んなジャンルの人が混在する大学に来たんだし、最後の最後に流されて他学科の人と関わってみても損はしないかも。そんなふうに言い聞かせて、リカからの申し出に納得したのだと自分に思い込ませる。  大逆転なんて起こるはずない。それは分かっている。期待もしないように、努力。  ちゃんとやる。ちゃんとやれる。余計なことは考えない。大丈夫。  ハンガーにかかった着物の生地を両手でパン!と張ると、カビ臭い湿ったような匂いが立ち込めて、慌てて息を止めた。  ジメッと腐りそうになっているわたし自身も、こんな風に干しておくだけでパリッとスッキリできればいいのに。そんな叶いもしない希望を霧散させるように、わたしは少しヤケになって着物をバシバシ叩いた。
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